晦明たる所以


 色鮮やかなステンドグラスが月の光に当てられて聖堂へと差し込む幻想的な光景。薄暗い室内が仄かに明るく、それでいて複数の色を折り重ねて、この世のものではないと思わせるような美しさを称えている。外では微かに梟が鳴いていて、時折木の葉が擦れるような微かな音が耳に届くほど、教会の内部は静けさに包まれていた。
 幾つかの長椅子が並び、その中央をレッドカーペットが堂々と敷かれている。
 そこをゆっくりと歩く足音は極力抑えられていて、まるで侵入に気付かれまいと気を配っているようだ。
 長椅子の横を悠々と通り過ぎる様は余裕綽々と言えそうで、暗闇に沈む地毛は平常よりも暗く、闇が深い。長い長髪は歩く度にゆらゆらと波のように揺らめいて、口許に咥えられたココアシガレットは機嫌の良さを裏付けるよう、鋭い八重歯によって噛み砕かれる。
 ――パキン、と静かすぎる教会の中で小さな音が響いた気がした。足下を見れば折れたココアシガレットと破片が小さく散らばっている。
 「あー……勿体ね」教会に忍び込んだ男――ヴェルダリアは小さく呟くと、落ちた欠片を一瞥し――そのまま無造作に足を振り上げ、惜し気もなく踏み潰す。小石を踏んだときのような軽い感覚、より一層砕こうと足を捻ると、細かく擦られる快感を得た。
 彼はそのまま足を踏み出して再び教会の聖堂を歩く。
 大きなステンドグラスを見上げれば、前方には自分の身長を遥かに超える大きな十字架が存在している。その左側にはいやに豪華なパイプオルガンが聳え立っていて、年代を感じさせるような貫禄がそこにある。
 ステンドグラスの右側には扉が存在しており、男はそれに手を伸ばすと、徐に扉を押し開ける――。きぃ、と小さく扉の留め具から音が鳴っていた。
 部屋の中はあまりにも薄暗く、月明かりが入りそうで入らない微妙な窓が微かに開いている。春とはいえ夜はまだ肌寒く心なしか毛布が欲しくなるような気候だ。
 男はその窓に近付くと、慣れた手付きで窓を閉め、鍵を掛ける。そのまま流れるように部屋全体を見渡して、寝具が片付いていないままの状態であるのを確認するや否や寝具に近付いて、微かにシーツを伸ばして、布団を捲る。
 本来居る筈の人影はまるで見当たらなく、徐に振り返れば床には、一人の女が動物のように体を丸めて小さな寝息を立てていた。

「……そこはベッドじゃねえぞー」

 ぺちぺちと頬を軽く叩く音。それに女が小さく顔を顰め、「うぅん」と唸り始める。――だが、やはり目は覚まさないようだった。
 微かに身動ぎを繰り返したと思えばそのまま深い眠りに落ちてしまったようで、神秘的なグラデーションをした髪が頬に付くのも気にせず落ち着いた呼吸を取り戻してしまう。真っ白なワンピースのような服が酷く似合う女だった。
 それを溜め息がちに見つめては、娘を想う父のように微笑みを浮かべ――ヴェルダリアは女を抱き寄せると、そのまま軽く整えた寝具の上に丁寧に載せた。

◇◆◇

 ――夜がすっかり更けている。
 時間帯は定かではないが、月は高く昇っているのは確かだ。淡い月明かりが街外れの屋敷を仄かに照らしている。屋敷の中は明かりが点いていて、月明かりなど掻き消してしまうほどに眩しかった。
 二階建ての広い屋敷にはリビングもキッチンも、個人の部屋も完璧に揃っていて、暗い庭には見慣れない花がひとつ、ふたつと咲き誇っている。
 屋敷の中は目眩を覚えてしまうほどになかなかに広かったが、廃墟に見えていたのは気の所為だと思えるくらいほど、埃ひとつ見当たらない。よく手が行き届いていて、窓は素手で触れない限り汚れが付くことはまずないだろう。
 その屋敷の住人は明かりの下で食事を摂って――おらず、リビングには人はおろか、食事すら見当たらない。まるで初めから人など存在しないかのような異質な静けさを湛えていて――ふと、耳を澄ませば水の音が響いてくるのだ。
 当たり前のように存在する重たげな扉。それを越えた先に見えるタオルと洗濯機、そして洗面器。部屋の中から儚げな水音が鳴っている。
 それがシャワーだと分かるのに時間は必要ないだろう――。

「…………?」

 青年は自分の現状がまるで理解できないかのように眉を顰め、不意に襲い来る体の重みに倒れる自分の体のバランスを取ろうと、咄嗟に両手を前に差し出してしまう。
 「目を閉じないと酷い目に遭うぞ」そんな言葉が頭の上から降り注ぐように落ちてきたが、その声に反してほんのりと目を開くと、瞼の上からゆっくりと何かが垂れてきて、嫌味たらしく目の中に入ってしまう。風に当たれば冷えを感じてしまうような特徴的な痛みは味わいたくなかったものだ。
 ――洗髪剤が青年に鋭い痛みを与えたのに気が付いて、男は「だから言ったのだ」と呆れ気味に、尚且つ溜め息がちに呟きを洩らしている。

「悪いな。貴方の現状を打破する為の根本的な解決は、私には不可能のようだ。本当は首輪もどうにかしたいものだが……何せ、私の腕が消し飛ぶので」

 そうなっては元も子もない。男は青年の頭を丁寧に洗いながら彼の首にあしらわれた首輪が外せない事情を口にしている。

 非現実的ではあるが、青年の首輪に触れれば男の腕が消し飛んでしまうらしいのだ。男はそれを自分の手で外して欲しいと願っているようだが、青年にはまるで活力が感じられない。このまま放っておけば何もせずただ死ぬのを待つだけのように見えるのだ。
 ――それが理由だろう、男が彼の風呂を手助けしているのは。

 痛みに呻く暗闇の中、不意に顔面に熱を感じた青年は反射的に肩を震わせる。そして、それが目を洗う為のシャワーなのだと理解すると、痛む片目を小さく擦って洗髪剤を取り除く。
 「……無事か」そう小さくも低い威圧的な声がやはり降り注ぐのだ。彼は数回瞬きしたと思えば、頭から流れ来る泡とお湯を感じて、咄嗟に目を閉じる。「ああ、すまない。言えば良かった」と男はまるで謝罪の意を込めずに呟いた。

 ――彼にとって着目すべき点はそこではない。水が滴る音、蒸気が目の前を曇らせていく事実。背後には人一人使うには少し大きい黒い浴槽がお湯を溜めて入浴者の存在を今か今かと待っている。
 青年は突然連れてこられた挙げ句、手を引かれて問答無用で「脱げ」と半ば無理矢理脱がされたのだ。最早気力も湧かない彼にとってそれはまだ辛うじて許せる範囲だっただろうか――それとも、抵抗する意志すら持つことを諦めたのだろうか――多少驚きもしたが、「風呂を沸かす」と言われたのだ。連れられた場所が風呂場だということは確かに理解していた。
 理解していたのだが、まさか男の手で身の回りの世話をされるなど、誰が思うだろうか――。
 雑と見せ掛けてまるで慣れているかのような丁寧な洗髪、髪だけではなく頭皮のマッサージさえも行き届くような完璧なそれは、茫然としていれば不思議と眠りを誘われてしまうほどだ。
 ――しかし、青年は困惑している。眠りよりも遥かに強く、波が押し寄せるように戸惑いが胸に募り、状況を整理するために頭を働かせてしまう。
 何故自分はこんな目にあっている、この男の目的は何だ、と小さな疑念が意識を叩いて眠気を掻き消してしまう。

 それに反して男は頭の泡が全て流し終えたと確認すると、蛇口を捻り、湯を止め、「次……」と小さく口を開いた。
 次――それは、風呂に入るには到底似合わない首輪が付けられたままの体を洗うこと。本人の自尊心を叩き壊さないよう、腰に巻かれたタオルが水を含んで肌に密着しているのがよく分かる。
 体付きは悪くはない――けれど、はっきりと良いとは言えない。それをまじまじと見つめていた所為だろう。青年が微かに身構えるように体を丸めて、「……何が目的だ」と呟きを洩らす。

「……こんなこと、他の奴はやんなかった……」
「そうか、そうだな。他と同じにしては困る。私には私なりの理由があるのだ。……私の目的は追々話すとして、次の――」

 酷く澄ました顔だった。何を言っても動じない、何をしようとも最早興味の範疇にない、そう言いたげに意を決したようにボディタオルを手に取っていて、流石に残された青年の意志が語り掛ける。
 今まで酷い目に遭わされていたが、気力が湧かないとしても自分が成人している人間である自覚はあるのだ。一般的に言える「いい歳した大人」が見ず知らずの他人に介護されるように体を洗われるなど、それこそ小さな自尊心が傷付いてしまう。
 不意に彼は咄嗟に体を引いて、男に向かって手を突き出した。
 触るなと言いたげな様子に男が動きを止めると、青年は漸く困ったような、焦るような表情を微かに浮かべて首を横に振る。男としての何かが完璧に崩れる前に阻止せねば、と無意識に動いた結果だった。

「……だ……大丈夫、なんで……その……それくらいはできると……思うんで」

 完璧な自信があるとは言い切れない口振りに、こんな簡単なことすらもやれる気がしないのかと雑念が混じる。無気力だった筈なのに、拘束が緩くなって以来微かな気力が蘇った気がするのだ。
 湯気が立ち上る視界で向かい側の男は数回瞬きをすると「……そうか?」と首を傾げている。恐らく彼の気力の無さに気が付いていたのだろう。そして、それが自分に対する嘘なのではないかと微かに疑っているようだった。
 野生の獣のようにどこか鋭い眼光は青年の体を射抜くほどに冷たく、妙な緊張が場を凍らせてくる。彼はそれを無言のままじっと受け止めるだけだった。
 ――やがて男は嘘ではないと思ったようで、「それなら良かった」と、何も思っていなさそうな無表情のままタオルを彼に押し付ける。

「では私は夕食の準備をしよう。――良いか、絶対に死ぬような行動は取るなよ」

 男は浴室から出る直前、青年に振り返り釘を刺すように強い言葉で言い放つ。威圧的な血のように赤い瞳が微かに細められた気がした。男がそう念を押し付けてきたのは彼の様子を見て――暗い瞳を見て、僅かながらも確信を得てしまっていたからだろう。
 動物の息の根を止めるような鋭い眼光に身震いして、青年は思わず腕を擦る。その間にも男は湯気の立つ浴室から出て不透明な扉を静かに閉めた。

 途端に広がる静寂。湯気の立つ浴槽、シャワーから滴り落ちる水滴。たとえ自傷行為に陥ったとしても、誰にも気付かれず、血行が良くなっている体からは絶えず血が流れ続けるだろう。
 全てに希望を見出だせないかのような暗い瞳を持った青年は落ち着いた様子で浴室を眺め、ほう、と息を吐く。ふと、剃刀が視界に飛び込んできた。
 死ぬ為の条件は揃っていた。
 ――では、自殺するための勇気は一体どこにあるのだろうか。
 力の抜けきった左手首に刃を押し当て、それを引くだけで良い。剃刀の刃は思っている以上に鋭く、軽く指でなぞるだけでも指の腹には小さな傷が付いてしまうほどだ。
 その鋭い刃を、力を込めて引けば手首の切り傷は指の比にならないだろう。それを温まった湯に入れて血の流れを止めないでいればいつかは死ぬ。湯船は赤く染まり家主と思われる男には迷惑が掛かるだろうが、確かに死ねるだろう。
 男が念を押した通り、彼はやはり今にも死にたげな顔をしていた。瞳に映るのは剃刀の刃の部分――。
 青年は茫然とした瞳で徐に手を伸ばす。曇る視界は手を伸ばす先を見るのに支障はない。
 「……死ねば楽になるんだろうな……」――そう言って彼は、ボディーソープのボトルを手に取った。小さくあしらわれた桃の絵が家主と見合わぬほどの愛らしさを放ってくる。
 ――思えば湯船もそうだった。透明ではなく真っ白に彩られたそこからは仄かに甘い香りが漂ってくる。見た目に合わないが、男は甘いものや愛らしいものが好きなのだろうか――「意外」そう言って彼は覚束ない手付きでゆっくりと体にタオルを押し当てた。

 浴室からほんの少し歩いた先、キッチンへと向かう足が少しずつ頼りないものに変わっていく夜も更けた午後十一時半。
 独りで住むにはあまりにも広すぎる二階建ての屋敷に身を寄せる男――終焉の者≠ェ壁に身を委ね、徐に膝を曲げてしまう。まるで吐き気がしていると言いたげに口許に手を当てて、はあ、と大きな溜め息を吐く。

「……人間臭い……」

 悔しげな声が洩れていた。月明かりの灯る廊下で窓から見えるのは逆光を浴びる黒い木々。時折梟が目を輝かせてこちらを見ているように思えるが、男は意に介す事もなくゆっくりと立ち上がる。
 力強く口許を手で拭った。同時に「まさかこの私が……」と独り言を呟く。
 まさかこの私が白昼堂々喧嘩を売るなんて――。
 その言葉は男しか居ない暗い廊下に響き渡って、静かに虚空へと消えていった。

◇◆◇

 ――時を遡って名も無き昼下がり。まだ賑わいがざわめきに変貌していない鮮やかな街並み。街一番を誇れる丘の上にある立派な桜の木は穏やかな風に揺られているだけ。街の様子は活気に満ちたまま、様々な人間の声が入り交じっている。
 値引きを交渉する声、子供達が駆け回る音、遠くから聞こえる水の音。時刻を告げた鐘の音は余韻を残したまま、賑わいを見せる街の中へと消えていった。
 風が吹く度に丘の上からやってくる桜の花弁は道行く人々の心に癒やしを届けて、落ちていく花弁を掴もうと手を伸ばす子供達は少なくはなかった。
 市場は程々に、然れど人の数は上々で。昼時という理由から数を増していく人の中に身を隠すように、黒衣を纏った男は悠然と歩いていた。
 一目見れば誰もが異色だと思うほどの黒だった。暖かい日差しがあるというにも拘わらず、厚手のコートのファーがついたフードを目深に被り、両手をポケットに入れていて、袖に刻まれた白い逆十字の模様が一際大きく存在を放っている。
 ――そんな異質な存在だというのにも拘わらず、擦れ違う人間は黒衣の男に目もくれず、子供の手を引いては笑って街を歩いている。その様子はまるで幻想物語に出てくるような魔法にでもかけられたように、誰もがそれを可笑しいとは思わなかったのだ。

 光明のルフラン――街の規模は大きく、最早国と言っても差し支えがないほど。しかし、他国との公な交流は見えたものではない。閉鎖的な街だというのに異様に明るく、活気に満ち溢れているというのに、他所との交流が全くないのだ。
 ルフランにあるのは市場に広場、噴水に教会と聳え立つ時計塔――街のほんの少し離れには桜の木と、大きな屋敷がひとつだけ。
 街に足りないのは治める為の王――または土地を治めている領主だろうか。

 そんな街の中を黒衣の男は悠々と歩いていた。日差しが苦手なのか、住人の髪が日の光を反射する度に忌々しいと言いたげに目を細める。
 遠くに聞こえる子供達の声と水が流れる音――噴水が存在する広場では子供達が遊び回っているのだろう。
 陽気な日差しの中のルフランは季節に合わせてか、市場の賑わいは平常よりも一際大きく、四方八方から競り合いの声が響く。時に花弁が飛んで来ることがあるからだろうか――桜だ、と呟く人々の声が聞こえた。
 丘の上にある木の花が街にまで届くのはそう滅多にあることではない。余程の事がない限り――それこそ、強風でも吹かない限り届きはしないのだ。
 男はひらひらと舞い落ちる花弁を見つめ、徐に手を伸ばす。すると、花弁は吸い寄せられるように黒い手袋をつけた男の手のひらに落ちる。淡い桃色に彩られた柔らかな花弁は人々にとってそれはそれは珍しいもので、春になる度に色を変える木がとても気に入っているようだ。
 かく言う男もまたその一人であって、鮮やかなその木を遠目で見る様はまるで子を持つ親のような心持ちであった。

 ――不意に男の足元に小さな重みと痛みが迸る。

 見れば人が行き交う中で運悪く男にぶつかったであろう少年がこちらを見上げていて、初めて男を認識したかのように目を丸くしている。それに反し男は厄介なものを見るような目付きで――微かに子供を睨むように目を細め――それを振り払うように、逃げるように花弁に気を取られ止めていた足を動かした。
 男の後ろから泣き喚くような声が上がったのは言うまでもない。それが嫌で嫌で、男は人通りが少ない道だけを選んでいく。
 燦々と晴れた春の陽気、行き交う街の人々、周りの緑に心惹かれる小鳥達は暢気に歌を口ずさんで厭に楽しげだった。

「……何も知らない呑気な奴ら……」

 皮肉を込めるように男は小さく口を洩らして黒いコートの襟から覗くを口許に宛がう。
 第三者から見て金を彩った左目には縦に傷痕が入っていて、忌々しげに赤と金のオッドアイを細める様は威圧的以外の何ものでもない。
 「こんな不快になるなら外になど出なければ良かった」と男は口を洩らす。先程よりも人通りが少ない筈の街中なのに、誰もがその言葉を聞いていないかのような素振りを見せ続けていた。
 認識されない為の工夫――それを駆使して認識されないよう黙々と街中を歩いている。一度止まれば先刻のように不意に誰かがぶつかって認識されてしまうかもしれない。
 ――それだけは避けたかった。男が後にいう終焉の者≠セからだ。
 大事になれば街中の混乱は免れないだろう。それどころか厄介な者達がぞろぞろと躍り出て男を取り囲むに違いない。

 やはり日中の外出は避けるべきだった。

 男は手袋をつけた手で顔を多いながらはあ、と溜め息を吐くと、何故日中に外に出てきたのかを考える。
 説明がつくとは言えないが、一言で表すなら「呼ばれた気がした」からだ。普段からできるだけ人目を避ける男であるが、この日だけは妙に日中の街中が気になり、宛もなく外出をする。
 予想通り街は人で溢れ、息苦しいと言っても過言ではなかった。目が眩むような降り注ぐ日差しも、行き交う人間の足音も男にとって耳障りなものでしかない。――それでも何故か外へ出ようという欲求が抑えられなかったのだ。
 ファーがちらつくフードを目深に被り、両の手をポケットに入れ、街の散策をする。一度厄介な者に見付かれば面倒事は避けられないだろう――そんな注意を払いながら。

 しかし、外へ出たいという欲求など気の迷いだったと言いたげに男はうんざりとした顔で――しかし表情は一切変わらず――ゆっくりと歩を進める。できるだけ建物の陰に隠れるよう道を選びながら、それこそ路地裏でも歩くような面持ちで市場へと向かう人の波に逆らい続けた。

「――何してんだこの役立たず!」

 そんな怒号と共に微かに届く地に倒れる音。小さくざわめきを覚える人の波だが、どうにも声がする方へと目線は向けていかない。それどころかそそくさと向こうへと駆けていく者まで居るのだ。
 男はその様子を見て――いや、声色からして、声の主が商人≠ナあると認識した。
 光明のルフランとは言うが、それは表向きの話。明るく活気に満ちた街である反面、商人≠ニ呼ばれる人間が人間を売りに来ることも少なくはない。横暴な性格をした商人≠ェ多いもので、誰も彼も彼らに逆らおうとはしないのだ。
 それは夜になればなるほど、闇に紛れるかのように活発化していることから、住人は光明のルフラン♂め、晦明のリフレイン≠ニ呼ぶことがあるのだ。
 ――その光景は夜に限り見られるものではない。日中でも人通りの少ない場所で人知れず行われるのだ。人通りの多い所で行われるとすればそれは商人≠ノとって確実に売り付けたいもの――所謂「目玉商品」が存在するくらいだろう。
 声のする方からして彼らは街の中心部へと向かうようだった。恐らくとっておきの目玉商品があるに違いない。
 「売る方も、売られる方も等しく無に還るのにな」なんて言って、男はその姿を一目見て同情とも言える眼差しを向けてやろうと振り返った。
 それがいけなかったのだろう。――いや、男は彼らを、彼を見るべく男は外に赴くように仕向けられたのだろう。
 得体の知れないものに呼ばれる感覚というのも信じてみるものだな、と男は目を見開いた後、自分が呼吸というものを忘れていることに気が付いた。

「………………」

 人通りの多い方へ向かおうとする商人とその奴隷は、遠巻きに見る野次馬達に囲まれていることが長身である男からは見て取れる。――いや、長身でなくともぐるりと辺りを見渡せば彼らを避けながらも囲む住人が確かに居るのだ。
 男が呼吸を忘れてしまうほど驚いたのはその光景ではない。あくまで彼に驚いたのだ。
 ――怒号を飛ばされて尚言い返すこともなく、無様に地面に投げ飛ばされた体を徐に起き上がらせる。俯いていて顔はろくに見えやしなかったが、白い毛髪が何より特徴的に思えた。手足に施された拘束具と首にあしらわれた首輪は彼の抵抗の意思を取り除く為のようにも思え、機嫌が悪くなるかと問われれば「不愉快だ」と答えたくなるような風貌だ。
 そして、ゆっくりと顔を上げると、ろくに見えなかった顔立ちが露わになる。
 白い毛髪に色の反転した瞳――冬の夜空のように輝く紫と、月のような輝きを持つ金色が一ヵ所に留まっているという独特な瞳が、白い毛髪によく映えているような気がした。目元の逆三角形を描く模様は誰をどう見ても施されてはいない――つまり、彼の象徴とも呼べるだろう。

「奴隷の分際で手を煩わせるなよ……!」
「……!」

 土を抉るように放たれた鋭い蹴りが彼の脇腹を捉えた。薄い布切れ一枚だと言っても過言ではないその青年に対し、商人の足には造りの良い靴が履かれている。
 誰がどう見ても一方的な暴力に顔を逸らしてはそそくさと足早に立ち去る者が居たが、「奴隷」の一言で彼へ向ける目を変える者も居た。
 軽蔑と同情、恐れと好奇心、憐れみと嘲笑――その渦の中でたった一人、目を逸らさず軽蔑の色すら見せず、彼らを見つめていた者が居たのは言うまでもない。
 脇腹を擦りながら青年はゆっくりと立ち上がった。首元にあしらわれた首輪に繋がれた鎖を商人の男は手綱のように引いていて、「早く来い」と言わんばかりにカラカラと音を鳴らす。
 それを青年は感情も光も宿さない瞳で見て――不意に、目を逸らした。何気なく逸らしただけだった。その視線の先に黒衣を纏う男――終焉の者≠ェこちらを見ていたのだ。
 瞳に表れる感情は軽蔑でも同情でもない。確かな怒りと明確な殺意が宿っているのだ。先程の無感情など欠片も思わせる素振りもなく、じっと青年――ではなく、商人の男を見つめている。あからさまに、それもほんの少し嫌そうにだ。
 だが、青年は何の興味も持てないかのように静かに目線を戻すと覚束無い足取りで商人の後ろへと付いていく。まるで抵抗する意思を剥奪された人形のようで、見ていていたたまれない気持ちになってしまう。
 ――それでも巻き込まれたくない住人は見て見ぬ振りをして、何事もなかったかのように振る舞い始めた。
 ――ただ一人を除いて。

「……何故…………」

 ゆるりと重い足を動かした男は一直線に彼らが歩いて行った後を追う。その方向が先程まで自分が嫌がっていた街の中心部へと続いていると知りながら、郊外を歩く足は止められなかった。
 土を踏み締める音、石畳の上を歩く音、擦れ違う人々の呼吸――どれもが耳から遠退くような錯覚を覚えるほど、男は後を追うことに専念していたのだ。

 彼らは中心部へと辿り着くとある大きな建物へと迷うことなく入っていった。それは、夜になればオークション会場へと変貌してしまう奇妙な舞台が備わった建物だ。
 後をついてみれば奴隷と称された人間は青年だけでないようで、商人の男が語りかける口調は数人を相手しているようである。余程いいものが手に入っているのだろう。日中の人身売買ほど稀なものはない。
 興味本位で会場へ赴く者も、常連のように悠々と歩いていく者も半々といったところで、目玉商品がどうのという言葉だけが飛び交っているように思えた。
 やがて会場では大きな歓声とざわめきが起こり、薄暗くなった舞台の上で、大人しく照明に照らされる奴隷と呼ばれた人間達の値段決めが始まっている。仄暗い廊下で扉越しでも聞こえるほどの賑わいは男にとって単なる耳障りな雑音。心の安定を崩すだけの厄介な音。
 ――それでも男はその扉の前を離れようとしなかった。
 ただ迷っていたのだ。これまで認識≠ウれずのうのうと穏やかに生きていた自分が、この場所で存在を露わにして良いものなのか。一度姿を現せば決して止まることは許されないざわめきも、噂も、衝動も蔓延ってしまうに違いない。今はまだ何もせずこの場を立ち去るのが良いのではないか、と――。

「さあ! 最後に残すは遠方より持ち出した、この付近では稀な存在! 力仕事を押し付けるも良し、魔力を奪うもよし! 少しばかり見窄らしい姿なのは許してくださいね――」

 首輪に拘束具、ほんの少し窶れた顔の青年が前に押し出され倒れると同時、扉が小さな音を立てて開かれる。
 廊下と会場では明るさが全く違う為か、扉をいくら静かに開けようとも会場に流れる光で開閉がよく分かる。仄かに男の背後を照らす光は暗闇に慣れた目では酷く眩しく思えた。
 その場に居る誰もが男に目を向けた。明らかな訝しげな目と、邪魔者を見るような目がいくつも男を見ていた。商人の男は「邪魔をしないでもらえますかねえ」と怒気を含んだ声色でマイク越しに男に語りかけたが、――男は酷く眠たげに欠伸をひとつ。
 そして――。

「人身売買は中止だ。悪いが、彼は私が貰い受ける」
「何を言って……?」

 凜とした声を放ちながら、男はポケットに入れていた手を宙に躍らせた。
 会場のざわめきは恐らく外の市場には一切届いていないだろう。売られている青年は現状にすら興味が湧かないと言いたげに茫然としていたが、何かに気が付いたように瞬きをひとつ。何気なく建物内を見渡したが、照明がある箇所以外は暗闇に包まれて常人には見えないだろう。
 かく言う彼もまた、見えたところで何が起こっているのか理解はできないのだが――。
 地鳴りのように小さく建物が軋み始める。それに気が付いたのは奴隷と言われていた青年以外に黒衣を纏う男だけだろうか――「見張りは何をしていやがる!」と声を張る商人には軋む音が届かないようで、男は呆れたように「そんなものが私を認識≠ナきるとは思えんな」と溜め息混じりに呟くと同時――建物の真下で地震が起こったかのように大きく揺れ始める。
 照明に照らされていない暗闇に呑まれた場所から柱が崩れ落ちるけたたましい音が鳴り響いた。すると、高い天井が大きく歪み、蓋が外れるように端から瓦礫が落下してくる。建物の変化は外にも大きく現れたのだろう――中と外、両方から耳障りな金切り声が響いていった。
 観客は我先にと出入り口に向かって走り、はち切れんばかりの人間が外へ出ようとしている。その間にも建物は音を立てて崩れているというのに、男は何の支障もないと言いたげに目の前を見据えたまま再びポケットに手を入れ始めた。
 気が付けば商人などどこにも見当たらない。それどころか観客さえも逃げて辺りは崩落を続ける音と、取り残された青年だけだ。
 音を立てて崩れる柱が眼前に落下したというのに男はまるで気にも留めず、ゆっくりと歩を進め始める。暗闇の中では色も認識できない絨毯が引かれた造りのいい階段を。
 彼は逃げるつもりもないのか、――そもそも抵抗する意志すらなく単純に手足に繋がれた鎖をほどこうとも思わないのか、茫然としたまま宙を仰いで崩れていく天井を見る。
 死への恐怖というものを忘れてしまったのか、人を簡単に押し潰せる程度の瓦礫が目の前に現れようとも、その場を動かなかった。

「…………やり過ぎてしまったな……」

 ぽつり、低く感情の薄い声がひとつ。瓦礫が目に見えない何かによって後方へ投げ飛ばされ、代わりに彼の目の前に現れたのは金と赤の瞳を獣のように輝かせる長身の男。
 初対面で最初に気になると言えば切りつけるように縦に刻まれた傷痕であるが、人の手を失い気が付けば壊れた照明は光を与えることはなかった所為か、暗闇でのその顔は妙に視認しにくい。
 ――それでも、お互いの位置や存在を認識するには十分だった。

「……?」

 不意に男は彼に手を伸ばしたかと思うと、徐に抱き寄せて割れ物を扱うようにゆっくりと撫でる。「ああ、良かった。これで……貴方を許せる」と小さく呟いて、惜し気もなく離れたかと思えば着ていたコートを青年に被らせ、「悪いな」と口を洩らしたのだった。


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