黒の記憶3


 世話になりっぱなし、というのは男の性分が許さなかった。
 屋敷に来て数日。目を覚ましてから男は好きなように呼ばれるまでに至った。呼び名は「兄さん」或いは「クロちゃん」――顔面美人男は流石に呼ばれていない――。時折男の方へ視線を投げながら何かを呟いている様を見掛けるが、肝心の男にはそれが聞き入れられないようだ。やむなくそれぞれ男を指し示す呼称を口にしているが、どうにも不服そうな顔が目立つ。
 そんな男は特に周りを気にする様子もなく、何食わぬ顔で日常を送っていた。朝に弱いのか、起きて早々は反応が返ってくることは少なく、時間を置いて次第に家主へと話し掛けるようになる。リーリエやマリアは定期的に屋敷へと赴いて、男との会話に花を咲かせた。
 家主であるハインツは非常に優秀で、家事全般をこなせるほどの力量を持っている。その為か、ここ数日男は彼に料理や家事を習っているのだと告げていた。慣れない料理は加減が分からなかったが、どうにも呑み込みの早い男は数回繰り返した程度で、すぐに「完璧」とも言える料理を作れるようになった。
 試食をするハインツが「美味しい」と言う度、男の表情が僅かに綻ぶ。ただ、その繰り返し。
 流石に教えることはもうないと思ったのか、リーリエやマリアの会話に入って、彼はレシピ本を男に手渡した。男はたった一言だけ礼を言うと、何の気なしにレシピ本を開いて中身を見る。
 思ったよりも分厚いと感じてしまった原因は、恐らく副菜や主菜、デザートに至るまで多種類のものが記載されているからだろう。最早鈍器と言っても差し支えないのでは、と呟いたのは、男ではなくリーリエだった。

「レパートリーを増やしたくて買ったやつなんだけどね。結局あんまり見てないからあげるよ」

 軽く頬を掻いて、ハインツは呟く。興味深そうにじっとレシピ本を見つめる男の周りに、女達が歩み寄った。パラパラとページを捲る男の隣で「あれがいい」や「これ美味しそう」だの指差して笑う。それを見て、男は小さく頷いて角を折った。
 ――ふとマリアが思い出したように呟いた。

「そう言えば貴方、甘いもの大好きよね? デザートなんて作ってみたらどうかしら〜」

 花を咲かせるように一層深く微笑んで、マリアが男の肩に手を置く。
 甘いもの、と同じ言葉を繰り返して男はいくつもページを捲ると、煌びやかな写真と共に作り方が詳細に書かれたデザートのページへと辿り着いた。パンケーキやドーナツ、ホールケーキを始めとしたいくつものケーキの他に、簡単な材料を使っただけの手軽なデザートが現れる。
 それを見て、男は興味が湧いたようにじっとそれを見つめていた。

「食べるならどれがいいかしら〜」
「ここはやっぱりお酒に合うものがいいわ〜」

 きゃあきゃあと声を上げながらレシピを見る女達に男はレシピ本を差し出して、そっと席を立った。明るい声が傍で聞こえてくるのが嫌だったのか、単純に選ばせてやろうと思ったのかは分からない。その足でハインツの傍らに立つものだから、彼が苦笑を洩らしながら「煩かった?」と言った。
 男は首を小さく横に振るが、表情からは確かに感情が溢れている。目は口ほどにものを言うとはよく言ったものだ。
 ほんの少しだけ溜め息を吐いて、ハインツは男の黒い髪に軽く触れる。

「もう少しで腰に届きそうだけど、髪を束ねたりしないの?」

 毛先を指先でいじりながら彼は男に訊ねる。軽く顔色を窺うように覗き込めば、男は小さく首を傾げながら悩むような素振りを見せて、「どうだかな」と一言。
 結ぼうにも不思議と気持ちが湧き上がらない。切ろうにも切る気持ちもない。手入れに対して面倒だと思う気持ちなど、少しもない。
 当面は何もするつもりはないと男が告げると、彼は手を離しながら「そう」と言った。ほんの少し寂しそうに笑っている所為か、残念そうに見えるのは気のせいだろうか。
 三つ編みとかひとつ結びとか、もし邪魔になったら言ってね、なんて彼は言って以来話をしなくなった。あまり深く触れたくはない話題なのだろうか――と首を傾げるも、男もまた軽い返事をしただけで済ませてしまう。
 彼らが何かしらの秘密を抱えているらしいのは、記憶がない男からしても十分に理解できている事柄だ。それを深く掘り下げてこようとしないのは、男の体を気遣ってのことだろうか。

 無理に思い出そうとすればするほど、頭の奥から警報が鳴るようにズキズキと痛みが迸る。
 頭の中が握り潰されるような感覚は、偏頭痛とよく似ている。それが、重要なことを思い出そうとする度に、緩急を繰り返しながら男を襲うのだ。
 記憶を失った原因は未だに解明されていない。もしかしたら、本当に初めから何も持っていなかったのかと思えるほど、過去の記憶が少しもない。自分の好みを少しずつ体が思い出そうとしている割には、名前はろくに思い出せなかった。
 名前がない、というのは男にとっても、彼らにとっても酷く不便なよう。

 何故だか唐突に罪悪感が胸に押し寄せて、男は思わず「すまない」と小さく呟いた。すると、彼は不思議そうに瞬きをしてから片目だけしか見えない顔を向けて、「どうしたの?」と問い掛けてくる。

「僕何かしちゃったかな」

 事を荒立てるような口調など初めから持ち合わせていない、というような言葉遣いで、ハインツは困ったように眉尻を下げながら笑った。
 そんな顔をさせたくないのだと思うが、生憎男の口からは言葉は紡がれない。微かに視線を逸らして小さく溜め息を吐くが――何の解決にもならなかった。

「なになに!? 喧嘩!?」
「あらあら、いけませんよ〜」

 ハインツの言葉に野次馬と化した女達がこぞって男の隣へと並んだ。検討違いの言葉に「喧嘩なんてしてないけど?」と彼が言うと、リーリエは「それはどうかしらね〜?」と意味ありげにほくそ笑む。

「この人の前で猫かぶりしてるんだから、いつか喧嘩したって可笑しくないわよ」
「ちょっとちょっと、何を言ってるの」

 リーリエの指摘にハインツは慌てたように否定をしたが、彼女の言うことも強ち間違いではないと、男は思う。
 日常を送る上で男が目を離している隙に、時折見え隠れする彼の本性がある。すっかり気を抜いた頃に髪を掻き上げ、大きく溜め息を吐く様は、強い疲労感を訴えてきているようにも見えていた。

 気配を消すことそのものを日常的に意識しているわけではないが、どうにも人間達からすれば男の存在は、霞のようにうっすらとしていて――認識がしにくいらしい。驚くことと、一時的に間を置いてから漸くこちらを認識したように「あ、」と言われることが常だ。

 それが、彼の本性を目にすることができた理由でもある。

「…………特に気にしていない」

 未だ口論を続ける彼らに対し、男はぽつりとひとりごちた。誰に聞かせるわけでもない、何の変哲もない独り言のつもりだったが――男の言葉に、ハインツが「そうだよねえ!」と声を張り上げる。

「ほら見ろ! 兄さんはこの程度で人間に失望するような性格の人じゃないから!」
「言葉ではそう言うけど実際は分からないでしょ〜!」

 本心なんて言ってくれないんだから――なんて口を滑らせてから、リーリエは咄嗟に口を隠して恐る恐る男を見た。何か決定的なものを言ってしまったようだが、生憎男はその理由が分からない。ほんの少し怯えるような様子の赤い瞳に、男は小首を傾げる。

 本心を隠してきたり、嘘を呟いたことがあっただろうか。
 ――必死に記憶の糸を手繰り寄せるが、男が覚えている間で本心をひた隠しにしてきたような覚えはない。せいぜい女達の高い声が煩わしいだとか、日の光が眩しくて目が痛むだとか――そういった小言程度。
 そんな愚痴を吐いたことはないが、何らかの不満など、居候している身で特別抱いたことはない。

 ――とはいえ、それすらも「今現在は」という話なのだが。
 それでもリーリエは安心したようにほっと胸を撫で下ろして、漸くハインツとの口論をやめた。
 その代わりに踵を返し、男の元へと駆け寄ったと思えば、携えていたレシピ本を男に見せる。

「私こういうの食べたいかも!」

 そう言って指し示したのは、ガラス容器に入った半球のバニラアイスと、上にブランデーがかかった手軽なデザートだった。
 こんなものにまで酒を求めるのかと、男は呆れたような溜め息を吐く。隣ではハインツですら額に手を当てて、「またそういう……」と小さく呟きを溢した。
 僅かに黄色みがかった白に、チョコレートの色が上にかぶさっている。薄い四角形のチョコレートを軽く差し込み、お洒落に飾られたそれは、確かに美味そうだと思えた。大して手間は掛からなさそうだが、リーリエはこういったものが好きなのだろう。
 対するマリアは「私は人生で一回でいいからこういうの」と言って、爪が綺麗に整えられた人差し指を当てた。それは、沢山の食材をふんだんに使ったであろうパフェの一種で、こんなものも本に載せるのかと思えるほどの大きさだった。

「これ絶対レストランとかで食べるやつだよね」

 柔く微笑むマリアが食べたいというものが気になったのか、脇から覗き込むように顔を見せたハインツが呟く。ウエハースにチョコアイス、バニラアイスにバナナとココアボール。プリンなんてものを一番上に載せて、小さなミントを飾った大きめのパフェだ。
 彼の言うとおり、本に載っているパフェは随分と大きく、家庭で食べるには少し大きすぎるほど。そんなものを食べてみたいなどと言うものだから、見た目にそぐわない彼女の好奇心に男は「ほう、」と呟いた。

「そうだな……こういうのも作るのは悪くないな。甘いものが好きらしい私自身が、甘いものを作れるようになれば、なかなか融通が利く……」

 じっとレシピ本を見て、男は考え込むように口許に手を当てた。流石にマリアが言う大きなものを初めから作るわけではないが、いつか作ってみたいと言わんばかりの口調だ。男もまた彼女のようにパフェを一人でがっついて見たいと思っているのだろう。

 その後も彼らは本を見ながら会話に花を咲かせていた。
 初めて作るものは簡単なものにしよう、と間を割って入ってきたハインツは、パンケーキを指差して笑う。
 リーリエは男の成長速度を考えれば、小難しそうなものもすぐに取り掛かれると、真っ直ぐな目で男を見ていた。
 マリアは服装からして日頃から教会に滞在しているようで、「子供達が食べられるものを作ったら分けてもらえる?」と彼らに問い掛ける。結局のところ、材料費はハインツが持つことになっているのだから、男に決定権はないのだ。
 問い掛けられた男はちらりと横目でハインツを見やる。彼は特に費用の話をしたことはなく、特別苦だとすらも思っていないよう。その証拠に軽く瞬きを繰り返してから、「兄さんが許可をしたらいいんじゃないかな」とだけ言って、匙を投げるように男を見た。
 この家は裕福なのだろう。
 ほんの少しの疑問が男の胸に募るが、それを抑え込んで男はマリアに向かって小さく頷く。「出来が良ければ」と呟くと、彼女は両手を合わせて「有り難う!」と言った。その隣では羨ましそうに唇を尖らせるリーリエが「私にも分けてよね」と言い始める。
 彼らの口振りは、男なら失敗することなどないと言わんばかりのものばかりだった。
 それほどまでに過去の自分は「完璧」だったのか、考え込むと頭の隅が小さく痛み始める。

 自分は、彼らの記憶の中にある「自分」と、全く同じ存在になれるのかどうか――不安で仕方なかった。

 ――そう意識を奪われている最中、ハインツが徐に席を立ち、背筋を伸ばし始める。

「さて……買い出しにでも行こうかな」

 そう言って気怠そうに頭を掻いて、乱れた髪を手櫛で直す。その言葉に男が「付き合おうか」と立ち上がろうとするが、彼は首を横に振った。

「今日は日差しが強いからやめた方がいいよ」
「……だが……」

 彼の言葉に男が渋っていると、女達が代わりに立ち上がって名乗り出た。「ちょっとくらいなら手伝えるわよ」と胸を張って、リーリエが言う。
 彼らは男がどうにも眩しいものに対して体が慣れないと知っているのだ。今日の日差しはやたらと強く、男が日の下に晒されれば倒れかねない。――そういった懸念がある。
 それらを踏まえて、彼らは男に対して家にいろと言い張るのだ。

 光が嫌いだというのは、外に出るという点においては酷く不便だった。世話になりっぱなし、迷惑を掛けっぱなし――そんな状況下にいる自分が酷く許せなくて、家のことは率先して手伝うようになった。初めは掃除、次に洗濯。ハインツと男以外の住人はいないが、妙に広い屋敷と片っ端から掃除して、埃を残さずに洗濯へ移る。
 ――たったそれだけのものでも、彼は助かると笑っていた。
 ならばもっと、家と家主の為になることをしよう。その方が見合ったものを返せるだろう。
 そんな考えから家事全般を手伝うようになったが――やはり、外に出られないというのは不便でしかなかった。

 ほんの少し不満げに表情を曇らせる男を見かねて、彼らはこぞって顔を見合わせた。
 そうして軽く笑い、皆一様に同じような言葉を呟く。

「じゃあ今夜は兄さんに料理を作ってもらおうかな!」
「いいわね〜、私も頂いてもいいかしら?」
「これはこれはお酒とおつまみも必須ね〜!」

 和気藹々と話す彼らに対して、男は小さく笑ってしまった。

◇◆◇

 外へ出て、女達を連れて彼は街への道を歩く。屋敷に置いてきた男は小さく手を振って、扉を閉めて部屋へと戻る。
 その一連の流れを後目に、街までの道を歩きながらリーリエが紅を塗った唇を開く――。

「ねえ、あとどれくらい?」

 何の気なしに呟いたであろう言葉に、ハインツが僅かに歩みを緩めた。
 さあ、でも時間はないだろうね。そう言いながら彼は歩いて、女達が自分の両隣に並ぶのを待った。黒いドレスに、黒地がベースのシスター服。黙っていれば顔は整っている女達を両隣に置いていては、両手に花だとからかわれかねない。
 それでも彼は、話がしやすいように距離を詰めた。

「でも……あとは料理だけ。やっぱりあの人は『完璧』なままだよ。料理なんてすぐに覚えちゃってさ。僕らの――は、凄い人だよ」

 口角を上げて笑みを浮かべると、リーリエもマリアも満面の笑みを浮かべた。彼らにとって男は誇れるもの。記憶が無くとも、その事実は一切変わらない。彼らにとっての男は支えるべきひとつの存在だ。
 ――時間が足りない。そうひとりごちたのは紛れもないハインツ。歩みを進めながら街の入り口へと辿り着いたとき、嫌なものを見るような目でそれを眺める。

「嫌いだな、この街は」

 ぽつりと呟いた言葉に、マリアが「故郷なのに?」と訊ねれば、彼は頷いた。

「特に教会≠ヘ――今じゃないけど、ね」

 機嫌を損ねたかどうか。それを不安そうに確認した彼の表情はほんの少し、怒られるのを恐れるような子供の顔付きだった。
 気にしなくていいのよ、とマリアが言う。好き嫌いはその人の自由だもの――そう言って微かに片腕を擦り、ほう、と息を吐く。

「――何にせよ、私があんた達の代わりに面倒見てあげるわよ」
「……見てもらう、の間違いだろ」
「そうとも言うわね」

 辛気臭くなってしまった二人を他所に、リーリエは胸元に手を当てて言葉を放った。まるで「大船に乗ったつもりでいなさい」と言わんばかりの態度だ。彼女はろくに料理もできない女だが――、不思議と安心感が彼の胸に募る。
 ほんの少しの指摘の後、彼はくっと笑って肩を震わせた。

 残された時間が足りない。
 ――それでも、思い出に残せるようなものを作ろうと、彼は笑う。

 何を買おうか。そう問い掛けるハインツの言葉に、「お酒〜!」と二人の女の声が重なった。


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