燦々と照る太陽、賑わい次々と石畳を踏み鳴らす音。相も変わらず「光明」の名に相応しいほど活気に満ち溢れた街、ルフラン。
市場とイベントが盛んなのだろう――今日もまた何事もなかったかのように、わいわいと様々な人間の声が飛び交っていた。
――そう、何事もなかったかのように。
「…………ふむ……」
屋敷を後にした終焉は慣れた足取りで、尚且つ多少の人目を気にしながら市場が盛んな街の中心部へと赴いた。
目的は勿論、彼――ノーチェの服を見繕うため。その他に必要な食材と、小道具でも手に入れられたらと思っているのだ。人目を気にしながらの買い物というのはなかなかに新鮮で、緊張以外の何物でもないだろう。
――最も、男の顔に緊張の色はこれっぽっちも見受けられないのだが。
しかし、いざ街の中に足を踏み入れて歩けば誰も男を見ても騒ぎ立てることはない。昨日あれだけの騒ぎを起こした本人であるというのに、誰も彼もが男を見ても一切を気にも留めないのだ。
まるで、終焉が気に留められない方法を駆使しているかのように、昨日の事など誰も知らないというように。
無表情ながらも妙な違和感を覚えた終焉は、ひとつの仮説を胸に徐に足を踏み出した。コツン――、仄暗い薄群青の靴が脇にあしらわれた小さな宝石を輝かせながら、靴底は石畳を軽く打ち鳴らす。
例のあの場所に向かおう。彼を奪い取った、倒壊した筈のあの建物の目の前に赴こう。
――そう思って男は市場に目もくれず一直線にそこへ向かった。
――そして、終焉の予想は的中していた。
終焉の目の前に立ち憚った背の高い建物は、昨日終焉が内部から壊した筈のものだった。よく見ればそれだけでなく、民家までも争った形跡などなく、綺麗に整えられているのだ。今も尚そこにはある一部の人間達が出入りを繰り返していて、昨日のように競りが始まっているのかもしれないと思えば、酷く不愉快になる。
終焉の予想は的中した。何事もなかった――文字通り昨日は何も起こっていないのだ。教会≠ニ妙な争いも、建物の倒壊も何もかも、初めから起こっていなかった。
――そう言いたげな街の様子に終焉は溜め息をひとつ。自分があれだけ存在を主張してしまったというのに、それがなかったことにされているとなると、この緊張感も空振りになる。そう思えばほんの少し心寂しい気持ちになったのだ。
「…………奴らの仕業か……それとも、この街の仕業か」
雲ひとつない青空を仰いで、終焉は小さな舌打ちをひとつ。黒地に白のラインが施されただけのコートは熱を着々と蓄えていくにも拘わらず、何故だか男は寒そうに口許にそれを寄せる。「眩しい」小さく呟いてファー付きのフードを目深にかぶると、こんなものに関わっている余裕はないと言いたげに踵を返す。
街中は真昼に比べればまだ細々とした賑やかだった。市場は相変わらず朝から始まる所為か、店を構える彼らの勢いは上々といったところで、買い手のこちら側が気圧されるような雰囲気を保っている。売り物が日に焼かれないように差された日傘はとてもよく使い古されていて、見ている終焉もどこか気分が良かった。
この街の人間は一度駄目になったものをそのまま捨てるのではなく、手の施しようのないところまでしっかりと使い古して泣く泣く手放す傾向にあった。それはこの街が森に囲まれてどこか閉鎖的な場所にあるからだろうか。他国の考えに汚染されることなく、彼らは自分の意志を持っているように見える。
中でも稀に現れる性格を腐らせた人間はよく浮き彫りになって、誰も近寄ろうとはしないからこそ、悪意と向き合おうともしないのだろう。
――この街の風習に何かしらの文句を述べるつもりはないが、終焉は街の有様を良く思っているようではなかった。
まるで、何か忌々しいものを思い出すように、苦い表情を浮かべているような気がした。
「……服、か……」
気を取り直すように終焉は言葉をひとつ洩らすと、ちらりと辺りを見渡した。服を取り扱ってくれている場所は多くはない。その中でノーチェに似合う服を探すというのは、なかなか骨が折れそうだった。
彼は周りより少し頼りないから、長めのものを着てもらって露出を控えてもらおう。ノーチェが元々着ていた服は大胆にも胸元が露出していて、思い出すや否や終焉は気を紛らせるように咳払いをひとつ。「んんっ」と妙な咳を聞いた商品の向こう側の人間は、くつくつと肩を震わせて笑っている。
「何かお探しで?」
気前の良い印象を抱かせる女が終焉に問う。店の前に立つ、無表情でありながらも可笑しな咳払いをした終焉が何かを選んでいるのが気になったのだろう。
――これは丁度良い、と終焉は瞬きをひとつ。「黒い服を探している。できる限り露出が少ないものを」と要点を話す。
黒い服――そう聞いて女は終焉が着るものかを訊いた。確かに黒い服ならば、黒いコートを着ている終焉が着るものかと思ってしまうだろう。おまけに男もまた、露出を好まないような見た目をしていて、勘違いされるのも無理はない。
私が着るのではないけれど、私よりも少し小さめの服があったら良い、と終焉は呟いた。難しげな要望に女はからからと笑っていたが、終焉が「首元も隠したい」というと然り気無く要望通りの服を着々と終焉の前に持ってくる。
「…………ふむ、店を構えている者の動きは違うな……」
「やぁーね! 単純に物の位置を覚えているだけよ!」
選ばれた服を手に取りながら何気なく終焉が褒め言葉を洩らすと、女は満更でもなさそうな顔をしながらころころと笑っていた。
首元を隠す服、露出のない服、色の黒い服――どれも終焉の要望通りで手当たり次第に彼に似合いそうなものを選んでは、携えていく。
ふと目についたフード付きのローブ。色は黒くないが、何かの役に立つだろう、とそれも携える。女は「本当に黒でいいのかい」なんて言うと、終焉の目をじっと見つめていた。本当に黒で――そう問われた男はぼんやりとそれを見つめ返すと、「勿論」と呟く。すると、女は「物好きだねぇ」と肩を竦めるのだ。
一通り選び終える頃には日がすっかり高く昇っていて、通りでは子供達が「お腹空いた」と母親に訴える。丁寧に畳まれた服の入った袋が目の前に差し出されると、終焉は「有り難う」と濃淡のない声で呟いて店を後にする。
空腹を訴えていた子供の声がどこか懐かしかった。ノーチェもまた小腹が空いたと思ってくれているかも知れない。
――しかし、あれだけ
そう思うと不思議と寂しい気持ちが胸の奥に募ったが、それでも終焉の足は無意識に食べ物のある方へと赴いていた。
春といえば何だろうか。葉の柔らかなキャベツ――は先日スープに使ったから飽きてしまうだろう。仄かに柔らかい葉に軽く触れるが、終焉はそれをぼんやりと見つめるだけで手に取ろうとはしない。
では食べ応えのある肉類はどうだろうか。
――そう思って手に取った終焉は赤い、今にも血が滴りそうな新鮮な肉の塊だった。「美味そうだな」小さく呟かれたそれに意味などはないが、どこか小さな棘のようなものが見え隠れする。
「……だが、ノーチェは脂っこいものが苦手だからな…………私も、避けておきたいな……」
私はノーチェの全てを知っている。
そう言わんばかりに終焉が呟いた言葉は初対面とは思えないもの。数々の野菜を流れるように見つめた後、片隅に置かれた然り気無い小さな肉の塊は刺激が強いように見えた。恐らく今のノーチェにはまだ肉は早いだろう。
終焉は口許に手を宛がい、んん、と小さく唸っていた。周りも中には決めかねている人間が居るようで、頭を捻るように首を傾げては野菜を手に取って、茫然と眺めている。
反対に子供の意見から簡単に食事内容を決めている人間も居るようで、必要最低限の物を買い求めている者もよく居た。
端から見れば昨日に問題を起こしていたとは思えない終焉だ。時折飛び交う言葉に耳を澄ませるように目を閉じていると思えば、「どうせなら手の込んだものを食べて欲しいな」などと小さく呟いている。
宛ら子供や恋人に手料理を振る舞う母や恋人のようだった。どこか口許が緩んでいるように見えるのは気の所為だろうか――不意に野菜に混じる果物を目にしたとき、終焉の目の色が変わった。
彩り豊かな野菜の中に紛れる果物は瑞々しく、艶々とした見た目をしていた。比較的穏やかな気候が招く安定した供給、一点の汚れもない弧を描いた赤々とした林檎が太陽のように煌めいている。それはまるで、終焉を呼んでいるように思えて、――男は数秒の間息を止めていたことを思い出すように、ふ、と息を吸った。
そこからの終焉の行動は早かった。様々な料理を作ることに順応しているらしい終焉は、今日は煮付けがいい、などと呟いて流れるように林檎を二個、檸檬も手に取ってそれを迷いなく買う。その様子を見るに必要なものは全て屋敷に揃っているようだった。
空を仰げば先程よりも高い位置にあった。心なしかほんのりと気温が上がっているような気がした。
それでも終焉は口許を隠すように襟を寄せ、バツが悪そうな表情でそそくさと逃げるように屋敷へと足を向ける。増えていく人の波を抜いていく様はどこか手慣れている様子で、たった一人どこかへ消えてしまいそうな印象を抱かせるようで――。
「うぁぁああん!」
――無意識に屋敷へと足を速めていた終焉の目の前に、不意に一人の少年が視界に入る。
身なりが悪いとは言えない。寧ろ、見目は良い方で、透き通るような淡い金色の毛髪が酷く印象的な、美少年の類いだった。終焉の膝上程度しかない身長は目立つ様子ではなかったが、大声を上げて泣く様子は誰よりも目を惹いた。
しかし、日が高くなるにつれて増えていく人口だ。いくら泣いているとはいえ、耳を劈くほどにまで増えていく声には勝てないだろう。
目につくようなその金髪は他の誰にでもあるような色で、特別関わりたいとも思わない大人達は――単純に声が届いていないのもあるが――誰もが素知らぬ顔をして通り過ぎていった。石畳には何の汚れもないが、少年の膝と上着には多少の汚れが見てとれる。――恐らく少年は転んだのだろう。
母親や父親らしき人間は傍には見られなかった。
仮説ではあるが、あの少年は両親とはぐれ、探り歩いている途中で転んでしまったのだろう。そうであれば一人で立ち止まって泣いている理由が確かに説明できるのだ。
子供というのは不思議と感情に忠実で、不安に駆られればすぐにでも泣いてしまう傾向にあった。暗闇を目の前にすれば「怖い」と言い、一人になれば「寂しい」と言って人肌を求める。
――終焉にはそういった感情が伝わってしまうことがあり、少年を目にした瞬間に立ち止まってしまった。
形にならない漠然とした不安と、言い表しようのない溢れ出すような悲しみは酷く不愉快だった。
人通りの多い街の市場真っ只中だ。いつかきっと誰かが手助けをする筈だ、と目を逸らし、先に行ってしまうこともできた筈だった。
「――何故、泣いている」
――しかし、男はそれをやろうとは思わなかった。
いくつかの紙袋を石畳の上に置いて、終焉は少年と目線の高さを合わせ、柔らかな金の毛髪を撫でる。寒さから守るような真っ黒な手袋をした手が、ほんのりと頭の形をなぞった。小さな少年はそれに気が付くと、大粒の涙を流している瞳をぱちりと開く。宝石のように美しい、翡翠のような瞳が潤んでいる。
一度は男の表情の無さに呆気に取られたのだろう。嗚咽を洩らす様子もなくしゃくり上げて、「ママがいなくなった」と拙い言葉で終焉に告げる。
「お、お水が出てるところでね、まっててって、いってたんだけど……」
噴水広場で待てと言われたのだけれど、猫を追い掛けているうちに迷子になった――要約すると少年は単純に迷子になったのだ。
少年の目線になって初めて解る街の様子は驚異的だった。ちらりと横目を流せば見えるのは大人達の足ばかり。時折子供がこちらを見て何かを言っているが、その声は母親には届かない。人通りが多いだけあって道の先など見えたものではないのだから、子供にとって、はぐれるというのは恐怖以外の何物でもないだろう。
不安を揺さぶる悲しみの感情は落ち着いていた。放置してしまえば、感受性が高い――ようには見えない――男はそのまま引き摺って、屋敷へと持ち帰ってしまっていただろう。それだけは避けたかった終焉は、一度手を出した以上、終わりまで面倒を見る覚悟をしていた。
「……噴水広場の前までは送ってやろう。泣かれるのは私にとっても、都合が悪いのでな」
呆れるような溜め息を洩らしながら、終焉は再び少年の頭を撫でてやる。街の子供はやたらと好意的で、触れられることは苦手ではないように思えた。
終焉が溜め息を洩らしたのは、あくまで少年の面倒を見るのが嫌だと思っていたわけではない――高くなっていく日を見て、時間通りにノーチェの待つ屋敷に着けないことを、嫌に思ってしまったのだ。
一日の流れ全てを立て直す。そのつもりで微かに目を伏せる終焉に、不安が薄れ始めた少年は「お腹すいた」と小さく言葉を洩らしていた。
「クレープおいしい」
「……私が作った方が美味い」
煌々と目が眩むほどに輝きを増す太陽から身を隠すように、手近にあった公園の木陰で二人はクレープを頬張っていた。黄色い生地に生クリームと果物とチョコレートソースを巻いた、おやつには持ってこいの甘いデザート菓子だ。
「もっと甘い方が良いな」などと呟きながらぺろりと平らげた終焉を他所に、少年は小さな口でちまちまと頬張っている。
日は高く昇りきった。こうしている合間にもノーチェは腹を空かせているのと思えば、終焉は腹の奥底からぞわぞわと奇妙なむず痒さを覚えた。
ノーチェに殺されたいと告げた終焉は、暗に「殺せない」と言われても諦める様子を見せてはいない。
――だが、万が一彼が終焉を殺すにはあまりにもみすぼらしい姿をしている。成人男性にしては仄かに痩せている体付き、伸ばされたままの手入れのない白髪――手始めに彼の環境を変えなければ話にならない、と思い立ったのが食事と服装だ。
彼は進んで自ら食事をするようには見えなかったが、男が差し出せば不思議と口には入れてくれた。まるで小動物に餌を与えているような感覚ではあったが、丹精込めて作ったものを口にしてくれるというのは思ったよりも遥かに嬉しかった。表情こそまともに出てこないが、胸の奥に無くした何かが満たされるような感覚はあった。
『私は貴方を愛している』という感情は強ち間違いではなかったのだろう。
――良かったと胸を撫で下ろしたい気持ちになったが、それが彼にとって良かったのか――それを考えるとどうにも素直に受け入れられなくなりそうだった。
「愛している」と「好き」には決定的な違いがあるようだが、終焉にはそれが何なのか分からない。どちらも男にとって同じ意味合いなのだ。
事実、終焉は確かにノーチェを愛していて、彼の為ならば命をも差し出せるほどだ。ただし、それに人間の言う性に関するものが含まれているのかと訊かれれば、頷くことはできないだろう。
人間の成長は遅いようで早いもの。終焉の隣で漸くクレープを食べ終えて一息吐くこの少年も、いつかは大人になって汚れた世界を目の当たりにするのだろう。
――いや、それよりも早く終焉が世界を終わらせるのが早いだろうか――。
「おにーちゃんは、髪がくろいんだね」
はじめて見た、そう言って少年は金の毛髪を微かに揺らしながら自分よりも遥かに背の高い終焉を見上げる。澄んだ翡翠の瞳には無表情で見下ろす終焉の顔がはっきりと映っていた。それは、驚いているようで全く興味がないと言いたげな表情だった。
深い闇を溶かしたような終焉の髪は黒く、艶やかだった。所々に見映えするような赤黒いメッシュが混じっているのがひとつの特徴だろうか。「初めて見た」と言われた終焉は何気なく毛先を摘まむと、「だろうな」と素っ気なく呟く。
「ここに黒髪は私しか居ないからな」とどこか遠くを見る目は、寂しげにも見える。
「ふーん。じゃあそっちのきれーな目は? いたくないの?」
終焉の素っ気ない態度にも少年は挫けることもなく、互い違いの色を得た終焉の瞳をじっと見つめている。それは、この世のものとは思えないほど美しく、覗けば覗くほど、惚れ惚れとするような宝石にも似た煌めきをしていた。
しかし、その目には縫いつけるように切り付けられたであろう縦の傷痕が、痛々しくくっきりと残っている。何気なく終焉がそれを指でなぞったが、傷痕特有の引っ掛かりなど感じられなかった。
「……痛くはない。ただ、視力が落ちているだけに過ぎない」
「……ふーん…………?」
くっ、と目を動かせば、微かにぼやける空が眩しかった。少年は男の言葉が理解しきれなかったようで、首を傾げて目を丸くさせる。そして、クレープだけでは物足りないと言わんばかりに「ごはん食べたい」と呟いて寂しげな表情を浮かべていた。
「――……私にも時間がないのだ。行くぞ」
「わあっ」
傍らに置いていた紙袋を片手に、そして自分よりも遥かに小さい少年を片腕に抱えた終焉は、咄嗟に立ち上がるや否や賑やかな公園を後に市場の方へと向かう。
やはり市場は騒ぎ立てるような賑わいが大きく、圧倒されるものであったが、この市場を抜けた先に少年の言う母親が待てと言った噴水広場があるのだ。その波に身を晒すことは、世界を終わらせるよりも手の掛かるもののように思えたのだろう。
終焉は微かに――しかしあからさまに――大きな溜め息を吐くと、同時に足を踏み出した。
あちらこちら、四方八方で値引きを交渉する声や、子供の天真爛漫な声が耳に届いていた。終焉の片腕の中で少年は周りを見渡して、「お空がちかーい」と目を輝かせている。
時折弾き出されるように流れる人間が終焉の腕にぶつかりそうになっては、男は紙袋を携えた腕ごと引っ張るように身を引いて避けていた。
来るべきその日まで波風は立てたくない。極力目立たないように生きていたい。
――そんな感情が窺えるほど、人の波を避けていくことに長けている終焉の足は止まることを知らなかった。足早に、然れど縺れることもなく確実に。石畳を踏み締める感覚だけに集中を研ぎ澄ませて、終焉は腕の中で高い景色を見下ろす立場に居る少年に意識を向けてはいなかった。
あれは何かなぁ、と少年が指を差しているが、終焉は答えることもない。高いねー、と呟くが男は何も答える気がないようで、耳を傾ける様子も見られない。
やがて、少年は返答を求めることを諦めたのだろう――歩く度に靡く終焉の黒い髪を小さな手で触れて、物珍しそうな顔で呟いた。
「おにーちゃんの髪、くろくてきれーだね」
――不意にぴたりと終焉の足が止まる。それに驚いて目を丸くした少年は終焉の顔を見上げるが、男は前を見据えたままで唇を閉ざしていた。何か触れてはいけないものに触れてしまったような少年は、あの、と呟く。すると、終焉は徐に横目で少年を見つめた。
まるで獣が獲物を見付けたときのような感覚に、少年は小さく身を捩ると「着いたぞ」と男は言葉を洩らす。石畳の地面に片膝を着いて少年を降ろしながら「あれは母親か?」と問えば、少年は噴水の方へと目を向けた。
金の美しい髪が悲しげに揺れていて、遠くで誰かの名前を不安そうに呼んでいる。通りすがりの人間に声を掛けては落胆して、顔を覆って肩を震わせる。その姿は紛れもない我が子を思う母親で、「ママ」と僅かに口許を綻ばせる。
「……待て」
思わず母親の元へ駆け出そうとした少年の手を終焉は咄嗟に掴み掛かった。小さな手を大きな大人の手が包むように。本来ならばこのまま走るのを見れば良かったのだが、――男はそうはさせなかった。
「あっ、ありがとうございました! えと、お膝も!」
思い出したように少年が頭を下げて男に礼を述べる。図々しく子供宛らのあどけなさを持っているというのに、妙に礼儀正しいのは両親の躾の賜物だろう。
子供にしては礼儀の良さに終焉は微かに口許を緩め、「ああ」と呟いて手を緩めた。
踵を返し、少年が母親の元へと駆け出す。
――その直前、男が形のいい唇を開いた――。
「――お前は、今日一日『私に出会った事全てを忘れろ』」
はぐれた小さな子供が母親の元に辿り着くのを見届けた終焉は、呆れるような視線を配らせ、市場の方へと踵を返した。
「お腹空いた」と辺りから声が立っては、外食に出掛ける親子が目に映る。空を見上げて眩しい太陽を忌々しげに見つめる終焉は、屋敷で待っているであろう愛しい人間に想いを馳せる。
ノーチェは腹を空かせているだろうか。屋敷を出る前に呟いた言葉を素直に受け取っているならば、彼は屋敷の中を彷徨いただろう。目を離していれば死ぬことを考えてしまいそうな彼を屋敷で一人残すのに抵抗があった終焉は、眉間に皺を寄せながら今度こそ足早に屋敷を目指している。
昼は何を作ろう。――そう考えなくとも、紙袋の中には転がっている赤く熟した林檎が一際存在を放っている。
昼はとうに過ぎている。生活習慣に支障が出ることを嫌に思う終焉の視界に、昨日倒壊した筈の建物がひとつ。目を引く人間がちらほらと出入りを繰り返しているのを見て、終焉は微かに目を細める。
世の中には知らない事があった方が良いのだ。
ばたばたと音を立てながら開く扉から出てくるのは、薄暗く深い緑のローブをまとった人間達。それを見るや否や住人は道を開くように避け始める。見付かってはいけない――そう言いたげに終焉は紙袋を抱えながら流れに乗り、人混みに紛れながら確実に市場を抜ける。
――ふと、後方から聞き覚えのある声が聞こえた気がした。
「本当に分からないの? 誰が噴水まで送ってくれたのか」
「ほんとに分かんないの! 気づいたら、近くにママがいたんだもん! それよりご飯たべたーい」
何気なく終焉が自分の服を見下ろすと、薄く煌めく金色の髪が一本。器用に手袋越しの手で摘まみ上げると、忌々しげに光を反射してきらりと輝く。
「……ノーチェは空腹を訴えてくれそうにないだろうな……」
男は摘まみ上げていた毛髪を置き去りにするように、指を離して小さく独り言を洩らした。金髪は嫌いだ――賑わう街に言葉が小さく響いて、溶けるようにするりと消える。
――世の中には覚えていない方がいいこともあるのだ。