街を彩る秋の煌めき


 秋の収穫祭が本格的に始まるのは、夕方から夜にかけての間だ。ノーチェ自身、当日の街並みしか眺めていなかったが、終焉が言うには前日からすっかり祭りの雰囲気に呑まれているらしい。

 今も尚、菓子作りを続けている終焉は、祭りの概要を口にする。
 特別可笑しなところはない。本で得た知識と同じような祭りが行われるだけ。小さな子供が仮装をして、大人達に「お菓子をくれなきゃ悪戯するぞ」と告げて、菓子をねだり歩くのだ。
 男はそんな空気感が酷く苦手で、秋の祭りは基本的に参加をすることがないのだという。それこそ、ずっと昔から――。
 ――なんて言葉を聞いて、ノーチェは瞬きを数回繰り返す。終焉の言葉に何かが引っ掛かるような感覚を覚えて、小首を傾げた。彼が疑問に思っている合間にも、終焉はただ洋菓子を作り続ける。
 紙製の容器に入れた生地をレンジで焼き上げ、ふっくらと仕上がったカップケーキは終焉も満足の出来だった。五個作ったうちのひとつを口へと運ぶ。チョコレート色の生地にチョコチップが混ざっていて、試食をした男は満足げに頷く。
 「うん、美味い」そう言って食べ掛けのそれを何気なくノーチェに差し出して、試食を勧める。
 流れるような仕草に、一度彼は終焉の顔色を窺う。
 食べ掛けのカップケーキを食べさせようとしてくるのに、何らかの意図があるのだろうか。
 ちらりと目線を配らせてみるも、終焉は何食わぬ顔でノーチェを見つめている。赤と金の瞳が、動きのないノーチェを不思議そうに捕らえていた。
 この終焉の様子を見るに、男には下心も意図もないのだろう。よく見れば食べ掛けのカップケーキは、終焉が口を付けていない場所が向けられている。これはきっと、男の無意識の働きなのかもしれない。
 同じ場所を食べないことに関して安堵をするべきだろうか。
 ノーチェは一度迷うと、意を決したようにそれに口を付ける。何せ、終焉は自分自身よりも、ノーチェに食べてもらうことで安心感を抱くからだ。
 自分の味覚を信じればいいのに対し、終焉はあくまでノーチェの感想を信じる。原因は恐らく終焉は甘いもの以外の味が分からないからだろう。
 カップケーキを一口。口の中の水分が盗まれるのを感じながら、ノーチェは終焉の料理を堪能した。
 何度思ってもキリがないほど、「美味しい」の一言に尽きる。色味が変わっていようが、普通であろうが、味付けだけは何も変わらない。

「んまい……」

 そのことを素直に伝えれば、終焉は満足げに再び頷いてから、その食べかけを自分の口に寄せていった。
 ――やはり、終焉自身には特別下心はないようだ。
 すっかり口許へ収まってしまったカップケーキを見て、ノーチェは溜め息を吐く。思わせ振りな行動を取られては余計な気持ちが働いてしまう。そうなると酷く疲れたような気分になるのだ。

「これなら今回も平気だろう」

 そう言って普段は手袋で隠れている白い指先を舌で舐めて、男は後片付けを始めた。
 今回も、ということは、今までも形だけ洋菓子を作っていたのだろうか――。
 そこまで考えて、ノーチェはハッとしたように小さく「あ」と言う。つい先程まで疑問に思っていたが、終焉の言動により忘れていたことを思い出したのだ。

「なあ、アンタ、さっき『ずっと昔から』って言ってたけど……アンタはいつからここにいんの……? ここがアンタの家じゃないなら、初めからここにいない人みたいに思うんだけど……」

 もし違ったらごめん。
 そう告げて、ノーチェは終焉の言葉を待った。言い出し渋る様子はないが、終焉は「そうだな……」とだけ呟き、使った道具を洗い続ける。
 陶器がぶつかり合う音が鳴っては、水が泡を流す音も聞こえる。
 作業中に訊いたのが間違いだったのかと、ほんの少し不安になるノーチェは身動ぎを繰り返す。髪紐で髪を束ねた男は、長い髪を揺らしながら蛇口を捻る。
 きゅっと音を鳴らしたあと、終焉は振り返り、彼に言った。

「――貴方は、私が何度も同じ時間を繰り返していると言ったら、信じるか?」

 濡れた手をタオルで拭いながら、終焉はノーチェを見つめていた。酷く真面目な顔付きで、冗談のひとつも言わないような神妙な面持ちだ。お陰で「何を言ってるんだ」という言葉すらも呑み込んで、彼は「えっと、」と小さく呟く。

 終焉が滅多に冗談を言わない性格であるのは重々承知の上だ。
 特にノーチェのことに関しては、決してふざけることのない男である。
 日常生活に関しても、街中で散歩をするにしても、子供に言い聞かせるような注意を言ってくる。皿が割れたら危ないだとか、椅子が倒れたら打撲傷が残るだとか、迷子になったら大変だとか――そんな事ばかり。まるで、自分が幼い子供にでもなったような気分にさせてくる。
 一度だけ彼は「子供扱いしなくていい」と告げたことがある。何気ない日常の中で、いい加減嫌気が差したノーチェはあまりふざけないでほしい、と言ったのだ。
 そのときの終焉の顔をノーチェは今でも覚えている。
 赤と金の瞳を丸くするでもなく、からかうように笑うでもない。ただ不思議そうに首を傾げ、「何を言っているんだ」と言いたげな視線を向けてくる。
 その表情は、冗談すら知りもしない一人の男の顔だ。
 それを見たとき、彼は終焉が冗談で身を案じてくるわけではないことを知る。

 そのときは「何でもない」で乗り切ったノーチェだが、今回ばかりはほんの少し違うように思えた。
 冗談であれば「冗談だ」と言う終焉であるが、先程の言葉に関しては冗談だと付け足すこともない。ただまっすぐにノーチェを見つめながら、彼の返答を待つ。
 現実的に考えれば、同じ時間を繰り返すなど有り得ない出来事だ。それこそ死がなければ時間すらも関係がない。終焉とノーチェが言う「死にたい」なんていう願いが、少しも叶わないのと同義である。

 ――しかし、そんな時間の遡行すらも有り得そうに思えるのは、気の所為だろうか。

「――……俺は……信じたくは、ない……」

 本当にそんなものがあるなら、奴隷のままでいてしまうなら、そんなものは体験したくない。
 ――そんな気持ちを込めて返した言葉に、終焉は納得したように目を閉じる。目を閉じてから、手元にあるタオルを机に置いて、たった一言

「冗談だ」

 ――とだけ呟き、作り置きをした洋菓子達に向き合う。
 カップケーキの他にプレーンと紫のクッキー。途中で色染めを諦めて普通に出来上がったショートケーキに、丸い形のドーナツ。流石に作れないと音を上げて、街中で買ってきた祭り仕様のキャンディ達を盛り付けて、ほう、と吐息を洩らす。
 祭りの雰囲気に身を投じると言ったお陰か、洋菓子を盛った入れ物はカボチャのような見た目をしていた。
 置き去りにされているノーチェ自身、本当に冗談だと思っていいのか頭を悩ませる。真面目そうな表情をしていた分、どうにも冗談であるとは思えないのだ。
 もしも仮に、終焉が同じ時間を繰り返しているというのなら、男は何度も四季の移ろいを経験していることになる。花の香りも、夏の暑さも、月の輝きも。
 そこに今回はノーチェが加わった、というだけであって、大した違いはないのだろう。

 ――いや、だからこそ、終焉は舞い上がることがあるのだろうか。

 飾りつけまで施した終焉の背を眺めて、ノーチェはこっそりと眉を顰める。
 今の話が本当ならば、この人は何回この時間を繰り返しているのだろうか。
 じぃっと見つめた先にいる男は、ノーチェの視線に気が付くと不思議そうに瞬きをした。「どうしたんだ」と終焉は小さく呟く。何の変哲もない、ただの無表情がそこにはあった。

「……別に……何でもない」

 ふい、と視線を逸らし、ノーチェは終焉の隣に並ぶ。
 よく考えれば、終焉が何度時間を繰り返していようが、彼には関係がないのだ。――仮に、関係があったとしても成す術もないのだ。
 終焉の隣に並ぶと、仄かに甘い香りが漂ってきた。洋菓子を作り続けた結果が衣服に染み付いているのだろう。
 ――というよりは、キッチンに香りが充満している、というのが正しいのかもしれない。
 凄い香りだなぁ、なんて思いながら飾られた洋菓子達を眺める。昼頃から初めて休みなく動くこと数時間。日が落ちることが早くなった秋の空を眺めることなく、時計を見やって「ねえ」とひとつ。

「夕飯の用意、そろそろしないとじゃないの……」

 そう呟けば、終焉も倣うように時計を見上げた。造りのいいアンティーク調の時計の短針は、四と五の間を指し示している。
 「そう言えばそうだな」――と呟いた矢先、風呂の用意すらしていないことに、終焉は気が付いたのだった。

◇◆◇

 ――ぱしゃん。
 小さな音を立てて温められた水が跳ねる。相変わらず不透明度の高い白く濁った湯船に、ノーチェは小さく吐息を吐く。はあ、と何気ない溜め息のような息遣いが、浴室に響いた。

 手早く夕食を済ませた彼らは、普段とは順序を変えて食事のあとに風呂に入ることにした。食事のあとに風呂で体を温めてしまうと、眠りに就いてしまう可能性がある。――その点を懸念している終焉は、基本的に夕食前にノーチェを風呂に入れたがった。
 実際、風呂場で眠りこけてしまうのは終焉だけであるのだが、ノーチェはそのことを伝えずに今に至る。

 ほんのりと甘い香りのする湯船に肩まで浸かり、天井を仰ぎ見る。終焉は相変わらず寝る前に入浴を楽しむようで、一番風呂を彼に譲った。
 髪の長さから言えば、寝る前の入浴は避けた方がいいような気もするが――、特に気にしたこともないのだろう。

 ほうほうと沸き立つ湯気に視界を奪われながら、湯船から手を出す。入浴剤のお陰で触り心地がよくなってしまった手を軽く撫でて、体の調子を見た。
 奴隷とは思えなくなってきた体つきに、ほんの少し違和感を覚える。
 同時に、このままでいれば本当に奴隷ではなくなるのではないか、という希望さえ見えてきたような気がした。
 ――当然錯覚だというのは重々承知の上である。
 入浴中だとしても、就寝するとしても決して取れることのない首輪を外さない限り、本当の希望など見える筈がないのだ。
 首輪を外す手懸かりはノーチェはおろか、終焉すらも所持していない。恐らく一族の誰かが鍵を握っているのだろう。

 ――ほう、と溜め息をひとつ。叶いもしない夢を見るほど、落ちぶれているわけではない。
 入浴中は嫌なことばかり考えるな、なんて思いながら、ノーチェは立ち上がり、湯船から出る。すっかり茹で上がったような色をした足先を視野に入れながらタオルを取り、顔を埋めた。ふんわりと柔らかな香りと、温もりに包まれる。
 洗い立ての洗濯物の香りだ。
 数秒の間、タオルに顔を埋めていたノーチェは顔を離すと、髪を拭く。体を拭く前に濡れた髪をどうにかしなければ、拭いた矢先にまた濡れてしまうからだ。
 もそもそと髪を拭い、満足したら体を拭く。その繰り返し。拭いている間に「あの人はどうやって髪を拭くんだろう」なんて思い、全身を拭いたあとは小休止を挟む。僅かに上がった息を整えて、漸く衣服に手を伸ばすのだ。
 洗うものは洗濯かごに。溢れないように押し込んだあと、部屋を出ようと扉を開ける――。

「出たか」
「わっ」

 扉を開けた先、普段ならいない筈の終焉が向かいの廊下で腕を組んでいた。何かあったのかと咄嗟に警戒心を抱くが、終焉はノーチェの手を掴んで脱衣室へと押し戻る。
 洗面台に向かって鏡を見て、ノーチェが茫然としている間に男はドライヤーを手にした。
 耳障りな音と共に熱風が当てられる。流石に手袋をしていない手は、髪を掻き上げながら丁寧に風を送り続けた。乾かし残しのないように、些細な気遣いも怠らず。
 ひやりとした冷たさが後頭部から伝わるが、それよりも終焉の意図が読めずに困惑する。
 タオルで頭を拭かれることは多々あるが、ドライヤーで乾かすことは滅多にない。それこそ本当にこれから用事があるとき以外には手を出さないほどだ。
 だからこそ彼は終焉に「何かすんの……?」と問い掛ける。すると、終焉は髪を撫でながら一言

「街でも軽く見に行こうかと思ってな」

 ――と言った。
 出入り口付近でも結構雰囲気は伝わるよ、なんて言って、終焉はドライヤーを洗面台に置く。カタン、と物音が鳴ったあと、離れた男の手を追うようにノーチェは自分の髪に触れた。自然乾燥よりも柔らかく仕上がった髪に、不思議な気持ちが芽生える。
 何だか自分のものではないような気がして、むず痒く思えたのだ。
 ノーチェが自分の髪に気を取られている間、終焉は手早く身支度を済ませてノーチェに上着を差し出す。男は普段通りの黒いコートに身を包んでいて、秋も半ばに入った今では暖かそうに思えた。
 終焉が差し出した上着を羽織り、彼らは廊下を歩く。

「雰囲気を楽しむのに、街を見に行くの……?」

 なんて問い掛ければ、男は靴を履きながら「まあな」と言う。

「雰囲気を感じるのにうってつけだからな」

 きっと収穫祭がどんなものかを知ってもらえると思う。
 ――そう言って終焉はエントランスでノーチェに手を伸ばす。しかし、そこまで手を煩わせるわけにはいかないと、彼はその手を押し戻した。「自分で歩けるってば」と言って靴を履く。
 子供扱いをしているわけではなさそうだが、どうも変な気分になるのだ。

「む、振られてしまった」
「あんま変なこと言うのやめてくんない……?」

 靴を履いて、エントランスの扉を開けて、先を歩く終焉の後ろをノーチェが歩く。
 夕方も過ぎて六時も過ぎれば、すっかり日は沈んでしまっていた。紺色に染まる夜空にはぽつぽつと星が瞬き始めている。満月も過ぎた月は欠けていて、辺りの街灯が少ない所為か、一際薄暗く見えた。
 頬を撫でる風は冷たく思えて、ノーチェは咄嗟に終焉の背に回って風を避けた。

「……ノーチェ、あまり私に近寄らない方がいい」

 不意に呟かれた言葉に、ノーチェは目を丸くする。
 意外だった。普段から肌身離さず、といった言葉が似合うほど、ノーチェを身近に置きたがる終焉だ。しかし、男はあくまで自分に近寄るなと言って、頭に手を置いてくる。
 理由は簡単。終焉の近くにいると普段よりも寒さを覚えてしまうからだ。

 夏場では快適だと思えた男の体質は、寒くなるにつれて厳しいものになっていった。男の体へ近寄れば近寄るほど、気温よりも冷たい感覚が肌を撫でるのだ。

 それを懸念して終焉はノーチェに離れろと言うのだろう。そうして、立て続けに「貴方は私とは違って人間なのだから」という言葉に、彼は口を閉ざす。
 暗闇に沈む赤い瞳がほんのり寂しそうに揺れた気がした。

 ――本当にそれで納得してもいいのだろうか。

 歩きながら頭を撫でる終焉に対し、ノーチェは男のコートを掴む。てっきり離れると思っていたのか、ほんの少し目を丸くした終焉に対して彼は「あんまり気にしてない」と言った。
 確かに僅かながらも寒さを覚えているが、終焉と出会う前ほどではない。ほんの少しだけ、肌をつつくような冷たさを覚えているだけで、支障が出ているわけではないのだ。
 彼の言葉に終焉は目を丸くしていたと思えば、前を向いて「そうか」と独り言のように呟く。表情や声色には大きな変化はないが、僅かに嬉しそうに聞こえたのはノーチェの気の所為だろうか。
 ――しかし、気にすることでもないと思い、ノーチェも終焉の後を歩く。
 さわさわと風に撫でられて落ちる木の葉に、枯れ始める地面の草を見て、冬の足音を聞いた。

 冬は嫌いなわけではないが、好きなわけでもない。ただ思い入れがないような気がするが、あの静けさは好んでいる自分がいる。
 余計な音がなくて、鳥達は眠りに就いて、極度な寒さがなければ落ち着く季節だ。
 以前は奴隷として生きていた所為で季節を感じることはなかったが、今回はしっかり季節を堪能できるのかもしれない。外や地下室、キャリッジよりも温かい屋敷の中で長くなった夜を実感するのも悪くないだろう。

「……アンタはさ……冬って好き……?」

 無言で歩く時間がどうにも厳しくて、他愛ない雑談をしようと言葉を溢す。土を踏み締める音に混じって、終焉の返答が風に乗って来た。

「寒いのは嫌いだ。でも……長くなる夜は好きだな」

 ノーチェの名前も夜だしな。そう言って桜の木が聳え立つ小さな丘まで登ってきて、ほう、と一息吐く。気が付けば街への道程からは外れていたが、ほんの少し先にある入り口を見て、終焉が嫌がるのも分かったような気がした。
 橙と黄色と、時折紫が目立つ大小様々な灯りが、暗闇に慣れていた瞳をちくりと刺してくる。「眩しい、」と呟けば、隣で終焉も「む……」と小さく唸った。

「中に入りたいか?」
「……いや、いい……」

 ほんの少し離れただけの丘の上まで響いてくる子供達のはしゃぐ声に、ノーチェは首を横に振った。
 終焉は子供が苦手だというし、眩しいのも普段から嫌そうにしている。そんな男を引き連れて街の中へと向かおうなど、彼の中の良心が許さなかった。
 「見るだけで十分」と言えば、男は安堵の息を吐いたのを、彼は聞き逃さなかった。
 あの街中を仮装した子供達が練り歩いているのだろう。出会い頭に大人達に菓子をねだり、なければ悪戯をされるという、あまり気の進まない祭りが始まっている。夜が更けるまで――とはいかないが、ある程度の時間が経つまでは街には入らない方がいいのかもしれない。
 その証拠に終焉も「あまり入りたくないんだ」と言って、街の様子を眺めていた。
 街は点々と灯る灯りがうろうろと辺りを飛び交っているように見える。終焉が言うには、街で見かけたカボチャのランタンを持って歩いているから、時折そう見えるのだそうだ。
 歩くように動いたり、走ったり、ぴたりと止まったり――見ているだけでほんの少し目が疲れる。
 堪らず目元を押さえて「はあ」とノーチェもが呟くと、徐に終焉が街の方へと指を向けた。

「ほら、あれが本物≠セ」

 男の指の先にあるのは、僅かに白く輝いているような、曇っているような何かだ。それがふらふらと、揺らめきながら街へと降りていくのが見える。空から下へ、たまに下から上へ。ゆっくりと行き来を繰り返すそれを、男は本物だと言うのだ。

「――……そう……」

 こんなことってあるんだ、なんて言いかけた。
 ――しかし、直後にノーチェは胸元に小さな痛みを覚える。針を刺すようなチクリとした――、ほんの少し焼けるようなじりじりとした痛みが、胸元からみぞおちへ走ったような気がした。
 だが、その痛みも一瞬の出来事。一息吐く頃には既に痛みはなくなっていて、ほっと胸を撫で下ろす。
 たった一瞬の出来事だ。終焉に言う必要はないと思い、彼は横目で男の様子を窺ったあと、そっと視線を逸らした。
 気付いているのか、そうでないのかは分からない。ただ、話を広げたいのか、教会£Bの今日の動きをぽつりと語る。
 子供達に集られているあいつらの様子は一度だけ見てほしいものだ、と言う姿は、ほんの少し悪戯をしている子供のよう。
 そんな終焉にノーチェが大した返事もできる筈もなく、彼は

「ふぅん……」

 ――と生返事をした。
 それで男が苛立ちを覚える筈もない。――だが、それを何と捉えたのか、終焉は「そろそろ戻ろうか」と提案をする。

「どのみち貴方は風呂から出た身。このまま外にいたら湯冷めしてしまうしな」

 そう言って柔らかく頭を撫でてきた終焉に対して――、ノーチェは喉元に違和感を覚えたのだった。


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