一日遅れの祝い事


 朝。鳥の囀り――だけでなく、虫達の鳴き声で彼は目を覚ます。遮光カーテンの向こうの日差しは強く、窓を見ればカーテン越しの光があまりにも目に悪かった。屋敷の中は相変わらず冷えているが、外に出れば昨日と同じような暑さがあるのは明白だ。
 ノーチェは布団を捲り上げて、寝起きに襲い来る不快感に気分を害する。目眩、熱、胸の奥から何かが込み上げてくるような感覚――喉が渇いた、と思うや否や、彼は何かを飲みたいという衝動に駆られる。
 先日はろくに水分を取っていなかった所為で、体に異常を来したのだろう。彼は目を擦りながら「水……」と呟き、寝惚け眼のまま、一先ず洗面台へと向かった。
 顔を洗って歯を磨き、身支度を済ませてから再びキッチンを目指すために階段の手前へと戻る。――すると、先日にはなかった食欲をそそる香りが、ノーチェの鼻を擽った。芳ばしく、肉独特の美味そうな香りはウインナーの類いだろうか。
 意識とは裏腹に体は正直なもので、くぅ、と鳴った腹に手を当てて、ノーチェは階段を下りた。一段、また一段と下る度に香りが強くなってきていて、今日の朝食は何だろうか、とノーチェは想像を膨らませる。
 終焉の手料理は美味い。本人が自覚していなかろうが、誰が何と言おうが、彼にとって終焉の手料理はやけに美味い。ここ最近の楽しみと言っても過言ではないほどだ。
 ノーチェはリビングを抜けると、そのままキッチンの方へと足を踏み入れる。扉を開けてちらりと部屋を覗き見れば、トントンと心地のいい音が聞こえた。既に夕食の準備をしているような雰囲気の背は、どこか母を彷彿とさせてきて、彼は目を白黒させる。
 そんなノーチェの存在に気が付いたのか――終焉はふと振り返って、ノーチェと目を合わせると「おはよう」と言った。

「……ん。体は……?」
「ああ、平気だよ。随分と心配を掛けてしまったな」

 親の姿を見付けた小動物のように、ノーチェは終焉の傍らへと歩み寄った。男の言葉の通り、終焉の顔色は――相変わらず色白だが――悪いとは言い難い。昨日の見知らぬ雰囲気も一変して、ノーチェ自身が知る終焉がそこにいた。
 もう夕食の準備をしているのかと問えば、終焉は夕食に力を入れたいようで頷いてくる。昨日の分を込めて、今日は一日中振る舞ってやるつもりだ、と男は言った。それが体の調子を崩す原因になると言うが、終焉は聞く耳を持ってはくれない。
 楽しみにしていた分、力の入りようが違うのだ。

「…………これ、持ってってい?」

 いくら言ってもキリがない。そう言いたげにノーチェはテーブルの上にある料理を指差すと、終焉は「頼む」と呟く。
 皿の上には目玉焼きがひとつ。瑞々しいレタスの上にウインナーが二本丁寧に飾られていて、再び腹の虫がくぅ、と鳴った。終焉のことだからデザートだの何だのを用意している、と思いながら、彼はその料理をリビングへ運ぶ。個数は何故か二つ。終焉が口にしないのを知っているノーチェは、誰かが来るのかと小首を傾げる。
 ――すると、丁度いいタイミングでエントランスの方からノック音が聞こえた。

「……タイミングだけはいいな」

 そう言って終焉は扉越しにノーチェに出迎えるよう、頼んだ。
 料理の最中に目を離してはいけない。――そう理解している彼は、一度頷いてエントランスへと駆ける。朝食に気を取られて喉の渇きを忘れていたことを思い出しながら、ノーチェは何の警戒もなく「はぁい」と呟いて扉に手を掛けた。
 終焉が警戒をしていない以上、予想外の出来事は起こらない筈だと思っているからだ。

「はぁ〜い! 少年〜! お誕生日おっめでと〜!」

 パンッと音を立てながら撒き散らされた紙くずに、ノーチェは目を丸くする。
 目の前に現れたのは金の髪を持った一人の女。相変わらず騒がしそうな声色に、堪らず眉間にシワを寄せる。火薬の香りが鼻を突くのに嫌気が差しながら「煩いな」なんて呟くと、リーリエは頬を膨らませた。
 女の姿は普段見かけるドレスよりもいくらかラフな格好だった。黒っぽい色ではあるものの、ワンピースのように緩く軽やかな生地を使ったシャツに、裾が余裕のあるスカートのようなキュロットを穿いていて、赤いヒールが目立つ。長い金の髪は緩くまとめ上げられていて、珍しいものを見たような気持ちにさえなった。
 「煩いとは何よ」そう言って唇を尖らせるものの、子供のような生意気さは見当たらなかった。寧ろ母のような雰囲気だけが醸し出されていて、「アンタもそういう格好になれるんだな」と呟きながら、ノーチェはリーリエを招き入れる。

「おめでとうに対して有難うは?」
「………………ん」

 靴を脱ぎながらリーリエはノーチェに問い掛けた。ああ、面倒くさいやつ――なんて思いながらも、生返事を返すと、女は不機嫌そうに「ちょっと!」と声を上げる。

「……外のあれ、片付けるの誰だと思ってんの……」
「…………許す!」

 散らばった紙くずを後目に、リーリエは腰に手を当てて胸を張りながら笑った。
 何が許すだ。
 彼はリーリエに軽く睨みを利かせながら、何気なくリビングの方へと向かう。二つあった朝食の片方は恐らくリーリエが口にするのだろう。義理堅い一面もあるのか、先日の礼とでも言いたげに用意された朝食を思い出しながら、女を一瞥してやる。リーリエは腹に手を当て、お腹空いたぁ、と呟きながら彼の後ろを歩いていた。
 結局仲がいいのだ。苦手だとしても、終焉はリーリエにどこか頼っているような節もある。扉を開ければリビングには全ての朝食を運び終えた終焉が「遅かったな」と言うことから、ノーチェにはそれとなく理解できた。
 理解はできたのだが――椅子へと歩み寄る足が妙に重く感じるのは、何故だろうか。
 彼は普段の席へと座ると、その隣にリーリエが座った。「いただきます」と同時に呟いた様子を、終焉は「ああ」と言って見届ける。その後自分の分の朝食――相変わらず洋菓子一択である――をテーブルに置いて、席に座る。甘い香りを漂わせるそれを、終焉はどこか美味そうに頬張るものだから、彼はもう突っ込む気力もなかった。
 ノーチェの隣ではリーリエが「美味しい!」と言い張って、順調に手を進めている。こんがりときつね色に焼かれた食パンの上にレタスと目玉焼きを乗せて、満面の笑みを溢しながら満足そうに朝食を食べ進めている。
 ノーチェはそれを横目に見ながらのろのろと食べ進めている所為か、終焉は不安そうに「どうした?」と彼に声を掛けた。

「…………美味くないか……?」

 ――もしも男が動物か何かだったら、落ち込むように耳が垂れていたことだろう。
 不安げな顔に彼は首を横に振って、「美味しい……」と小さく口を溢す。すると、終焉はやたらと嬉しそうに口許だけで微笑んで、よかった、と言う。見慣れてきたその顔を後目に、ちまちまとノーチェは口に含んだ。
 瑞々しいレタスの葉も、程好く焼かれて半熟のままの目玉焼きも。芳ばしい香りを漂わせるウインナーから軽く溢れる肉汁も、変わらずに美味しいと思える。デザートには手作りらしいイチゴのシャーベットなんか置いてあって、随分と手の込んだ朝食だ。小さなミントが可愛らしく飾られているところは、最早拘りすら感じられるほど。
 普段と異なるのは、それを味わうのがノーチェ一人ではないことであって――。

「………………はあ」
「あら、少年お腹いっぱいなの?」
「……そんなわけないだろ……」

 ふと気が付いた心情に、自分の幼稚さを彼は呪った。
 気に食わないのだ。毎日手の込んだ料理を出して自分の舌を肥やしてくる終焉の手料理を、自分がよく知らない人間と分かち合うのが。ノーチェの為に出してくれているであろう料理を、今日ばかりはリーリエも食べている。自分が知らない間に今までも何度か口にしていたのだろうか、と考えるだけで、妙に胸の奥が騒ぐような心持ちになってしまった。
 拗ねているのだろうか。嫉妬しているのだろうか。感情の正体は分からず、彼はただ、自分があまりにも子供じみていることに嫌気が差してしまったのだ。
 こんな感情を抱くなど、ノーチェ自身思いもよらなかったのだろう。彼は何気なく頬を膨らませたが、無駄なことだと知って小さく首を横に振った。用意されている飲み物を一口。くっと飲んで、渇いていた喉が潤ったことに軽く吐息を吐いた。

◇◆◇

 パーティー気分が夜まで続いた頃、何故か帰ろうともしないリーリエにノーチェは鬱陶しさを覚えていた。無論、原因はリーリエにあって、彼は陽気にはしゃぐその姿を嫌そうに見つめる。視線の先には既に酔いが回った様子のリーリエが一人。大きく笑っていて、空の酒瓶をまるで我が子のように抱えている。
 はっきり言えば酒臭い。目にまで染みるようなつん、とした独特な香りが、ノーチェの呼吸器官をぐるぐると巡る。胸の奥に溜まり続けるかのような、酒特有の香りに、遂に吐き気すら催すほどだ。まさか昼頃から唐突に酒盛りを始めるとは思わなかった彼は、女に早々に帰ってほしいとさえ思うほど。それほどまでに酔ったリーリエは面倒臭かった。
 終焉はキッチンの方へとこもりがちで、一歩たりともノーチェを招き入れようとはしなかった。約束していたものを作っているのだとは分かるのだが、彼とて納得できるような心情ではない。
 うんざりとした目付きを向ける先に、リーリエはやはりいる。赤いソファーに腰掛けてへらへらと笑いながら、酒瓶を大事に抱えている女が。普段ノーチェが座っているであろう場所に座っている所為か、不快感が増しているのは気の所為だろうか。
 大して期待はしていなかったが、自分の誕生日だというのに、優遇されない状況がほんの少し気に食わないのだ。

「……なあ、アンタ。酒臭い。いつ帰んの」

 遂に転がり始めたリーリエに、ノーチェはふて腐れたような呟きを洩らす。無意識のうちに表情に出ていたのか、女は赤い瞳でノーチェの顔を見ると、「そう拗ねないの」と笑う。ゆっくりと体を起こして、瓶を離した手で小さく手招きをして、彼を呼んだ。
 ――正直に言えば行きたくないの一言に尽きる。
 しかし、呼ばれているのに応えないわけもなく、彼はしぶしぶリーリエの元へと歩いていった。
 赤黒い絨毯を足で擦って、ソファーへと近寄る。「何」とだけ呟いて、女の様子を探ると――リーリエの滑らかな指先が、ノーチェの頭を撫でた。

「……何すんの」
「ん〜? お誕生日おめでと〜って思って」

 柔らかな髪を軽く撫でて、火照る顔を綻ばせながらリーリエは笑う。その顔付きは、母というよりは近所にいる顔見知りが子供に対して微笑むような顔で、何やらもどかしいような感覚がノーチェの頬を撫でる。恥ずかしさとはまた違った違和感に、堪らずその手を払い除けた。
 「ガキ扱いすんな……」なんて、奴隷の立場では言えたものではないだろうに。思わず口を突いて出た言葉はリーリエの耳を揺さぶる。「そうねぇ、子供ではないもんねぇ」と笑ってソファーに体を預ける様子は、先程まで酔っていた人間とは思えなかった。

 誕生日を祝ってもらうのは何年振りだっただろうか。おめでとうの言葉はもらうものの、贈り物など既にもらわなくなったノーチェには、今日という今日がやけに新鮮だった。
 終焉は用意するから、と言って昼頃からキッチンにこもりきり。彼の相手はリーリエがするものの、その立場は逆転していて、ノーチェがリーリエの相手をしてやっているほどだ。何度終焉に戻ってきてほしいと思ったことだろうか。
 スカートではないことが功を奏して大胆な格好をしても、目のやり場には困らない。しかし、この酒豪の相手を一人でするには骨が折れてしまう。男は彼の要望に応えようとしているのだが、今となってはそれが仇になったような気持ちになってしまった。

「いくつになったの?」
「…………さあ」

 二十歳は越えてる。そう分かりきった言葉だけを呟いて、ノーチェはリーリエに背を向ける。向こうでは終焉の声が、物音が聞こえてくるような気がして、手伝おうとする意識が働いたのだ。
 今日の夕食は何だろう。すん、と香りを追うと、何度目かの腹の虫が声を上げて鳴いた。くぅ、と小さな音だ。空腹を覚えることも、満たすことも漸く慣れた。
 ノーチェは軽い足取りでリビングへと向かう足を止めて、ちらりとリーリエの方へ視線を向ける。女は相変わらずソファーに座ったままで、ノーチェの視線に気が付くと、ひらひらと手を振った。

「……働かざる者、食うべからず……」
「…………ん?」
「…………手伝わないならアンタ、食うなよ」

 吐き捨てるように呟いて、ノーチェは客間からするりと廊下へ足を踏み出す。すると、間髪入れずに酒瓶が床に転がるような音が鳴るものだから、彼は呆れるように肩を竦めた。
 ふぅ、とノーチェは溜め息を吐きながら、チョコレート色にも似た扉を開ける。一時的に眩しく見えた明かりの後に、終焉がせっせと食卓の準備をしているのが見えた。甘いケーキを並べている様子が見られるのに、漂う香りは焼けた肉だ。

「……今日は肉……?」

 珍しいなどと思いながら終焉の傍へと近寄れば、テーブルの上に並ぶ輝かしい果物が視界に映る。イチゴやリンゴ、キウイやマンゴーなど、彩り豊かで一口サイズの果物がところ狭しと飾られている。その中で映えるベリーの類いがいっそう存在を強調させていて、光によって艶々と輝くそれらに目を奪われる。
 シロップでもかかっているのか、それとも果物本来のものか――甘い香りが微かに感じられていて、「おー……」と思わず感嘆の息が洩れた。
 夕食とケーキの香りが同時に感じられることには触れず、ノーチェはじっとそれを眺める。タルト生地に盛られたフルーツがあんまりにも眩しい所為か、彼の瞳は輝いているようにさえ見えた。
 後から来たリーリエさえも、輝かしいフルーツタルトを目にして「うわぁ」と感動すら覚えてしまう。よくよく見れば最近は減っていた筈の花の形が、いくつか散らばっていた。
 気分が舞い上がると出てくるらしい花を見て、ノーチェはちらりと終焉を見る。男はどこか満足げに口許だけで微笑んでいたが、ハッとして慌てた様子でキッチンの方へと走っていった。
 それに続くよう、ノーチェもまたキッチンの方へと向かっていく。扉を開けてこもる香りを再度胸一杯に吸い込むと、それが何なのか、正体が分かったような気がした。

「……ハンバーグってやつ?」
「ああ、よく分かったな。凝ってみたくて、煮込みにしてみたんだ」

 ソースを煮詰めたような強い香りが肺の中を巡回する。終焉の手料理を認識すると、決まって鳴いてくる腹の虫が勢いを増した気がした。思わず腹部に手を当てて「参ったなぁ」と言うように首を傾げれば、男が「夕食にしようか」とほんの僅かに嬉しそうに言った。
 深い更に盛られていくそれを見て、口の中に唾液が広がるのがよく分かる。ぐっ、と生唾を飲み込んで、もうもうと湯気を立てるそれを、彼は両手で受け取った。
 ソースの香りと、彩りを足すための野菜が情報として頭の中に蓄積されていく。丸々と楕円を描いてしっかりと火が通ったであろう肉に、つい目を輝かせてしまう。
 珍しく出てきた肉料理に彼は「美味しそう」なんて呟きを洩らせば、敢えて肉料理を避けてきた理由を、終焉の口から聞かされた。

 ろくに食べてこなかったノーチェの体に、突然の肉料理など胃に負担がかかる。もしかしたら、体調を崩してしまうこともあるのではないか――なんて。

「……そんなに?」

 ふと手元から視線を外し、ノーチェは終焉の横顔を眺める。その顔付きはやはり親のような顔付きで、柔らかな雰囲気をまとっていた。睫毛が長いだとか、肌が白いだとか、そういう感想よりも終焉の機嫌の良さを痛感する。体つきも食欲も確かなものになってきていて、純粋に喜んでいるのだと――そこはかとなく理解した。
 だからこそノーチェは男に「そんなに心配するもんだったの」と訊いた。すると、終焉は「当然だろう」と言って、もう一皿の盛り付けを終える。

「私にとって貴方は最愛だから」

 それだけ告げて、漸く終焉の目元が笑ったような気がした。

 ――何度似たような言葉を投げられたことだろう。
 終焉はノーチェに向かって「行こうか」と呟くと、ノーチェはそれに頷いてリビングの方へと歩く。頭の中で繰り返し反芻する終焉の言葉が耳にこびりついて、その後の言葉はろくに理解できなかった。
 誰かに特別視されたのは多くあるわけではない。「愛している」と言われてむず痒い感覚に襲われるのは、単に慣れていないからだろう。――それなのに、終焉の先程の言葉は鉛のように重く感じられていながらも、彼の胸に募るのは嬉しさだった。

 調子が戻ったようで何より。

 たったそれだけのことで安心感を抱くなど、随分と気楽なものになってしまった。
 ノーチェはふと目の前で何やかんやと言い争っている終焉とリーリエを見る。何やらリーリエがフルーツを摘まみ食いしたとかで終焉が軽蔑にも似た視線を送っていて、それを悪く思わなかったリーリエに「夕食はやらない」と断言しているところだった。
 男の手元にはお手製の煮込みハンバーグがひとつ。食欲をそそる香りを目の前にお預けを食らいそうなリーリエは、ぐっと唇を噛み締めたかと思うと、ノーチェへと向き直る。その拍子に驚いて肩を震わせた彼は何かと瞬きをして、リーリエに「ごめんなさい」と謝罪の言葉を投げられた。

「……? 何で俺……?」
「だってこれは少年のために作られたものだから」

 理由も分からないまま謝罪を投げられ、首を傾げるノーチェ。その問いに対してリーリエは簡単に答える。このケーキはあくまでノーチェのために作られたのであって、初めに食べてよかったのはノーチェだけだった。それを我慢もできず摘まんでしまった女は、「大人げないことしたわ」と見るからに落ち込むのだ。
 そんなことか。
 そう小さく呟いて、ノーチェはいつもの席へと腰を下ろす。携えていた夕食をテーブルに置いて、用意されているナイフとフォークを視界に入れながら椅子を引き寄せた。すると、ノーチェに倣うように終焉もリーリエも席に着いた。終焉が持っていた食事はしっかりと女の目の前に置かれている。
 彼はフォークを手に取り、ハンバーグ――を越えてフルーツタルトへと手を伸ばす。赤く熟れた甘そうなイチゴに先端を突き刺し、ひと思いに口へと運んだ。シロップの甘さと、イチゴ本来の酸味が混ざり合って簡単に喉の奥へと流し込められる。ケーキ本体を食べたわけではないのだが、「美味しい」とだけ呟いて、ちらりと終焉を見やった。

「……全く。ノーチェに用意したのに」
「いっただきまーす!」

 やれやれ。そう言いたげに肩を竦めた終焉を他所に、リーリエはタルトへと手を伸ばし――

「――少年!」
「……!」

 ――かけて、ノーチェへ声を掛ける。
 驚いて堪らずノーチェが嫌そうに「何、」と答えると、リーリエはいたずらっぽく笑う。

「お誕生日おめでとう」

 くしゃりと音を立てて掻き乱される白い髪。呆気に取られたかのように彼は口を半開きにしていると、終焉の耳障りのいい声が軽く聞こえる。

「ノーチェ」

 そう呼ばれて終焉を見れば、男はテーブルに肘を突きながら懐かしいものを見るように微笑んで言った。

「生まれてきてくれて有難う」

 ――たった一言。たったそれだけの言葉を述べて、終焉は目の前のタルトに手を伸ばす。あくまでノーチェのために用意はしたが、自分が食べないわけではないのだ。
 その様子を見かねて、――と言うよりはただ茫然としながら――彼もまた夕食に手をつける。見よう見まねでリーリエの所作を盗み、フォークでハンバーグを固定させながらナイフを入れる。
 すんなりとナイフが入るほど、柔らかく煮込まれたそれを口へ運んだ。ほろほろと口の中で崩れたかと思えば、噛めば噛むほど肉汁だとか、ソースの味わいだとかが上手く絡み合う。頭のどこかで肉が喉につっかえることを懸念していたが、その必要性もないほど簡単に胃へと流し込めた。
 終焉が用意してくれていた冷えたお茶で更に流し込めば、また次を求める手が伸びる。美味い――なんて言葉も紡げなかったが、ノーチェの様子を見て終焉は満足そうだった。
 ノーチェの隣でリーリエは手料理に感激して、どこからともなく出してきた赤ワインを開けてしまう。ポンッ、と景気よく飛んでいったコルクを終焉が受け止めたのだが、彼は何を言うこともなくそれを見送った。
 酒が入った女はやはり面倒で、酒瓶から直接飲んだかと思えば大口を開けて笑うのだ。「やっぱり特別な日には特別なご飯を食べないとねぇ!」――なんて言って、酒を呷る。途中、ノーチェに飲むかどうかを問い掛けて、流石の彼も「いらない……」と引き気味に返答した。
 目の前では終焉がタルトを頬張っている。相変わらず夕食に洋菓子を食べる習慣は変わらず、それどころか味を確かめるようにゆっくりと咀嚼を繰り返していた。「これはやはり甘さには限界があるな」なんて呟いて、ほんの少し落胆するように肩を落とす。
 流石のノーチェも、リーリエ同様に夕食とデザートを交互に頬張ることはしなかったが、一息吐いた頃にそうっとそれに手を伸ばした。

「…………んまい」

 クッキーのようにサクサクとした軽い食感のタルト生地と、瑞々しい果物が口いっぱいに広がるのが分かる。生憎ノーチェ自身は洋菓子に対する拘りが分からず、ただ美味しいと呟くだけだ。――それでも終焉は安心したかのように「そうか」と言うものだから、何だっていいのだろう。
 てっきり甘すぎるものが来るのかと思えば、終焉は節度は守るものだろう、なんて言っている。自分好みの甘いものを押し付けるのではなく、あくまで相手を考えてこそのフルーツタルトだったのだろう。
 かくいうノーチェもまた特別嫌だと思うことはなく、ただ黙々とそれを口に運び続けた。

 三年――確か三年ほどだ。彼は二十歳を奴隷下の中で迎え、誰にも祝われることもなく今日という日まで生き延びてしまった。十八だか、二十歳だか、成人として認められる年齢は地域によって異なるらしいが、ノーチェは既に成人している。奴隷として捕まることがなかったら、彼は身内にでも祝ってもらえていたのだろう。

 特別豪華というわけではないが、環境が悪いわけでもない。ノーチェは用意された夕食とデザートを食みながら、二人の会話を軽く聞いていた。自分が二十歳の頃は何をしていただとか、今日の料理のさりげない拘りだとか、明日には掃除をしなきゃならないだとか、日常的なことばかりだ。
 本当は当日に祝いたかったのに、なんて愚痴のように呟かれた終焉の言葉に、リーリエが呆れるように笑う。「体調崩すのが悪いんでしょう」そう言ってハンバーグを頬張ると、嬉しそうに笑った。

 何でもない日常の一部だ。何でもない日常の一部が、奴隷である筈のノーチェの目の前に広がっている。

 「おめでとう」と「有難う」――二つの言葉が頭の中で繰り返す中、ノーチェは黙々と飲食を続けていた。

◇◆◇

 気が付けばリーリエは小屋へ帰る準備をしていた。それを見送るため、ノーチェと終焉はエントランスで靴を履くリーリエを見つめる。外は暗く、月が僅かに欠けているのだが、女は特に気にも留めていないようだ。夜な夜な獣が現れるだとか、道に迷うなどという恐れがまるで見受けられなかった。流石森に身を寄せているだけある。
 ――と、感心していると、リーリエはノーチェに向かって「プレゼントはあげられないけれど」と言葉を溢す。

「何かあったらちゃんと駆け付けてあげるからねん。あんたは一人じゃないんだから」

 分かりきったような、ありきたりな言葉だった。
 ぽすぽす、とリーリエはノーチェの頭に手を置いた後、惜し気もなく屋敷を後にして森へと向かった。暗闇へ身を投じる軽やかな足取りは、酒を飲んでいたとは思わせないほど。煌めいていた金の髪が闇へ呑まれる頃、終焉は扉を閉めて「騒がしい奴だな」と鬱陶しそうに呟いた。

「……まあ、今日くらいは許し――」

 踵を返しながら終焉は呆れるように言った。――が、ノーチェの顔を見た途端に言い切ることもなく、彼の顔を見ながら驚いたように口を半開きにしている。
 一体何があったのだろうか。
 ノーチェは思わず首を傾げようとしたが、原因が自分にあると気が付いたとき、漸く目元を隠した。
 得体の知れない涙が、再び彼の頬を伝う。鬱陶しげに、厄介だと思いながら、ノーチェは何度も何度も袖で目元を擦った。ぼろぼろと溢れ出す厄介なそれに堪らず顔を俯かせていたが、ノーチェの行動を見かねた終焉が咄嗟に彼の手を取る。
 赤く染まった彼の瞳に映るのは、驚きよりも心配そうに自分を見つめる小綺麗な顔だった。

「腫れてしまうよ」

 荒れた大地に染み込むような水のように、静かに降り注ぐ男の言葉。あまりにも優しく、普段の無表情からは想像もつかないほど柔らかな声色だ。
 この人は本当に俺のことを心配してくれている。――そう思わざるを得ないほど、胸に染みるようなものだった。

「何か至らない点があったか? 嫌なものでもあっただろうか」

 ノーチェの両手を押し退けて、終焉の白い手が彼の頬を包む。親指で溢れる涙を何度も掬っては「どこか痛いか?」や「何かされたか?」なんてひとつひとつ丁寧に問い掛けてくる。彼はそれに首を横に振って、何かに対する不満があるわけではないことを提示した。
 ただ、酷く懐かしく、嬉しく思えたのだ。おめでとうだの、有難うだの、どこかで言われたような言葉だったが、どうにも胸の奥がじんわりと温まるような感覚に陥った。沸々と沸き上がる感動にも似た感覚に、リーリエの去り際の言葉がどうしてか気になった。
 ノーチェが茫然としている合間にも、終焉は懸命に彼を宥め続けている。それが特別嫌というわけではないのだが、特別悲しいというわけでもないのだ。
 強いて言うならば安心したのだ。

 ――自分は間違っていなかったのだと。

「――ぅ、え……?」

 間違っていなかったって何だ。
 唐突に降りかかった自分の思考に、ノーチェはハッとした。――同時に、彼の視界にあった小綺麗な顔がどこかへと向かう。代わりに見えたのはシャツの襟が開いたお陰で見える喉元と、鎖骨付近。そして、額に押し当てられる柔らかな感覚――。
 言わずもがな、ノーチェは目を丸くした。
 髪越しではあるものの、額に口付けを落とされたのだと気が付くのに数秒掛かってしまった。たった一瞬の出来事ではあるが、彼はその事実に確かな驚きを覚える。様子を窺うように離れてノーチェの顔を見た終焉は、「……止まった?」なんて言っていて、目元の親指でぐっと跡を拭った。

「な、なに……?」

 思わず終焉の言動を訊ねてみれば、男は「出すぎた真似をしてしまったか」と一言。どうやら以前からまじないと称して額に口付けを落とし、相手方を宥める方法を持っているらしい。
 一体誰を相手にしていたのだ、とほんの少し疑問に思ったのだが、驚きが勝った彼には何も訊くことができなかった。
 終焉は微かに微笑んだかと思えば、徐に彼の頭に手を載せて普段のように撫でる。自分とは違う髪質を堪能するように、指の間に髪を絡ませて、頭の形をなぞるように撫でた。
 ノーチェはその手が嫌いだというわけでもない所為か、されるがままで終焉の手が止まるまで微動だにしない。自分よりも多少大きな手のひらが頭を撫でてくるのは、不思議と落ち着くような気がしたのだ。

「……落ち着いたなら、風呂にでも入ってもう寝よう。疲れただろう?」

 特にリーリエの相手は。――男はそう告げるとノーチェの様子を窺った。彼は静かな赤と金の瞳を見て、確かに、と言わんばかりに頷く。音もなく歩いていく終焉の後を追って歩けば、終焉は「ケーキはくどくなかったか?」と何気なく彼に問い掛けた。
 普段よりくどくはない。たった一言呟いて、ノーチェは軽く鼻を啜る。情緒が不安定にでもなりやすいのか、何度も涙を溢してしまう自分に嫌気が差してしまっていた。
 ――しかし、男はそんなノーチェに嫌な顔ひとつせず向き合っているのだから、大事に思われているのは確かなのだろう。執拗に追求しなければ、特に踏み込んでくる様子も見せない。
 そんな終焉の隣は居心地がいいと思っているのは確かだった。

「……なあ」

 男の後を歩くノーチェは、服の裾を引っ張って意識を向けさせる。終焉は何も言わずに彼へと向き合ったが、赤く腫れたノーチェの目元に手を添えて、「どうした」と呟いた。

「…………ありがと、今日」
「……どういたしまして。まあ、一日遅れてしまったんだがな……」

 未だに悔しそうに落胆する終焉を見て、ノーチェは小さく笑った。この人といるのは悪くないのかもしれない――そう思う彼の胸に、確かな安心感が募り始める。
 淡い月明かりが降り注ぐ夜の中、外では秋を知らせる虫の音がぽつりぽつりと数を増していった。


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