黒の記憶1


 ――何もなかった。
 初めは何も、持っていなかったのだ。

 ある日、男はふと目を覚ました。
 今まで何をしていたのかは覚えていない。目を覚ました先にある大木が、忌ま忌ましい光を遮ってくれていたことに感謝の念を覚えたくらいだ。
 瞬きを数回繰り返して、男はゆっくりと体を起こす。初夏に入ろうとする眩しい季節には、青々とした草花が生い茂っていた。
 体を起こして、何気なく自分の手元を眺める。親近感の湧く黒い手袋がはめられた自分の手のひらだ。何故だか視界が歪んでいるような気がして、試しに片目を閉じると、男は自身の右目の視力が極端に低下していることに気がつく。
 何故だろう――試しに目元を擦ると、ざらりとした妙な感触が手袋を伝って肌に当たった。

 片目を縦に切り付けたような傷が刻まれていることに、男は気が付いた。

 確証は得られないが、恐らくこの傷こそが視力を低下させた原因だろう。
 男は手を下ろし、大木に背を預けてぼんやりと空を見上げた。憎たらしいほど清々しく、青く染まる空に、どこか懐かしささえも感じてしまう。
 目的などないまま目覚めてしまった男は、ただぼんやりと雲の動きを見つめているのだった。
 時折風が吹いて、黒い髪がなびく。――その度に、どうしてこんなに伸びているのかが気になった。

 何も覚えていないが、自分が男である自覚はしている。好きなものや、嫌いなものは特に記憶にない。強いて言うのなら、大地を照らす眩い太陽が――光がとても苦手だということだろうか。
 生物学上の男は、基本的には髪を伸ばすことなど滅多にない筈だ。
 しかし、男の髪は長く、恐らく胸辺りを越してしまっている程度の長さにまで伸びている。束ねていないと鬱陶しい筈だが、どこを確認しても髪紐やヘアゴムの類は所持していなかった。
 衣服は――ずっと昔から愛用している一色だ。その記憶はある。
 何の気無しに袖を撫でてみるが、ほつれた様子も劣化した形跡も全くない。どれだけ着ようが、どれだけ洗おうが、いつまで経っても新品同様に保てる男専用の服だ。
 男がこの服を愛用している理由は、光を遮られるから、という一点のみ。
 男にとって太陽は天敵で、忌ま忌ましい存在で、体の自由を奪う凶器以外の何ものでもない。
 ――そんな太陽から、男は自分を守るために長く、黒いコートを愛用しているのだ。

 大木は木陰を作り、男はその場でただ空を見つめる。日が高く昇る以上、男ができることといえば待つだけ。
 雲の流れは遅く、質量を増しているように見えた。近ければ近いほど濃く、遠ければ遠いほど薄い。ものの見え方が異なるという点は、いつまで経っても新鮮な気持ちにさせてくれていた。
 何かをしたいという気持ちは一切起こらない。ただ体が重く、酷い睡魔が男の体を支配しようとしていることは、男自身も分かっていた。
 体を起こすのに何ら問題はなかったが、それ以上のことをする力は振り絞れないのだ。
 気怠いほどの脱力感と、気が遠くなるほどの睡魔は、恐らく魔力の喪失から来るものだろう。
 溜め息を吐く気力もなく、男は視線を空から地面へと移す。眠ってしまおうか、それとも起きていようか――答えのない葛藤が、男の中で巡り続けていた。
 ――そもそも何故こんなにも魔力を失っているのかを、男は知らなかった。

 生まれ持った力を失う度に体の奥底から何かが無くなる感覚がある。魔力は体中を巡り巡っていて、火や水を扱うときに魔力に自らの意志を乗せれば、自由に扱えるようになる。
 魔力の扱い方は人それぞれ。何かを具現化させるのに対しても使える代物で、日常的にも使える代物でもある。
 火で何かを燃やしたり、水を浮かべてみたり。風を吹かして意のままに操る。

 ――そういったことに使えるのが、体内に宿る魔力であり、失う感覚は力が抜けていくことにとてもよく似ている。
 気が遠くなりそうになるほどの脱力感。意識を奪おうとするほどの眠気。
 回復する為には、心身共に休めることができる睡眠が有効的だ。

 それ故に男は酷い倦怠感に襲われていたのだ。
 肝心の理由は――分からない。考えれば考えるほど、何故自分がこの場所で「目覚めた」のかを、男は理解していない。
 記憶の糸を辿ろうとするものの、途中で途切れてしまったかのように何も思い出せなくなってしまうのだ。

 ――不思議な感覚だった。
 男はぼんやりとしたまま瞬きをゆっくりと繰り返していると、次第に眠気が襲ってくる。初めは見開いていた筈の赤と金の瞳も、少しずつ瞼に覆われていく。繰り返す瞬きの数も、感覚も間延びしてきていて――とてもではないが起きてはいられなくなる。
 うつらうつらと船を漕いで、体の全てを大木の幹へと委ねる。
 眩しさも太陽も晴天も憎たらしいが、温もりのある空間で眠りに就くのは嫌いではなかった。
 男はゆったりとした呼吸を繰り返して眠る準備を整える。何がともあれ、魔力が枯渇しているのでは話にならない。体を動かすのがままならなければ、まともな考えもできないのだから、最善の選択を選んだのだ。
 風に揺れる草木の音色を聞き入れていると、少しずつ意識は闇の中へと落ちる。人もいなければ、動物達がやたらといるわけでもない。穏やかな空気が頬を撫でてくるのが心地よくて――寝息を立てかけた。

「――…………」

 ふと、何かが気になって男は閉じていた目を開ける。
 草木が風に揺れるのに混じって、足音のようなものが聞こえたのだ。くしゃりと微かな音ではあったが、五感が優れている男はそれを聞き入れてしまった。
 眠りを妨げられた、という意識があるわけではない。ただ、何かの気配がある以上、男はゆっくりと眠りに落ちることができないのだ。
 足音は恐る恐るといった様子で少しずつ男の元へと近付いてくる。草を踏み締め、男の気分を害さないようにと徹底された静けさに、男は僅かに顔を動かした。
 近隣に住む人間が男に近付いて、何らかの言葉を残してくるかもしれない。それが苦情なのか、叱咤なのか――皆目見当は付かなかった。

 ちらりと目を向けた先には青々と茂る草花が一面に広がっていた。整備された道のようなものは男の視界には一切視界に入らない。
 その道を、
 気を遣うような足取りで近付いてくれるのだから、恐らく音の主は男の存在に気が付いているのだ。

「――あっ」

 足音の主は男がこちらに顔を向けていると知るや否や、ハッとしたような様子で頭を掻いた。どうやら男が寝ていると思い、慎重に歩いていたのにも拘らず、起きていたことに驚いたらしい。
 一箇所だけ青いメッシュの目立つ金の髪が小さく揺れた。首まで切られたような短い金髪に青い右目が僅かに煌めく。左目は何かがあったのか――白い眼帯をつけていて、痛々しい見た目が特徴的だった。

「ああ……ええと」

 彼はバツが悪そうに言い淀んでいたが、男が何の反応も示さないと知ると、頭を掻いていた手を下ろす。
 身なりは――とてもいい。一目で分かるほどの質の良い衣服だ。
 その服が汚れるのも気にせずに、彼は膝を突いて男に声を掛ける。よく見ればその手にはひとつ、黒い傘が握られていた。
 その傘を開き、彼は言うのだ。

「こんにちは。今日はとてもいい天気だけど、眠るには少し眩しすぎないかなぁ」

 よければ家で休んでいかない?
 そう言って彼は、男の返答を待った。

◇◆◇

 ――ふと目を覚まして、男はぼんやりと天井を見上げる。見慣れない木目に、見慣れない照明。忌ま忌ましい太陽を感じることはなく、寝覚めはとてもいい。
 体をゆっくりと起こしてみれば、気怠さを覚えるほどの脱力感はなかった。どうやら失っていた魔力は全て取り戻したようだ。
 ぼんやりと手のひらを見つめ、徐にぐっと握る。試しに手を動かして軽く指を上げると、寝具に落ちている男の影が小さく蠢いた。

 男と相性がいいのは影だ。自分自身から落ちる影であったり、他者が作り出している影であったり――物が作り出している影であったりと、様々だ。
 要は光がない暗闇と、光があるからこそ生み出される影が男とは非常に相性が良かった。
 自分自身の体を媒体に魔力を伝い、影へと伝えば自分に従う従順な僕となる。
 もう少し工夫を凝らせば自身より遠い何かに影響を及ぼせていただろうが――男はその方法をすっかり忘れてしまっていた。

 ほう、と吐息を吐きながら男は手を下ろす。調子は悪くはない。十分な睡眠を貪っていたお陰か、すっかり気分のいい男はゆっくりと顔を上げた。
 部屋の中は酷く薄暗かった。男の事情を知っているのか、窓には厚手の遮光カーテンが施されている。少しの光も通さないように、と暗い色のカーテンだ。
 家具は必要最低限の物しか用意されていない。本棚と、机と、随分と質の良い椅子がひとつ。机の上にはテーブルランプがひとつと、執筆用の道具が一色揃っている。床は――部屋の暗さも相まって黒く見えるが、赤黒い絨毯が敷かれていた。
 軽く部屋を一望しただけで薄々気付いてしまう造りの良さ。寝具でさえも二メートル近い男が眠れるほどの十分な大きさと、肌触りの良さが男に痛感させてくる。

 ――この家の家主は随分と良い暮らしをしているようだ。

 ぼうっと部屋を見渡したあと、男は寝具の端へと移動した。
 寝具の端に腰掛けて、足を下ろして深呼吸をする。

 この部屋で意識を失っていた経緯は十分に把握している。「目覚めた」ある日、酷い眠気に曝されてそのまま眠ろうとした矢先に声を掛けられたのだ。柔らかく気分を損ねないように注意された声色だったが、意識的に声を高くしていたのは分かっていた。地の声はもう少し低く――恐らく、男と同じような声色をしている筈だ。
 それがこの家の主であり、敢えて男を家に招いたのだろう。
 しかし、男には家に入った頃の記憶はない。恐らく家に着いた直後に意識を失って、深い眠りに就いてしまったのだ。

 ――その頃の記憶は十分に思い出せる。頭や思考に支障はないようで、自分の思考がまともに働くことに男は安堵の息を洩らした。
 問題はそれ以前の記憶だ。

 ――ふう、と息を吐いて、男は足に肘を突く。手を組んで、組んだ手の甲に額を押し付けて、目を閉じる。
 暗い部屋には物音のひとつも届かない。それが功を奏していて、男は自分の考えに没頭することができた。
 眠ったあとの頭は酷く冴えていて、すっかり気分が晴れたよう。自分に関する情報を必死に掻き集めて、自分がどんな状況にいるのかを整理する。
 魔力の存在も、その使い方も十分に理解していた。冴えた頭では、垂れてくる黒い髪が何故伸びているのかの理由も分かった。
 赤が交じる黒い髪が綺麗だと言われたこと、もう一度褒められたかったこと。普段褒められ慣れていない男が唯一もらった褒美で、柄にもなくもう一度褒めてほしいと思って伸ばし続けていたのだ。
 ――だが、その相手が誰だったかはまるで思い出せない。それだけでなく、思い出せる記憶はその「褒められたかったこと」だけで、あとはぽっかりと穴が空いたような感覚ばかりだった。
 誰かが笑っていたような、誰かを褒めていたような気はするが、どこの誰だかなど思い出せない。
 年齢も、自分の出生も、誕生日も――何もかも。
 自分の名前ですらも――

「…………」

 ――コンコン
 ――そう、ノックの音が聞こえた。
 男は目を開き、ゆっくりと顔を上げる。落ちてきていた黒い髪を払い、ノックされた扉の方へと視線を向けると――扉が開かれた。
 きぃ、と微かに軋むような音が鳴る。そのあとに部屋よりもほんのりと明るい廊下が微かに見えて、男が一人「入るよ」と声を掛けながら足を踏み入れる。
 靴を履いているのか、くぐもった音が小さく鳴った。造りのいい革靴の音だ。

「や、おはよう。気分はどう?」

 随分と馴れ馴れしい口調だと、男は思った。
 しかし、家の中で寝かせてもらえた以上、文句のひとつも言えやしない。
 男は彼の言葉に頷きで応えて、彼の顔をじっと見つめた。相変わらず片目を白い眼帯で隠していて、見えるのは青く光る澄んだ瞳だ。室内である所為か彼の服はとてもラフなもので、白いシャツと黒いスラックスという簡単な服装だった。
 眩い金の髪が、太陽に似てやけに眩しい――。
 そう、男が僅かに顔を顰めていると、彼は笑って男を朝食に誘った。

「歩けそうなら後をついてきて」

 そう言って扉を開いたまま彼は踵を返す。黒い革靴を履いた足が音を鳴らして廊下を歩くのを見かねてから、男もゆっくりと立ち上がる。試しに部屋の中を歩くが、体に支障はない。寝具に寝かされたときに脱がされたであろう靴が傍にあるのを見つけたが、くぅ、と腹が鳴ったのを聞き逃さなかった。
 靴は後で履けばいい。そう思って、男は彼が歩いた後を追う。
 部屋を出て廊下に出れば右手側には壁があり、左手側には階段でできた壁がある。ちらりと顔を上げて見れば、二階と思われる場所が見えた。階段の手摺りは黄土色に染まっている。二階以上の階はなく、男はゆっくりと瞬きをした。
 豪邸の類だろうか――男は視線を前へと戻し、止まっていた足を前へと動かす。どこもかしこも赤黒い絨毯が敷かれていて、素足で歩く分には困らないほど肌触りはいい。
 歩いて、エントランスに着いてから階段の様子を窺った。階段も漏れなく絨毯が敷かれている。全部で十数段。二階に通じるのはその階段だけだった。
 男が一階の部屋にいた以上、家主だと思われる彼は二階の部屋を使ったのかもしれない。階段から視線を逸らせば、広い部屋が目に入る。大きな窓があるのか、赤いソファーが明るく見えて酷く煩わしかった。
 特に見たいものはない。男は視線を戻すと、ふらりと足を進める。
 視線の先には彼はいない。しかし、場所を知らずとも男には彼が向かった先が分かる。
 芳ばしい料理の香りに混ざる錆びた鉄の匂い――少なくとも彼は、何かを手にかけたことがあるようだ。

 男は歩いた先にある扉に手を掛けてそっと開ける。先程同様の軋むような音はない。その代わりに、食欲をそそる香りが漂ってきて、柄にもなく空腹を訴える腹の音が再度響いた。
 相当腹を空かせているのだろう――扉を後に部屋の中へと入ると、彼が忙しなく動いているのが視界に入る。奥にある扉を開けて行ったり来たりを繰り返し、男を見つけると「ごめんね」と笑う。

「今日急に人が来ることが決まっちゃって……あ、ご飯食べていいからね」

 言えることを言うだけ言って、彼は扉の向こうへと消えていった。
 男が聞く限りでは、何かを開け閉めする音と、食器類を片付ける音が立て続けに鳴り響く。その度に慌てふためくような言葉が聞こえるものだから、男は小さく首を傾げた。
 そんなに慌てるようなことなのだろうか。ほんの少し、男の中に疑問が募る。
 そのままゆったりとした足取りでテーブルに近付くと、料理が載った皿があることに気が付いた。目玉焼きと、ウインナーが数本。瑞々しいレタスとこんがりと焼かれたパンがある。ガラスコップには白いミルクが注がれていて、男は少しだけ興味が湧いた。
 椅子を引いて大人しく席に座る。用意されていた銀色のフォークを手に取って、何気なく目玉焼きの黄身を突く。特別は意味も意図もない。ただ、ほんの少し気になって突いただけだ。
 白い膜に覆われた黄身が僅かに揺れる。中身には火が通り切っていない半熟なのか――強く突いてしまえば割れてしまいそうで。男は無言のままフォークをウインナーに向けた。
 ウインナーに突き刺せばパキリと心地のいい音が鳴る。フォークが刺さった隙間から肉汁が溢れて、芳醇な香りがどっと押し寄せる。
 いただきます――とは口に出さなかったが、少しの間を置いてから男はそれを口許に寄せた。
 口に含めばじゅわりと旨味が溢れ出す。咀嚼を繰り返せば、香りが口いっぱいに広がっていく。

 ――美味い。

 無表情のまま舌鼓を打って、男は用意された朝食を食む。用意されたパンも、丁寧に焼かれた目玉焼きも、残さず口へと運んだ。
 喉が詰まることはなかったが、用意されたミルクを喉の奥に押し流すとすっきりとした後味が残る。見た目よりも遥かにあっさりとした味わいで、ほんの少し意外だと言いたげに、男はコップを見つめていた。
 丁度食べ終わった頃に奥にある扉から彼の姿が見えて、男はそれに視線を向ける。

「食べられた?」

 なんて不思議な質問をするものだから、男は一度迷って、頷いた。

「…………悪くなかった」

 小さく――小さく紡がれた声だった。
 それでも彼には届いたようで、よかった、と溢した言葉と表情には嘘偽りのない笑みが浮かぶ。
 一瞬だけ間が空いたような気がしたが――気の所為だろうか。
 一瞬の違和感を気に留めないように男は首を横に振って、男は静かに喉元に手を当てる。心なしか、長い間声を出していなかったような違和感があった。喉に何かが詰まっている様子はないが、小さな咳払いをする。
 家主はやたらと忙しなく動いている所為か、空になった皿には意識が向かないようだ。
 礼も兼ねて男は席を立ち、食器を重ねて持ち上げる。引いた椅子を戻してから扉へと向かい、開けてみれば――冷蔵庫に向かって文句を言う家主がいた。

「いくら何でも急すぎんだろ畜生……こちとら目覚めたての健康男児だぞ」

 彼は男の存在に気が付いていないようで、男がシンクに食器を置く頃になって漸く男の存在に気が付いた。
 わっと声を上げて、開けていた冷蔵庫を咄嗟に閉める。

「食器なら置いておいてよかったんだよ、兄さん」

 なんて言うものだから、男は「そうか」と呟いて――ふと、首を傾げた。
 彼は意図せず呟いたであろう言葉が、不思議と耳に残る。兄さん、だなんて親密そうな言葉。男には馴染みのない台詞だが、どうにも彼にはそれなりに馴染みのある言葉のようだ。
 違和感もなくすんなりと紡がれたそれに、男はぽつりと言葉を洩らす。

「…………私は貴方と血縁関係にあるのか?」

 ――そう彼に言えば、彼は一度だけ目を見開いてからぐっと口を噤み、軽く笑う。僕の兄弟に似ていたような気がして、つい――と、彼は言った。
 容姿が似ているということは確実にない話だろう。遺伝子が少しでも似ているというのなら、彼と男の髪は黒か金に染まっている筈だ。昼下がりの空のように青い瞳も、男は持ち合わせていない。
 男にあるのは赤が交じった黒い髪と、仄暗い赤い瞳。そして――視力が不自然に落ちた金の瞳だ。
 彼の言う「似ている」は恐らく雰囲気の話だろう。
 試しに男は問い掛けた。私とその兄弟はそんなに似ているのかと。シンクから彼に視線を動かして、何の気無しに彼の顔を見る。
 彼はほんの少し寂しげに微笑んで、「そうだね」と言っていた。

 ――その直後、遠くから扉を叩く音が鳴り響く。耳を澄まさなければ聞き入れられないほどの音で、男が振り返ってみても彼は「どうしたの?」と言うだけ。彼はノックの音だけでは来客に気が付かないようで、告げようか頭を悩ませていると大きな声が遠くから聞こえた。

「ハインツくーん! あっそびーましょ!」

 耳障りだと思えるほど高いような女の声。ハインツ、というのは彼の名前に当たるのだろう。エントランスから遠く離れたキッチンにも声は届いたようで、彼は鬱陶しげに表情を歪ませる。来るのが早いなぁ、と呟いて軽く上を眺めるものだから、男もまたちらりと視線を向けた。
 彼が見上げた先にあるのは壁掛け時計がひとつ。短針は六の数字を指し示していて、朝が早いことを思い知らされる。
 こんな朝から来客など何て傍迷惑な。
 ――そう思ったものの、口には出さずに再び彼の方へと顔を向ける。
 目覚めたばかりで、朝食を済ませたばかり。行くあてもなくこの家へと招かれたが、何をした方がいいのかも分からない。
 それでも、来客があるのなら邪魔にならないようにするべきだろう、と男は唇を開く。

「私は出て行った方がいいだろうか」

 そう呟けば彼は慌てた様子で首を横に振り、「出ていかなくていいから!」と咄嗟に声を張り上げた。
 そして気まずそうに視線を逸らしたあと考え込むような仕草を取ってから、男に提案を持ち掛ける。

「実は兄さんに会いたいっていう人達なんだ。折角だから客間で待っててよ」

 赤いソファーがあるところね。
 彼がそう言うものだから、男は頷いてから歩き始めたハインツの後を追う。
 「兄」と称する言葉には多少の違和感があったが――、男は気にせずに彼の言葉に従うことにしたのだった。


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