懐柔される青年


 チュンチュンと子鳥達の囀りが朧気な意識の中から確かに聞こえてきた。夢か現実かの区別がつかないまま、ぼんやりとした意識を保とうと瞬きをしてみると、不意に現れた部屋の明るさに目を痛める。
 見慣れない天井、柔らかなぬくもり、暖かな日差し――どれをとっても久し振りだと言いたくなるほどの懐かしさを感じさせるものだった。
 寝返りを打った視界に映り込むのは空の本棚に机と椅子。家具の真下の絨毯は日の光を受けて煌々と輝いているようにさえ見える。――ああ、また朝が来てしまった。そう思うのが奴隷として生きてきたノーチェの日課だったが、――この日は違った。

「………………ここ……どこだっけ…………」

 霧が掛かったように記憶が曖昧で、目を擦りながらノーチェは体をゆっくりと起こす。柔らかな寝具が体を十分に支え、布団は確かに体を包んでくれていた。
 ――久し振りの寝床だった。意識の覚醒がままならないほどの深い眠りに陥っていたのだろう。窓から覗く外の光は眩しく、思わず目を閉じてしまう。怒号に悩まされず無理矢理起こされなかった日は何時振りだっただろうか――暫くして漸く意識がはっきりとしてきたノーチェはぼんやりと窓を見つめると、「ああ、そうか……」と独り言を洩らす。

「…………何か……攫われたんだっけ……」

 ――そう、先日まで売られていた筈の彼は必然的に出会した男の手によって攫われたのだ。どんな目に遭わされるのかと思えば風呂に入れられ、食事を与えられ、寝床を与えられた。まるで道端で拾った猫を飼うような手付きで世話をされて、一時的でありながらも「奴隷」という身分を忘れそうになったのだ。
 そして、あまりの心地の良い朝にうつらうつらと船を漕ぐ。
 春眠暁を覚えず、とはよく言ったものだ。目を閉じ一呼吸置いた瞬間に夜が明けてしまったかのような印象を覚え、眠ったという実感がまるで湧かない。奴隷として寝ていた頃はろくな寝床も与えられず、満足するまで眠れることは確かになかったのだが、今回はまた違う感覚だった。
 手のひらに当たるふっくらとした弾力――思わず再び布団に潜ろうとする意識に逆らえず、彼はゆっくりと体を丸めながら布団を手繰り寄せる。
 ふわふわとした温もりは羽毛布団だろうか。窓から差し込む日の光に負けることなく、ノーチェはぼんやりとしながら徐に目を閉じて、暗くなった視界に溶け込むよう、身を委ねた。
 ――不意に食欲をそそるような芳しい香りが彼の意識を揺さぶる。その香りに誘われて腹がくぅ、と鳴った気がして、ゆるゆると目を開いてみれば布団をかぶる所為で明るさなどひとつも見えやしない。
 彼は再びゆっくりと体を起こして目を擦る。眩い日の光に今度こそ「眩しい」と呟いて寝具の端に座り、足を下ろす。赤黒い絨毯の上はフローリングよりも遥かに温かく、足の裏から冷える感覚はなかった。
 何故失われていた筈の食欲が今顔を出しているのか理由は定かではないが、香りに誘われているのは確かだろう。
 窓を開けるよりも先に扉へ向かい、寝起きで力の入らない体で押し開け、のそりと廊下へ出る。廊下にも窓があり、左右を見渡せばいくつかの部屋が見受けられた。掃除が大変そうだと思ったのは言うまでもないだろう――。
 ふと、与えられた部屋の向こうを見れば、もうひとつ、使われていないであろう一室が見える。昨夜案内された時は「片隅」と言われていたが、本来の片隅は与えられた部屋の向こうの存在を差すのだろう。
 他の部屋と同様に人の気配はしないが――何故かその向こうだけは違和感を覚え、やるせない瞳のままぼうっと見つめる。

「……ノーチェ」
「っ!」

 唐突な呼び掛けに意識を呼び起こされたノーチェは驚いたように部屋から目線を逸らすと、咄嗟に声の主を視界に入れる。相変わらずの黒い髪に切れの長い瞳、貴族を沸騰させるようなベスト姿はこの屋敷に似合っていると言えるだろう。
 なんてことを考えていると、「おはよう」と終焉は言った。それに瞬きを繰り返して口を噤んでいると、「挨拶はしてほしい」と男は言う。
 ――思えばノーチェは奴隷として生きていて挨拶をされたことは殆どない。朝など暴力に身を任せて叩き起こしにくる主人と、「小汚い」と怪訝な目を向けてくる人間達ばかりであった。
 おはよう、だなんて何年前かに最後に聞いたくらいだろう。

「…………おはよう……ござい、ます」

 口の開閉を数回繰り返した後、やっとの思いで紡げた言葉だった。まるで初めて覚えた言葉のように堅く、恭しい言葉遣いに終焉が呆れたように溜め息を吐く。何故だか怒られる気がして、ノーチェはいつ殴られてもいいよう、微かに体を強張らせた。
 ――だが、いくら待てど終焉からの暴力は一切飛んでこない。代わりに「まだ理解していないようだな」と呟いてノーチェを見据える瞳が飛んでくる。
 理解していない事柄とは何だろうか。目に見える上下関係なら体に叩き込まれている。ノーチェは咄嗟に「すみません」と目を伏せると、男はかなり嫌そうにやめろと言った。

「恭しい敬語など不必要だ。何度も言わせるな、私は貴方を人間として攫ったのだ。私と貴方は『主人と奴隷』の関係ではない」

 どうか理解してくれ。終焉はそう呟くと徐に踵を返してノーチェに背を向ける。それが怒りから来るものか、呆れから来るものか、ノーチェには一切分からない。主人の顔色を窺いつついいように使われて過ごすだけだった分、男の一切変わらない顔色は感情という感情を表に出してはくれなかった所為か、機嫌の窺いようもない。
 茫然と立ち尽くしている合間にも終焉は徐々にノーチェから距離を開いていて、――ああ、死ねばよかった、と不意に来る自分への嫌悪感で彼はその背を見つめながら思うのだ。
 ――それは突然だった。
 ぼんやりと立ち尽くすノーチェに不意に振り返った終焉は彼の目を見つめ、「何をしている」と口を洩らす。怒りでもなく、呆れでもない淡々とした感情のこもらない声は、ノーチェからすれば激怒する手前の、呆れにも似た声色に聞こえただろう。
 咄嗟に息を呑む音が広い屋敷に響いたような気がしたが、終焉には届かなかったのか、首を傾げて「腹は減らないのか」と問う。

「朝食にしよう。おいで」

 そう言って男は彼に手を差し出した。何気ない男の動作にノーチェは確かに戸惑いを覚えたが、――彼も彼で感情があると思わせないほど、無表情のまま小さく足を踏み出して行った。

◇◆◇

「あまり口にしたくはないと思うが、比較的食べやすいよう、サンドイッチにしてみた。私は一足先に朝食を済ませたので後は貴方だけだ」

 リビングに連れ出され椅子に座った後にノーチェの目の前に用意されたのは、色味が鮮やかで新鮮な野菜とハムやタマゴを使ったいやに美味しそうなサンドイッチだ。朝食として食べやすいように耳が切られていて、その隣にはしっかりと飲み物まで用意されている。
 まるで客人のような扱いに理解が追い付かないノーチェは茫然とそれを見つめていたが、芳ばしい香りが鼻を擽るのに気が付いてふと俯かせていた顔を上げる。
 リビングには扉があって、恐らくその向こうがキッチンなのだろう。――その向こうからパチパチと焼ける音と、仄かに甘い香りが漂ってくるのだ。
 「少し席を外すから先に食べていてくれ」そう言って終焉は扉の向こうへ消えてしまって、残されたノーチェは目の前に用意された朝食はまじまじと見つめることしかできない。
 やけに形の整った綺麗なサンドイッチだった。市販で売られているような見た目をしていながら、一切の型崩れを起こしていないのだ。テレビやゲームで見掛ける代物と思えば納得してしまうし、実は食べられるものではないと言われてしまえば、それはそれで納得できそうな気がしてしまうほど。
 先日にも実感したが、これはどう見ても男が作ったようには到底思えない。丁寧な作りも細部に至る拘りも、無表情の男が作るようには思えないのだ。やはり作るときも無表情なのだろうか。
 ――いや、案外考え事をしながら丁寧に作るのかもしれない。
 そう思うのだが、男の笑う表情など少しも想像できなかった。

「…………む」

 ふと気が付けば何かが焼ける音が消え、終焉が何かを片手に扉を開けてノーチェを見やる。
 彼は相変わらず茫然としながら朝食を見つめていて、自分から口にするということは一切しないように見えた。拒絶か、馴染みがないのか――終焉はパンの耳を使った自作のシュガーラスクを携えながら、ほんの少し小さめに眉を顰めつつ「嫌いか」と問う。
 芳ばしい香りと共にやって来てノーチェの向かいに座る終焉の顔色は無表情でありながらどこか不満げで、嫌いなのかと問われたノーチェは確信もなく「……いや」と男の問いを否定する。
 やはり何か枷があしらわれたように、自分から食べようとする意志が見られないのだ。欲がなければ付き従うことしか考えられない。選択肢をいくら与えられようと、与えられた選択の中からひとつを選ぶことはとても困難なように思えてしまう。
 与えられた仕事を淡々とこなすだけの人形だと言われれば、納得がいくような気がするのだ。
 終焉はそんな彼を鋭い目で見つめてから「そうか」と呟くと、徐に携えていた皿を置き、ノーチェの目の前に置かれた皿に手を伸ばす。
 ――一瞬でも男が代わりに食すのかと思う自分自身が居る、という錯覚を覚えたノーチェは、無駄な威圧感を与えられなくて済むと安堵の息を洩らす。
 ほぅ、と溜め息にも似た吐息だ。肩の力を抜くように、緊張を解すように安堵したのだが、――やはり、男はこの程度で引き下がるような人物ではないようだった。

「仕方ない。私が食べさせてやろう」
「……………………えっ」

 サンドイッチを片手に堂々とした態度で終焉は当然のように言った。当然、ノーチェは拍子抜けしたように口を洩らして別の意味合いでの緊張を体に抱く。
 屋敷に来てから「いい歳した大人が」と言われるような出来事ばかりしか起こっていないのだ。風呂に入れられるのは良かったが、世話をされるとは思わず、況してや澄まし顔の男は無気力な彼にものを食べさせてやると言うのだ。
 赤子の世話か、老人の介護か。似たような言葉をいくつも並べたが、相変わらずの無気力は拭えそうにない。恐らく、ノーチェの首に施されている首輪が何かしらの影響を与えているのだろう。
 ――思えば終焉は彼の首輪に手を伸ばしたとき、腕を飛ばされるかのように弾かれていた。あれもまた、何かの影響なのだろうか。
 ――とは言えそれが世話を焼かれる原因にはならないだろう。向かい側では食事を与えるに十分な距離ではないと思ったのだろうか。終焉は徐に席を立つと慣れた足取りで迂回してノーチェの元へと近寄る。
 ――男は本気だ。本気で成人男性を相手に世話を焼く気なのだ。

「や……別に食べなくても、問題ない……」

 咄嗟に口を突いて出た言葉がこれだった。どんな面持ちで終焉がそれを用意したかなどこの際どうでもいいのだ。
 咄嗟に両の手を翳して終焉に制止を促す。こんなこと、好き好んでやりたいわけではないだろう、と言いたげに。渋々ならやらなくても良い、置いておけばいずれ口にするかもしれないから。そう言おうとして、――不思議と終焉の手に収まった朝食がいやに美味しそうに見えてしまっていることに疑問を覚えた。
 思えば昨夜もそうだった。テーブルの上に置かれた料理は確かに美味しそうであったが、口にするという行動にまでは移れなかった。しかし、いざ差し出されると不思議とそれが美味しそうに見え、食欲がそそられる。
 例えるならば、雛鳥が親鳥に餌を与えられるときの感覚だろうか。口移しというわけではないが、どうにも彼は終焉が携え差し出すものは何故か安全だと思えてしまって、食欲が目を覚ます。地を這う蛇のようにしっとりと、沸き上がる泉の水のようにふつふつと、喉から手が出るほど欲しいと言わんばかりに唇がゆっくりと開いていって――。

「…………ふむ、どうだ?」
「………………美味しい……です…………」

 小さいながらもたった一口含んでしまう。
 柔らかな生地と新鮮味溢れる食材が仄かに香る。咀嚼を繰り返す度に甘みが溢れているような気がして、久し振りのまともな食事にありつけてしまったノーチェの喉は、半ば無理矢理押し流すようにそれをぐっと飲み込む。ほんの少し喉が渇いて用意されていたスムージーを飲めば、ひやりと体が冷えたような気がした。
 きっと満足している筈だろう。そう思ってノーチェは自分を見下ろしているであろう終焉を上目で見上げると、変わることを知らない無表情を保っていたが、何故だか不機嫌そうに見えた。恐らく何か不具合をやらかしてしまったのだ。
 ノーチェは習慣のように根付いた謝罪の言葉を口にしようと、咄嗟に口を開くと、再び食べかけのそれを口へと差し出される。ノーチェは反射的にそれを食べては飲み込んで、また食べては飲み込んでを繰り返していて、休憩を知らない食事に思わず「あの」と呟いた。

「ちょっ……と……休みたい」
「ああ……悪いな」

 ハッとした様子で終焉はノーチェの呼び掛けに応えると、一度動きを止めると彼を見つめ、瞬きを数回繰り返す。ノーチェは若干溜め込んだものをひたすら飲み込んでいて、少しやり過ぎたかと身を案ずる終焉の気持ちなどこれっぽっちも気付いていないだろう。
 スムージーを飲んで喉を潤すと、終焉がやめる気がないのに気が付いたのか、彼は男の手にある食べかけのサンドイッチに齧りついて確かに食べ進めている。
 ――まるで小動物の餌やりに見えたのは、言うまでもないだろう。こうでもしないと食事を摂ろうとしないのは、まともな食生活を送ってこなかったか、――食料に何か細工を施されていたか。

「…………美味いか」

 何気なく終焉がそう問い掛ければ、ノーチェは首を縦に小刻みに振って、肯定の意を表していた。

◇◆◇

 二切れのサンドイッチを無くすことは造作もないことであるが、ノーチェにとってはそこそこの体力を奪うものになったのだろう。リビングの椅子に凭れ掛かりながら溜め息を吐く様は疲労を表しているように思え、終焉は疲労しきったノーチェを見ながら「無理をさせたか……?」と首を傾げる。
 良かれと思ってやったことが実は裏目に出ていた、ということは少なくはない。終焉は一般的な成人男性よりも微かに痩せた雰囲気のノーチェに体力をつけてほしくて無理にでも与えていたが、あまり良いとは言えなかった行動に再び思考を巡らせる。
 あのまま放置していて彼は「絶対に口にしなかった」と言い切れるのであれば、終焉の行動は――正解とは言い難いが――強ち間違いではなかったのだろう。
 しかし、後半になるとノーチェは自ら食事しているようにも見えてしまって、自分の行動は余計だったのかと考えざるを得ない。
 もしかすると人前では口にしたがらないのかもしれない――彼の様子が気になって目の前に座るという行動は、彼にとって大きなストレスにでもなっていたのではないか。
 そんな考えが終焉を責めるように腹の中から語り掛ける。やはりどこまでも気の回らない男だと――。

「あ……あの」
「ん?」

 茫然としながら思考に意識を飛ばしていると、不意にノーチェが終焉に話し掛ける。背筋を比較的伸ばして顔を終焉に向けて、一度言い淀んでしまう。
 男はいやに綺麗な顔立ちをしている。男であるノーチェから見てもやはり「美人だ」と思うほどだ。
 透き通る赤と金の瞳、黒く艶のある長い髪が特徴的で、更に料理もお手の物だときたものだ。終焉のような人物と将来を約束された人物はさぞ羨まれることだろう。
 ――けれど、その分目を縦に切りつけた傷痕が目立ってしまって、人知れず勿体ないと思ってしまう。自分がいくら傷付けられても勿体ないなどと思われたことはなかったが、終焉のキメ細かい肌に傷痕は似合わなくて――何故だか酷く申し訳ない気持ちになってしまったのだ。
 茫然と終焉を見上げるノーチェは何かに意識を奪われているようで、終焉は軽く目を閉じると「どうした」と呟く。「何か良くないことがあったのか」と。
 すると、ノーチェはハッとした様子で瞬きをする。「別に、何でもない、けど」と口を洩らして、顔を直視していると言葉が失われると悟ったのか、終焉から目を逸らして言葉を紡ぐ。

「……ご馳走さまでした」

 ――なんて、然程気にしない言葉を。
 小さくもはっきりと告げられた言葉。それに終焉は「お粗末様」と呟いたが、同時に「気にしなくていいんだが」とも告げる。

「悪いと思ったのなら『悪い』、美味いと思ったのなら『美味い』……その程度の言葉遣いで十分だ。妙な距離感など求めてはいない」

 そう言って終焉は一度ノーチェの頭を撫でると、ほんの少し寂しげに目を伏せ、片付けてくると言って空になった皿を持ちながら再び厨房の方へと足を進める。扉の向こうはいくつもの道具が揃っているのだろう。
 何をするわけでもなく、取り残されたノーチェはふとテーブルに残された芳ばしい香りを漂わせる皿へと目を移す。先程のサンドイッチには耳が無かったのだから、皿の上に盛られているのはパンの耳を使った終焉お手製のラスクだろう。
 ノーチェはそれを見つめて微かに首を傾げる。油で揚げていたような音はなかった。ならば、焼いて作られたラスクなのだろう。狐色に彩られた芳ばしい色のそれに振り掛けられた白い砂糖が更に美味しそうに見た目を引き立てる。
 ――いや、恐らく美味しいのだ。先程のサンドイッチも、先日の料理も男が作ったとは思えない出来だった。忘れていた味覚を思い出させるような優しい味だった。きっと、自作のラスクもそれはそれはいい出来なのだろう。
 実際食べようと思わない所為で味など分からないのだが――。
 ノーチェはそれが勿体ないとは思わなかったが、特別食べたくはないとも思わなかった。だが――、いつかまた食欲が湧いた頃にでももらおうかと思うほどには味が気になってしまう。
 満腹になった腹を微かに擦ってノーチェは茫然とそれを見つめていた。
 今日は何をしよう、きっと何かしらの命令をもらうかもしれない――そう思いながら扉の向こうへと消えた終焉を今か今かと待っていると、きぃ、と小さな音が鳴り響いた。
 見れば終焉がエプロンを軽く畳みながらノーチェの元へ歩み寄ってくる。ここに洗濯機のような類いは一切ないことから、男はエプロンをどこかにある洗濯機へと洗いに出そうと思っているのだろう。
 それを裏付けるように終焉は「少々はしゃいでしまった」とどこか遠くを見つめながら眉を顰める。らしくない、などと呟いて呆れ気味に溜め息を吐く。一体何があったのかと問いたくなったが、――ふと終焉と目が合うとノーチェはぴくりと手指を微かに動かして、「あの」と呟く。

「今日は何を……?」

 顔色を窺うようにノーチェは小さく声を掛けると、終焉は意図が理解できなかったかのようにゆっくりと首を傾げる。それに釣られるようにノーチェもまた微かに首を傾げれば、終焉は「何故私に問い掛ける?」と意図を探るように訊き直す。
 だって、今まで何を言わずとも命令されたから。
 そう言おうとして――ノーチェは咄嗟に口を閉ざした。何せ昨夜からノーチェは終焉にしつこいほど「奴隷として買ったのではない」と告げてくるのだ。先程の口調の指摘も、恐らく対等に接して欲しいという願いからなのだろう。
 ――かと言って今まで奴隷としての扱いを受けてきたノーチェが、今更全てを元通りにしようなどあまりにも無理がある。体に染み付いた虚無感、主人から振るわれる暴力、他方から飛んでくる軽蔑的な目線、酷い罵倒の数々――どれもこれも普通の暮らしをしていれば到底味わえない出来事だ。
 攫われた今、それらを味わっていないというのはあまりにも新鮮で、異端に最も近い。その出来事に慣れないノーチェはほんの少し伏し目がちになった終焉のオッドアイを見つめて、どういうわけだか「怒らせてしまった」という先入観に苛まれる。

「――あ…………いや……アンタは今日、何すんのかな、と……」

 咄嗟に思い付いた誤魔化しが口を突いて出た時に、見苦しいと自分で思ったのは同時だった。
 見苦しい、目も当てられない。終焉やノーチェ以外がこの場に居たら誰もがそう思っただろう。勿論、誤魔化すために呟いたノーチェ自身もまた――表情には表れないが――焦るような気持ちが募ったことを自覚する。
 違和感。そこに広がったのは確かな違和感そのもの。不自然な取り繕いだ。寧ろそのまま最後まで言ってしまって、再び終焉を不機嫌にさせてしまう方が良かったのではないかと思うほど。
 ――しかし、終焉は意に介することもなく「ああ」と思い至ったような声を上げ、真っ直ぐにノーチェを見つめ直す頃には伏し目がちだった瞳に探るような色は見られなかった。

「私は少し留守にしようと思っている。貴方の服は古いものだし、大きさが合わないだろう? 街へ赴いて服を見繕ってこようと思っているよ」

 弁明が功を奏したのか、終焉は不機嫌になる様子はなかった。しかし、終焉がノーチェの服を見繕う――その言葉にハッとしたノーチェは考えるよりも早く「いや」と口を洩らす。

「そんな、俺別に服は」
「ああいい、代金は気にするな」
「ち、違う。そうじゃない……俺はただ、俺にそういうことしなくてもいいって思って……」

 不意に終焉が微かに口角を上げ、ふと笑った。突然の表情の変化にノーチェはどこか笑う要素があったのかと訝しげな眼差しを投げると、終焉はノーチェに手を伸ばし、軽く頭を撫でる。

「何もしなくていい、何も気にしなくていい。私が留守にしている間は頼んだぞ」

 そうだな、どうせならこの屋敷を見て回ってもいいかもな――まるで我が子を愛でる父親のような眼差しがノーチェをじっと捉えていて、男は本当に彼を愛しているのだと思わざるを得ないほどだった。
 初めて会う筈なのに、相手は初めてではなさそうな振る舞い――「何で…………」思わずノーチェがそう呟くと、終焉は「愛しているから」と何食わぬ顔でそう答える。
 ――テーブルに取り残された手作りのラスク。終焉はノーチェから手を離し、それをひとつ摘まむと、「ああ、いい出来だ」と納得したように呟きを洩らした。


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