溢れる愚痴と魔女の毒料理


 鬱陶しい雨と、湿った空気と、暑苦しい夏が嫌いだった。
 水を溜めた氷嚢に氷を落とし入れ、口の紐をきつく縛る。下手に水が漏れ出さないかを確認して、円状の蓋を閉めて水道を後にする。入り込んだ先にあるステンドグラスは、目映いばかりの光を通していて、目を見張るほど輝いていた。
 今さらそんなことで感動を覚える歳でもない彼は、その情景を後目に片隅の部屋へと向かう。マリア像を素通りして、焦げた茶色の扉をノックして、「入るぞ」と声をかけた。
 きぃ、と音を立てて開いた扉に、滑りの悪さを感じる。後で対処してやろうと思いながら踏み入れた部屋の隅――寝具の上で、彼女は目を回していた。

「レイン、冷たいの載せんぞ」
「……!」

 長い髪を持つ彼女に一声。そのまま額に氷水を入れた氷嚢を落とし、反応を窺う。レインは一度肩を震わせてその冷たさに驚いたようだが、すぐに気持ちよさげに口角を上げた。
 部屋には冷房も効いているが、彼女にとってはまだ熱がこもったままなのだろう。閉めきられた窓の向こうには草木がちらほらと生い茂って、ベンチがひとつ備わっている。そよ風が撫でるように吹いているが、冷たさなど微塵も含まれていないのだろう。
 厄介な季節だ、と彼は思う。
 特別熱には慣れているのだが、長期に亘ると体内を巡る熱量が増してしまい、倒れやすくなる。定期的に熱を放出すればいい話なのだが、そう上手くいかないのが現実だ。
 かくいう彼――ヴェルダリアもまたその一人。炎を扱うのが得意としている所為か、人よりも遥かに熱を蓄えやすく、暑さには弱い。ヴェルダリア個人としては夏よりも冬の方が遥かに好ましいのである。冬場では人一倍暖まりやすいのだ。
 当然、目の前で倒れ伏しているレインもまた彼と同じ状況だ。彼女は思うように動けず、声もまともに出してはいけない。全ては首につけられた黒い首輪が原因で、ヴェルダリアはそれを忌々しげに見つめる。黒い鉄製のそれは、触れても冷たさを維持したままだ。
 これを外すには奴の協力を仰がねばならない。――その事実が彼の怒りを沸々と沸き立たせるのだ。

「……くそ」

 憎たらしい、と言いたげに舌打ちをして、ヴェルダリアはその部屋を後にする。去り際にレインの様子を横目で見れば、彼女は薄ら目を開けて、気怠そうでありながらも微笑みながら小さく手を振った。礼でも述べているのか、それとも「いってらっしゃい」のつもりなのか。
 ――まるで区別はつかないが、ヴェルダリアもまた手を振ってやって、彼女の部屋を出た。
 憎たらしげに教会内部をじっと見つめる。あちこちのステンドグラスから光が漏れて、絨毯には赤や黄色、青や緑などの色が落とされている。内部もまた冷房が効き渡っているが、彼が求める涼しさには程遠い。ぱたぱたと手を仰いで風を送ろうともまるで意味がない。
 昼間の教会は人目が気になる。――しかし、人のいない今なら多少は許されるだろう。
 マリア像の真後ろに隠れている壁をぐっと押し込むと、小さな音がして、近くの本棚が重そうな音を立てて横へと動く。本棚に隠されていた扉を開けて、暗い部屋を突き進んでいくと、またひとつ扉がある。以前訪れていたあの場所に、体を冷やしに行こうという魂胆だ。
 ふたつめの扉を開けた先にあるものは、やはり異様な光景ばかりだ。氷の水晶がいくつも生えていて、天井や床も辺りがすっかり氷で覆われている。突き進んで行けば、やはり氷付けにされた赤い薔薇が辺り一面に広がっていて、目を疑うばかりだ。
 あまりの氷の量に、ほんの少し肌寒さを覚える。汗が冷えきって――寧ろ凍り付いた気がする――堪らず腕を擦るが、それすらもまた心地がいい。
 大量の赤い薔薇に、踏まないよう気を付けていてもシャリ、と音を立てて踏み締めてしまう。最早ここは天然の冷凍庫だ。
 その広い地下の中央にあるのは、蓋の開いた棺桶がひとつ。赤い薔薇に囲まれたまま手を組んで、安らかに眠る女が一人。淡い空色の髪に、シスターのような服が特徴的な女の顔は、血の気など微塵もなかった。

「アンタも苦労してんなあ」

 目を閉じたままの女に語るヴェルダリアの顔は、レインに向けていたものよりも遥かに悪意が込められている。だが、返事など返ってくることはないのは明白だ。いくら何を言おうと煽られることのない状況に、ヴェルダリアはほんのり優越感を抱く。
 こんなものに男は執着しているのだと思うと、酷く滑稽に思えたのだ。たった一人の人間に対して抱く感情はたかが知れている筈なのに、それを悠々と越えていく。住人や建物など、この女に比べれば遥かに安いもの。他人の命など、この女に比べれば道端に落ちている石と同じような価値なのだろう。
 亡骸の状態は非常によく、腐ったような臭いや部分などまるで見当たらない。本当に眠っているだけだと言われれば、信じてしまうほど綺麗な状態だ。このことがあの男の目的を裏付けているようで、厄介だと頭を掻く。

 ヴェルダリアには欲しいものがあった。――正確に言えば取り返したいものだ。大切に扱っていたつもりなのに、気が付けば手元から離れていってしまったもの。それをどうにかして取り戻したいと思い、わざわざ教会≠ノ所属している。
 奇しくもそれに必要なものが、一人に集まっていくのだ。この状態を打ち壊すには、ある人物の力が必要だと知ってしまった。奴にとっても、ヴェルダリアにとっても必要な存在が、たった一人にある。――そう、仕組まれたのだろう。

「あー……」

 彼は鬱陶しそうに赤い髪を掻き乱し、下りていた前髪を掻き上げる。「もうちっと愚痴を聞いてくれ」と、喋らない女に向かって言葉を吐いた。

◇◆◇

 残暑が厳しい夏は、夕暮れになっても日差しが眩しく、虫の声も煩わしく思えた。夜の静寂が少しばかり恋しくなって、まだか、まだかと胸を躍らせそうになる。
 しかし、そんな時間も迎えられず、ノーチェは寝具へ顔を突っ伏したまま深い溜め息を吐いた。
 漸くだ。漸くあのリーリエを屋敷から追い出すことができた。その疲労感と言えば何よりも強く、違和感は舌の上を転がり続ける。胸焼けが止まらず、顔を突っ伏したまま胸元に手を当てて、うぅ、と唸る様子は、終焉よりも具合が悪く見えた。

 初めこそは何も問題はなかった。終焉が寝に入ったのを見届け、衣服を傍に置いてやった後、ノーチェは洗濯機を再び回しに行く。その道中、自分も汗をかいてしまって気持ちの悪い衣服を変えるべく、部屋へと向かった。
 対して代わり映えのしない服に着替えて、脱衣室へ向かって、とうの昔に回り終えた洗濯機のふたを開ける。すっかり湿気ったそれをカゴに移し、汗にまみれた衣服を洗濯機へと押し込んだ。
 洗剤と柔軟剤をそれぞれ準備して、カゴに移した洗濯物を庭の物干し竿に干してやる。シワを伸ばしてから干す、という作業を見届けてきた彼にとって、それは終焉の真似事をするのと同じだ。パン、と音を立ててから、なるべく丁寧に干してやって、事を終えたら屋敷の中へ戻る。
 これだけいい天気なのだから、寝具のシーツや、枕カバーを洗うのもよかったな。――なんて思いながら脱衣室へ戻って、彼はじっと浴室を見ていた。汗をかいたのだから、体を洗うのも悪くはない。そんな思考が頭の中によぎる。
 やること終わったらシャワーでも浴びよう。そう独りごちて、何気なくキッチンの方へと顔を出した。

「……いや、可笑しいだろ……」

 ノーチェの視界に映るのは荒れたキッチン。食器類が割れているような様子は見当たらないが、何故か異臭が漂っていて、白い食器類が黒ずんでいる。つん、と鼻の奥を突くような香りに、ノーチェは今までにないほど表情を歪めてしまって、リーリエは「何、その顔」と呟く。
 終焉が囁くように言った「料理が下手」というのは、このことだろうか。――しかし、この状況は下手という一言だけで収まるようには見えない。何せ、少しでも腹を満たせるように、買ったものは誰でも作れるレトルト食品だ。それが嫌なら、と皮を剥くだけの果物も買った。リンゴが食べたい、と言ったのはリーリエで、彼自身は皮ごと食べられるものでもいいのではないか、と思っていた。
 リンゴは皮ごと食べられるものではあるが、リーリエはあまり好んでいないのだろう。果物ナイフで懸命に皮を剥こうとした形跡があるが、肝心のナイフは見当たらない。一体どこにあるのかと目線を下へ移せば、床に突き刺さったそれがキラリと光る。
 料理が下手という領域ではなく、手先が不器用なだけではないだろうか。
 こっそりキッチンへ足を踏み入れたノーチェは、机に突っ伏している女の傍へと近寄る。傍らには何とか形になったような歪なサンドイッチが置かれていて、そこから微かに焦げたような香りが漂う。一度焼いたパンを一口サイズに切り分けられたそれに、ノーチェはそうっと手を伸ばした。
 終焉の手料理を毎日食べ続けてきた彼にとって、料理とは美味くて当然のもの。加えて確かに空腹を感じるノーチェは、不格好なそれに口をつける。

「――ッ!?」

 何だろうか、この味は。焦げたような味に何故か洗剤のような味がする。懸命に買ってきた野菜やたまご達の味を見事に殺し、噛み締める度に舌を焼くような痛みが微かに走る。買ってきたものを見たノーチェですら食材が正常であることを認めていたのに、嘘であったかのように奇妙な味しかしなかった。
 やがて、噛み締めていくと謎の食感が歯を伝う。柔らかいような――いや、砂のようにざりざりと、異様な食感がしたような。その度に彼の中で何かが限界に達していくようで、足は無意識に外へと向かう。
 これはいけない――そう思った瞬間、ノーチェの足は駆け出していた。

 勿体ない――とは思えなかった――それと別れを告げて、ノーチェは何故か黒ずんだ食器類を片付ける。見た目とは裏腹に、黒ずみは水の力だけで流れていって、最後には綺麗な表面が顔を覗かせた。手入れがよく行き届いた皿だ。いつ見ても惚れ惚れしてしまう。
 その皿を割らないように立て掛けて、ふぅ、と彼は息を吐いた。後ろではリーリエが啜り泣くように突っ伏して、「何でこうなるの……」とぶつくさ呟いている。砂糖と塩を間違える、程度の領域で収まらないそれに、ノーチェは慰めの言葉も見付からなかった。
 ただ落ち込んだ背に手を添えて、「もう帰ったら」とだけ伝える。帰ってゆっくり休んだら――なんて言ったが、リーリエは顔を上げると「いいえ」と言った。

「たまご粥くらい作れるわよ! 私だってねえ!!」
「頼むからもう帰って」

 唐突に立ち上がって、どこから取り出したかも分からない鍋を持ってリーリエは叫ぶ。まるで酒を飲んだ後のような落ち着きのなさに、ノーチェは堪らず手を出して小さく肩を掴んだ。
 添えるだけでいい。意図的に強く掴んで力を込める必要はない。ほんの少し、僅かに力を乗せるだけでいい。
 たったそれだけで女の動きはぴたりと止まり、「あら?」と声を上げた。言うほど力がこもっているような手ではないのに、肩にのし掛かる重圧に気が付いたのだろう。「あんた、案外力が強いのねえ」とカラカラと笑っているが、目はどこか虚ろだった。
 本当に帰って。後が面倒くさい。――口を突いて出た言葉がリーリエに突き刺さる。後片付けが酷く面倒くさい。手順は完璧な筈なのに、どこかで何かを間違えてキッチンが荒れるのは許せないのだ。そもそも屋敷はノーチェのものではない。リーリエが帰った後に説明を求められるのは、紛れもなくノーチェだ。
 女は何度も渋って、子供のように駄々を捏ねる。「あいつができて私にできないのは可笑しい」やら「ちゃんとできるはず」やら、根拠のない言葉ばかりを述べてくる。ノーチェはそれを聞き流しながらいくつかの食材を手に取って、リーリエを引き摺り歩く。
 何を言ってもキリがないリーリエに、手土産と言わんばかりに食材を持たせてエントランスの扉を開ける。外は昼間よりも幾ばくかは涼しくなったが、頬を撫でる風は相変わらず生温かった。

「それ、あげるから帰って」
「あんたってそんなに酷い子だった!?」

 扉の目の前で子犬のように喚くリーリエを、ノーチェはどう対処しようか頭を悩ませていた。屋敷には体調を悪くした終焉が床に伏せている。これ以上喚くのなら、終焉に怒られかねない上に、治るものも治らないだろう。
 ああ、煩い。喧しい。
 耳を塞ぎたい衝動に駆られながらも、ノーチェはふと思い出してリーリエに問う。

「なあ、あれ。何だっけ……俺が買ったやつ」
「少年が買った……? ああ、謎に懐に入ってた剥き出しの氷嚢ね!」

 ノーチェが問い掛けると、あれまで喚いていたリーリエはパッと顔色を変えて、にこやかに答える。情緒不安定なのだろうか、と考えてしまったのを頭の隅に置いて、「そう、それ」と彼は頷く。

「どうやって使うんだっけ」

 そう訊けば、リーリエは懇切丁寧に彼に教えた。
 少量の水と氷を入れて、蓋を閉めた後は冷やしたい箇所に置けばいい。氷も水も入れすぎには注意して、溶けたら再び氷を入れてやればいい。
 そんな説明を聞いて、ノーチェは「ふぅん」と小さく頷く。「助かったから帰っていいよ」なんて言って屋敷から閉め出せば、「何かあったら来るからね」と扉越しに女は叫んでいた。その後に踵を返したのか、足音が聞こえて、どんどんと遠ざかる。「何かあるのも分かるのか……」なんて一人呟いて、ノーチェは再びキッチンを目指した。
 机に置き去りにしていた氷嚢を手に取り、冷凍庫を開けて、氷を入れる。水を加えて、円状の蓋を閉めてやって、ノーチェは終焉の部屋へと赴く。何気なく手のひらを添えてみれば、布越しに氷水の冷たさを感じる。これなら濡れたタオルよりもマシだろう、と彼は終焉の元へ再度赴いたのだ。

 ――そうしてある程度の時間が経った後、何故か強烈な味が舌の上を転がり始め、ノーチェは呻く。特別嘔吐や下痢などの症状は現れないが、ただひたすら胸焼けと謎の味が不意に姿を見せるのだ。
 リーリエが手を加えたものは一体何だったのだろうか。胸の奥に残る蟠りをなくそうと、無意識に胸元を擦りながらノーチェは顔を上げる。目の前には大人しく眠る終焉が、微かに呻き声を上げていた。席を外している間に何とか服を着替えたようで、布団から出てきている腕には黒い袖が顔を覗かせている。

 一体何が終焉を追い詰めているのだろうか。

 悪夢でも見ているかのような様子に、彼は思わず濡れたタオルを手に取って、頬に添えてやる。熱に魘される様子がやけに心配だと思うのは、男が完璧を体現していたからこそだろう。この人も人並みに体調を崩すのだ、と彼はゆっくり、宥めるように汗を拭った。

「――……」

 気を遣った筈なのだが、肌に当たるものが男の意識を揺さぶったのだろうか。徐に目を開いた終焉に、ノーチェは頬を拭っていた手を咄嗟に止める。体調の悪い男を起こしてしまった。再び眠りに就くのに、どれほどの時間が経ってしまうだろう。

「……んと、起こした?」

 ゆっくり、小さく声を掛ければ、終焉は徐にノーチェへと顔を向ける。未だ明るい筈の外を置き去りに、まるで夜のように薄暗い部屋の中で、男の顔はやはり心配になる。力の入りきらない目元はぼんやりと彼を見つめていたが――やがて、小さく歪んでいった。
 泣くのだと直感が囁く。表情を少しも変えなかった筈の男が、露骨に、泣き出しそうな目でノーチェを見る。唇が小さく開閉を繰り返していて、何かを訴えたいのだと思い、彼は「……何……?」と小さく語り掛ける。
 何か大事なことを言おうとしているような気がして、ノーチェは思わず身を乗り出した。
 ――すると、終焉の表情が固まる。ハッとしたように目を見開いて、「何でもない」と言うのだ。

「……何でもない。悪い、暇なら、本でも読むといい」

 そう言って終焉はもそもそと布団をかぶって、荒い呼吸を繰り返す。その拍子に落ちてしまった氷嚢を、彼は拾って終焉の布団の中へと差し入れる。「熱冷まさないと」と言って、終焉の反応を待った。
 男は不思議そうに布団から顔を出すと、仕方なさそうにノーチェに従う。普段は終焉がノーチェを従わせる所為か、素直に聞き入れる男が物珍しく彼はその行動を見守った。汗ばんでいる額に載せてやると、どこか心地好さげにほう、と息を吐くのが分かる。
 このまま眠れば少しは良くなるだろう。――そう思いながら、ノーチェは「今日、」と口を開いた。

「今日、誕生日なんだけど」

 ――そう言うと、終焉は悔しそうに唇を歪ませる。

「……ああ」

 あれだけはりきっていたというのに、この様だ。
 なんて言いたげな雰囲気が口許から読み取れる。終焉は本当にノーチェの誕生日を祝いたい一心だったのだと、確かに分かるような言動だ。
 だからこそ彼は寝具の端に肘を突いて、「早く治るといいな」と言う。

「そんで……美味しいもん、作って。魔女のは駄目、アンタのが食いたい……」

 「あの人のはもう食べたくない」そう告げると、終焉はノーチェを見て、「ああ」と笑った。笑って、力が入りきらない手を彼の頭へ伸ばし、軽く撫でる。男の癖のような行動がやけに心地好くて、ノーチェは口許だけ、小さく笑った。

◇◆◇

 奴隷になってから働くこと以外は考えてこなかった。だからこそ、終焉の代わりに周りの家事に着手をしたが、いかんせん上手くいかないのが現状である。一度リーリエを呼び戻そうかと思ったが、彼には女の居場所など分かる筈もない。とにかく自分ができることをひとつひとつこなしていった。
 部屋の掃除から始まり、浴室の掃除をして、干していた洗濯物を畳んで片付ける。料理はできないというわけではないだろうが、どうにも作る気は起きなかった。
 許可をもらって菓子を貪り、沸いた風呂に入浴剤を入れてから、終焉が入れないことに気が付く。合間に終焉の様子を見に行って、氷嚢の中身を取り替えて、具合の良し悪しを訊ねる。特別変なものがなければそのまま風呂に入ることを告げて、彼は汗を洗い流した。
 ノーチェがやっていることは終焉の日常のひとつだ。それを毎日続けているわけではない彼は、家事の大変さを思い知る。普段ならやろうともしないものだが、そうも行って言っていられないのが現状だ。「今日が満月で良かった」と何度思ったことだろうか。
 風呂から上がって芳ばしい香りがしないことに多少落胆して、ノーチェはその足で終焉の部屋へと向かう。すっかり夜になってしまった時間のこの部屋は、まるで闇に呑まれたかのように暗い。目が暗闇に慣れていなければ、躓いて転んでしまっていただろう。

「………………」

 ゆっくりと目を開いたノーチェは、今まで自分が眠りに落ちていたことを知る。一体いつから目を閉じていたのかは記憶にない。恐らく、普段はやらないようなことを率先してやっていた所為で、体が酷く疲れていたのだろう。彼は目を擦りながら顔を上げる。
 目の前には男がいた。眠りに落ちる前に見たときよりもいくらか顔色が良く、呼吸も安定している。リーリエ曰く特に食事は与えなくていいということだったが、それが本当に正しかったのかは、今では分からない。
 それでも終焉の容態が安定しているのは確かで、彼はほっと胸を撫で下ろした。
 これなら余計な心配はいらないだろう。
 ――そう思って何気なく顔を上げると、目映い光がノーチェの目を差す。星屑よりも遥かに煌めいているが、街灯よりも強い光ではない。やけに綺麗な満月が、小さな窓から顔を覗かせていた。
 こんなところに窓なんてあったのかと彼は思う。夏の空は冬と比べれば澄んでいるわけではないが、それでも十分な月を見ることができる。今夜は綺麗な満月だ。あの月を眺めている一族もどこかにいるだろうか、なんて思いを馳せる。
 すると、ノーチェの近くで何かが蠢いた。

「…………」

 ほう、と小さく疲れたように吐息を吐いて、どこか眠たげな目を開けたのは、紛れもなく終焉だ。重そうな体を起こして、髪が垂れてくるのも気にせずに、徐に顔を上げる。
 男の視線の先にあるのは煌々と輝く月だ。街灯の少ないこの屋敷の周りでは、星屑もはっきりと目に見えるほどの夜空を眺めている。声を掛けようかと思ったノーチェは、ぼんやりと空を見つめ続ける終焉にどこか引目を覚えてしまった。
 邪魔をしてはいけない。――そう、本能が語り掛ける。椅子を引き、立ち上がって部屋を立ち去るのがいいだろう。体調の良し悪しは翌朝聞けばいい話なのだから。
 結論を導き出したノーチェは椅子を引き、ゆっくりと立ち上がった。必要がなさそうな桶を軽く持ち上げ、刺激を与えないように身を翻す。あの人はこのまま寝るのだろうか。それともまだ起きているのだろうか――なんて考えながら、扉へ向かって歩き始めた。

「――お前も俺を置いて行くのか」

 しん、と静寂に包まれた部屋の中で、無機質な男の声が響いた気がした。
 気に留めるような素振りを見せなかった終焉が、空を眺めながらノーチェを確かに呼び止めた。その事実が彼に驚きを与えて、踏み出していた足がピタリと止まる。
 ちらりと横目で終焉の様子を窺うが、やはり男は彼の姿を少しも見ていなかった。無意識で呟いた言葉なのだろう。
 ノーチェは桶を抱えたまま一度考えるように小さく首を傾げ、再び近くの椅子へと戻る。机に桶を置いて、椅子に腰掛けて未だに顔を見せない終焉を見やる。風呂に入れていない所為か、普段の艶やかな髪は多少乱れていて、しっとりと湿っているようだ。
 男の髪は腰の長さにまで至っている。時間を掛けてゆっくりと伸びたであろうそれが、酷く鬱陶しそうに思えてしまって、何かまとめるものがあった筈、と僅かに意識を終焉から逸らす。
 すると――、男が空を見るのに飽きたように、ふと顔を動かした。

「…………何だ、居たのか……」

 不意に交ざってしまった視線に、彼は瞬きをひとつ。終焉の言葉にやはり無意識だったのだと思い、気が付かれないよう吐息を吐く。月明かりに照らされている顔色は、起き上がっても悪くなるような兆しはなかった。試しに「……気分は?」と問えば、終焉は自分の手のひらを見つめる。

「……まあ、悪くないな」

 ――そう告げる男の顔は、普段から見るようなただの無表情だ。昼頃に見掛けた冷めた顔付きなど、面影すらも見当たらない。無表情の中に普段のような柔らかさを隠し持っている。これがノーチェの知る終焉の者≠ナあると理解すると同時、彼は「そう」と目を閉じる。
 違和感のない清々しいほどの日常が戻ってきたようだった。心なしか、その事実に安堵しているようで、ノーチェはぼんやりと自分の手のひらを見つめ始める。終焉が無事であるということが日常だと思えるほど、ノーチェの中の「日常」が崩されているのだ。

 もしも、もしも終焉から離れて再び奴隷に戻ったとき、自分はしっかりと仕事をこなせるのだろうか――。

「……もう少ししたら私はもう一度眠るよ。ノーチェ、貴方も戻って眠るといい」

 ぼんやりと考え事をするノーチェを他所に、終焉は静かに話し掛けた。
 本人曰く、かなり体の調子も戻ってきているようだ。色が白いことに変わりはないが、気分の悪そうな顔色でなくなっているのは確か。変に汗をかくこともなく、澄ましたような顔がじっとノーチェを見つめている。
 彼はそれに違和感が――あるわけではないが、見つめてくる終焉を見つめ返す。綺麗な目だな、と何気なく男がノーチェを褒めた。彼は小さく頷いて、男の様子を窺い続けるが、何も変わった様子がない。寧ろ未だに動かないノーチェを見て、不思議そうに「どうした」と問い掛けてくるのだ。
 気が付いてはいないのだろうか。月明かりを背にしてこちらを見てくる終焉は、澄んだ暗い瞳をノーチェに向けたまま、彼の反応を窺っているようだ。何かあったのかと、徐々に疑問を抱いてくる様は滑稽にも思える。

 どちらでもいいのだ。ノーチェ自身に影響はない。――ただ、聞いてみればどちらが本当に「らしい」のか、すぐに判断がついてしまった。

「…………あのさ」

 ぽつり、と小さく呟いたノーチェに、終焉は「何だ」と訊き返す。

「アンタって本当は、一人称『私』じゃないだろ……」
「――……何を」

 何を言っているのだ。
 ――そう言いたげな終焉の瞳を、ノーチェは逸らしもせずにじっと見つめてやる。

 初めこそ違和感があったのは勿論だ。普段から終焉は一人称が『私』である分、『俺』だなんて言っている間は胸の奥に何かがつっかえるような違和感を覚えていた。『私』ではなく『俺』で、『貴方』ではなく『お前』であることがノーチェの中の何かを刺激し続けていく。喉に小骨が引っ掛かったときのような感覚に似たそれに、多少なりとも思考を奪われていたのは事実だ。
 しかし、つい先程聞いた終焉の言葉に、ノーチェの胸に残る蟠りがすっかりなくなったような感覚に陥る。彼はどこかであの言葉を聞いたことがある。――そんな感覚が、今までの先入観を壊したのだ。
 場所は分からない。どこで聞いたのかも分からない。――そもそも、その言葉を紡いだのが目の前の男であったのかも、ノーチェには分からない。
 けれど、終焉が無理やり自分を偽っているのだということは、何故か理解できたのだ。

「……違う?」

 驚いたような様子のまま何も言わない終焉に、ノーチェは首を傾げながら再度問い掛ける。
 すると、終焉は徐に視線を落としたかと思うと、「違わない」と言った。その声の色は確かに気分を悪くしていた頃のものとよく似ていて、理由も分からずに彼はどこか安心感を得る。トーンは低く、無機質な声色なのに、表情は少しだけ曇ったようだ。
 今はもう無理をしているわけではないのだ、と男は言う。意図的に変え続けてからもう長い時間が経ったようで、意識をしなくても口を突いて出てくるのは、ノーチェが聞き慣れている口調だ。柔くしたつもりはないが、硬くしたつもりのない口調で、日常を過ごしていたのだという。
 ノーチェはその言葉に「そうなんだ」とだけ呟くと、ゆっくりと息を吐いた。試しに今も以前の口調が出ることがあるのか、と問えば、終焉は首を横に振る。逆に意識しなければ全く出てこない、と男は言ったのだ。

 ――あんな状況で意識的に口調を変えられるのだろうか。

 むぅ、と彼は唇を尖らせて、頭を捻る。
 そもそも終焉が体調を崩すこと自体が不思議でならなかった。かくいうリーリエも独り言のように「こいつも風邪を引くのね」なんて言っていたのだから、尚更だ。完璧を体現しているかのような男が体調を崩したことからが、予想外の連続だったのかもしれない。
 ――そう思えば、自ずと彼は終焉の口調に対する違和感を失っていった。
 ノーチェが理由を訊かずとも、終焉はぽつりぽつりと話し始める。口調を変えた理由は至って単純なもの――区別をつけるためだという。
 人間が仕事に私情を持ち込まないよう、公私を分けるための心遣いに最も近く、特別な理由はない。人称を変えれば気を緩めることもなく、周囲を常に警戒していられる心持ちになれるのだ。

 それを聞いてノーチェはふぅん、と生返事をした。興味がないというわけではなく、単純に納得がいかないような、退屈そうなものだ。じぃっと終焉を見上げながら僅かに唇を尖らせる。
 その視線に気が付いた終焉は、ちらりとノーチェを見ると、「何だ」と問い掛けた。

「……いや。まあ……別に。何もないけど……」

 終始歯切れの悪い言葉だった。彼は「ないんだけど」と呟くが、実際のところ、その表情は聞いていたものに対して納得がいっていないと言いたげだ。
 一体何がそんなに気掛かりなのかと、終焉は小首を傾げて、何気なく彼の頭に手を載せる。もう何度目かのそれになるというのに、柔らかく癖のある白い毛髪を堪能することは毎回新しく思えた。白い指の隙間に癖毛が絡んできて、撫でると同時に指から離れていく。
 そんな終焉の行動に、ノーチェはどこか満足感を得たように思えた。
 撫でられる度に頭が揺れる感覚が妙に心地好く、頭を差し出すように小さく俯く。そのまま目を閉じて、数分の間は男に身を委ねる。随分と柔らかくなった髪質を終焉は「心地がいいな」と言った。

「……何でもいい。言ってごらん」

 小さく紡がれた言葉は、夜に溶け込むようにやけに静かなものだった。怒るとでも思っているのか、と終焉はノーチェに問い掛けるように言うが、彼は小さく頭を横に振る。この程度で怒りを露わにするようならば、彼は既に事切れている筈だ。
 しかし、彼の中にある小さな言葉は、終焉に向けて言うにはあまりにも遅すぎる。言おうか言わないか――彼は終始男の顔色を窺うようにちらちらと目線を配らせていたが、終焉は逸らさずにじっと見つめるものだから、折れる以外の選択肢がなかった。

「…………口調、気にしなくていいよってだけ……」

 息を吐くように紡がれた言葉に、終焉はただぼうっとノーチェを見つめるだけ。撫でていた手は疎かになり、やがて完全に止まると終焉は数回瞬きを落とした。

 無理をして口調を変えているのなら、自分の前では好きな方でいればいいと言ったのだ。彼は特別終焉に対して口調を改めたことがないのだから、立場を挙げれば口調を改めるべきはノーチェの方である。それに――何より、彼は自分のことを「貴方」と呼ばれることに、違和感を覚えて仕方がないのだ。
 慣れていないと言えばそうになるのだろう。いざ終焉の口調に耳を、意識を傾けてみれば、むず痒くていたたまれない気持ちに苛まれる。「お前」だの何だのと呼ばれ続けていた彼にとって、終焉から紡がれた「お前」という言葉は、やたらと懐かしく思えた。
 何故男の言葉に懐かしいなどと思うのかは分かっていないが、聞き触りのいい言葉の方がノーチェ自身も落ち着くのだろう。

 ――しかし、ノーチェの気遣いも虚しく、終焉は首を横に振って彼の誘いを断る。
 無理をしているわけではない。違和感がそこにあり続けるわけでもない。終焉はあくまで自分から口調を変えようとして、人称を変えたのだ。初めこそは無理矢理だったものの、今ではそれが自然体となっている。今更言葉遣いを換えようなど、男の何かが許そうとはしなかった。
 それに――、と終焉は静かに続ける。

「これは、区別をつけるためのものだ。今更俺であり続けようなど、思っていない」

 暗い部屋の中で見上げた終焉の目には、決意の色がしっかりと宿っている。今更ノーチェ自身が何を言おうとも、それを変えることはもうないのだろう。
 なら何故一時的に言葉遣いが変わったのだ、と彼は問い掛けたくなった。人称を変えていた筈なのに、違和感もなくすんなりと『俺』と称していたのは何なのかと。
 だが、相手はノーチェから見ても病み上がりの男だ。暗い部屋の中で月明かりに照らされている顔色が程好くなったとしても、無理に起こし続けるのは体に悪い。彼はじぃっと終焉の顔を見つめたあと、目線を落として「そう」とだけ言った。

「じゃあ、朝。朝……調子良かったら何か作って」
「……ふ、私を誰だと思っているんだ」

 終焉は微かにほくそ笑むと、再度ノーチェの頭を撫でた。くしゃり、と整えていた髪が乱れるのを見て、彼は思わず手櫛で整える。特別嫌な気持ちは湧かない。大人しく離れる終焉の手を目で追ってから、ノーチェはゆっくりと立ち上がると、ちらりと目配せをする。
 終焉のために置いていた桶を片付けようか――そう思っていると、男が「気にしなくていいよ」と言った。

「悪かったな。後片付けは私がしよう。だから今夜はもう寝るといい」

 有難う。そう言って終焉はノーチェの背を押して、「おやすみ」と告げる。
 きっとこの言葉に嘘はない。――そう思った彼は一度頷くと、扉に向かって歩き始める。暗い部屋の扉の前で立ち止まり、一度振り返ってから「おやすみなさい」と言えば、終焉は「ああ」と答えた。
 部屋から出て、扉を閉める。パタン、と小さな物音の後に、ノーチェは「よかった、」と、胸に募る安心感を言葉にした。取り敢えず安心して眠れるのだと思うと、途端にノーチェに眠気が押し寄せてきたのは言うまでもない。


前項 - 次項
(46/83)

しおりを挟む
- ナノ -