それは、ほんの些細なこと


 始まりは些細な一言からだった。アンタのことと、この世界のことを知りたい――そう告げたのだ。

 妙な言い伝えが蔓延るルフラン。終焉の者≠目の敵にしている教会≠フ人間。街中に伝わる「黒は忌み嫌われている」という印象。
 ――そして、自らを終焉と名乗る男の存在。
 これらを目の前にしていて、ノーチェは漸く強い興味を胸に抱いた。
 時間が掛かったのは、彼の首にあしらわれた鉄製の首輪の所為だ。意欲を奪う特殊な魔法が施されたそれは、彼の中から反抗を奪い、抵抗も剥奪して、気付けば興味も殺してしまった。
 玩具や奴隷として扱うには丁度いいその状況下で、初めて人間らしく扱われた彼は、数ヵ月を跨いで漸く人間らしさを取り戻す。反抗心は未だ取り戻すことはないが、「知りたい」という人間の最もな感情を、彼は見つけ出すことができた。
 その対象はやはり、自分を傍に置いている一人の男を中心に向けられる。

 この人の好きなものは、甘いものの他には何だろう。
 どうしてこんな奴隷に世話を焼きたがるのだろう。
 一般的な家事の技術はどこで養えたのだろう。
 自分を化け物と称する理由は。教会≠ニ仲が悪い原因は。黒く長い髪を伸ばし続ける理由は。金髪の人間が嫌いだという理由は。自分と出会う前の暮らしは――。

 ――なんて、止めどなく溢れてくる疑問に、ノーチェは遂に頭を抱える。
 今まで持ち合わせてこなかった疑問を得るのは、彼にとって酷い疲労感でしかなかった。自室にいるときも、家事を手伝うときも、買い物に出掛けるときも、終焉に対するそれは溢れるばかり。
 しかし、直接訊いても素直に応えてくれるように見えないのも明白で。
 どうしようかと悩んでいる間に、終焉の方から「どうしたんだ」と声を掛けてきたのだ。

 こればかりは素直に言葉にするのが正解だろう。
 そう思って彼は不安そうに顔を覗き込む男に、「アンタのことが、この街のことが知りたい」と呟く。最も疑問に思う終焉とノーチェとの関係は、決して教えてもらえる筈はないのを、彼は承知の上で言った。
 何故今になって男への興味が湧いて出てきたのかは、肝心のノーチェですら分かっていない。ただ漠然としたような、何気ない日常の中で不意に目の前に現れたのだ。
 小さな子供が今まで疑問に思わなかった日常の一部を、初めて「疑問」と認識したのと同じように、彼もまた終焉について知りたいと思うことが出てきたのだ。

 漸く自分の意志で何かを知りたいと思った彼に、終焉は茫然としていた。
 何かに興味を持つことは悪いことではない。生きている間に興味関心を持つのは、生きている証明にもなる。何かを知り、知識として頭の中に叩き込むのは、将来役に立つこともあるだろう。
 その対象が何故か終焉であることに対して、男は理解が追い付かなかったのだ。

「……ノーチェ」
「ん」

 ほう、と溜め息を吐き、目を閉じる終焉を見てノーチェは首を傾げる。

「私のことを知っても得はしないぞ?」

 ぽつりと呟かれた言葉にノーチェは眉を顰めた。
 大して深い意味はない筈だが、やんわりと断られたような一言に妙な落胆を得る。知りたいと言えば教えてくれるだろう、という期待を抱いていた所為だろうか。裏切られたそれに唇をへの字に曲げると、男が戸惑うように唸る。
 得を得ることなど考えてもいなかった。ただ知りたいと思うままに口にして、知識として頭に叩き込めればいいのだ。
 いつの日にか、聞いた情報が役に立つことが、どこかではあるかもしれない。そうすれば、終焉は思いもよらぬところで喜びを得ることができるのだ。
 ――しかし、終焉が渋るのも頷ける話でもある。
 男はルフランを支配している教会≠ニの仲が悪い。万が一ノーチェが教会≠ノ身を置いたとき、自分が知っている限りの終焉の情報を聞き出しかねない。
 首輪がついている以上、彼は奴隷として生きているのだ。命令され下されれば、洗いざらい吐いてしまう、という懸念も挙げられるだろう。

 ――もちろん、そんなことをする筈のないノーチェは終焉に向かって「駄目なの」と問い掛けた。特別情報を売るわけではない。ただ、何となく、知りたいと思った旨を添えて伝える。
 自分が相手を知らないのに、相手が自分のことを知っているのが気に食わないから。
 ――と言えばそれまでだが、そういった悪態も吐けそうにはなかった。
 問い掛けられた終焉は、バツが悪そうに僅かに目を逸らす。ノーチェから庭の見える窓へ。何かに迷っているような節があるが、口にすることはなく、形のいいそれを微かにへの字へと曲げる。
 恐らく男は、純粋に知りたいと思われることが今までになかったのだろう。いざ直面して見れば、何をどう口にしようか迷ってしまって、伏し目がちな視線を床へと向ける。
 駄目ではないけれど――なんて小さく呟く様は、まるで悪戯が見付かった子供のようだった。

「駄目、ではないんだが……その……どういう意図があって訊きたいんだ……?」

 恐る恐るノーチェの質問に問い掛けで返す終焉の表情は、どこか困ったようなものだった。
 男の言う「意図」の意味が分からず、彼は僅かに首を傾げる。「意図……?」と呟いて、頭を悩ませて、終焉の顔を見た。
 終焉は困ったような顔をしていながら、ほんの少し期待をするような目を彼に向けている。困惑と緊張。ノーチェの返答次第では、機嫌を左右するほどの何かが込められているような――そんな目付きだ。
 その反応にノーチェは遂に困ったように唸った。恐ろしいほどの期待が向けられていると、彼の身体中の神経が騒ぐ。何をどう伝えるのがいいのか、懸命に頭を働かせる。

 終焉の言う「意図」とは何だろうか。口許に手を添えて、眉間にシワを寄せて思考を巡らせる。
 大した感情が込められてはいないのは事実だ。終焉とノーチェは――あくまで彼にとっては――主人と奴隷の関係。それを踏まえて終焉のことを知りたいと思ったのは、終焉がノーチェを対等に――とは言え少々過保護ではあるが――見ているからだ。
 衣食住は保証されていて、身の安全も確保されている。外の寒さや、理不尽な暴力に晒されることもなく、毎日が充実している。
 そんな暮らしをさせてくれているのが、目の前の男だからだろう。
 そんな終焉に対して、ノーチェは特別何かを返せている試しはない。料理ができなければ、掃除を完璧に仕上げられる技術もない。――と言うか掃除の必要がない。街の構造はそれなりに把握できるようになったものの、一人での外出は商人≠フ目が気になってしまう。
 こんな状況下で彼ができることと言えば――、終焉という人物を把握して、好みに合わせた行動を取ることだ。

「……別に……アンタの……役に立つ為……?」

 懸命に頭を働かせた結果、呟いた言葉に終焉は茫然と立ち尽くしていた。
 何かを期待していたのだろうか。ノーチェの言葉を耳にしたあと、終焉僅かに顔を俯かせてから「そうか、」と呟く。その声色はまさに落胆、という字面が似合うほど、落ち込んでいるようにも聞こえてしまって。彼は思わず首を傾げる。
 何を言わずとも、何を言われずとも、この回答は明らかに間違いだったと思ってしまった。
 僅かながらも期待していたような素振りを見せていた終焉だったが、一変してすっかり無表情へと戻ってしまっていた。それこそ、期待などしていた自分が愚かだった、なんて言いたげなものだ。小さく首を左右に振ったかと思えば、「馬鹿馬鹿しい」なんて口を洩らして、再度ノーチェを見やる。
 その顔に――もう何の感情も含まれていないことは、ノーチェでも分かった。

「…………あの」

 男の変貌にいたたまれなくなった彼は、恐る恐る終焉に声を掛ける。顔色を窺うように、上目でこっそりと。男がノーチェに怒りを覚えることがないのは確かだが、落胆の原因が自分にあると思うと、罪悪感が胸に募る。
 咄嗟に声を掛けたが、彼の気遣いも虚しく男は「気にするな」とノーチェの頭を撫でる。

「……とは言え、先程も言ったように、私のことを知ったとしても得はしないぞ。役に立つために必要な情報など、私にはない」

 諦めるんだな。そう言ってぐしゃぐしゃと彼の髪を乱したあと、終焉は踵を返した。
 向けられた背中が寂しそうだとか、柄にもなく思ってしまって。取り残されたノーチェは髪を整えながら、むぅ、と唇を尖らせる。
 考えがない、わけではない。
 だが――そう言いきれるほど、彼には感情など把握しきれなかった。

「ああ、そうだ」
「わっ」

 拗ねるように、はたまた落ち込むように立ち尽くしていた所為か、再び顔を出した終焉にノーチェは肩を震わせる。
 心臓が強く脈打って、ほんの少しの冷や汗を覚えた。
 そんな彼に終焉は目を丸くしたあと、「驚かせてしまったか……?」なんて呟く。自分は大したことなどしていない筈だと頭を捻り、あまりにも不思議そうな表情をする。
 そんな男に対して、ノーチェは「何でもない」と言ったあと、終焉の言葉の続きを待った。

「そうか……? それならいいんだが……。近々またリーリエが来ることになっているよ。最近やたらとこちらを気にかけているから」

 また酒を飲まないといいんだが。
 そう言って再び背を向けて歩いていってしまった終焉を見かねた彼は、思い付いたように「そうだ……」と独りごちた。

◇◆◇

「エンディアとルフランについて知りたいって?」
「もうちょい静かにしてよ……」

 終焉に「知りたい」と告げてから早数日。予告通りに屋敷を訪ねてきたリーリエに、タイミングを見計らって彼は話し掛けた。内容はもちろん、終焉とルフランについてのことだ。

 彼女が訪ねるまでの間に終焉が自分自身や、街のことに触れることはなかった。それが単純に話したくないのか、それとも知らないのか分からない。彼もまた機嫌を損ねるわけにもいかず、無理に話題にすることはなかった。

 この人は多分、自分のことについて聞かれるのが苦手なんだ。

 ――そう結論付けたまま、何の変哲もない日常を送る毎日。
 ここ数日――いや、滅多に押し掛けてくることもなくなった商人£Bの足跡も見受けられず、教会£Bの動向も掴めない。ただ日に日に冷えていく空気と、落ちていく日を眺めるだけ。
 夜空に浮かぶ星の見える量が増していって、綺麗だと呟く男の隣で彼は首を縦に振る。

 夜はいい、星や月が見られるから。冬はいい、夜が長いから。
 ――けれど、寒いのは嫌いだな。

 ――それが終焉の口癖だった。
 甘いものの他に、男は夜を好んでいた。その理由がノーチェにあるのかどうか、ほんの少し探りを入れてみたが、単純に日の光がない夜が好きだったようだ。
 当然の如く後に「もちろん、貴方の名前が夜に因んでいることからも――」なんて言葉を続けられて、無理矢理話を折ったこともある。男がノーチェを好んでいるのは、決まって「愛しているから」なのだ。
 その愛が、好きとどう違うのかは、彼には分からない。
 時折襲う咳や胸の痛みに、違和感を覚えたノーチェは風邪を拗らせてしまったのかと頭を悩ませる。それを終焉に素直に告げるべきかどうか。話してしまえば最後――過保護とも言える気遣いが向けられることは明白だ。
 目障りや鬱陶しいなどと思うことはないが、体調を気遣われることに慣れていない彼は、男の言動に疲労感を覚えてしまう。
 迷惑ではない。ただ、気を遣わせてしまうことに嫌気が差してしまうのだ。
 奴隷になってから体調を崩すことなど何度もあった。その度に死ぬことを期待したが、しぶとく生き延びてしまう現実に何度嫌気が差したことだろう。
 その実績があるからこそ、手を煩わせることは避けたかったのだ。どのみち治ってしまうのだから。
 ――そんな想像が簡単にできてしまうものだから、自身の体についてのことを話したくはなかった。
 これが終焉を思ってのことなのか、それとも単なるエゴなのかは彼にも分からずじまい。結局何も言わないまま今に至るが、異常はないのだから問題はないのだろう。

 結局ノーチェが自力で知れたことは、終焉は夜を好むことと、寒さに弱いというだけ。ルフランについては男ですら、未だに分からないことがあると言うのだ。
 このままでは終焉のこともよく知らないまま、のうのうと生きていくだけのろくでなしになる一方だ。一番知りたい終焉とノーチェ自身の関係性は、明らかに教えてもらえないことは明白だが――どうにも、それ以外のことも知りたいと思うのだ。

 終焉と呼ばれる男を知らなければならない。――これは、一種の使命感のようなものだった。

 その欲を満たしてくれそうなのが、自分よりも遥かに男のことを知っているであろうリーリエに、教えてもらうことだったのだ。
 彼は終焉が席を外したタイミングを見て、珍しく茶を嗜む女に話し掛けた。もちろん内容は終焉と、街についてのことだ。
 話し掛ける際にソファーに座っていなかった所為か、赤いそれを「座りなさい」と言わんばかりに、リーリエが叩く。ぼすぼすと音が鳴って、ノーチェが徐に座ると、再び紅茶を飲む。
 軽く啜って、あつぅい、なんて愚痴を溢してから「知りたいって言われてもねぇ……」と天井を見やる。そのあと、悩ましげに頭を捻りながら眉を八の字にするものだから、百面相ってこういうことか、と彼は思った。

「……知りたいってどういうこと? 少年とエンディアの関係性とか?」

 ――不意に、ぽつりとリーリエが呟く。流石にそれは話せないわよ、と先手を打たれたが、関係性については重々承知の上だ。

「……それは、まあ……知りたかったけど……今は違うこと。好きなもんとか、嫌いなもん……今までどうやって生きてたか、どんな人付き合いしてたかとか……そういう些細なこと」

 教会≠ニか、街の見所とか、そういうもの。
 ――そう付け足せば、女は納得したように頷いて、なるほどねと口を洩らす。
 リーリエのことだ。大きな笑い声を上げて「直接聞いたらいいじゃない」なんて言われることを覚悟していたのだが、予想は外れてしまった。女は終始真面目そうな顔付きで、丁寧に紅茶を飲んで小さく吐息を吐くほど、大人しかった。
 何だかいつもと違う気がする。――なんて思いながら、落ち着きのない感情を胸に抱える。リーリエの隣でノーチェは女の動向を窺っていると、終焉が廊下からするりと姿を現した。
 まるで猫を彷彿とさせてくる滑らかな登場に、ノーチェは瞬きをひとつ。
 終焉は作り溜めていた自作の洋菓子を片手に、普段の椅子へ腰を下ろす。座って、当たり前のように足を組み、肘掛けに肘を突いた。
 今までに明言したことはないが、彼は男のその動作に、ほんの少しの緊張を抱くことがある。真っ直ぐに射抜くような視線が気になって、自分の意識を洋菓子へと向けるのだ。

 嫌悪に近い緊張――というよりは、適度に与えられるものによく似ている気がする。まるで、日常の中で定期的に直面するひとつの場面のように、「見られている」という感覚が妙にくすぐったかった。

 咄嗟に用意された菓子を頬張って、咀嚼を繰り返す。相変わらずの完璧さに舌鼓を打ってから、ちらちらと終焉の顔を窺う。
 自分で終焉のことが知りたいと言った割には、何故だか話を聞かれたくないと思ってしまうのだ。
 男は普段通りの澄まし顔で、且つ当たり前のように「甘いもの」を口へと運ぶ。さっくりとした食感も、ふんわりと口の中に広がる甘さも、紛れもなく男が作り上げる洋菓子そのもの。「やはり私が作る方が上手い」という自信さえ、ノーチェも肯定できるほどの出来映えだ。
 悔しいけれど美味しい。――リーリエがぽつりと独り言のように洩らす。女さえも頷かせる男の手料理は、見た目同様、味も完璧なのだ。
 ――だが、肝心のリーリエはただぼんやりと洋菓子を見つめながら、一心にそれを咀嚼する。何かを考えているのか、終焉やノーチェが声を掛けても聞く耳も持たない。
 それどころか悩むような素振りを見せる。腕を組み、眉を顰め、「そうねぇ……」と思考を巡らせているのだ。

「少年が、うちに泊まりに来るんだったら、考えないこともないわねぇ……」

 終焉が姿を現した時点でもノーチェの質問に答えようとした意思に、彼は目を丸くした。もちろん、言うまでもなく終焉でさえもだ。
 リーリエの言葉に男が咄嗟に席を立つ。長い黒髪が跳ねて、元の位置に戻る頃に終焉が口を開く。「何を言い出すんだ」と、あからさまに焦ったような声色で、女をじっと見やった。
 何を焦る必要があるのかは分からないが、少なくともノーチェ自身も混乱したようで、「泊まり……?」と呟きを洩らす。

「そーよ、お泊まり。話が長くなっちゃうもの」
「話が長くなるならここで寝泊まりすればいいだろう」

 ふう、と溜め息を吐きながら、リーリエは低いテーブルに肘を突く。ソファーと机の高さの関係上、リーリエの姿勢は腰に負担が掛かるように見える。――だが、そんなことも気にならないほど、二人は会話に熱中しているようだった。

 茅の外にいるように、ノーチェが他人事気分で話を聞く。
 終焉はノーチェを屋敷から出さないようにと努めているようだ。その言動はノーチェが奴隷であることが原因で、自分の目の届く範囲に居なければ気が済まない。
 屋敷から離れた途端に商人≠ノ連れ去られるのではないか、という不安が、男を過保護にしているのだ。
 反対にリーリエは、積もる話を彼にしっかりと話したいから場所を移したいのだという。その中には街のことは当然だが、終焉のことも含まれているのだ。その情報を本人が聞いてしまうとなると、満足に話もできないのだろう。
 それでも男は渋り続ける。「彼に人目のつかない場所は危険だと思わないのか」と。知り合い以上の、それこそ親子関係にでもありそうな過保護具合だ。
 ノーチェと終焉はあくまで他人。知り合い程度の関係と言えばそうなるが、体を気遣われる程の関係性を築けていないのは事実。その点を視野に入れているノーチェは、首を傾げながら「そこまで気にするもんなのか……」と一人呟く。
 彼らの言い合いは宛ら母とその息子のようだった。
 一人立ちをさせたい母と、まだ幼いからと反対する息子。ノーチェは小さな子供か、小動物といったところだろうか――。

 馬鹿馬鹿しいな。
 ――自分の脳裏によぎるイメージを振り払い、彼はただ傍観していた。自分のことで何だかんだと言っていることは理解しているが、それに口を挟む気持ちにはなれないのだ。
 ただ、ソファーに座ってぼんやりとそれらを眺めて、決着がつくのを待つだけ。その合間に出されていた洋菓子を頬張り、紅茶で喉の渇きを潤して、ほう、と一息吐いた。

「あんたねぇ、ちょっとくらいは自然の多いところに連れて行ったりしたっていいでしょ。何も誘拐しようってんじゃないのよ。それに……空気が美味しいところで深呼吸させるのも、健康にいいと思うけど?」
「…………」

 リーリエが立ち上がり、溜め息がちに言葉を吐き連ねる。腰に手を当てて、終焉の言うことにそれとなく飽いてきているようだった。
 女の言葉に男の口が漸く止まったのを見て、彼は勝敗がついたのかと顔を上げる。
 傍らに聳え立つリーリエはほんのり眉間にシワを寄せていたが、終焉の顔を見や否やにっと笑い、「私の勝ちねん」と言った。
 対する終焉もまた、眉間にシワを寄せていたが――不意に視線を逸らし、ほんのり唇をへの字へと曲げる。むぅ、とあからさまにふて腐れたような表情をして、それ以上何も言うことはなかった。
 あくまで自分の事情よりも、ノーチェ自身の体を案じてしまうのが終焉だ。彼の健康に関して口を出されてしまっては――終焉はそれとなく気を遣っているのだろうが――返す言葉もない。
 ただ、大人しく負けを認めて、ゆっくりと椅子に座っていくのだった。

「…………分かった……けど……あまり長居は……」
「大丈夫だって、分かってるわよ〜! あんたの大事なものは横取りなんてしないから!」

 ちらちらとノーチェの顔を見ながら、男は小さくリーリエへと告げる。大事なもの――その言葉に疑問を抱いて、ノーチェは終焉に向かって小首を傾げた。
 そんなに大層なものではないと思っている彼は、リーリエが言う終焉の「大事なもの」が、自分自身であることに困惑が隠せないのだ。
 そんな彼の様子を見て、終焉は黙って視線を逸らす。その顔に、もうふて腐れたような表情はどこにもない。普段通りの、澄ましたような小綺麗な顔が、そこにはあった。

 あの表情、結構好きだな。

 ――なんて思って、再び席を立つ終焉の姿を彼は目で追いかける。澄ましたような表情よりも、子供じみた表情をする方が人間らしいと思っている所為だろうか。すっかり無くなってしまった表情を見て、ほんの少し勿体ないとノーチェは思った。
 渋々了承した終焉は「支度をしてくる」と言い残し、客間を出る。少しだけ寂しそうな背中が、すぐに壁の向こうへと消えてしまった。

「んー、まあ……一泊くらいでいいわね」

 そう言ってカラカラと笑うリーリエを他所に、ノーチェは食事の不安を胸に抱くのだった。


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