お菓子配りと道案内


「順番に並べって言ってんだろうが!」

 怒りを含んだ筈の一言。
 ――しかし、彼の周りに集まる子供達は意に介さず、きゃあきゃあとはしゃぎながら手を差し出す。自分よりも一回り小さな手のひらが、空を向いてヴェルリアの目の前に差し出されていた。
 列ではなく、群れの中から出てくるそれに、彼は酷く嫌そうに顔を顰める。比較的整っている筈の顔がくしゃりと歪んでいて、彼の嫌悪を全面的に表へと出していた。
 彼は子供が嫌いだ。言うことも聞かずに甲高い声で騒ぎ続ける子供達が苦手で仕方がない。至るところに手を触れては、汚れが付いたままの手でまた別の場所に触れるのが、信じられないのだ。
 目の前に差し出されている手もどこかで何かを触ってきたのかもしれない。――そう思うと、自ずと顔が歪む。

 汚く、穢れを知らない純真無垢な生き物が、彼は大嫌いなのだ。

 それでも祭りにわざわざ時間を割いているのは、ヴェルダリア自身が教会≠ノ身を置いているからだ。分け与えられた仕事をこなさなければ何をされるかも分からない。たったこれだけの仕事を放棄したところで何かをされるとは思えないが――、万が一ということもある。
 故に彼は大人しく――大人しく・・・・言うことを聞いているのだ。

 ――そんなヴェルダリアの意思を汲み取っているのか、はたまた彼の反応が面白いのかは分からない。だが、明らかに当たりが強い筈のヴェルダリアに集って菓子を強情る子供達は、ただ笑いながらはしゃいでいた。
 近辺には確かに教会≠フ男達が沢山の菓子を持っている。少数の子供が両手を差し出せば、「どうぞ」と言って小さな袋をひとつ手渡す。
 そんな人間がいる筈なのに、どうにも子供達は喜んでヴェルダリアの元へと行くものだから、不思議なことこの上ない。
 漸く菓子を捌き終えた一人の男が「今年もあれなんだな」と暇を持て余している仲間に話し掛けた。
 視線の先にいるのはやはり、ヴェルダリアだ。
 遠目から見ても分かるほどに囲まれ、早く早くと囃し立てられている。中には彼に対して敬語すらも使わない子供がいるようで、「早くちょうだいよ!」「まだー?」なんて言葉が飛び交った。

「よーし今生意気なことを言った奴にはやらねえ。失せろ」
「ひとでなしー!」
「そういうのを大人げないって言うんだよ!」

 眉をぴくりと動かして、彼は軽くそっぽを向く。反感の声が上がるが、そんなことは知ったこっちゃないと聞く耳も持たなかった。
 これではどちらが子供なのかは分からないと教会≠フ面々は苦笑して、仕方なくヴェルダリアの元へと向かう。

 ――毎年だ。毎年何故か収穫祭の日は必ずと言ってもいいほど、ヴェルダリアの元に子供達が集まってくる。その度に彼の「並べ」という言葉が響いては、子供達が反論するという光景が見られるのだ。
 いつの日か、興味を持って教会≠フ一人が子供達に問い掛けたことがある。「どうしてあの人のところに毎回集まるの」と。
 それに子供達は、確かにこう言ったのだ。

 ――一番安心できるから。

 どうしてそう答えたのか、彼らには見当もつかない。ヴェルダリア以外の面々に強情ることのある子供達は理解もできず、首を傾げていたのを覚えている。もしかしたら一部の子供は教会≠ェ恐ろしく見えていて、余所者であるヴェルダリア自身には何も思うことがないのかもしれない。
 そのあと立て続けに言った「からかうと面白いから!」の言葉で何もかも気にすることはなくなったが、教会≠ェ良く思われていないのは由々しき事態だ。

 どうしたら印象を良くすることができるだろうか――。
 なんてことを思いながら、男達は子供達の和を縫って、ヴェルダリアの隣へと並ぶ。

「はいはい、一列に並ばないとあげられません」
「因みにこのお菓子はレイニールさんが作りました。本当は俺達が食べたいです」

 並ばない悪い子の分は俺達が責任持って食べます、と彼らが声を大にして言い張る。嘘偽りのない真っ直ぐとした言葉だ。
 いい大人が子供達と張り合うことに、もちろん子供達は反論を述べた。「いけずー!」「ひとでなしー!」「ばかー!」なんて、数々の言葉が飛び交う。
 それに彼らは「人でなし上等」と大きく笑った。

「でもちゃんと並ばないとこの人のお仕事おわんねーんだわ」

 欲しかったら並んでね。――そう言うと、子供達はからかうことをやめて大人しく一列に並び始める。どうもヴェルダリア以外の言うことは大人しく聞くようで、数が減り続ける菓子の袋を見て、彼は溜め息を吐く。
 何が楽しくて自分をからかうのか、ヴェルダリアにはよく分からなかった。
 「あとはよろしく」と呟き、彼は踵を返す赤い髪が不機嫌そうに揺れて、その場を後にしてしまった。任された男達はほんの少し納得がいかなさそうに唇を尖らせるが、祭りの日にも腹を立たせるわけにはいかないと頭を振る。
 言うことを聞かない子供達の相手は疲れるものだ。溜め息を吐いたこと、悪態も吐かないことを考慮して、責め立てるのをやめた。

 手渡していく菓子の袋は次々に減っていって、あと少し、というところで流れが止まる。
 屈んで差し出した先にいるのは一人の女の子。魔女のような格好をした、膝丈ほどの少女は不安そうに男を見上げると、「お兄ちゃんは……」と口を洩らす。
 少女は以前ヴェルダリアのことを安心できると言ったうちの一人だ。今ここに数人の男がいるが、それを見て尚誰かを探しているというのなら、恐らくヴェルダリアのことを探しているのだろう。
 どうしてあんなやつが好かれるんだ、という不満を抱きながら男は唇を開く。
 よく見れば、少女は微かに息が上がっているように見えた。

「赤いお兄ちゃんならさっき向こうに行っちゃったよ。何か用だった?」

 目線を合わせて首を傾げると、少女はパッと顔を明らめて「わかりました」と言った。何か用があったのかは答える様子もない。
 急いでいるらしい少女は一度だけ頭を下げると、駆け足でその場を後にしてしまう。菓子を強情る様子も全くなかった。
 そんなにヴェルダリアが信用されているのだろうか――。
 ほんの少し見送ったあと、男は小さく肩を落として溜め息を吐いた。

 ――走る足音が鳴る。目の前の光がチカチカと辺りを照らして、酷く頭が痛む。
 ゆっくりと溜め息を吐き、何か面倒事が起こりそうだと思いながら振り向いてみれば、少女が一人ヴェルダリアのあとを追い掛けてきた。
 急ぎの用事だろうか。彼を視界に入れるや否や、少女は「お兄ちゃん」と掠れたような声でヴェルダリアを呼ぶ。双方の金の瞳が僅かに細められ、ほんの少しの嫌悪を抱いたのが目に見えた。
 ――だが、先程のからかいを主とする子供達ではないことは分かる。
 これ以上引き離してもまた追い掛けてくるだけだと観念して、彼は騒がしい街並みでそっと足を止めた。この手の大人しい少女は、一度でも話を聞いてやれば納得して離れてくれる筈なのだ。

 ――そう言えば、レインはどこに行ったのだろう。

 大人しいと言えばヴェルダリアが気に掛けている女が一人いる。彼女もまた大人しい一面があるとはいえ、頑固で酷く扱いにくい面も持ち合わせている。
 その点は少女もよく似ているような気がして、相手にしなければ面倒なことになるような気がした。
 街の中心部から離れようとした足は止まり、流れる人混みの数が減っているのが足音から分かる。その中で一際慌ただしいそれが、ヴェルダリアの目の前で止まると、少女が顔を上げた。
 生憎菓子の類いはないと言おうと思ったが、そんな事で慌てるような様子には見えない。試しに「何か用か」と問い掛ければ、少女は一度だけ躊躇うように口ごもる。
 そして、彼が懸念している言葉をゆっくりと紡ぐものだから、ヴェルダリアは盛大に頭を抱えたのだった。

◇◆◇

 ――どこだろうか、ここは。

 ルフランは広く、街というよりはひとつの国として称しても全く問題がない。中心部に近ければ近いほど、手の行き届いた綺麗な街並みが広がっているが、あまりにも広い所為で未だに端は手が行き届いていない。
 雑草は生えて、森の傍は酷く薄暗い。土は硬く、ところどころ石とも思えるものが足に引っ掛かる。
 ――その分虫や動物達は見掛けるのだが、お世辞にも綺麗とは言い難いのが欠点だろうか。
 街並みのような光がなければ、特に目立つ何かがあるわけでもない。夜がよりいっそう辺りを暗くしているようで、レインは瞬きを繰り返した。
 街を歩いていた筈なのに、全く見慣れない場所に辿り着いてしまった。
 普段は教会付近でしか過ごすことがないレインは、誰か一人でも傍にいなければすぐに迷子になるほどの方向音痴だ。
 ただ赴くままに歩いている所為だろう――ふとしたときには知人が誰一人として傍には居らず、周りは見慣れないものばかり。その度に見つけ出してくれていたのがヴェルダリアだったのだが、今日ばかりは少し、見つけてもらうのは厳しいのかもしれない。
 今日は収穫祭だ。彼は毎年沢山の子供達にねだられ、その度に不機嫌そうに顔を歪める。周りに他の人がいようとも、何故か彼の周りに集まるものだから、レインは嬉しくなるのだ。

 小さい子はきっと、あの人のいいところを知っているのだわ――なんて。

 ――そんな暢気なことを思っている場合ではないのは分かっている。騒がしかった場所にいた筈が、一変して静寂にまみれた場所に移り変わっているのだから。
 賑わいを目指して歩くことを考えたが、自他共に認めるほどの方向音痴だ。下手に歩かない方がいいのは明白だった。
 最後に残っている記憶は身元も知らない少女と軽く話したときだ。何をしているのかを問われたので、散歩だと答えた記憶がある。そのときはまだ街の明かりも、賑わいも、すぐ傍にあったものだから、安心しきっていたのだ。
 どうしたらいいのか、思案を繰り返す。
 やはり歩こうか。適当に歩いていれば、いつの間にか街の中心部に着いているかもしれない。それとも立ち止まろうか。誰かが自分を探しているのにすれ違うかもしれない。

 助けを呼ぼうか――でもどうやって?
 首元にある異物が邪魔をするのに、どうやって助けを呼ぶというのだ。

 暗闇でさわさわと揺れる雑草が不気味に思えて、レインは肩を震わせる。得体の知れない何かがそこにいるようで、咄嗟にその場に屈み込む。服が汚れるなど構うことはない。
 両耳を押さえて、強く目を瞑った。

 懐かしい記憶がふと甦る。あの日も暗い夜だった。雨が降っていて、雨宿りができる場所など木陰くらいしかない。はぐれた自分が悪いのだと思いながら、寒さに震えて、孤独と戦っていた。
 暗い場所は好きではない。寒さも好きではない。燃えるような赤い光が酷く恋しく、泣くのも堪えて丸くなっていたような気がする。
 そのときは草木を掻き分けて、彼が呆れた顔で手を差し伸べていて――。

 ――不意に、くしゃりと草を踏み締める音が鳴った。
 突然の音に咄嗟に顔を向けたレインは、大きく目を見開いた。
 視線の先にいるのは一人の少女。薄金の髪を三つ編みに束ねていて、躑躅色の瞳を瞬かせる。目に優しい淡い緑のローブを着ていて、ほんの少しバツが悪そうに顔を顰めた。

「迷子かしら」

 ――と、少女らしからぬ落ち着いた声色で少女が呟く。
 しかし、そんなことも気にせず、レインは人に会えた喜びを表した。勢いのままに少女の手を両手で掴み、柔らかく微笑む。
 たった一人、然れど一人。寂しさから救われた彼女は少女の手を握りながら「よかった、」「ありがとう」なんて呟く。少女自身、何らかの意図があって訪れたわけではないのだが、礼を言われるのは心地が好かった。

 ひとしきり少女の手を上下に振ったあと、レインはハッとしたように少女を見る。
 ここは街の中心部から離れたやけに静かな場所だ。普通なら人の姿など見掛けることはないが、レインのように迷子なら話は別だ。
 少女も迷子なのだろうか。――そう思ってじっと姿を眺める。今日は収穫祭だが、少女に仮装をしている様子は見られない。
 薄緑の若芽のような色のローブ。白いブラウスに、ローブと同じような色合いの長いスカート。ワンポイントに小さな猫のシルエットがあしらわれていて、とても仮装には思えなかった。
 少女もまたこの国の人間ではないのだろうか。
 うぅん、と小さく首を捻るレインに対して、少女は呟く。

「私は別に迷子ではないのだわ。散歩をしていただけ」

 あくまで素っ気ない言葉遣いだが、無愛想な言葉などいくらでも聞いていた彼女は「お散歩」と繰り返す。散歩をするのにこんな場所に来るのか――なんて疑問に思って、躑躅色の瞳をじっと見つめていた。
 ほんの少し桃色寄りの赤い瞳だ。どこかで見たことがあるような気がして、懐かしい気持ちになる。
 ほわほわとレインが胸を温かくさせている中、少女は顔を顰めたまま、軽く辺りを見渡す。「貴女の方向音痴を見くびっていたわ」なんて言葉を洩らしてから、ぐっとレインの手を引いた。
 子供宛らの小さな手に引き寄せられ、彼女は目を丸くする。何をするのかと問い掛ければ、少女は「歩くの」と言う。

「こんな場所でのんびりなんてしたくないのだわ。それに――」

 貴女がここにいると私に支障が出るの。
 ――そう呟いて、少女は立ち上がるレインの顔を見る。その言葉が何を指し示しているのかは分からない。だが、自分に危害を加えてくるような人物ではないのは分かった。
 だからこそ彼女は立ち上がり、にへら、と笑う。

「……間抜けな顔ね」
「……!?」

 自分よりも遥かに大人びたような少女に、レインは驚くように目を見開いた。そのあと、ふて腐れるように唇を尖らせる。
 普段通りの表情をしたつもりだったのだが、馬鹿にされてしまったのだ。「どうしてそんなこと言うの」と言わんばかりに頬を膨らませていた。
 そんな事情を知ってか知らずか。少女はレインの顔を一瞥したあと、足を踏み出す。伸びきった雑草の合間を縫うように歩くのは、小さな体ではほんの少し難しく思えた。
 ――だが、歩けないわけではない。
 小枝が踏み締められてパキン、と音を掻き立てる。その隣から、草が踏み締められる音が鳴る。秋も半ばというだけあって、明かりのない場所では目の前がよりいっそう暗く見える。
 肌寒くなってきた風が小さく肌を撫でた。
 ほんの少し、背筋が凍るような印象を覚えたのは、レインだけだろう。
 得体の知れない何かが迫っているような気がして、彼女は頻りに辺りを見渡し始める。どこを見ても整地がされていない場所ばかりで、時折森が視界に入る程度。明かりがない所為で暗く見えているのが原因なのか――気持ちが落ち着かずにいる。
 隣を歩く少女には何の変化も見られないことから、自分の気の所為ではないかと思った。金髪は珍しいわけではないが、見失う色でもない。じっと見つめながら歩き、少女からはぐれないよう専念した。

「――……暗いわ」

 不意に、ぽつりと少女が呟く。不思議そうにレインが少女の顔を眺めていると、ふて腐れたような顔をし始めた。視線の先を睨み付けるような様子に、レインが小首を傾げる。

 暗い。暗いのなら、明かりが必要だ。

 レインは思い付いたようにパッと手を合わせると、そのままふぅ、と宙に息を吹き掛ける。すると――どこからともなく淡い火の玉がひとつ、ふたつ、と姿を現した。
 燃えるようにぱちぱちと音が鳴るが、どうも何かを燃やそうとする意思は見られない。ただレインと少女の周りをふわふわと飛び交って、辺りを照らしている。
 どうやら火の玉はレインの意志で生まれたようだ。
 これで明るいね、なんて言いたげにレインが少女に向かって微笑む。ほんのり赤や橙に染まるそれが、二歩先辺りまで照らして、足元の安全が確保された。――そのことに安堵したのか、険しかった少女の表情が、僅かに緩むのを彼女は見る。

 それが、誰かに似ているような気がして、思わず首を傾げた。

「……これで少しは安全ね。行きましょう、きっと向こうも見付けやすいから」

 ぽつり、と少女が呟く。まるで鈴の音のように静かで、波のない大人しい声だ。レインの腰ほどまでの身長しかないのに、少女の足取りは誰よりもしっかりとしたものだった。
 少女の足に迷いはない。まっすぐ歩いていたと思えば、急に曲がって、時折ぴたりと足を止める。数秒立ち止まったかと思えば、再び歩きだして、自由奔放に歩き回る少女にレインはついていくのが精一杯だ。
 何故歩く速度に緩急をつけたり、突然立ち止まったりするのか。
 それを聞こうとして唇を開くが、数回目に亘ったところで彼女も次第に気が付く。

 明かりの届かない暗闇の場所に、何か・・がいる。

 それが一体何であるかは説明ができない。本能が不安を掻き立て、早く逃げろと言うものだから、何であるかなど分かりたくもない。
 得体の知れないものが一定の距離を保っている所為か、不安からレインは少女の服を掴む。手を下ろした先にあるローブのフードを掴んで、そろ、と身を寄せた。
 そんなレインに対して、少女は僅かに鬱陶しそうな表情を浮かべて、「歩きにくいのだわ」と愚痴を溢す。

「大丈夫よ。明るいところには来ないの。だから街には沢山の灯りが点くのよ。悪意のある悪い虫は、眩しいところが大嫌いなの」

 「ランタンを持って歩くのもそういうことね」少女はそう呟くと、レインに歩幅を合わせるようにゆったりと歩く。
 そういった話を彼女は周りから聞いたことはないが、少女の確かな口振りに安心感を覚えた。
 時折本物が混じる、だなんて聞いたときはどう対処するのか疑問ではあったが、眩しいことが弱点ならば好都合である。

 歩きにくいと言われたレインはほんの少し少女との距離を取ると、再び横に並んで歩く。ふわりと浮かび続ける火の玉は、それぞれの顔を仄かに照らしながら周りを回る。
 寒さが増してきた秋の夜には、その火が僅かに温かく思えた。
 少女の言葉の通り、何かが二人を襲うこともなく、雑草を踏み締める音が鳴り続ける。少女の見た目をしているが、少女は特別無駄話をするような人間ではない。加えて、レインは滅多に言葉を発することもない。当然のように聞こえてくるのは、踏み締める音ばかりだった。
 その中にほんのりと虫達の鳴き声が聞こえてくる。秋の音楽祭が背を押すように耳を掠めるものだから、彼女は気分を良くし始めた。

 収穫祭は街の中心部。眩しい明かりと、子供達のはしゃぐ声で虫達の合唱など聴く機会はない。整地がされていない場所は森に近く、何が起こるか分からないという不安から、誰も近寄ろうとはしない。
 無論、レインでさえもそうだ。
 ――いや、レインだからこそ近付いてはいけないというべきだろう。
 度を越えた方向音痴が一度森に入れば、無事に街へと辿り着ける保証はない。彼女はただ歩いているだけで、街の外れまで辿り着いてしまうのだ。
 森に入らなかっただけマシだと言えるだろうか――。

 気分良く歩いているレインの横で、少女が「暢気ね」と溜め息を吐く。まるでレインの代わりに「森に入らなくてよかった」と思っているようだ。
 小さく肩を落として、二度目の溜め息を吐く様は、まさに保護者のようだった。

 雑談もなくただ歩く。軽く夜空を見上げれば、先程まで十分に見えていた筈の星が、少しずつ数を減らしている。それどころか虫達の鳴き声が徐々に減っていって、しまいには聴こえなくなる。
 ほんの少し残念だと思うと同時、街の中心部が近いのだとレインは理解した。少女の隣を歩いているだけで目的の場所に辿り着けるのだと、喜びを覚える。
 嬉しい、と頬を緩ませると、遠くから人の声に混ざって自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
 低く、耳障りのいい、レインの名を呼ぶ声。誰かなんて、すぐにでも分かる。
 だからこそ彼女は駆け寄ろうと足を動かした。隣を立っている少女はただそれを見守るだけ。追い掛ける兆しもなく、躑躅のように赤い瞳で、じっと見つめる。
 ――すると、唐突にレインが振り返った。何せ一緒に行くと思っていた少女の姿が隣にはないからだ。
 驚いて、小さく唇を開いて少女を見る。
 少女とはまた違った、ルビーのように赤く煌めく瞳が、困惑の色を湛えたまま少女の目を見つめ返した。
 すると、少女が徐に人差し指を口許に添える。

「私は用事があるの。そうね――、この時間≠ヘ忘れてもいいわ・・・・・・・

 ぽつり。少女が言葉を紡いだ瞬間、時計塔の鐘が鳴る。
 日中ならば噴水の水が大きく立ち上がる切っ掛けの鐘の音。祭りの最中のそれは、祭りの終わりを知らせる音だ。夜更かしはいけないと設定された時刻は夜の九時。辺りは明かりで満たされているとはいえ、夜の暗さが際立つ。
 ほんの少し冷たさを増した風が頬を撫でた頃、レインは茫然と辺りを見渡した。

「――レイン!」
「……!」

 彼女を呼び掛ける声がすぐそこから聞こえてきた。
 驚くように肩を震わせてから、レインは咄嗟に街へと向き直る。暗い場所から一変して明るさに包まれた中心部では、子供達が両親の元へと駆けていく。
 その中で一人、燃えるような赤い髪を揺らしながら男が駆け寄ってくる――。

「こんの馬鹿が!」
「!?」

 焦るような、安堵したような。そんな声色のまま駆け寄ってきたヴェルダリアが、勢いよくレインの頬を摘まむ。
 摘まんでからぐっと引っ張って、頬を伸ばすものだから、彼女は目を丸くした。
 驚いて見上げた先にある彼の顔は、呆れたような――いや、何度も同じことを繰り返して、その対処に負われ続けている疲れきった人間のような顔だ。眉間にシワを寄せているが、本当に腹を立てているのなら声を掛けることなどしないだろう。
 頬をつねられたレインは、頬を擦って頭を何度も下げる。ヴェルダリアは舌打ちをしてから、「何ともなくてよかったけどよぉ」と呟く。

「お前に明かりを持たせてなかったから、何が起こるかもわかんねえし」

 どっか行くときは誰かについていてもらえよ。
 そう言ってヴェルダリアはレインの頭を撫でる。整えられている筈の髪をぐしゃぐしゃと撫でて、レインは乱れた髪型に頬を膨らませる。
 ――そして、何か思うところがあったのか、彼は何の気なしに問い掛けた。

「お前、誰に案内されてここまで帰ってこれた? 火があまり使えないことくらい頭に入ってるだろ?」

 彼はレインの方向音痴を十分に理解している。だからこそ、呆れたような様子で迎えに行っては、口煩く一人で彷徨くなと言っているのだ。
 加えて彼女は制限の設けられた力を発揮させている。お世辞にも頭がいいとは言えないレインが、祭りに混じる本物≠フ存在に気が付こうが、対処法までは思い付かない筈なのだ。
 ――そもそも彼女はルフランについてはあまり詳しくない。偶然にも中心部にまで辿り着けた、という仮説も立てられるが、生憎ヴェルダリアはそれを信用していない。
 以前告げたのだ。分からないのならその場を動くなと。下手に動けばすれ違い、余計に見付けられなくなるから、と。
 本人がそれを律儀に守っているかは定かではないが――、第三者が絡んでいることくらい想像ができる。無事に帰ってくるなど、レインが一人で成し遂げるには少し、荷が重いのだ。

 それを知ったのは勿論、知り合って間もないことである。

 以前は街のみならず、森の外を歩いていたものだから、彼はこの苦労を十分知っている。知っているからこそ、案内をしてくれた人間にはそれなりの礼をしたかった。
 したかった、のだが――ヴェルダリアの言葉を聞いたレインは不思議そうに首を傾げるのだ。

「…………何も覚えてないなんて言わねぇよな」

 訝しげな顔付きで試しにそう問いかけてみれば、レインは核心を突かれたように顔を強張らせる。じっと見つめてくる金の瞳に負けじと赤色の瞳を向けていたが――、やがて彼女は静かに目を逸らす。
 何も覚えていません。――そう言われたような気がして、ヴェルダリアが軽く頭を抱える。

 つい先程までの記憶がないということは、記憶をいじられたということ。特に痛がる節はないレインの様子を見るに、無理に改竄かいざんをされたわけではないだろう。恐らく彼女は、水の中から一匹の金魚を静かに掬い上げるように、そうっと記憶を抜き取られたのだ。
 そんな芸当ができるのは主に終焉の者≠ニ、モーゼだ。
 ――しかし、当の本人達をヴェルダリアは見ていない。そもそも、モーゼがレインの記憶をいじることなど、まずない話だ。
 だとすれば終焉の者≠ェ原因だろうか。男はヴェルダリアを毛嫌いしているが、それ以外には無関心であることが多い。彼の傍にいるレインのことは特別気にしたことはないのだ。
 元より男は、レインの正体を知っている。迂闊に手を出してくることはないだろう。

 ならば一体――。

 ――そこまで考えて、たった一人、心当たりがあることを思い出す。
 それが本当に正しい答えなのか。何故手を貸してきたのか。脅しのつもりか、或いは――。
 ぐるぐると思考ばかりが巡っていて、彼はそうっと顔を覗き込むレインの存在に気が付くのが遅れてしまう。
 一瞬だけ肩を震わせた。その事実が彼女にとってはほんの少し衝撃的で、心配そうな表情を浮かべる。どこか痛いところがあるのかと、そう言いたげな目をしていて。
 ヴェルダリアは考えることをやめた。
 子供達が親の元へ帰っていく波に混ざり、彼はレインの手を取る。これ以上迷子にならないよう、しっかりと教会に辿り着くことが目的だ。
 手を取られた彼女はほんの少し驚いたあと、一度だけ目を瞑って小走りでヴェルダリアの後を歩く。歩幅が違っていて非常に疲れてしまうが、レインにはあまり気にならないようだ。
 道中、囃し立てられるような言葉を聞いたが、それをヴェルダリアが一瞥すると、声がやむ。やんでから、走り去る足音が聞こえて、何気なく夜空を見上げる。
 「ちびっ子がお前のことを見掛けたから俺を呼んできたんだぞ」なんて小さく呟けば、レインが驚いたようにヴェルダリアを見た。

 彼女の方向音痴は最早街の人間に広まっている。教会周辺までの行動制限を設けられるまで、教会≠フ人間達が何度も街の人間に訊ねたのだ。
 人伝に訊いては見つけて報告をして――を繰り返していくうちに、やがて住人には「一人でいるレインを見掛けたら教会に報告」という意識が根付いた。そうすれば教会≠フ人間達が慌てふためく負担も減り、住人の手を煩わせずに済むからだ。
 その習慣は子供達にも伝わっていて、ヴェルダリアの元を尋ねた少女は、その報告をしただけに過ぎない。

 その事実にレインは萎縮した。また迷惑を掛けてしまったと、咄嗟に足元に視線を下ろす。タイルから石畳へ移る足元を見つめて、またやってしまったのだと肩を落とした。
 すると――、唐突に頭を撫でられる感覚に陥る。
 俯いていた筈の頭に手が載せられ、ぐしゃぐしゃと髪を掻き乱される。突然の重みにレインは上目で彼を見やると、ヴェルダリアが「気にすんなよ」と振り返っているのが見えた。

「お前のそれは直んねぇからな。教えてくれたちびっ子に礼さえ言ってりゃいいんだよ」

 とっとと帰るぞ。
 そう言って背を向き直した彼に、レインは小さく頷くのだった。


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