怒りが滲む昼の刻


「ああよかった。無事だったのね」

 安堵の息を吐くように紡がれた言葉に、張り詰めていた気持ちが落ち着いた気がした。
 ノーチェの前に現れた金の髪と赤い瞳。黒いドレスは微かに汚れていて、何故だか所々に土埃や、木の葉がついている。服の一部が軽く破れている他、女の肌には何かで切ったような跡が残っていて、ノーチェは困惑を隠せなかった。
 彼の前に現れたのはリーリエだ。屋敷で留守を任せた筈の女が酷い汗をかいていながら、へにゃりと笑っている。――と思えば、何かに憤慨するように頬を膨らませて「ちゃんと道を通りなさいよね」と言った。
 この際、どうしてそんなにボロボロになっているのか、気にすることはない。ノーチェは金の瞳を瞬かせながら、「何でここに、」と唇を開きかけた。

「うわぁぁああ!?」

 男達の断末魔が聞こえてきたのは、それと同時だっただろうか。
 突然の悲鳴に、ノーチェはリーリエに向けていた視線を咄嗟に逸らす。あの悲鳴は、森に行こうとした商人£Bのものだろう。一体何があったのかと顔を上げると、――いてはいけない存在が、男の頭を鷲掴みにしている。
 何でいるんだよ。堪らずそう小さく呟けば、リーリエは仕方なさそうに肩を竦めた。あんたが心配なのよ、と言って、風を求めるかのようにぱたぱたと手を仰ぐ。何の意味もないと知りながら行う行動に、人間らしさが滲み出ていた。

 暑い。暑苦しい。見ているだけで熱を覚えるほどの黒いコートに身を包み、露出をこれでもか、と避けている終焉が、男の頭を片手で掴んでいる。掴むだけに留まらず、軽く持ち上げていようだ。どこにそんな力があるんだ、と訊きたくなるほど、彼らは目を疑ってしまう。
 その手はやはり黒い手袋に包まれていて、もう片手はコートのポケットにしまわれているよう。まだ余裕である、といいたげな様子にノーチェは目を丸くしていると、残された男達がこぞって終焉へと立ち向かった。彼の傍らで漸く落ち着いたリーリエが、「怒ってるわね」とほくそ笑む。

「……怒ってる……?」
「そうよ〜。じゃなきゃ直接手なんて下さないわよ」

 女がそう呟いた直後、終焉が掴んでいた手を惜し気もなく離した。
 「何をしやがる!」と声を上げながらナイフを横に振ってきた手を軽く避けて、終焉はその手の肘に目掛けて膝を突き上げる。トン、と衝撃を与えられて無意識に手放したナイフは、終焉の目の前で溢れ落ちた。その光景に目を奪われていた隙を突いて、終焉の長い足が商人≠フ頬を捉える。
 鈍い音などしなかった。気が付けば相手の体が吹き飛ばされていて、地面へと転げ落ちる。立て続けに終焉を狙う男達が近付くが、相手を蹴り上げた流れで足を替え、終焉の踵が脇腹を狙う。流れに乗ったその足技は何よりも重く、男の表情が歪んだ。
 男の隣にまた仲間がいて、蹴られた拍子に傾いた商人≠フ体に仲間までもぶつかってしまう。ド、と崩れ落ちた男達に続いてまた仲間が続くのだから、厄介でしかなかった。
 飛んできた回し蹴りの後には何も繰り出せないと思ったのだろうか。威勢よく飛び出してきた男を見て、ノーチェが「あ、」と呟きを洩らす。危ない――そう無意識に言葉を洩らし掛けたとき、終焉がポケットから手を出した。
 ぐっと体を捻って、地面に手を着く。そのまま遠心力を利用して、軽く回転しながら男達を蹴る。自分の後ろから近付いていた商人≠燗ヲさず、地面に倒れるのを眺めながら、終焉は足を地面に下ろした。
 ――どこだっただろうか。この街では流行っている様子はないが、ブレイクダンスというものが知られている。終焉の足技はそれを応用したもので、身のこなしの軽やかさがよく窺えた。
 倒れた商人£Bは半数ほど。終焉の足技は相当重いのか、大半の男達は呻きながら踞っていて、見るに耐えない。すらりと背筋を伸ばして立ち上がった終焉は、先程と同じようにポケットに手を入れている。そして、彼らを見下ろしていた。

「手加減してるなんて偉いわね」

 リーリエの一言にノーチェは「え、」と呟く。彼から見て容赦のない足技に、手加減などしているようには思えない。しかし、リーリエ曰く手加減をしていると言うのだ。ふふ、と笑って、丸くなったと言うのだから、相当なのだろう。
 一体どこで手加減をしているのか分からなくて、ついリーリエに問い掛けようとした。「あれのどこら辺が手加減になるんだ」と。
 すると、タイミングよく終焉がゆっくりと、染み込むように言葉を紡ぐ。

「――喜べ畜生共。この俺が、手加減をしてやったのだ」

 嬉しいだろう?
 そう言いながら、目の前で溢れ落ちていたナイフを拾い上げる。不思議なことに、その声色には少しの感情も、抑揚もなかった。あれはノーチェが知っている終焉の者≠フ筈なのに、まるで別の人物にすら思える。フードから覗く冷めきった瞳は、ただ商人£Bを見下していた。
 ――ふと、ノーチェは終焉に対して強い違和感を覚える。勿論終焉の雰囲気に対しての違和感は覚えたのだが、それとはまた別の箇所に引っ掛かりを覚えたのだ。それが一体何だったのか、どうしても判断することができず、そっと小首を傾げる。「何か変」そう呟けば、リーリエは「そりゃね」と言った。

「だってあんた、エンディアは熱出してんのよ?」
「……そうだった……」

 あまりの動きの滑らかさに、終焉が不調であることを忘れていた。ノーチェはじっと終焉を見つめているが、終焉が倒れるような兆しは少しも見せない。それどころかナイフを手にしたまま、「そうか」と小さく呟いた。

「この森を傷付けたんだな。よかったじゃないか、二度とここから出られないよ」

 声色に、ほんの少しだけ抑揚がついた気がした。二度とここから出られない、という口振りは、まるでこの森の仕組みを知っているかのようなもの。それに弾かれるように商人≠ェ反応をした――かと思えば、ぐっと唇を閉ざす。
 終焉が手にしたナイフの刀身に、黒い影が渦を巻くように踊っている。それは回数を増す毎に、柄の方から少しずつ、刃を黒に染め上げていった。思わずノーチェは「何だあれ、」と呟くと、リーリエが小さく笑った。

「あれね、魔法か何かを纏わせてるのよ。魔力に近いのかしら。エンディアの力って、他にはないから分からないのよね」

 普段はあれを足に纏わせてるのよ。――その言葉に、ノーチェは「足って」と気が付いたように言う。

「……足だったら、あれだけに留まらねえの……?」
「終焉の気分で体を貫いたりするわよ」
「ま……じか……」

 面白い仕組みよね、と笑うリーリエを他所に、ノーチェは小さく顔を顰めた。彼の知らないところで終焉が人を殺めたことがある、という事実を知って、何とも言えない感情を抱く。やはり、あの男は実力の持ち主であるのに、弱者の立場へ堕ちた奴隷を匿うことが可笑しく思えたのだ。
 何も気にしていないが、あのときも、商人£Bを殺めたのだろう。
 終焉は黒に染まりつつあるナイフを手に、一歩一歩、呆然と立ち尽くす残りの商人£Bへ歩み寄る。半数程度が残っている中で、たった一人、気になる人物がいるようだ。男は彼らに近付くと、一際様子の可笑しい商人=\―ノーチェを連れて歩いた男――を見下ろす。
 酷く冷めた瞳だった。まるで別人だ。遠巻きから見つめているノーチェですらよく分かる。いやと言うほど見てきたあの目付きは、相手を敵だと思っている冷たい目付きだった。
 ――そんな終焉が、じっと男を見る。目線の先にいるのは、妙に痩せた顔付き、目元には隈があり、顔を隠すようにフードをかぶっている男だ。相手は終焉の威圧感に圧倒されているのか、ガチガチと歯を鳴らす。今にも崩れ落ちそうな足で立っているのが、どれほど褒められることかは分からない。
 そんな男を見て、終焉は「誰だ」と問い掛けた。

「……は……」
「誰だと訊いている。お前の記憶をいじったのは」

 体を撫でる生温い風が、やけに冷たいと思ってしまった。
 どさ、と崩れ落ちた男の膝が地面に当たる。服が汚れるのも最早気になることはない。核心を突かれたかのような冷めた言葉に、痛みではなく、強い虚無感を覚えたようだ。終焉の目に映る男の顔はぼんやりとしていて、感情の色を失ったしまった。
 崩れ落ちた男を見ていたノーチェは、小さく首を傾げる。その隣でリーリエも「何かしらね」と首を傾げていた。
 かろうじて聞こえた終焉の言葉がやけに反芻する。
 あの男は記憶をいじられたそうだ。少し前に見た頭痛に苛まれる様子は、記憶操作によって起こる副作用か何かだろう。無理に思い出そうとすればするほど、対象者に痛みを与え、指摘を受ければぽっかりと穴が空いたように感情が希薄になる。
 糸が切れた人形のような様子に、可笑しいと思った仲間達は戦意喪失して、項垂れるように顔を俯かせた。この街から出られないというのは、彼らにとって酷く厄介なことなのだろう。外には逃げられず、街の中で何かに怯えて過ごさないといけない。
 自分と似たような境遇――とは言い切れないが、ノーチェは心のどこかで同情と、「ざまぁみろ」という馬鹿にしたような言葉を呟いてやった。
 終焉は商人£Bに興味を失ったようだ。携えていたナイフを手から離し、「あまり調子に乗るなよ」と告げる。

「あれは俺のものだ」

 ――その言葉に、ノーチェはやはり違和感を覚えたのだ。
 正確には聞く度に胸の奥が騒ぐような気がして、無意識に自分の胸元へ手を当てる。特別不愉快なわけではないが、喉の奥で何かが引っ掛かるような気がしてならない。
 何だろう、これは。そう思いながら終焉を見つめていると、手放されたナイフが地面へと突き刺さる。森が近い所為か、石畳のない地面にはところどころ雑草が生えている。中には先程の騒ぎで踏まれてしまったものもあって、潰れた花が虚しく散った。
 事を終えた終焉は、ノーチェの元へと歩み寄ってくる。怒りを含んでいるかのような無表情に、何か言われるのかと思って、体を強張らせる。リーリエは「お疲れ様〜」とだけ言って、ひらひらと手を振った。その陽気さが僅かに羨ましく思えてしまう。立場を代わってくれ、と心中で呟いた。
 ――ふと、視界に映る終焉の顔付きに、ノーチェは吐息のように「あ、」と洩らす。
 間近にまで迫った綺麗な顔立ちに、僅かながら汗が滲む。微かに眉間にシワを寄せていて、ほんの少し、目元が揺らいだ。

「――アンタ、無理してんだろ……」

 怒られると思って閉ざしていた筈の唇が、不機嫌そうな言葉を紡ぐ。ろくに感情を覚えてはいないが、ノーチェの胸の内に小さく芽生えた感情は、恐らく怒りだ。終焉は何度休みを促したにも拘わらず、大人しく従わなかった末に倒れたのだ。そんな男が、半ば無理矢理にでも体を動かしているような気がして、咄嗟に口を突いて出た言葉だ。
 ノーチェの言葉に「あら」と言ったリーリエは終焉の顔を見るが、生憎判別がつくほど、男の顔を見慣れているわけではない。「そうなの?」と人知れず問い掛けていて、両者の反応を窺っている。
 対する終焉は、彼に指摘を受けて、呆気に取られたかのように多少目を丸くしていた。赤と金の瞳が驚いたようにノーチェを見つめて、言葉は何ひとつ紡がれない。彼の視線に耐えかねるように終焉は目を逸らしてしまって、僅かに唇をへの字に曲げる。見透かされたのが悔しい、と言いたげな表情だ。

「あら、あんた本当に無理してたのね。とっとと言いなさいよ」
「…………言えば帰らされるだろう」

 倒れたら元も子もないのよ、というリーリエの言葉に、遂に終焉はぐっと顔を顰めた。熱がある筈なのに、やはり終焉の顔は酷く蒼白い。まるで死人のようだ。
 ろくに言うことも聞いてくれない、とノーチェはふて腐れながら、終焉の目の前で両手を広げる。「ん」とだけ言葉を洩らして、男の反応を窺い続けると――終焉がぽつりとノーチェに問い掛けた。

「…………痛いところはないか?」

 それに彼は「ない」とはっきり答える。すると――

「……よかった」

 ――と言葉を溢して、意識を失った。
 唐突に全身から力が抜け落ち、終焉はその場に崩れ落ちそうになる。寸でのところでノーチェは男の体を支えて、ふて腐れたような顔のままぐっと抱き寄せた。屋敷で抱えたときもそうだったが、終焉の体は見た目に反してやけに軽い。この人こそろくに食べていないのではないか、と思うほどだ。
 よく分かったわね、と見かねたリーリエが口を出す。あの無表情でしかない終焉が無理しているのを、よく見抜けたものだと称賛しているのだ。何か違和感があったのかと問われたが、ノーチェは少しだけ考えるような素振りを見せる。「……何となく、そう思っただけ」そう答えると、女は「あら、そうなのね」と返事をした。

 商人£Bは負傷した何人かを支えながら街の方へと戻っていく。その中には調子の悪い男が、ぼんやりと俯きながら歩いていくのが見えた。あの調子なら暫くはノーチェ自身に手を出すことはないだろう。威勢のよかった姿が、まるで枯れかけの植物のように変わっているのは、不気味さすら覚えてしまう。
 一体何があったのだろう――。ノーチェは終焉を抱き寄せ直す。その拍子にフードが落ちてしまい、隠されていた顔を外に晒してしまった。蒼白い顔に僅かながらも表情が歪む。眩しそうな様子見かねて、ノーチェは「かぶせて」とリーリエに頼み込んだ。
 終焉が意識を失ってしまったので、帰りはリーリエが先頭に立って歩くのだという。ノーチェよりも長く近辺にいる分、それなりのことは分かると自負している。その自負している部分が彼の不安を煽っているとも知らず、リーリエは胸を張って「任せなさい」とふんぞり返った。
 高く昇った日が少しずつ落ちているとはいえ、暑いことには変わりない。ノーチェだけに留まらず、リーリエは勿論、終焉でさえも汗をかいているのだ。道が分からないといって立ち往生するのはお門違いだろう。
 ――それでもやはり不安なものは不安だ。
 「本当に大丈夫なの」とノーチェは囁くように言うと、リーリエはふふん、と鼻で笑う。

「私、勘はいい方なのよ?」
「……そう」

 これでも毎回適当に歩いて屋敷に到達してるんだから、と女は言ったが、にわかには信じがたい。じっと訝しげな目を向けてしまうことが抑えられず、ノーチェを見かねたリーリエは白けたように「ノリが悪いわね」と、唇を尖らせた。屋敷に出るまでにはあった赤色が、すっかり抜け落ちて元の唇が見えている。汗が鬱陶しくて拭い取ってしまったのだろう。
 化粧っ気のない女は何とやら、とよく聞く話だが、生憎ノーチェには誰がどう着飾っていても興味が湧かなかった。
 それでも早く帰りたいという気持ちは同じだ。

「……ちゃんと着けよ」

 そうじゃないと看病できない。
 ――そう付け足すと、女は大きく頷いて、親指を突き立てる。不安要素しか残らない行動に彼はうぅん、と唸ってしまった。
 すると、思い出したようにリーリエが「そうだ」とノーチェに提案をする。

「街に着いたら軽くお買い物しましょうね。何か食べられるもの」

 それくらいは許してくれるでしょ。困ったように笑いながら、腹部に手を当てたリーリエに、彼は仕方なく頷いてやった。

◇◆◇

 終焉を抱えながら寄り道をして、袋を肩に提げながら屋敷に着いたのは、既に三時を回ろうとしていたところだった。流石に参った、と言わんばかりに溜め息を吐いて、ノーチェは終焉の顔色を窺う。相も変わらず蒼白い顔をしているが、ふうふうと浅い呼吸が何度も繰り返されていた。
 普段から汗をかくような様子を見せない男が、苦しそうな息遣いを繰り返しながら唸る。「もうちょっとで着くから」なんて声を掛けてやるものの、聞こえているかは定かではない。早く寝かせて体を冷やしてやるのが最善だと、ノーチェはぐっと前を見据えた。
 屋敷の扉を開けたリーリエが小走りで駆け寄ってくる。「抱えながら袋も持つなんて、本当器用ね」なんて言いながら、彼を屋敷の中へと押し込んだ。
 屋敷は涼しく、やっと着いたと安堵の息を吐いてしまう。その気持ちを抑え込んで、終焉を担ぐように抱え直しながらノーチェは靴を脱いだ。ついで、と言わんばかりに荷物をエントランスで置き去りにして、足早に終焉の部屋へと向かう。
 赤黒い絨毯を踏み締めて、部屋の扉を開けて、ゆっくりと男を寝具の上へと下ろした。

「…………」

 その慌て具合が終焉の意識を揺さぶったのだろう。下ろす頃には終焉が徐に目を開けていて、不意にノーチェと視線が混ざり合う。「……起こした……?」と訊くが、男は依然ぼんやりとノーチェの顔を見つめるだけだった。

「……? まあいいや……服、脱げる? 汗ばんで気持ち悪いだろ」

 何かしらの言葉を交わすことはなかったが、終焉はぼんやりとしたままもそもそと服を脱ぎ始めた。言葉は通じているようだが、言葉を発する気持ちにはなれないのだろう。彼は男がゆっくりと服を脱いでいくのを横目にみながら、机の上に置き去りの桶とタオルに手を伸ばした。
 冷えている水が暖まった手を冷やしてくれる。冷たくて気持ちいいな、と思いながらタオルを絞ると、ばさりと小さな音がした。服を脱ぎ終わったのだろう――乱雑に脱ぎ捨てられた服をしり目に、終焉は髪を鬱陶しそうに束ねていた。

「ん、背中」
「…………」

 一言だけ呟けば、男は素直に応じて背中を見せる。何度見ても色の白い背中は綺麗で、多少丸められている。汗が湿っている背に濡らしたタオルを押し当てて、屋敷を出る前と同じように拭いてやった。火照る体に濡れタオルは心地がいいのか、深く息を吸い込んで、ふぅ、と吐いているのが背中からでもよく分かる。終焉でさえも汗の気持ち悪さには勝てないようだ。
 自身を化け物と揶揄する割には、行動のひとつひとつがどれも人間味を帯びている。自分達とは何ら変わりのない生き物なのだと、彼は思った。
 ある程度背中を拭いてやって、ノーチェはタオルを洗い、再び終焉へと向き直る。「こっち向いて」と言って終焉の顔を見ると、携えているタオルを頬にあてがった。

「う、」

 頬に当てられるのは予想もしていなかったのか、終焉は驚くように声を上げて、ノーチェにされるがままに顔を拭われる。「顔も拭いたらスッキリする……」と彼は語りかけ、終えた後に終焉へ訊ねれば、男は小さく頷いた。
 一度は自分で拭こうとする意思を見せていた終焉だが、体が思うように動かないのだろう。何気なくノーチェがそのまま胴体を拭いてやれば、軽く目を閉じてノーチェに身を委ねる。極力触れられることを避ける終焉が、敢えて彼に身を委ねているのだ。それほどまでに体調が悪いのだろう。
 かくいうノーチェもまた意識を失ったという話をされたのだ。事を終えて終焉と共に休息を取るべきなのだろう。
 終焉の体を拭いていくと、嫌でも体にある傷痕がノーチェの視界に映る。真新しそうで、古そうな、生々しい傷痕だ。鋭利な刃物で裂かれたような体は、一部が変色していて見るに耐えない。
 どれほどの痛みを感じたのだろうか――そう思いながら何気なく傷痕をなぞると、彼の胸の奥が騒ぐような感覚に陥った。

 ――何か。何かを思い出しそうな気がする。

 ――不意にそう思ったのか、本能が警報を鳴らすように誰かが囁いたのか、分からない。ただ、終焉の体に刻まれた傷痕が、自分の知らない記憶を呼び起こさせるものなのは薄々勘づいていた。その正体を知れば、彼は妙な違和感に苛まれることはなくなるだろう。
 同時に、その確信が酷く恐ろしいことのように思えるのだ。
 思い出してしまったら何かを失ってしまいそうで、――平たく言えば怖かった。
 そんなノーチェの様子が可笑しいことに気が付いたのか、はたまた別の理由かは分からない。終焉はぼうっとどこかへ向けていた視線を彼の顔に移すと、すぐさまノーチェの手を押し退けて、布団へ潜り込む。上は着ていない。本当ならば彼としては下の方も洗ってやりたいのだが、潜り込んだ男に何と言えばよかったのだろうか。
 彼は小さく溜め息を吐くと、再び終焉の箪笥を漁って服を一式用意してやる。寝具の枕元に置いて、「後で着替えれそうだったら着替えておいて」と言葉を置き去りにして、部屋を出ようと扉へ歩いた。
 すると、くぐもった小さな声がノーチェの背から聞こえてくる。

「……リーリエは料理が下手だぞ」

 ――なんて場違いなことを言うものだから、ノーチェは小さく首を傾げて部屋を出た。
 何の意図があってあの言葉を呟いたのだろうか――。
 ノーチェは軽く眉間にシワを寄せていると、すぐにその理由が分かってしまった。
 エントランスには置き去りにした荷物はない。それが、リーリエがわざわざ運んでくれていたことを示唆していて、後で礼を言おうと思った矢先に訪れたものである。

「――何でこう上手くいかないの!?」

 怒りにも似た声が聞こえてきたのはキッチンの方だった。
 ――後に彼は、キッチンへリーリエを入れたことを後悔することになる。


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