秋に染まる屋敷の庭で


 軽快な足取りで獣道を歩くリーリエの後を、ノーチェは覚束ない足取りで追っていた。相変わらずの赤いヒールが、森の中では一際目立つように存在感を放っている。艶のあるそれがノーチェの視界にちらちらと映る度に、女の位置を知らせていた。
 何故あんなにも軽快な足取りで歩けるのだろうか。
 ――何度も考えてみたが、謎は謎のまま。漸く森から差し込んできた太陽が、リーリエの金髪をキラキラと照らしている。
 ――時折それで、別の誰かを彷彿とさせる思考が働く。
 実際のところ、彼が何かを思い出すような素振りはなかった。ほんのり既視感を覚える程度の感覚が、どうにもノーチェの頭をちくちくと針で刺してくるようだが、頭を捻っても何も思い出せない。
 ただ言えるのは――あまり好んでいなかったような、そんな不快感が残った。

「少年〜! もうちょっと早く来られるかしら〜!」
「…………森なんて、歩かないから……」

 少女のように陽気で、振り返りながら手を振る女に彼は溜め息がちに答えた。時折木々の隙間から見慣れた屋敷がちらほら見えていて、「あと少し、」と何度も自分を言い聞かせて歩く。影が差し込む所為か、日が昇っても寒いと思えて何度も腕を擦った。怪我は今のところ存在していない。
 よかった、と小さく吐息を吐けば――白い息が宙を漂った。万が一怪我でもして帰ってきてしまえば、終焉の過保護っぷりが遺憾なく発揮されるに違いないのだ。

 ――なんて思いながら懸命に後を追って、漸く踏み出した晴れた大地に足を着けて彼は肩で息を繰り返した。
 普段屋敷の中にいた所為か――晴れた日の屋敷の全貌が、やけに輝いて見える。屋敷の中から見る庭も随分と綺麗だと思っていたが、それとはまた別の感動がほんのり胸を刺激した。
 夏や春とは違って赤く染まる木の葉だが、それがまた秋を強く連想させる。風が吹く度に枝から落ちる木の葉が儚げに見える。森の中にいるときよりも遥かに温かく、ほんの少しの心地好さを覚えると、彼の足は無意識にリーリエを追い越した。

「あらら」

 小さな荷物を片手に駆けていくノーチェの視界に、屋敷の扉が小さく開くのが映る。何の表情もないまま澄ました顔の終焉が出てきて、黒く長い髪が風になびく。僅かに空へと視線を向けてから小さく不機嫌そうな表情をするのを、彼は見逃さなかった。
 秋を感じさせる大地を踏み締めて駆け寄っていくと、終焉がノーチェの存在に気が付いた。何の色もなかった顔に、ほんの少しだけ驚きが浮かぶ。もう少し遅く帰ってくると思っていたのか、それとも駆け寄ってきたことに驚いているのか。明確な理由こそ彼には分からないが、新鮮のその顔に安心感を抱いた。
 夢で見たような冷たく、感情のない男の顔ではない。表情こそ乏しいが、人間じみたような感情が表にしっかりと出てきている。ほんの少し暖かな印象を抱くのは、見慣れた終焉の顔に安心したからだろうか。

「――……」

 何の考えもなしに駆け寄ったノーチェは、終焉に近付くにつれて次第に速度を緩めていった。木枯らしが頬を撫でてくるが、少しだけ冷たいと思う程度で、自ら終焉に駆け寄った行動の恥ずかしさと比べれば何てことはない。
 そろそろと歩き始めたノーチェは男の顔を見上げる。何か言葉を紡ぐことはない。言葉に詰まっているわけではないが、どう話を切り出すべきか酷く頭を悩ませているのだ。
 そうしている間に歩いてきたリーリエはノーチェの肩を小突き、「何してるのよ」と呟く。

「たっだいま〜!」

 ほら、少年も元気よく!
 ――そう言って彼の背中を叩き、リーリエは声を張った。朝から出せるような声量ではないことは確かで、ノーチェはおろか終焉でさえもほんの少し鬱陶しげに目を細める。「俺はアンタみたいに元気じゃない」なんて呟いて女を引き剥がすと、終焉が小さくノーチェに語りかけた。

「楽しかったか?」

 ――なんて言う終焉は、彼が何故リーリエの元へと向かったのか、その理由を知っている筈だった。
 何も小難しいことではない。彼はただ、屋敷に置いてくれている終焉のことが知りたいとねだっただけ。どうにも自分のことを多くは語らない男が、妥協して許可をしたのがリーリエの所へ一泊すること、だったのだ。
 それをどう捉えて男は「楽しかったか?」と訊いてきたのだろう。
 男の質問に彼は小さく唸って、目立たない程度に首を縦に振った。普段の快適な屋敷から一変した環境は慣れ難いものではあるが、同時に新しいという感覚も得られる。

 小屋は森の中にあった所為か、肌寒く思えたものの、凍えるほどではなかった。暗い森の中で見た夜空は星が瞬いていて、街の方では見かけない景色が広がっていた。赤や黄色に瞬く星をゆっくり眺めたのはいつ振りだったか――なんて考えて、虚しさを胸に募らせる。
 気を紛らせるためにリーリエの手伝いを名乗り出れば、料理というには信憑性が欠けるものが生まれていた。

 これを一口で楽しいと称するべきか彼は悩んで――肯定を示したのだ。

「でも……ご飯とかはやっぱりアンタがいいな……」

 まるで機嫌を取るような後付けされた言葉に、ノーチェ自身が首を傾げる。自覚しているリーリエとて特別非難をしてくるわけではないが、僅かに唇を尖らせて「ひどぉい」と言った。
 終焉の表情が曇ったわけでも、不服そうだったわけでもない。普段とは何ら変わりのない無表情が湛えられているだけで、注視しなければ感情すらもまともに読めない。
 そんな顔が彼には不思議と残念そうにも見えて、思わず比較するような言葉を溢してしまったのだ。
 男の気分を窺うような言葉を発した自分自身に、彼は疑問すら覚える。同情か、はたまた世話になっているのにおざなりにした罪悪感か。もしかすると夢で見た終焉の記憶――かどうかは定かではない――を見た影響で、多少なりとも心境に変化が現れたか。
 ――いずれにせよ、ノーチェにとって終焉の手料理は何よりも美味しいものであることには代わりはないのだ。
 下手なことが起こらない限り他には靡かない。そう言いたげにじっと終焉の顔を眺めていると、男の口許が僅かに緩んだ気がした。

 ――今笑ったかな。

 それすらも曖昧に思えるほど、ほんの小さな変化だったように思える。この人の表情ってこんなに読めなかったっけ――なんて、僅かな疑問が彼の胸に募った。まるで秋の空模様のように移り変わってしまった男の顔は、ただ淡々と、冷めてしまったかのように思う。
 不在にしていた数時間の合間に何かあったのだろうか。
 言葉にしようのない不安がノーチェの胸に募る中、彼の背を抜いてリーリエは屋敷へと向かった。「お腹空いたわ〜」なんて呑気に言うものだから、真剣に頭を悩ませている自分が馬鹿のように思えてしまう。
 金の髪をなびかせて終焉を抜いた頃、男もまた呆れたように溜め息を吐いた。「こんなに早く帰ってくるとは思っていなかったよ」と呟き、長く伸びた髪を指に絡めながら頭を掻く。女が屋敷へ赴くのは食事目当てだと言わんばかりの言動に、ノーチェは何気なく、安堵に近い息を吐いた。
 どうして安心感を抱いてしまったのか、ノーチェには思い当たる節はなかった。

 背を翻して屋敷へと向かう終焉の後を追い、彼もまた屋敷へと向かう。視線の先にいたリーリエは既に屋敷の扉を無断で開けていて、我が物顔で中へと押し入った。他人の敷地内であることに少しの遠慮も見せないところがリーリエらしい、と何気なく思う。
 ――と同時に、自分の知らない終焉を、女は知っているのだと思ってしまった。

 夢で見た光景では確かにリーリエが存在していた。外見も、年齢が変わったような様子すらも見せないほど、全く同じ見た目でだ。片目を前髪で隠し、黒いドレスを着こなして赤いヒールを履く。淑女とは思えないほど大口で笑い、酒を飲み、周りに構いにいく姿は、彼も見たことがある姿だ。
 それが全く同じ形を保ったまま、ノーチェが生きている「現在」に姿を見せている――。
 ――その事実が何よりも不思議で仕方がなかった。
 終焉が知っているリーリエは、今も昔も全く変わらない姿をしているのだろう。その為に男は、リーリエに対する扱いがノーチェに対するものよりも遥かに雑で、余計な気を遣わないのかもしれない。

 魔女は終焉が初めて街に来た頃からの知り合いである――その事実がほんの少し、蟠りとして胸に残った気がした。

「――ノーチェ」

 ――そうぼんやりと考える彼に、終焉が不意に声を掛ける。黒い手袋をした手が扉の取っ手を握ったまま、ノーチェへと顔が向けられていた。
 彼は俯いていた顔を上げて咄嗟に「何」と呟くと、男がじっとノーチェを見つめたまま唇を開く。

「小屋はどうだった? 森の中だからあまり暖かくはなかったかと思うが」

 屋敷と小屋の比較でもされているのではないかと身構えてしまった。もしも、彼が「自然の方が好き」と答えたのならば、終焉はどのような行動に出るのだろう。
 興味深そうに――は見えないが――ノーチェの言葉を待つ終焉は、恐らく何をどう答えても彼の意見を肯定する。ノーチェが快適だったと言えば、彼にとってより良い場所を、男は提供しかねない。
 ――けれど、ノーチェの答えは決まってひとつしかなかった。

「…………寒かった……から、こっちのがいいな……」

 ぽつり、呟かれた言葉に見上げていた終焉の顔が僅かに強張ったような気がした。何か癪に障るような言葉を述べてしまったのだろうか。どうにも予想外でしかない男の反応に、ノーチェは少しずつ自信を失っていく。

 嘘でも小屋にいた方がよかったと言うべきだっただろうか。――しかし、彼はもう、屋敷の快適さと終焉の手料理に体が慣れてしまっている。今更この場所を離れる気は毛頭ないが――、出ていけと言われたらどうすればいいのだろうか。

 募り募った不安がノーチェの体を後押しするように、彼の手は不思議と終焉の黒いコートを掴んでいた。それに気が付いたのは、男が不思議そうな顔付きで静かに自分の腹回りを見始めたからだ。
 無意識に子供じみたような行動を取ったことに、ノーチェ自身も戸惑いを隠せずにいる。咄嗟に手を離し、「ごめん」と呟けば、男は首を左右に振って「気にしていないよ」と柔らかく言った。
 そのまま扉を開けて屋敷の中へと足を踏み入れる。ノーチェもまた終焉に倣うように屋敷へと足を踏み入れ、何気なく「ただいま」と言った。
 ――すると、終焉がおかえり、と小さく口を洩らす。

 何気ない日常の一部ではあるが、その当たり前の言動が妙に嬉しく思えてしまった。

 エントランスを越えた辺りで鼻を擽るのは甘い香り。朝早くからノーチェが帰宅するとは思っていなかったのか、男は頬を掻いて「朝食を用意するべきだった」とひとりごちる。恐らく一人の時間を楽しもうと、得意な「甘いもの」を作っていたに違いない。
 そう考えていると、廊下の向こうからひょっこりと顔を出したリーリエが終焉の顔を見た。

「朝ごはんは?」

 ――なんて、あって当然だと言わんばかりの口振りで終焉に問い掛ける。僅かに眉間にシワを寄せて頬を膨らませる様は、女性と形容するには少しばかり幼い行動に見えた。

「……もう少し遅くなると思ったんだ」
「私は料理が作れないのに?」
「…………それもそうか」

 呆れたように再び溜め息を吐き、終焉は女の問いに答えた。
 だが、リーリエもリーリエでノーチェに美味いものを食べさせられる自信など少しもなかったのだろう。街に出て買い食いをするよりは、終焉の手料理を満足するまで食べる方がお得だと、リーリエなりに思ったのかもしれない。
 そのことを踏まえながら自分の欠点を述べた女に対して、男は納得するように頷いていた。それはそれで他人に対して失礼じゃないかと、彼は終焉の背にいながら思っていたが、女もまた頷くものだから思わず首を傾げてしまう。

 常識がないとか、デリカシーがないだとか、そういった言葉が飛び交わないのも長く連れ添った結果なのだろう。

 ――そう思うや否や、再び彼の胸には何かがつっかえるような違和感が生まれた。
 何だろう、これは。
 胸に手を当てて眉間にシワを寄せていると、リーリエと終焉は何やら話をしながら廊下を歩き進めてしまう。もしかしたら自分の知らない二人がいる、という事実に酷く疎外感を抱いてしまっているのだろうか。
 しかし、ノーチェは終焉やリーリエに「知られている」ような口振りで話し掛けられたことがある。夢で見た男と同じように、自分もまたそのうち思い出す切っ掛けがあるのかもしれない。

 ――なんて思って立ち止まっていると、廊下を歩く足音が少しずつ近付いて来ているのが分かった。

「少年〜! 今日は朝から天気もいいしお外でご飯――じゃなくて、お菓子食べましょ〜! お茶会ってやつ!」

 顔を上げるよりも早くリーリエはノーチェの肩を掴み、前後に揺らして満面の笑みを浮かべて話す。ぐらぐらと揺れる視界と、頭に響くような女の言葉にほんの少しの嫌気を覚えていると、リビングから出てきたらしい終焉が現れた。
 その手には確かにお茶会に使っていたティーセットと、出来立ての洋菓子達が所狭しと並んでいる。その量は到底朝一番で作ったとは思えないほどの量だ。
 香ばしく焼かれたクッキー。タルト生地まで作ったのではないかと思わせる生チョコタルト。手のひらサイズに収まる程度のカップケーキに、いつの日か見たことのあるラスクが並べられている。
 もしや夜通しで作っていたのではないのだろうか。
 自分がぐっすり眠っている間にも男は忙しなく動いていて、休む暇も持ち合わせていなかったのかもしれない。日常的に家事を全てこなしている終焉を思うと、彼の体に染み付いた奴隷としての意識が咄嗟に体を突き動かす。
 リーリエがエントランスへと向かった途端、両手が塞がった終焉の代わりにそれを持とうと手を伸ばして――

「おっと」
「…………」

 ――しっかりと終焉に避けられてしまった。
 相も変わらず男はノーチェを決して「奴隷」として見ているわけではない。だからこそ、まるで本能のように動き出すノーチェの動きを予測して、携えているものを明け渡さないように動いたのだ。
 それがノーチェには酷く不満で、思わず頬を小さく膨らませて不服の意を示す。
 すると、終焉は漸く見てわかるほどに笑い、ノーチェの横を通り過ぎた。

「肌寒い季節だから、何か羽織るものを持って外においで」

 ほんの少し振り返り、髪がなびく姿を見ると、到底恐れられている人物だとは思えない。
 終焉の言葉にノーチェは小さく頷いてみせると、男は満足げにエントランスへと向かっていった。開かれた扉から入る風も、色付く紅葉も、確かに季節の移り変わりを示している。
 肌を撫でる風が先程よりも少しだけ暖かくなったように思えたが、寒さを感じることには変わりない。

 終焉に言われた通りノーチェは階段を上り、与えられた部屋へと赴き、タンスやクローゼットを漁る。いつの間にか揃えられている冬物の服を手に取って肩に掛けてから、足早に二人が待つ庭へと向かっていった。
 外に出るとやはり冷たい風が頬を撫でるが、庭にいる二人は特別気にする様子もなく、着々と準備を進めている。出来立ての洋菓子を一足先に堪能しているリーリエは、この上なく幸せそうな表情を浮かべていて、ノーチェに気が付いた終焉は彼を手招く。

「おいで」

 以前なら嫌だと思えていた筈のその言葉がやけに心地好くて、彼は終焉の元へと駆け寄った。

「出来はいい方だと思うよ」

 そう言って終焉は駆け寄ってきたノーチェの口に、一口サイズのクッキーを放り込む。さっくりとした食感も、相変わらずの丁度いい甘さも、ほんの少し苦味のあるチョコチップも、どれもやはり美味しいと言わざるを得ない。
 だからこそ彼は小さく頷いてから「おいしい」と呟いて、終焉の顔色を窺った。

 特別不愉快に思っている様子はない。ただ、柔らかく笑みを湛えて「そうか」と言うものだから、彼の感想に満足しているのだろう。

 用意された席に座ると同時、終焉もまた白い椅子に腰を掛ける。
 美味しい美味しいと何度も言うリーリエ。飽きもせず砂糖とミルクを思うままにティーカップへと注ぐ終焉。奴隷の暮らしとは随分とかけ離れてしまったノーチェ――。

 こんな日が続いたらいいな、と何気なく思う彼の背を、冷たい風が撫でていた。


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