終焉の目的


 ――ぺたり。絨毯が届かない床を素足で踏み締めるような小さな音が耳がいい男に届いた。
 夕食の準備のためにベストを脱ぎ捨て、シャツの上からシンプルなエプロンを着た男は音がした方へ振り返ると、「迷子にはならなかっただろうか」と小さく問い掛ける。
 目線の先には風呂上がりであろう青年が首元にタオルを掛けながら茫然と男を見つめていた。――いや、正確には広すぎるリビングのテーブルに用意された食事を、だろうか。
 出来立てであろう野菜をふんだんに使ったスープは温かそうな湯気を立て、食欲をそそるような見た目をしていた。柔らかな良い香りが部屋に行き渡っていて、どう見ても無表情の男が作ったとは思えないほど、出来がいい。
 「こちらへ」男がそう手招くと青年はゆっくりと足を進めて男の元へと近付く。そのときに髪に水が滴ったのを見たのだろう。男は何気なく立ち上がると彼に近付いて、首元に掛かっているタオルを手に取るや否や、彼の頭を洗ったときと同様に丁寧に拭き始めた。

「う」
「全く……ちゃんと拭かなければ風邪を引いてしまう。人間は脆いものだろう。特に、今の貴方では尚更だ」

 突然の出来事に彼は条件反射で肩を竦めたが、自分に害を加えるものではないと知るや否や、肩の荷を下ろしつつほう、と息を吐く。
 風呂になんて入ったのは何時振りだろうか――湯船の温度は彼にとって少し熱いほどであったが、体を十分に温めるには最適なものであった。自分の置かれた状況をほんの少し忘れるよう、浸かることに没頭していた彼であったが、やがて目眩を覚え、咄嗟に風呂から出たのだ。
 脱衣室には丁寧に折り畳まれた見慣れない服と、柔らかな肌触りの仄かに良い香りのするタオルが置いてあった。タオルを手に取ると傷付いた肌を包み込むような温もりさえもあるような気がした。
 見慣れない服の一式は恐らく男のものだろう。元の服は薄汚れていて酷く襤褸かった。折角体を洗ったのだ、用意されている服でも借りるべきなのだろう。
 そう試しに着てみた服はしっかりとしたものであるものの、やはり身長の差が大きく現れている。春先とはいえ、肌寒さを感じる夜だ。気遣うように用意された長袖のシャツは袖が長く、手のひらの半分程度が隠れてしまうほど。ほんの少し厚手の生地のスラックスは裾が床についてしまって、歩きながらでも床の一部が掃除されてしまうほどだ。

「…………あの……これ」

 頭を拭かれるのは幼少期以来だろうか――心地のよい眠気さえも覚えていると、彼は自分の着ている服が男のものであると思い出し、礼を言おうかと顔を上げる。
 目線の先には端正な顔立ちの、目も眩むような綺麗な目を持った一人の男――よく見れば睫毛は長く、唇は女のように柔らかそうで。「格好いい」と言うよりは「美人だ」と捉えるべきなのだろう。
 明かりの点いた部屋で漸く分かる独特な髪色――一見黒一色かと思えば、所々不規則に赤黒いメッシュのようなものが混じっていた。生まれてこの方見たこともない髪色であった。
 男は彼が服を微かに摘まみながらこちらを見上げていることに気付くや否や、「構わん」と呟いて徐に彼の手を引き、食事の前へと連れて歩く。近付くにつれて漂う香りは食欲をそそる筈なのだが、――彼はそれを茫然と見つめたまま空腹を訴えようとはしなかった。

「貴方の好みが分からないのでな。適当なもので軽いものを作ったのだ。その様子を見るに、ろくなものも口にしてこなかったのだろう?…………むやみやたらに固形物を口にしろとは言わんが、少しくらい食べて欲しい」

 男は彼の体付きを見て現状を把握したと言うのだ。成人男性と同じような体だというのに、どこか痩せて頼りない見た目をしている。微かに頬は痩け、無気力な瞳はより一層弱っていることを裏付けているようにしか見えなかったのだ。
 その様子は見るに堪えないと言うように男は首を軽く横に振った後、椅子を手前に引いて青年を半ば無理矢理座らせる。抵抗の遺志はないが、大人しく従うとも言い難い力加減で、座るときは恐る恐るといった様子で座った。
 柔らかな素材は長時間座っていても痛まないよう、使用者の体を考えて素材を使っているようだった。今までに味わったことのない感覚に無意識ながらも感動を覚えていると、男が「食え」と催促をしてくる。

「………………これは……」

 これは食べ物かと言いたげに彼は男の顔を見た。男は彼の行動に瞬きを二、三繰り返すと「野菜を使ったスープだが」と口を洩らす。

「…………野菜は嫌いだったか?」
「……そうじゃない…………」
「……固形物の方が望ましかったとか……」
「………………それは……尚更食べようとは…………」

 そう呟いた後、彼は話す気がなくなったのか、口を噤んで両の手を膝の上に置いたままじっとその料理を見つめていた。
 「適当」で「軽い」という言葉で済ませてしまうような出来の料理ではないことは確かだ。何せ、スープの中にある人参は何故か花形に整えられており、見た目も楽しめるようなものになっているからだ。
 多少体を見ただけでろくなものを口にしてこなかったのが分かると言うほど、見窄らしい見た目をしているつもりはなかったが、いかんせん食欲という食欲が湧かない以上口にするつもりは一切ない。そもそも彼は「奴隷」として非道な扱いを受けたのだ。今更食欲など芽生える気がしなかった。
 食事という概念さえ忘れつつあるらしい彼はそれに手をつけることもなく、ただ水面に映る自分の顔を凝視している。
 酷く疲れたような顔付きをしていた。まともな睡眠すら摂れていない目元には薄らと隈が刻まれていて、乱雑に伸ばされた髪は似合うとも言い難いものだった。鎖や拘束が緩んだことによりいくら以前よりも活力が滲み出ているとはいえ、元の人格を取り戻せるほどの活力は全く感じられない。――食事を摂ろうなどという気力は一切湧かないのだ。
 それを知ってか知らずか、はたまた別の問題か。男は用意していた金のスプーンを手に取り一匙口へと運ぶ。ほんのり赤みを帯びた唇が微かに開いて、スプーンを迎え入れると舌の上で転がすよう、数回ものを噛むように口を動かして味を確認する。彼はそれを目で追って、ぼんやりと見つめていた。
 「…………良くないのか?」とまるで自分では料理の味が全く分からないと言いたげに首を傾げ、眉間にシワを寄せ始める。

 味が良くないわけではない。漂う香りからしてそれはそれは美味しいものなのだろう。だが、彼は単純に食べようと思う気がないのだ。
 ――しかし、男が口許へ運んだという動作を凝視する様を見る限り、決して興味が湧いていないわけではないようだ。それは端から見れば、食べ物を「食べ物」と認識する前の子供が、親の行動を見て「食べ物だ」と初めて認識する光景にも見えるものだった。

 ――不意に彼と目が合った男は瞬きをひとつ。その近さは目と鼻の距離だと言っても過言ではないだろう。「――すまない」そう言って男はスプーンを置き去りにそそくさとその場を離れると、青年から見て向かいの席の椅子を引いて、小さな溜め息を吐きながらそこに座る。
 飾り気のないエプロンを外しながら溜め息を吐く様はまるで主夫のようで、自分は何をしているのだと言いたげな溜め息は男の表情からすれば怒りにも捉えることができた。
 多分きっとこれは良くない――彼は咄嗟に皿に残された金のスプーンを手に取ると、半透明な液体を――極少量であるが――掬い、口の中へと差し入れる。ころころと口の中を回る野菜の旨味がどこか溶け出しているような優しい味をしていた。

 男は無愛想であるが、特別無口というわけではなさそうだ。見た目とは裏腹にやたらと可愛らしいものが見え隠れしているのだから、根は違うのだろう。スープの味は優しく、濃すぎず、彼は何かが満たされるような心持ちでほぅ、と吐息を吐く。
 ――しかし、彼はその一口を口にしてからろくに食べようとはしなかった。確かに美味いと感じるのだが、妙な抵抗感が食事の邪魔をしてくるのだ。
 向かいに座る男はそれに気が付いていながらも咎めることはなく、「話をしよう」と椅子の背凭れに寄り掛かる。

「…………」
「……食事をしながらする話ではないのだが――、何も話さないのでは『貴方に手を出さない』という信頼を得られんからな……」

 男の椅子に座る様子は青年から見ても一風変わった雰囲気をまとっていた。テーブルの死角で足元は見えないが、「足を組んでいる」と思わせてくるように腕を組んでいる。黒い手袋を外した素手は白く、爪は黒一色に彩られていて、まるで格の違いをまざまざと見せ付けられているようであった。
 例えるならゲームにでも出てくるような魔王や、ボスのような風格が目の前にはあって、青年は思わず肩に力を込めてしまう。
 「そう固くならなくて良い」不意に男がそう呟く様を見れば、他人から見てもあからさまに緊張を抱えたのが目に見えたのだろう。「……はい」なんてぎこちなく、恭しく彼が呟いてみれば不思議と男は悲しげに目を伏せたような気がして――しかし、それも一瞬だと言いたげにふ、と目線を戻す。
 一口以来まるで手をつけようとしない食事。恐らくろくな「食事」にありつけなかった所為で拒食症の一歩手前にまで来ているのだろう。柔らかく煮込んだ筈の野菜がころころと無惨に転がっているだけで、湯気は少しずつ薄まっているような気がした。
 ――無理を強いることのない男は、青年が手をつけないことに微かな寂しさを胸に募らせながら、「自己紹介でもしようか」と呟く。

「……とは言え、貴方は日中私の名前を聞いたとは思うが」

 男は腕を組んだまま呆れるように目を閉じて溜め息がちに言葉を洩らす。名前――それに彼は思う節があって、けれどそれが「名前」として扱えるのかどうか判断できないまま、男が口を開く。「念のため、そして知ってもらうために名乗ろうか」と。
 そう再び目を開いて青年を色の違う両の目で見据える。

「……私の名は終焉の者=v
「…………終焉の者……」

 終焉の者――そう呟いた男の言葉を真似るよう、青年は言葉を繰り返し呟いた。それは、昼下がりに耳にした異名そのもののように思える。復唱すれば男は「そうだ」と言葉を返して、再び話を続けるために唇を開いた。

「終焉の者=\―もとい、終焉(エンディア)≠セ。それ以上でもそれ以下でもない」

 エプロン姿の男――もとい、終焉は自らを淡々と語り続けた。随分と青年に分かりやすく、青年がゆっくりと咀嚼して状況を呑み込めよう静かに。

 ――街の名前はルフラン。活気と笑顔に満ち溢れた閉鎖的な街だ。外は沢山の木々に囲まれており、むやみやたらに外に出てしまっては命の保証はできないとされている。
 ルフランがやたらと閉鎖的であるのは、この街に着く前に街を囲む森で迷うからだと推測される。稀に余所者が無事に街に辿り着けることがあるが、大抵が青年を連れてきた商人≠ニ同じような輩だ。閉鎖的であるルフランに新たな文化を与えるように、誰もが飽きることもなく訪れてくるのだ。
 ――そして、街に夜が現れると決まって別の顔を見せ始める。それは、人は疎らになり、街の明かりがポツポツと灯る頃に見えてくるものだ。
 それこそが、日中に出会してしまった売買――奴隷を売る商人≠ニ、奴隷を買う人間が集まる集会にも似た人身売買が始まる。どこからか連れてきたのか分からない傷だらけの「売り者」と、好機な眼差しでそれを見つめながら嬉々として買い求めていく「客」――。そして「売り者」を宣伝し続ける「売り手」からなる商売だ。
 終焉はそれを何度も何度も見ては期待外れだと言わんばかりに静かに立ち去って、街から離れた広い屋敷に帰っては眠るという生活を送っていた。自分が何であるか、何故教会≠ニ呼ばれる人間達に攻撃的な態度を取られるのか頭の中で整理を繰り返しながら。
 終焉の者=\―そう呼ばれたのは何時からだったかまるで記憶にない。頭の中に刷り込まれたように、初めから名前として存在していたかのように他人ではなく自分でさえも己を「終焉の者」と名乗り始めたのだ。
 それが「名前」として成立していないのは知っている。しかし、本来の名前がこれっぽっちも思い出せないのだから、自分を終焉(エンディア)と呼ぶしか他ない。
 そして、何時しかそれは別の意味を孕むようになったのだ。

「『世界を終焉(おわり)に導く者』――何時からかそう呼ばれ始めたと同時、教会≠フ奴らが姿を現したのだ」

 「もしかしたら初めから存在していたのかもしれないが」終焉は確かにそう呟くと、青年の目の前にあるスープの入った皿に手を伸ばし、徐に自分の元へと引き寄せる。既に冷めきってしまったであろう野菜の旨味が滲み出たコンソメスープだ。皿の縁に凭れ掛かる金のスプーンを手に取って何気なく口にする様は、絵になるような丁寧さを醸し出していた。
 眉目秀麗とは目の前の男のことを指すのだろうだろう――。
 指先や動作ひとつ取っても完璧を体現したかのような振る舞いに彼は目を奪われると同時、不思議と終焉が口にしているものが美味そうに見え始めてしまう。
 先程口にしたものと同じ筈なのに、目の前にあったときとは全く違う見た目を――味をしているように思え、再び抵抗感が消えたと思えば、食欲のようなものが顔を出してくる。口の中へ運ばれる料理――もう一度味わいたいという妙な意欲が湧いてくる――。
 ふ、と終焉の目が彼を捉えた。獣のように鋭く、体を射抜くような感覚に陥ってしまうような視線。青年は思わず体を強張らせると、終焉は「……欲しいのか?」と不思議そうに首を傾げながらスプーンで皿を軽く鳴らす。カン、と小さく打ち鳴らされたその音はやけに耳障りで、「いや……」と咄嗟に否定するが――終焉は体を起こして向かいの青年にスープを掬ったスプーンを差し出してみる。

 単なる好奇心だった。自分が口にする度にやたらと物欲しそうにする青年が気になったのだ。

 それは端から見れば、やはり親の食べるものを見て食事を学習する子供のようで――一言で語れば、そう――面白かったのだ。無気力の筈の瞳がほんの少し輝いたように見えて、興味を持たれたことが面白かった。
 終焉の行動は青年にとって予想外の出来事であった所為か、一瞬だけ体をびくつかせると差し出されたものを凝視して、やがてゆっくりと口を開いてスープを口にする。
 先程口にしたものとは違って温もりなど微塵も感じられなかったが、味は相変わらずで旨味が身に染みる。一言で言うなら「美味い」という言葉が似合った。固形物は体が拒絶してしまうと思ってか、終焉の差し出すそれには野菜が乗ることはなかったのが幸いだったと言えるだろう。
 ある筈のない固形物を噛み締めるようにもごもごと口を動かしている様は味わっているように見えて、作った側である終焉にとってこれ以上のない喜びだっただろう。相変わらずの無表情であるが、ほんの少し口許が笑ったような気がした。

「……さて、話を戻そうか」

 やたらと上機嫌になった――ように見える――終焉は皿とスプーンを置き去りに再度椅子の背凭れに体を預けると、身を守るように静かに腕を組み始める。まるで彼を警戒しているような仕草に微かな疑問さえ抱いたような気がしたが、青年は先刻の「世界を終焉に導く者」という言葉が気になって、あの、と口を溢す。

「……世界を……って」
「…………やはり気になるものなのか?……まあ…………これが理由で周りに嫌な目を向けられることが殆どだからな……」

 何気なく瞬きを繰り返した終焉は口元に手を添えて、「貴方は世界に終わりが来ると思うか?」と問う。
 世界の終わり――唐突に紡がれた言葉に彼は理解に苦しむよう、微かに眉間にシワを寄せる。

 世界の終わり。あまりにも規模が大きすぎて想像しようにも全く想像ができないもの。一口にそう言われても非現実的すぎて「馬鹿にしているのか」とこちらから問い質したくなってしまうものだ。
 ――しかし、終焉の表情は至って真面目で、世界の終わりは必ずやって来ると言わんばかりの目を向けていた。――いや、「この世界は終わるぞ」と呟いた。

「信じられないのも無理はない。だが、有り得る話だと思わないか。魔法があれば、人智を超越するかのような力を持った存在も現れることもある。――実際、貴方もそうだろう」

 貴方は常人とは違うだろう――男は彼の目を見て確かに言った。常人であれば「白目」と呼ばれる目の部分は名前の通り白で彩られているのだが、彼はまた違う。常人とは異なり真反対の色――つまり黒に彩られているのだ。おまけに瞳の色は紫と金が同じ場所に存在している。
 見た目で分かってしまうほど、彼は稀に見る人間であるのだ。
 実際に自分以外の人間を見たとき確かに思っていた。人間とはここまで差ができてしまう生き物なのかと。
 「故郷では当たり前だった」――確かにそう呟けば、当然だろうな、と男は呆れるように呟く。故郷では同じような人物しか居ない――当たり前のことであったが、今となっては同族がやたらと恋しくなってしまう――。
 微かに伏せられた目を見て、終焉は「話を続けるが」と徐に口を開く。相変わらず手もつけられず、催促もされない透き通るスープを見て、食事への意欲があるのかも分からないまま「この世界は終わる」と再び呟く。

「――私が終わらせる。街も、国も、海も光も、全て腹の中に収めるのだ。ああ……世界は美味いぞ、ノーチェ」

 彼の背筋に何か恐ろしいものが這ったような気がした。彼は半ば反射的にテーブルを叩き付け、椅子を倒して立ち上がる。向かい側に座る男は無表情だと言うのに、恐ろしい笑みを浮かべたような気がして、異様な寒気を覚える。――と同時に、確かに聞いてしまったのだ、名前を。
 ノーチェ――終焉の口から紡がれたその名前は確かに青年のものだった。夜を瞳と名前に持つ男。目元に三つほど並んだ逆三角形の模様と反転目が何よりも特徴的な、奴隷として売りに出された男。
 商人≠ナさえも彼の名前は知らなかったというのに、目の前の終焉の者と呼ばれる男は何故だか前から知っていたかのように平然と口に出していた。

「…………名前……何で…………」

 咄嗟に出た言葉がそれだった。自分は一度も名乗った記憶はない。況してや、男とも過去に出会ったこともない。
 ――しかし、終焉は驚きもせず反省するような顔も見せず、ただ「やはりな」と呟いて青年――もとい、ノーチェと目を合わせる。
 男は言った、「私は知っている」と。「私は私≠ナある前から貴方を知っている」と――。その表情は先程の無表情なものと比べるとどこか寂しげな色を湛えていたが、ノーチェにはそんなものを気に留められるほどの余裕はなくなった。
 ――元より余裕など初めからなかったのだが、不気味とは言い難い、不信感のようなものを胸の内に抱えてしまう。
 こいつは一体何が目的なのだと、警戒音が頭の中に煩く響き渡った。こちらは男のことなどこれっぽっちも知らないと言うのに、男はこちらのことを十分理解したような口振りをしているのだ。
 ――いや、思い返せば態度や振る舞いからも滲み出ていたのだろう。

 「野菜は嫌いだったか?」と部屋に招き入れられたときの発言はまさにそうだった。特に何かが好きと言ったわけではないが、何かが嫌いだと言った覚えもない。それなのに終焉は「野菜は嫌いだったか」と訊いた。「何か他の好みは把握しているが、野菜の好みは把握していない」と言いたげな口振りで訊いてきたのだ。
 一番に気になるのは初めて出会ったときのことだろうか――。
 全くもって興味のなかったノーチェではあるが、目を合わせたときの終焉の顔を何気なく覚えている。まるで見たくもないものを見てしまったかのような――、どうしてここに居るのか問い質したくなったかのような目をしていたのだ。
 極め付きは抱き寄せられたときの発言だ。「貴方を許せる」――と確かに言っていたのだ。
 男は何かを知っている。しかし、こちらは男の全てを知りはしない。その事実が妙な気味悪さを胸の内に募らせていて、思わず「気持ち悪い」と小さく呟いた。――本人の前で呟いてしまったのだ。

「…………気持ち悪い、か」
「あっ……!」

 小さな呟きの筈だった。だが、男の耳はそれを拾ってしまったようで、復唱された側のノーチェは心臓を掴まれてしまったかのような寒気を覚えてしまう。
 息が苦しい、心なしか部屋の中が寒くなったような気がする。やはり春と言えど夜になれば急激に気温が下がることもある。
 ――そんなものが原因ではないと頭の隅で理解しつつも、謝罪の言葉が出ないでいた。
 構わないよ、それで良い。――不思議と終焉の口から紡がれた言葉は優しく、見た目にはそぐわない柔らかさがあった。今までノーチェが出会ったときとは違って、手に取るような親切さが滲む男は、気持ち悪いと呟いた彼を許すと言うのだ。
 それに罪悪感さえ覚えたが、「寧ろそれぐらいが心地いい」と妙な感想を述べてくる。やはり、自分のことを知っていると言わんばかりの口振りでだ。
 思わず気になってしまった。「興味が湧いた」というよりは腹の中を探るような面持ちだった。

「…………アンタ、一体何が目的なんだ…………」

 胸の奥の蟠りがこの問いに対する回答で少しでも取れてくれれば、と思ったのだ。
 心中を焦りや不安が徐々に占めていくノーチェを他所に終焉は余裕綽々と言いたげな様子だった。
 ――しかし、終焉の答えは問い掛けよりも更に複雑で、より一層理解に苦しむものであったのだ。

◇◆◇

「片隅で悪いがこの部屋で十分か?」

 時刻は夜中の十二時を優に超えた後だった。風呂に入ってから話を終えるまでの間が妙に長く感じられるほどだ。
 「この辺で話は止めようか」と席を立った終焉に連れて招かれた部屋は、必要最低限の物しか置いていない一室。月明かりに照らされて心地好い仄暗さを保ついやに綺麗な部屋だった。寝具に机、本棚に椅子、カーテンまでも完備されていて、非の打ち所がないと言えるような部屋だ。
 「長い間使っていないからな。掃除はしているが、窮屈になったら教えてくれ」と終焉は言った。
 試しにノーチェは部屋に足を踏み入れるが、埃臭さなどこれっぽっちも感じられやしない。寧ろ新品同様の違和感さえ覚えてしまう。
 これのどこが窮屈だと言えるのか考えながら、ノーチェは脳裏に浮かんだ疑問を払うべく、終焉に問う。「俺が部屋をもらって良いのか」――と。

 本来彼は奴隷という対場であった。――いや、今の今まで奴隷という立場だったのだ。ろくな部屋を与えられなければ食事もまともではない。人間の態度が差別的なものであれば、奴隷であることを裏付けるように非道な扱いを受けることもあった。
 ――「そういう目」で見てくるような物好きも中には居たものだ。
 いつ死んでも可笑しくない状況下にあった。それでも未だ生き延びていられるのは、無駄に体の作りがいいからだろう。
 ――いつしかノーチェは死への欲求が高まった。このままで居るよりいっそ死んだ方が楽だろう、なんて。意欲を奪う特殊な首輪がついている以上、自分から死ぬなんてできやしないのだが――。
 ノーチェの問い掛けに対し、布団を整える終焉は一度手を止めたと思うと、彼に向き直り「勘違いするな」と溜め息がちに呟きを洩らす。

「私は貴方を『奴隷として買った』のではなく、『人間として攫った』のだ。そこら辺の人間と一緒にしないで頂きたい、と言った筈だが?」

 終焉の表情は相変わらず一切変わらないままの無表情だった。しかし、言葉の端に滲む怒りのような感情に思わずノーチェは「……すみません」なんて謝れば、終焉は自分の行いを反省するかのように頭を掻いて、「いや」と言う。
 私もやけになって悪かった、と。
 いやに気まずい空気が部屋中に蔓延る中、どう反応して良いか分からずにノーチェは立ち竦んでいると、終焉が手招いて彼を呼び寄せる。裸足のままのノーチェは呼ばれるがままに恐る恐るといった様子で終焉に近寄ると、不意に頭を撫でられる。

「…………?」

 あまりの突然の行動に彼は微かに目を丸くした。何せ、手付きが子供を愛でる父親のようだったからだ。
 見た目の威圧感など感じさせない割れ物を扱うような手は優しく、そして――あまりにも冷たかった。物語に出てくる雪女宛らの冷たさを湛えていて、驚きのあまり反応を忘れてしまうほど。
 ――ただ、一番驚ける要点とすれば終焉の表情が微かに和らいだことだろう。口の端が一瞬だけ上がって笑ったように見えるのだ。
 何故撫でられたのか理由は定かではない。――ここだけの話、殴られるのではないかと体を強張らせていたノーチェは拍子抜けするようにポカンと終焉を眺めていると、終焉は「寝てくれ」と寝具の端をぽん、と叩く。

「カビ臭かったら言ってくれ、明日対処しよう。今日はもう疲れたろう」

 笑っていたと思えば、途端に感情を失ったかのように無表情になる終焉に、ノーチェは手を引かれて寝具の上へと転がる。白いシーツに柔らかく使い心地のいい枕――程好い心地好さに包まれていると、布団が被せられる。
 「また明日」そんな言葉を置き去りに惜し気もなく終焉はノーチェに背を向けると、気遣うように扉を静かに開けて、音を立てないよう、ゆっくりと閉じた。

 月明かりが窓から仄かに差し込んでくる。不思議とそれは嫌いではない。外の野生の住人は殆どが寝てしまったのか、梟の鳴き声が微かに聞こえてくる。雑音さえ聞こえないのは街から離れた所にある屋敷だからだろう。
 ――それでも独りで住むにはあまりにも寂しすぎる場所だと思った。

「…………ベッド……」

 ベッドなんて何時振りだろう。そう言いたげにノーチェは布団を目深に被ると、ゆっくりと呼吸をする。カビ臭さなど微塵も感じやしない。寧ろ、干されたての布団の温かさがそこにはあるのだ。
 一体何を根拠に終焉は控えめに言っているのだろう――なんて考えてみたが、ノーチェは微かに瞬きをして、「関係ないか」と独り言を洩らす。
 先程のリビングでの会話が頭の隅で反響するように木霊して眠りを妨げているようだった。二、三瞬きを繰り返して終焉が告げた目的を何気なく思い返す。
 「一体何が目的なんだ」――そう告げたノーチェの問いに、終焉は余裕そうに呟いたのだ。

『――私の目的は貴方に殺されること』

 ――確かな口振りで終焉はノーチェの目を見て呟いた。一点の曇りもない真っ直ぐとした色違いの瞳だ。よく見れば薄暗さが窺える透き通る金と血のように赤い色に染められている。どこか見たくもないものを見てしまった、そう言いたげな瞳をしているのだ。
 何を言っているのだとノーチェは訊いた。正気であるのかと。――しかし、男は至って真面目に「正気だ」と言う。「正気を保ったまま貴方に殺されたいのだ」と言う。それを裏付けるように口振りも態度も先程と何ら変わらない。ただ違いがあるとすればノーチェが微かに戸惑いを覚えたことだろう。
 咄嗟に彼は「人が殺せてたらこんな目に遭ってない」と言った。人が殺せていたら奴隷なんてものにならず、また違った別の人生を歩んでいた筈だと。
 ――それを肯定するように終焉はそうだろうな、なんて呟いてノーチェが奴隷になった経緯を言及しようとはしなかった。まるで、何故そうなってしまったのかを知っているような様子だったのだ。
 それでも終焉は呟く、「貴方は私を殺す」と。

「……何で…………何で俺なんだよ……もっと、別の奴とか……」

 暗に「俺にアンタは殺せない」とノーチェが口を洩らすが、終焉が食い気味に――且つ断言する。

「他の人間では私は殺せない。貴方だからこそ、私を殺すことができるのだ」

 テーブルに残された半透明のスープが微かに波を打った。誰かが揺れた形跡はない。ただ、風が吹いたかのように微かに揺れたのだ。
 終焉の断言に反論を失いつつあるノーチェは、朧になりつつある頭で思考を巡らせる。奴隷として扱われ続けたノーチェはそれなりの理由があって死にたいと願った。
 死んでしまえば奴隷として生きることも、況してや蔑まれ暴力を振るわれることもないのだ。死んだ先に天国なんてものがあるとは思えないが、きっと今よりはマシなのだと思う。
 ――しかし、彼は終焉が殺されたがっている。現状、ノーチェから見れば男は遥かにいい暮らしをしていて、文句のつけようのない人生を送っているようなものだ。
 人間、生きている以上何があるのか、過去に何があったのかは分からないが、死に値するような者ではないと思った。自由を手にしておいて尚死にたいと願う終焉の思考が理解できなかった。
 そして気になったのは終焉の言った「貴方だからこそ」という言葉。奴隷として生きてしまっているノーチェだからこそ、自分を殺せると言うのだ。
 ――ノーチェが何度「殺せない」と言っても男はそれを頑なに否定し続ける。「貴方は私を殺す。それ以外は認めない」――なんて、子供のような主張をして。

「………………何で……俺だけ……」

 まともな話すらできやしないと判断したのか、ノーチェは先程と同じ問い掛けを繰り返す。
 仮に殺すとしても、何故他の人間が終焉を殺せないのか。自分の否定を否定する明確な理由が欲しかったのだ。それなら少しは納得できる筈だから――。

「貴方を愛しているから」

 無表情を貫く男が紡いだ言葉。愛している、と聞く者が居ればくさい芝居か何かかと思ってしまうほどだろう。
 だが、終焉はやはり真面目そうに――いや、先程よりも遥かに真面目だと言わんばかりにノーチェを見つめている。
 納得できると思った理由はあまり納得のいくものではなく、拍子抜けしたように「え、」と呟きを洩らす。その口振りはやはり彼のことを以前から知っていると言いたげだ。もしかしたら自分は以前に会っていたのかも知れない。
 ――そう思いたかったが、ノーチェの記憶には男のような黒い長髪に赤と金のオッドアイを持った人物など心当たりがない。
 男の肌は女のように白く、露わになっている爪は髪のように黒く、よく見れば所々赤いメッシュが混じる黒い髪は一本一本が繊細な流れを作っている。始めに言った通り、「格好いい」と言うよりは「美人」という言葉が似合いそうな人物だ。
 そんな男を見れば嫌でも忘れられそうにないのに記憶にないということは――恐らく、一度も出会ったことがないのだろう。
 しかし、終焉の呟いた「愛しているから」の一言が嘘であると俄には信じ難い。
 愛しているから男はわざわざ白昼堂々彼を攫ったのだろうか。愛していなければ手を出すこともなかったのだろうか――。

「――ノーチェ」
「……!」

 ノーチェは無意識に握り締めていた拳をパッと開きながら肩を震わせた。気が付かない間に考えに耽っていたようで、いつの間にか止まっていた呼吸をゆっくりと繰り返す。
 思考を巡らすことに陥っていた、というが、彼の感情の無さも男のものと同じようで。一口に「驚いた」と言われても誰も気付かないだろう。
 彼はゆっくりと口を開いて「何」と言った。決して無愛想に振る舞っているわけではないが、感情が言葉にこもらないのだ。何時しか終焉は彼の愛想の無さに嫌気が差して嫌悪を抱くかもしれない。

「もう夜も遅い。話をしすぎたな、部屋に案内しよう」

 ――そう言って案内された部屋がノーチェが今使っているものだった。終焉曰く「一度も使っていない部屋」らしいのだが、今日という今日を想定していたように揃った家具も、しっかりと手入れが行き届いている寝具も、使っていない部屋にしてはあまりにも綺麗すぎた。まるで終焉自らひとつひとつ丁寧に物を扱っているように。
 未だ太陽のような心地に身を委ねていると、何時しか忘れかけていた眠気が波のように押し寄せてくる。夜の静寂の中に響く梟の鳴き声が子守唄のように聴こえ、ゆっくりと落ちてくる瞼に抵抗を見せることなく、目を閉じる。
 今日まで色々な事がありすぎた。眠れるなら眠れるだけ眠ろう――。

 ――遠退く意識の中、不意に耳が何かが割れるような音を聞いた気がした。


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