黒の記憶2


 豪邸の家主――もとい、ハインツの言うことに従って男は客間のソファーへと腰掛ける。
 何やら男と女の言い合いが繰り広げられているが、男はその言い合いを聞きながら柔らかいソファーを堪能する。使い込まれていないであろうクッションのような素材が、男の体を深く沈めた。体の沈み具合からして反発が少ないのだろう。座った際に僅かに足先が浮いたような感覚が、男の体を伝った。
 その感覚が酷く気に食わなかったのだろうか――。
 男はソファーに座って数秒経った後、すぐに席を立ち居心地が悪そうに小さく眉を顰める。客のことを思って柔らかい素材をふんだんに使用しているのだろうが、男はその感覚が好きにはなれなかった。咄嗟に立ち上がったあと、あてもなくぼんやりと虚空を見つめて――ふと、目の前にある椅子が視界に映る。
 お世辞にも真新しいとは言えないが、古びているとも言い難い。金の装飾が僅かに施され、背凭れの絶妙な傾き具合が男を惹き付ける。座面にある赤いクッションはソファーと同じ素材だろうが、造りから違うそれに男はそうっと近付いた。
 何の気なしに肘掛けを撫でて、何も思わないような表情を浮かべながら椅子へと座る。クッションはソファーのものと同じかと思ったが、存外また別の素材を使っているようだった。
 ほんの少しの反発が男の体を支える。加えて、固さの残る背凭れがしっかりと背中を支えてくれるのも相まって、男は安堵の息を吐いた。万が一のことが起こったとき、すぐにでも立ち上がれるような素材のものに安心したのかもしれない。
 ほう、と息を吐くと、妙に疲れがのし掛かってきたような気がした。

「あまり騒ぎ立てないでよ、病み上がりなんだから」
「三日三晩眠りこけてただけじゃない!」

 ほんの少しの隔たりを感じられていた筈の声が、すぐそばに来ているようにも錯覚するほどはっきりと聞こえた。恐らく外にいた人間がこの豪邸の中に入ってきたのだろう。男は吐いた息を戻すようにきゅっと固く唇を結ぶと、視線だけ出入り口へとくれてやる。
 ハインツだと思える男の声の他に、女の声が聞こえてくる。善くも悪くも通りやすい声と、緩く穏やかな波風立てない優しい声。どうやらハインツの知り合いのようで、和気藹々とする会話が聞こえてくるのだ。
 それに、ほんの僅かな疎外感を覚えながら、男はその姿を見つめる。
 始めに部屋へ足を踏み入れたのは、この屋敷の主と思われるハインツ。男の姿を見るや否や、「ソファーは嫌だった?」なんて言って苦笑する。その顔は特別困ったようには見えない。寧ろ、どこか嬉しそうに笑うものだから、男は小さく首を傾げた。
 その次に入ってきたのは、金の髪を長く伸ばした女。ハインツの髪質よりも遥かに柔らかく、僅かに癖のあるそれが軽く揺れる。片目を前髪で隠している他、黒く華やかなドレスが印象的だった。
 その女が耳を劈くような声色で、男に向かって言うのだ。

「あらやだ! 思ったより元気そうじゃな〜い!」

 びりびりと頭が揺さぶられるような声量に、男がそっと視線を逸らした。酷く不愉快だと言いたげな様子に、ハインツが女に対して「煩い」と頭を小突く。ハインツの肩程度にある頭が僅かに揺れて、女が「ええ?」と笑った。
 やけに陽気な小煩い――賑やかな女だと思った。こんな人間が客人として来るなど、男は受け入れたくはない。客間に足を踏み入れていく女からなるべく視線を逸らし続けて、もうひとつの声に耳を傾けた。

「三日も眠っちゃうんだから、とっても体調が悪いのかもしれないわよ〜」

 もしそうならもう少し声を落としましょ。
 ――そう言って男の目の前に姿を現したのは、水色の髪の、穏やかな女だった。
 お淑やか、という言葉は彼女にこそ似合うのだろう――そう思わざるを得ないような、静かな女だ。絶えず笑みを浮かべる柔らかな目元は白に近いような水の色。白と黒だけで構成された修道服を一目見て、教会の人間だと思える。
 金髪の女とは知り合いなのか、友人のように接する様子を見せていた。
 この二人がハインツの言う「客人」なのだろう。
 女達がそれぞれ赤いソファーに座るのを見届けて、ハインツは廊下の方へと消えていった。
 コツコツと鈍い足音が遠く離れていったあと、扉の音が鳴るのを聞き届ける。その間に女達はきゃあきゃあと年甲斐もなくはしゃいでいて、気が付けば彼が洋菓子とティーセットを手に再び現れた。

「お構い無く〜!」

 ――と、金髪の女が言う。
 しかし、その手は一直線に洋菓子へと向かっていった。

「そういうことを言うなら、それ相応の態度を取って?」

 ほんのり揺れたお茶会の道具をテーブルに置いて、ハインツは手際よく用意を進める。ティーポットには既に紅茶が入っているのか、そのままカップへと人数分注いで、ミルクと角砂糖を女達に勧める。
 そのうちのひとつには角砂糖をいくつも入れてからミルクを入れて、程好い甘栗色に染まったものを作り上げた。
 ほんのり漂う華やかな香りに、男がカップをじっと見つめる。
 ――すると、ハインツが手にしていたそれをソーサーごと差し出した。

「多分、気に入ると思う」

 どういうわけか、彼は男の味覚を把握しているかのような言葉を紡いだ。
 この男は何かを知っているのだろうか――不思議に思いながらも、男は差し出されたソーサーを手に取り、すっかり濁った紅茶だったものを口にする。白い湯気が沸き立つのが目に見えたが、意に介することもなくちびちびと飲んだ。
 独特な味わいが感じられるが、甘味のあるそれに男はほう、と息を吐く。彼の言葉の通りに気に入ってしまったのを知られたのか、ハインツは小さく笑って「よかった」と言った。

「うへぇ……――ったら相変わらず甘いものが好きなのねぇ」

 金髪の女が可笑しなものを見る目付きで男に話し掛けた。その途中、女の言葉が綺麗に聞こえなくなったのに気が付いて、男は小さく首を傾げる。まるで穴の空いた何かがそこにあるようだった。
 男の様子を不審に思ったのか、シスターのような女が「どうしたの?」と不安げに声を掛けてくる。小さく眉尻を下げて男を見るものだから、本当に心配されているのだと思わせてくる表情だ。

「もしかしてどこか体が悪いのかしら? いくら――だったとはいえ、貴方も生きているんだもんね」

 頬に手を添えて、小さく首を傾げながら女は言った。唇の動きを見るに言葉を途切れさせた様子は全くないが、どうにも言葉の一部が聞き取れなくなっている。
 恐らくそれは、男に関する何かなのだろう。
 ――しかし、神の悪戯か、その言葉だけはどうしても自分の耳には届かないのだ。
 ――とは言え、男には目の前にいる人間達に関する記憶は何ひとつ残されてはいない。口振りから察するに、彼らは一度でも接したことがあるのだろうが、男が彼らと出会ったのはつい先程のことだ。自分が知りもしない人間が、自分のことを知っている、というのはそれとなく不快だった。

 こくりとミルクティーを飲み込んで、男は女達を見る。そのあとに横に立つハインツをちらりと横目で見て、僅かに唇を開いた。

「――……お前達は……俺を知っているのか……?」

 ぽつり、小さく呟かれた言葉が客間に響く。あれだけ煩く聞こえた金髪の女の声も、シスターの声もすっかり消えていて、外の鳥が鳴く声が聞こえた。もう早朝という時間はとうに過ぎたのだろうか。女達が座る向こう――大きなガラス窓から空を見ると、青く染まるそれを見た。
 ――酷く忌ま忌ましい空だと、男は思った。
 女達は男の言葉に驚いたように目を見開く。閉じていたように見えていたシスターの目が、大きく見開かれた。そのあとに口許に手を添えて、「え、」なんて言うものだから、男は瞬きをする。

「お前達も…………このハインツ、とかいう男と同じように、俺の何かを知っているのか……?」

 痺れを切らしたように再度問い掛ければ、女達は茫然としたまま男を見ていた。返事はない。ただ、驚いたような態度を取るものだから、男は視線をテーブルに落とす。

 ――口を開くべきではなかったか。

 罪悪感――というものがあるわけではないが、賑やかな雰囲気が一変したのは予想外だった。
 彼女達は男の知人――らしい――であり、口振りから確かに親しい間柄だった筈だ。ハインツに対する態度も、男に対する態度も特に隔てなく、ありのままに接してきていた。この事実は紛れもなく本物で、周りの反応を見るに可笑しいのは自分なのだろう。
 ほんの少し小さな溜め息を男は吐いた。肌を刺すような疎外感と空気が、男の居心地を悪くする。出ていくことを考えたが、行くあてもないと気が付く。
 記憶がないという事実は、あまりにも不便だった。

「――ま、そういうわけだからさ。手っ取り早く自己紹介でもしたらいいよ」

 ぱちん、と両手を打ち鳴らしてハインツは静まり返った空気を壊した。
 音に対して驚いたように肩を震わせ、女達が「吃驚した」と呟く。男も男で驚いたが、顔に出ない感情を彼らが知る術はない。
 ハインツは足を踏み出し、テーブルに手を突いてから男の視線に合わせるように屈む。青く煌めく瞳は空よりも深く、海を彷彿とさせるものだ。
 その目を細めて、彼は口を開く。

「僕の名前はハインツ。ハインツヴァルト・エルメルト。何も気にしないで、ハインツって呼んでくれたら嬉しいな」

 屈託のない笑顔だと男は思った。わざとらしさが残るようなあどけない笑みに、僅かに嬉しそうな声色。どこか懐かしいと思いながら男は頷き、ハインツ、と呟いた。
 そのとき、彼が本当に嬉しそうに笑うものだから、男はそっと目を逸らす。
 眩しいのもは嫌いだと本能が囁いた。髪色も相まってか、彼の笑顔がまるで太陽のようで見ていられない。
 堪らず目を逸らした終焉に何かを思うこともなく、ハインツは嬉しそうな顔をしたままそっと傍を離れる。次は女達の番だと言わんばかりに後ろ手を組み、背筋をしゃんと伸ばすものだから、男は言葉を失った。
 記憶がないことを悲しいと思う様子はない。名前を呼ばれたことに対する嬉しさが滲み出ている。
 変な人間だと男は思った。視線を戻し、女達の顔を見てやれば、金髪の女が赤い瞳を瞬かせる。

「そうね! 私はリーリエ、リーリエ・ヴィレッダよ! 原罪の魔女なんて呼ばれているけれど、あんたは好きに呼ぶといいわ!」

 あんたは大抵私を名前で呼んでいたけれどね。
 女は――リーリエはそう言うと、聞いてもいない「好きなもの」を答えた。どこから出したのかも分からない一升瓶が、彼女の背後からずるりと取り出される。好物はお酒、お酒、それとお酒。あと適度におつまみがあれば最高ね――なんて言って酒瓶をちらつかせているものだから、男は顔を顰める。
 鼻が利く男は、それが仄かに独特な香りを放っているのに気が付いた。鼻の奥を刺すような鋭い香りに、堪らず身を引くように背凭れへと近付いていく。
 暫定だが、記憶をなくす前もこの香りが苦手だったに違いない。――なんて思って、じっとリーリエを見つめた。彼女は男の視線に気が付くと、赤い口紅を塗った唇を尖らせて、「分かったわよぅ」と呟く。ハインツが近付いて、その酒瓶を横から攫った。

「帰るとき返してよね!」
「こんな安物で満足できるんだねえ」

 ふ、と笑いながらハインツは男から多少距離を取る。鼻を突く香りが遠退いて、男の心に余裕が持てた。一升瓶を片手に安物と宣う彼は、どの程度の物ならば高価だと思えるのだろうか。
 こんなお酒よりワインはどう、と呟くと、リーリエは「勿論欲しい」と即答した。どうやら酒の類いならば種類は問わないようだ。
 そんな女の傍らでシスターが小さく笑っている。一見大人しそうではありながらも、顔立ちがリーリエよりも多少幼く見えるのは思い違いでもないのだろう。
 女は胸元に手を添えて、「改めまして、」と言った。

「私はマリア。マリア・グランテ。私のことも、貴方は名前で呼んでいたのよ」

 宜しくね。そう言ってマリアは絶え間なく微笑んでから微かに頭を下げた。どこか見覚えのある水色の頭髪が光を受けて輝く。――それでも金髪よりはマシだと思いながら、男は倣って頭を下げた。
 女達の口振りはやはり自分のことを知った上でのものだ。初めから知ったかぶりをしていればよかったかと思ったが――結局何の意味もないのだと思うと、打ち明けてよかったのかもしれない。
 自分の記憶が欠けていることを打ち明けても、彼らは嫌な顔ひとつせずににこりと笑った。まるで気にも留めていない様子に男はほう、と安堵の息を吐く。居心地が悪くなってしまったら出ていくことを視野に入れていたが、その必要はないようだ。

 一通りの自己紹介が終わって、男も折角だからと自分の名前を名乗ろうとする。ほんのり丸まった背筋を少しだけ伸ばして、「俺は、」と呟く。

「俺…………? 俺、は…………」

 誰だろうか。名乗れるはずの名前を思い出せなくなる。生まれ持っている筈のそれが頭の中からすっかり抜け落ちたように、何度記憶を探ろうとも小さく頭が痛むだけだった。
 そもそも、自分の一人称も本当に「俺」であっているのかも定かではない。
 小さく眉を顰めて口許を歪ませていると、ハインツが不安そうにそうっと男の顔を覗き込んだ。「平気?」なんて心底心配そうに聞いてくるものだから、男は頷きをひとつ。問題ないと言うが――、何も思い出せないのは事実だ。

 自分が知っているのは、体のことと、魔力の有無程度だろうか。

 思わず口を噤み、男は黙り込んでしまう。男の様子が可笑しいことを察した彼女達はこぞって顔を見合わせ、無理をすることはないと言った。同時に、顔を合わせたときに発言した言葉の数々を、男が理解できなかった事実に頭を下げる始末。
 あまりにも居心地が悪く、「頭を上げてくれ」と言えば――ここぞとばかりにリーリエは態度を一変させた。

「これならあんたに下手に出なくても良さそうね〜! 毎回怒られちゃうから大変だったのよ〜!」

 リーリエは胸に手を当てて胸を張った。いくら騒いでも、いくら酒を飲んでも強気に出られないであろう男に対し、気を張り詰める必要がないのだという。
 女のその態度に以前の自分がどういう生き物だったのか、男の疑問が募る。
 しかし、その態度も家主と思われるハインツの対応に呆気なく流されてしまった。
 別に酒を飲んでいいっていうわけじゃないから。そうハインツが言えば、リーリエはショックを受けたよう。「えー!?」なんて言ってから肩を落とし、隣ではマリアがくすりと笑う。
 たったそれだけで酷く賑やかな光景だと思えた。まるで別の世界のものを目の前で眺めているような感覚に、男は茫然とする。
 楽しそうな会話の輪に入れないことが、何よりも寂しいと思っていたことに気が付くのはそう遠くないことだった。
 けれど、そんな感情も杞憂に終わり、彼らの視線が一気に男へと注がれる。期待と、好奇心。そして興奮が入り交じったような視線に、男はぐっと息を呑んだ。

「この際だから私あんたのこと『顔面美の暴力男』って呼んでいい?」
「こらこら、それじゃ呼びにくいわ。そうね、クロちゃんにしましょう〜」
「兄さんの意見も聞かずに話を進めるなよ」

 次々と溢れてくる言葉達に男は瞬きを繰り返す。彼らは特に男を野放しにするわけもなく、まるで以前から連れ添っていた仲間のように男に接した。
 下手な壁も、敬語もあるわけでもない。妙な距離感があるわけでもない。初めから友人だったと言わんばかりのそれに、男は戸惑いを隠せなかったが、「好きにしてくれ」と小さく呟く。

 ――何故だかそれが、妙に嬉しかったのだった。


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