夜と黒と訪れる悪戯


 夜道を歩くこと数十分。月が高く昇り始めて、足元の地面を淡く照らす。屋敷が見えてくるまでほんのり雑談を交えながら歩く帰り道は、行きよりも遥かに短く思えた。
 欠けた月が綺麗だとか、月明かりの下だとノーチェの髪が輝いて見えるだとか、終焉は月のことばかりを話題にしてくる。それは、恐らくノーチェがニュクスの遣い≠ナあるからなのだろう。
 思えばノーチェの一族のことはあまり知らないな、なんて言って、終焉は彼の頭を撫でる。優しい手付きと僅かに綻んだように見える顔付きに、綺麗だなんて思ったのは秘密だ。
 あまり知らないだなんて、どの口が言うのだろうか。男は一族が物理か魔法に分かれることと、その力の便利さから奴隷一族であることを知っている。最早ノーチェ自身が教えることなど無いに等しい。
 どこか惜しそうに離れる手を目で追いながら、ノーチェは終焉の半歩後ろをついて歩く。
 夜に溶けそうなほど黒い髪が風になびく度に、髪質の違いを思い知らされる。ノーチェの髪は癖が強く、ところどころ跳ねているのだが、終焉の髪はまっすぐに伸びたままだ。髪の長さも関係しているのだろうが、今以上に長い自分の髪など想像もできやしない。
 これはきっと、生まれ持った天性なのだと彼は何気なくそれに触れる。
 一度終焉が不思議そうに顔を動かしたのが分かった。
 ――しかし、終焉は何も話すことはなく、ノーチェに触れられたままゆっくりと歩を進める。

 足取りが重く感じるのは、この時間を楽しんでいるからなのだろうか――。

「着いたぞ」

 夢中になって終焉の髪を指先で弄んでいる間に、屋敷へと辿り着いたようだ。不意に投げ掛けられた言葉にノーチェは肩を震わせたあと、咄嗟に髪から手を離す。
 腰よりも長く伸びた黒髪が物珍しかったのだ、と言い聞かせながら、終焉が屋敷の扉を開けるのを見守った。

 きぃ、と扉が開く音を聞きながら終焉の背中を見守っていると、ふと裾を引かれたような感覚がした。
 思わず後方へと視線を向けるが、動物がいる筈もなく。少しの気配もしていなかったのだから気のせいか、と思う頃に男が「入っておいで」とノーチェに呟く。
 「ん」なんて言葉を洩らし、ノーチェは屋敷へと足を踏み入れた。

「うっ……!?」
「――っ!」

 ――瞬間、ノーチェは足が縺れるかのように前のめりに倒れる。
 彼を招く姿勢で扉を開けていた終焉は、反射的にノーチェへと手を伸ばす。
 倒れた先に壁があるわけではない。反射的に前へと手を出しているが、片足先にある小さな段差に手をついて怪我をしかねない――。
 なんて懸念した矢先、ノーチェの腹部に終焉の腕が回される。咄嗟とはいえ確かに支えるために差し出された腕だ。思ったよりもしっかりとしていて、彼の体は床に叩きつけられずに済んだ。
 「大丈夫か」と呟かれる言葉にノーチェは「うん」と呟く。何事もなかったかのように彼を起こして、終焉は扉を閉めた。
 パタン、と音を鳴らして閉まる扉を後目に、ノーチェはほう、と安堵の息を吐く。下手に怪我をして男に心配されることがなくてよかったと、それとなく思うのだ。
 それはよかったと終焉は言葉を溢しながら靴を脱ぐ。冷たい風が吹いていた外よりも、屋敷の中は温かい。当然と言えば当然なのだが、その温かさが当たり前のように嬉しかった。
 彼も終焉と同じように靴を脱ぎ、丁寧に揃えて置く。何か違和感があったような気がして、何気なく躓いた足をそうっと撫でる。

 躓いた、と言うよりは、何かに掴まれたような気がして仕方がなかった。

 収穫祭の日には本物が交ざる――なんて言葉が不意に彼の脳をよぎる。夜ももう更けてしまって、空には雲と、星がぽつぽつと浮かんでいる。幽霊なんてものが出てくるには打ってつけの時間だ。
 ノーチェは特別幽霊の類いなど信じていなければ、怖いと思う節もない。最も苦手とするムカデが眼前に現れない限りは、平常心を保っていられる。
 ――だが、悪戯をするように体に直接手を出されるとなると、話は変わってしまう。
 ノーチェではなく終焉が。
 彼を大切にするあまり、ノーチェが何らかの原因で傷付くのを男は嫌がっている。万が一怪我などしてしまえばどうなるかは、彼にも分からないのだ。

 そうっと裾を捲り、ノーチェは自分の足首を見る。終焉と出会った頃よりも遥かに見た目もよくなった足には、痣や擦り傷などの外傷はない。
 ひとまず余計な心配は掛けさせないだろう、と思わず安堵の息が洩れる。ほう、と吐いて、ゆっくりと立ち上がってから終焉の後を追う。
 気が付けば男は音もなくリビングの方へと歩いていて、舞い上がる髪を軽く手で払っている。
 鬱陶しいなら切ってしまえばいいのに、なんて思いながら傍に駆け寄ると、「また転ぶぞ」と言葉を投げられた。歩いたことによる足の疲れでも懸念しているのだろうか。

「……転ばない、平気」

 終焉の言葉が自分を子供扱いしていることだと気が付いて、彼は思わず反論を口にした。無意識のうちに唇を尖らせて、終焉と共に部屋の奥へと向かう。リビングを越えた先のキッチンにある冷蔵庫を開けて、昼頃に作っていた洋菓子達を男は取り出す。
 夜なのに甘いものなど口にしてもいいのだろうか。
 ほんの少しの躊躇いと、葛藤。ノーチェの気も留めず、終焉は丁寧にラップしていたクッキーを食べて、舌鼓を打つ。相変わらずの出来映えに誇れるものがあるのだろう。満足げに目を閉じたあと、皿をノーチェに差し出す。
 食べてもいいよ、と言われているような様子にノーチェは迷った。迷って――そっと手を伸ばす。昼間に見た奇抜な色ではなく、ほんのりきつね色に近い、プレーンのクッキーだ。
 終焉ほどの甘党ではないが、やはり男の作る「甘いもの」は美味しい。終焉の手料理なら嫌というほど口にしてきたノーチェが、飛び抜けて美味いと思えるのが、俗にいう「甘いもの」だ。
 終焉自身が甘党だからなのか、それとも別の理由があるからなのかは分からない。
 しかし、他の手料理とは異なった拘りがあるのは、口にすれば分かること。一口頬張っただけで鼻を擽る香りと、口いっぱいに広がる芳ばしさ。時には花が咲くように甘味だけが口内を踊る感覚は、何とも言えないもの。
 流石の彼はそのまま食べ進めれば、飽きを覚えてしまうのが勿体無いところではあるが――。
 ――なんて思いながら頬張って、ふと終焉を見上げる。
 視線の先にいる男はノーチェがクッキーを口に入れたのを見て、彼に背を向けた。透明なラップを丁寧に巻き付けてから、洋菓子の盛り合わせを持ってキッチンを出る。
 何だか違和感があって、徐に終焉の後を追うと――不意に気が付いたのだ。

 甘いものに関しては、あまり美味しいか聞かれないのだ。

 余程の自信があるのか、それともまた別の理由か。生憎ノーチェには判断ができない。けれど、美味しいと思えるのだから、気に留める必要はないのだろう。
 もそもそと、口の中の水分がなくなるのを感じながら、彼は終焉の傍へと歩く。
 街を見に行く前に夕食と入浴を済ませた体は、少しずつ疲労を訴えてきている。重くなりつつある瞼に少しでも抗おうとするが、体の重みは寝具に横にならなければ取れなかった。
 「そろそろ眠ろう」――間違いなく終焉もそう呟く筈。夜も深い時間に煩く鳴った鐘の音から、もうどの程度時間が経ったのだろう。目を擦り、空になった口を大きく開けて、欠伸をする。
 目尻に涙を溜めながら、男に寝る意思を伝えようとした。
 ――そう気が抜けかけたときにまた、足が縺れる。
 ――いや、足首を思い切り掴まれたような気がした。

「わっ……!」
「――!」

 眠気覚ましにはいい刺激にはなったが、悪く言えば肝が冷えたというべきか。
 ノーチェの異変に気が付いた終焉は、手早く彼の方へと体を向けると倒れてきた体を咄嗟に抱き寄せる。未だコートを着ている所為か、普段よりも終焉の冷たさを感じなかった。
 無事か、と降り注いでくる声にノーチェは小さく頷く。それが男の体を伝わって、ノーチェの安否を確認できた終焉はほっと安堵の息を吐いた。

 安心をする終焉を他所に、ノーチェは僅かに顔を顰める。

 先程から頭を掠める違和感が少しずつ形になっているような、胸騒ぎが胸に募る。疲労にしては足と足が絡まるような感覚もないし、床や絨毯に躓くような失態もない。
 あるのはただ終焉に向かって転んでしまったという羞恥心と――、右足の奇妙な痛みだった。
 無事だと答えた手前、ノーチェは終焉に自分の異常を告げるべきかを悩む。
 ゆっくりと終焉の手で体勢を立て直され、頬に手を添えられて顔色を窺われるのも慣れてしまった。男の顔は相変わらずの無表情だが、その顔に心配の色が確かに見受けられる。赤色の瞳も威圧感はあるが、ほんの少し柔らかく見えるのだ。
 そんな状況で足の痛みを黙っていれば、終焉は何を思うだろうか。

「…………」

 じっと終焉の顔を見つめていると、終焉は不思議そうに首を傾げてノーチェを見る。何かを言いたげな彼を気遣って言葉を待っているようだが、ノーチェは何も言わずに視線を下げる。
 一思いに言うのが楽だとは思うが、告げたあとの面倒を考えてしまうと言葉が詰まる。喉の奥に塊が留まっているような気味悪さ。息が詰まるとはこの事だろうかと悩んでいると――終焉が、ノーチェの足元に視線を落とす。

「――捻挫でもしたか?」

 一目見ただけで何かを察したような言葉に、ノーチェは驚きすら覚えた。観察することに長けているのか、それともノーチェの様子から全てを把握したのかは分からない。
 彼はただ、その場に屈んでスラックスの裾を軽く捲る終焉の行動を見つめていた。

「――…………」

 ――ふと、温かかった屋敷の中が冷たい風に晒されたように、冷えたような気がした。
 思わず腕を擦り、寒いなどと声を洩らす。
 少しも動かない終焉の様子が気になって、腕を擦りながらノーチェは顔を覗かせた。終焉の頭があるが、軽く向きを変えてみれば足首も何とか見られる。
 動きを止めるほどの何かがあるのだと、彼は緊張の面持ちでちらりと見やった。
 ――そして、固まる。

 足首には薄く、青く、何かに掴まれたような痕跡が残っていた。

「ぅえ、な、何、これ……」

 先程まではなかった筈の痣に、ノーチェが目を丸くする。この屋敷には終焉やノーチェの他に、他の住人などいない筈だ。加えて彼らの足を狙って掴める人間など、近辺では見たことがない。
 そもそもの話、ノーチェが屋敷に来てから半年が経っているが、そういった現象などに見舞われたことがない。
 つまり、これを引き起こしたのは――、話に出ていた「本物」だ、という考えに至る。

 唐突に刻まれた足首の痣に背筋が凍る。先程から体感温度がどんどんと低下している感覚はあるが、それとは別の悪寒が背を這うのだ。
 それはまるで、自分の背後から寒気が押し寄せてくるようにじわじわと、追い詰めてくるようで――。

「……もう、眠ろうか」

 ――不意に囁くような言葉に、彼はハッと意識を取り戻す。
 言葉と共に終焉はゆっくりと立ち上がる。その度に、背中を這っていた悪寒が退くように、緊張の糸が緩む。
 緊張から変な考えをしてしまっていたのだろうか。ほっと息を吐く頃には妙な汗と、やたらと脈打つ鼓動が酷く気になった。下がる体感温度よりも、自分の異変に嫌悪さえ抱く。
 額や鼻の頭に滲む季節外れの汗を袖で拭い、ノーチェは「ん」と返事をする。足に違和感はあるが、痛みは引いていて、歩けるようにはなっているだろう。

 それよりも彼の好奇心を刺激したのは、やけに静かになってしまった終焉と、周りの空気だ。
 夏の季節には終焉の近くにいることで体温が下がる、という現象が起こっていた。屋敷内の体感温度が下がったような感覚は、恐らく男の影響で説明がつくだろう。
 ただ、夏場であった頃とは決定的な差があり、ノーチェは僅かに眉を寄せる。周りの空気がしんと静まり返るほどの感覚は、どこか懐かしささえも感じる。
 ――しかし、それが何なのかは、思い出せなかった。

 ゆるりと伸びた終焉の黒髪が、隠していた白い肌を露わにする。漸く表情が確認できると思った彼は、恐る恐るといった様子で男の顔色を窺った。心配か、それとも何かに対する憤りか。
 どの感情でも、ノーチェの身をやたらと案ずることには変わりはないのだろう。余計なお世話が再び降り注いでくるのかと思えば、ノーチェの気分が僅かに沈む。
 心配されることが嫌なのではない。ただ、それなりの限度というものがあるのだ。彼はそれを気にしていたからこそ、怪我を負いたくはなかった。一度怪我を負えば、執拗な介護がまたやって来るのだから。

 ――そう懸念していたのだが、それは杞憂に終わる。

 前髪の隙間からちらりと覗いた赤い瞳に、ノーチェの背筋が震えた。本能が逃げろと告げているのがよく分かる。――だが、足が動かないのもまた事実。
 この日、彼は初めて終焉が恐ろしいと思った。
 赤と金の瞳に宿るのは、明確な殺意。以前終焉がヴェルダリアと対面したときや、屋敷に商人£Bが攻め入ったときなんかとは比べ物にもならない。
 表情はないが、冷めた瞳の奥に強い怒りを湛えているのが分かる。
 普段の、獲物を狩るような鋭い眼光など、まだ可愛いものだ。
 ――そう思うほどに彼は男の殺意に押し負けていて、行き場のない手が服の裾を握り締める。
 頭の隅では分かっているのだ。終焉がノーチェに対して決して手を上げないことくらい。
 しかし、その理解を覆すほどの衝撃に――、彼の体が動きを止めてしまうのだ。

 終焉の顔を見上げたまま、ノーチェは微動だにしない。
 裾を握ったままの手には力が入り、爪が食い込んでいるのではないかと思うほど。数秒の間を置いて、忘れた頃にする瞬きの回数は格段に減っていて、彼の体が異変を訴えているのが見て分かる。
 ほんの一瞬、終焉と目が合った。大して長くもないそれが、数分にも及んだような錯覚を覚える。
 体の芯から凍らせてくるような強い怒りに、ノーチェは息を呑んだ。
 息を呑んで――ふと、何かを思い出しそうな気がしたのだ。

「あ……」

 俺は、これを知ってる。
 ――なんて思うと同時に、こめかみ付近がちくりと痛んだ。俗に言う偏頭痛と同じ、鋭い痛みだった。
 ノーチェが目を奪われている間、終焉は彼の隣を歩く。追い抜かし、扉の近くで立ち止まってから「おいで」と呟いた。
 声色こそ普段より低く、冷たいものがあったが、自分に危害を加えるものではないことは分かる。その証拠に今まで動くことをやめていた体は、枷が外れたように軽くなった。

「……ん」

 終焉の言葉に何も応えないのもどうかと思い、小さな返事を溢しながら終焉の元へと駆け寄る。視界の端――リビングのテーブルに、大皿に盛られた洋菓子の山を横目で見ながら。
 あれは何のために置き去りにされたのかを疑問に思いながら、ノーチェは終焉の後をついて行った。
 階段を上り、廊下に出てから洗面台に向かう。歯を磨いて用を足して、準備が終わったと男に告げれば、小さく頷いてから終焉がノーチェに与えた部屋へと歩く。
 この数分の間に交わされた言葉はなかった。後をついて歩くだけのノーチェですら、声を掛ける気にはなれずにいる。背中からも滲む強い苛立ちに、向けられている筈のないノーチェも体を強張らせてしまう。
 少しずつ恐れよりも緊張が上回ってきた頃、終焉が扉を開けるのが分かった。

「……今日はもう寝て、明日もまたいつも通り頼む」

 そう言葉を置き去りにするように呟いてから、終焉は部屋に足を踏み入れて布団を捲る。男の言葉に彼は返事を溢して、横になれと示す終焉に従って寝具に手を乗せる。
 ほんの小さな軋みのあと、横になって布団をかぶれば、終焉の目が漸く柔らかくなったように見えた。

 柄にもなく感情的になってしまったと男は呟く。それは、終焉にとっていいものではないからか、死ぬという事態には陥らなかった。死ななくてよかったと小さくぼやく表情は、あくまでノーチェの顔色を窺っているものだ。

 こんなときでもこの人は俺のことを考えるんだなぁ、なんて彼は思う。
 数ヵ月の日を跨ぎ、空だった本棚にいくつかの本を与えられる。何もなかった机には、退屈しのぎにと紙とペンなんて用意されて、身の回りが充実していく。
 ――どれもこれも全て終焉がノーチェの為に用意したものだ。
 男の言動は、ノーチェが中心に回っていると言っても過言ではない。そんな錯覚を覚えてしまうほど、自分を二の次にしているような印象を受けてしまう。

 ――この人にとって俺は、そんなに大事なのだろうか。

 自分が優遇される人間ではないと思う彼は、穏やかになりつつある終焉の顔を見て眉を顰める。その様子を見て、終焉は数回瞬きをしたあと、「どうした」と彼に問い掛けた。
 彼は、終焉が望むような回答を寄越さないことを、十分に承知しているつもりだ。
 例えば「どうしてこんなに優遇してくれるのか」と問えば、確実に「愛しているから」という辺鄙へんぴな回答が返ってくることが想像できる。
 それは、ノーチェが欲しいと思う返事ではない。聞けば彼は訝しげな表情を浮かべて、布団の中へと潜り込んでしまうのだろう。
 そんなことが起こらないよう、ノーチェは何を訊こうかと思案を繰り返す。直接的ではなく、回りくどい質問を投げても同じ返事が来そうで、酷く頭を悩ませてしまった。
 ――その分今まで何とも思わなかったそれが、やけに気になってノーチェは終焉の目をじっと見つめる。男は不思議そうに小さく首を傾げていて、たおやかな黒髪が僅かに揺れた。

 そもそもどうして俺のことを愛しているんだろう。

 どうして疑問にすら思わなかったのか。一度気になってしまったそれは、少しずつ存在を主張する。寧ろ何故今までに疑問に思わなかったのかが不思議なほど、彼の思考は終焉が向けてくる好意に埋もれていった。
 自分のどこが好きだとか、どうしてそんな感情を抱くのかだとか、いくつもの似たような疑問が次々と浮かぶ。その好意に何かを返すべきなのか、応えるべきなのか、正しい選択を選んでもらおうかと問いを選ぶ。
 男にとって「好き」と「愛」の違いさえも訊いてしまおうかと、唇を開いて――ふと、言葉を詰まらせてしまった。

 暗闇に慣れた夜の瞳が終焉の向こうを見つけてしまう。
 満たされ始めた本棚から、何故か二冊、本が溢れ落ちたのだ。
 静けさに包まれていた部屋は、バサバサと本が落ちる音に空気を切られる。同時に穏やかに見えていた終焉の表情は一変して、再び強い怒りの色を湛え始めた。
 静かに燃える炎が少しずつ量を増していく。
 ――そんな錯覚を覚えるほど、男の顔が――まとう雰囲気が、別物になるのに彼は気が付いた。
 窓は締め切っている筈なのに再び寒気を覚える。まるで冬のようなそれに、体を押さえ付けられている感覚を与えられ続ける。深い闇の中で、見えない何かに手足を拘束されているようだった。
 光の届かない黒の領域を支配しているのは、この人だろう。
 そう結論に至ったとしても、やはり彼は身動きのひとつも取れなかった。

 何故、ノーチェの身の回りでおかしな現象が起きているのか。
 その理由は、終焉が呟く一言で漸く理解できたような気がした。

「――お菓子をくれなきゃ悪戯するぞトリック・オア・トリート、か……」

 独り言のように溢れ落ちる言葉に、ノーチェはハッとする。
 決まり文句を言われたわけではない。俗に言う「本物」を、視野に入れたわけでもない。
 しかし、彼はお菓子を用意しなかった。それが、悪戯をされる理由になっているのだ。

 こんなことがあってもいいのだろうか。原因が分かるや否や、僅かに自由が利くようになった体に鞭打って、ノーチェは「あの、」と終焉に声を掛ける。

「俺……俺も、何か……」

 用意した方がいいのか、と問おうとした途端――

「……クソガキ風情が。調子に乗るなよ……」

 ――今までに聞いたことのない声色で、終焉が何かに語りかけた。
 男の口振りからして、そこにいる・・のは子供が一人。菓子を用意していないノーチェに対して、悪戯を繰り返したようだ。
 性別こそは分からないが、終焉の態度から見て男に向けるものだろう。
 確かな怒りを含んだ声はあまりにも低く、彼は小さく肩を竦める。本当に怒っているのだと、極力目を合わせないように視線を逸らして、口を噤んだ。こういうときは落ち着くまで余計なことはしない方がいいと、潜在意識が告げている。
 そうすれば数分で治まる筈だと思って――ノーチェは瞬きをした。

 まるで、何度もその現場に出会したことがあるかのような対処に、ノーチェ自身が驚きを覚える。つい先程にも同じような既視感を抱いた彼は、再び痛み始める頭に小さく顔を顰めた。
 ――そんな彼に何を思ったのか。終焉はゆっくりと手のひらを頭に乗せたあと、「……もう平気だ」と言い聞かせるように言う。

「これは私がもらっていくから、安心しておやすみ」

 ――そう言って軽く頭を撫でてから、男は惜し気もなくその場を離れるように歩いていった。
 怖がられていると思われたのだろうか。
 理由もなく咄嗟に引き留めようと、ノーチェは口を開いた。言う言葉は特に見つからないが、ただ「待って」と言おうとしたのだ。
 待ってもらって、訳の分からない弁明を聞いてもらいたかった。
 ――しかし、体を押し付けるような異様な眠気に、彼の意識が遠退く。

 暗い部屋の中で最後に見たのは、仄かに苛立つ、終焉の背中だった。

◇◆◇

 朝、目を覚ましてノーチェは体を起こす。
 ほんのりと冷えた朝の空気が、頬を撫でて堪らず体を震わせる。腕を擦ってから辺りを見渡して、机の上を眺めてから欠伸をひとつ。起こしにくる筈の終焉がいないことに首を傾げてから、布団から這い出て、遮光カーテンに手を伸ばした。
 いつの日から遅くなった日の出に、外は夜のように暗いまま。時間も分からずじまいだが、普段よりもどこか寒く思える点において、起きる時間が早かったのだと彼は思う。
 二度寝をしようか悩みながら再び欠伸をして、ノーチェは部屋を出る。洗面台に向かって歩き、用を済ませて、何気なく顔を洗う。
 部屋に戻ろうと廊下を歩いていたとき、鼻をくすぐる芳ばしい香りに腹の虫が鳴って、思わず両手で腹部を押さえた。
 お腹空いた、と人知れず呟いて、寝間着のまま階段を下りる。寝惚け眼を擦りながら香りが漂う方へ歩いて、リビングの扉を開ける。
 ――ふと、目に飛び込んできたのは、菓子が盛り付けられていた筈の大皿だった。
 そこには菓子の欠片もなく、空になった白い皿がぽつんと残されているだけ。終焉が一人で全てを平らげてしまったのかと思うほど、綺麗に片付けられていた。
 小首を傾げて、ノーチェはキッチンの扉を開く。ぐっと押し開けて、中に入ると何かを焼くような音が部屋に響いていた。

「む、早いじゃないか」

 ノーチェの存在に気が付いた終焉がふ、と声を掛ける。
 その言葉にノーチェは小さく頷いてから「んぅ」や「む、」なんて生返事を溢して、三度目の欠伸をする。大きく息を吸って、目尻に涙を溜めてから「……おきた」なんて言った。
 朝に弱いわけではないが、寒さによる眠気がノーチェの体の動きを鈍らせているのだろう。時間がかかった返事に終焉は「ああ、おはよう」と言えば、彼は「ん、」と返した。

「……昨日はよく眠れたか? 少し仕置きをしたら大人しく帰ってくれたが……」
「…………お仕置き……?」
「大したことじゃない」

 ふ、と笑って終焉は朝食の準備に取り掛かる。今日は朝からフレンチトーストなんて焼いていて、ノーチェは「朝ごはん」と小さく口を溢す。

「ノーチェは別に作ろうと思ったが、食べるか?」

 焼き立てのそれを指差して終焉は彼に問い掛けた。
 彼は準備の顔を見てから、同じものを食べるのも悪くないと首を縦に振る。ノーチェの肯定に男は「分かった」と言ってから、向こうで待っていてくれと彼に告げた。
 指し示されたのは大皿が残っているリビングの方で、皿に盛り付ける男を後目に、ノーチェは来た道を戻る。扉を開けて、普段から座っている椅子に腰掛けて待てば、数分で終焉が扉を開けて現れた。
 器用にフレンチトーストを盛り付けた皿を片腕に載せている終焉は、今日の出来は悪くないと言いながらノーチェの前に置く。甘い香りが目の前から漂って、黙っていた腹の虫が再び鳴いた。

「…………甘いもん……」
「うん?」
「……甘いもん、どうしたの……」

 そっと差し出されたナイフとフォークを受け取り、彼は男に訊ねる。
 テーブルに取り残された大皿を見つめながら首を傾げてみれば、終焉は「ああ」と今気付いたかのような声を上げる。てっきり一人で食べてしまったのかと思っていたのだが、男の表情を見るに予想とは違う答えを返されるのだと分かった。

「どうやら全て持っていかれたらしい」

 そう呟くや否や、終焉は呆れたように溜め息を吐いた。その様子から、多少は自分でしっかりと処理を済ませたかったのだと窺える。フレンチトーストを一口サイズに切る手元は疎かで、相当なショックを受けているのだろう。

 「持っていかれた」――その言葉に彼はぼんやりとトーストを見つめてから、んん、と呻き声を上げる。
 先日の祭りでお決まりの台詞を考えれば、無くなった理由など容易に想像がつく。おおかた話にあった「本物」が、悪戯をしない代わりにお菓子を持っていってしまったのだろう。
 大皿に載せるほどの量を、一晩で持ち出されてしまったのが、男は気に食わなかったようだ。

「まさか全部だとは思っていなかったな……」

 落ち込むような声色に、無表情のまま終焉は手作りのフレンチトーストを食む。十分に焼き上げてさっくりと音を立てる表面と、柔らかい生地に男は舌鼓を打つ。
 それを見かねたノーチェもまた、同じように口へと運んで、咀嚼をした。
 悪くない。
 その言葉に彼も首を縦に振る。
 だからこそ、空になった大皿を見てから、ふて腐れたように唇を尖らせたのだった。


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