昼下がりの強奪


 鮮やかな花が咲き誇る朗らかな春の季節。木々も小鳥も虫達も、例に漏れず様々な人間達にも新しい出会いがある。桜が珍しいと言われるほどの西洋の街並み。――太陽が煌めくほど美しいと謳われている街、人呼んで光明のルフラン=\―そこで、奇妙な出来事が起こった。
 それは石畳を踏み鳴らしながら行き交う大勢の人々、市場や子供達のはしゃぐ声というものは活気がどれほど満ち溢れているのかを暗示していて、大小様々な賑わいが耳に届く柔らかな昼時。まさに明るさを指し示す「光明」の言葉が似合う街――その賑わいが騒ぎへと移り変わる奇妙な昼時だった。
 耳を劈くほどのけたたましい音が鳴り響いた。石造りの建物が内側から破壊されるように、人波にバラバラと幾つかの破片が転がっている。石畳に石造りの破片――一部始終を目撃していた人々は音を立てて倒壊していく建物と、建物から慌ただしく出てくる人々を見て、事故が起こってしまったのを目の前にしたかのように茫然と立ち尽くし、言葉を失っている。
 そして、暫くして漸く金切り声を上げたのだ。

「きゃぁぁああ!!」

 ある一人の女の声が切っ掛けだっただろう。唐突に上がったその金切り声に意識を取り戻した人間が、我先にとそこから離れるように駆け出し始める。
 ある者は女子供を置き去りに、ある者は転んで体を踏み躙られ、またある者は怒声を吐き散らしながら何かを指差している。 遠くから騒ぎを聞いて駆けつけてくる幾人の大人達――彼らは謂わば警察というもの――に近いもの――で、事態の収拾をつけようとして来たようだ。
 時刻は昼時、人通りは決して少ないとは言えない。場所は大通り、遠くに見える時計塔の針は未だ十二時を指し示している。高台から見下ろす街並みはいやに美しく、広場の噴水も、聳え立つ教会も、街外れにある佇んでいる屋敷も一望できる。
 唯一丘の上にある大きな木は季節になれば美しい色に染まる。今は丁度心地のいい春の季節――桜の花弁が儚くも美しく街に降り注いでいる。それを見たいがために人通りが多かった。
 今も尚微かに軋んで崩れる建物は三階建てにもなる広く大きな建物だった。それは偶然にも、ある程度の街並みは見渡すことができるほどだ。穴の空いた天井は内側から見れば丁度いい日差しが入り込む窓にはなっただろう。
 そこから現れた黒地に白のラインが施されたベストをまとう一人の男は瓦礫に足を掛け、ざわめく街を一瞥するように見下ろした。
 黒い闇を象徴するような髪に交じる赤いメッシュが特徴的で、獣のように鋭い眼光を持った赤と金の瞳。左目を垂直に切るように付けられたであろう傷は痛々しく、二メートル近くある高い背はやけに威圧的で、小脇に抱えられた黒い荷物――正確には黒い布で包まれた何か――がひとつ。
 騒ぎが鬱陶しいと言わんばかりに無表情を飾っているが――「しまったな」と紡がれた言葉に焦りが見え隠れして――。

「…………少しばかり揺れる。貴方への配慮は怠らないつもりだが、万が一…………ああ…………」

 「そんな悠長なことを言ってる暇はなかったな」男は騒ぎの中で独り言のように呟きを洩らし、小脇に抱えられているそれを再度強く抱き寄せる。その重さは成人男性よりは少し軽く、振り落とさないかが心配だと男は言う。
 その視線の先には警察とはまた違った集団――白い服を纏った奇妙な団体。人波に逆らうように突き進んで、崩れることを止められない建物に近付き、男を見上げる。ぱらぱらと音を立てて崩れる男の足元の瓦礫、反面集団の胸元に揺れる金に彩られた輝かしい十字架が太陽に晒されて煌めいた。

教会(イグレシア)≠セ、教会≠フ人間が来たぞ!」
「嘘……っ、じゃああれが……!?」
「早くもっと遠くへ!!」

 逃げ惑う人混みの中で誰かがそう叫んでいた。その言葉を切っ掛けに強い風が吹き荒れる。丘の上にある桜の木から風に乗って花弁が舞っている。
 「世界最大の厄災に鉄槌を!」――そんな怒りにも似た声を発しながら中心人物のような男が周りに命令を下すと、一斉に懐から一冊の本を取り出し、聞き慣れない言葉を発する。聖言にも似た奇妙な言葉だ。
 「汝が悪、罪を償いたまえ」――洗脳のような言葉が紡がれると同時、耳を裂くような甲高い金属音が鳴り響く。鼓膜を揺さぶり、脳を刺激し、目眩を覚えてしまうほどだ。――そう、それは例えば逃げ遅れた人間が地に膝を突き、頭を抱えて唸ってしまうようなもので――。
 ――にも拘わらず男はそれを見据えたまま、平然とした様子を保っている。氷のように鋭い欠片のような結晶が目の前に現れようが、その矛先が自分に向けられようが、まるで眼中にないと言いたげに目を細める。
 無粋だな、なんて小さく呟いて荷物を抱えている腕に力を込めると同時――教会≠ニ呼ばれた人間が生み出した造形物が男目掛けて一直線に飛んでいく。男はそれを鋭い目で見ながら一度膝を曲げると、足を着けていた瓦礫を踏み込んで、猫が垣根に飛び移るかのように軽々と宙返りを見せ付ける。
 男が足を着けていた場所に鋭い結晶が銃弾のように突き刺さっていく。男はそれに慣れた様子で、新たに足を着けた場所で悠々と服を手で叩いた――だが、小脇に抱えているそれの所為だろうか――男の感覚は少しずれているようで、綺麗に避けたと思った教会≠ニ呼ばれた人間達の攻撃の後、黒い髪が数本はらりと舞った。
 「ん」と男が想定外だと言わんばかりに小さく言葉を洩らすが、立て続けに、男の後を追うように教会£Bの言葉が聞こえてくる。その直後、再び透き通るほどに美しい結晶が狙い済ましたかのように被弾してくる。それは、男が避ける度に倒壊する建物に当たっては硝子が割れるような高い音を立てて霧散する。
 男はその飛弾してくる結晶を慣れた様子で、更に並んでいる家の屋根を転々としながら軽く避けていた。
 屋根や石畳に被弾しては鈍い音を立てて街が壊れていく。屋根の破片が衝撃に耐えられず、音を立てて石畳の上に落ちた。けたたましい悲鳴が辺りに広がっていく。「すまんな」と男が申し訳なさそうに――申し訳なさそうには聞こえないが――呟いて、凄惨な街並みから微かに目を逸らす。反対に教会≠フ人間はそれを気にも留めていない様子であった。
 不意に男は脇に抱えた黒い荷物を一瞥するや否や足を止め、首を傾げながら「これはいけないな」と一人呟く。男が抱えた荷物が小さく動いたような気がした。
 ――脇に抱えている黒い荷物であるが、実際に黒いのは何かを隠すように覆い被された布であって、その布も長さに限界がある。その布の先から覗き見えたのはしっかりとした手足で、しかし、それは常人とは確かに異なる点があった。
 ――よく見ればその手足はろくな食事も与えられてこなかったようで、布から見えているそれは一般的な人間よりも痩せ細り、いやに小汚い。――それを横目で見てしまった男の動きが、呼吸が一瞬ではあるが確かに止まったのだ。
 それは男の様子を見ただけでは分からないだろうが、確かな動揺が表れた。――その隙を突いて男を仕留めるつもりなのだろう。氷のように透き通った結晶が四方を囲むように飛んできたのだ。的確に仕留める為の何度目かのようにそれに男は弾かれたかのように顔を上げ――。

「――……まあ、だから何だと言うのだが」

 驚いた様子などなかったと言わんばかりに、全てに興味を失ってしまったかのような無表情で自分に向けられた結晶を切れの長い瞳で遠く見据えたまま、壊れかけの建物を足で踏み鳴らす。大地こそは揺れはしないが、瓦礫から破片が微かに飛び散った。
 ――瞬間、同時に鳴り響いたのは結晶によって建物が壊される音ではなく、――硝子が割れるような甲高い音だった。
 男を仕留める為に放たれた結晶は不意に地面から突き出したどこまでも黒い造形物――強いて言うなら「爪」だろうか――に砕かれていた。

「――終焉の者=A反撃を開始しました」

 ふと、騒ぎの止まない街の中で一際際立つ無機質な女の声が静かに響いた気がした。飛弾する破片に野次馬と化した街の人間達の声が響き渡る中で静寂に満ち澄んだ声が何故だかよく耳に届く。酷く薄暗く、この世界に光など見出せないと言ってくるような瞳をした、白い修道女のような服を着た女だ。
 女は終焉の者≠ニ呼んだ男を観察するようにじっと見つめていて、男は砕け散り結晶と化した結晶の欠片の中でそれを訝しげに見下ろしていた。

「あいつが来るまで奴を逃がすなよ!」

 ――ああ、早く戻らねば。
 教会≠フ人間が慌ただしく男を狙う最中、男は自分の身の安全よりも小脇に抱えたそれを横目に見る。時折それが小さく身動ぎを繰り返す感覚を得ている男にとって、今は教会≠ネど取るに足らない存在なのだ。
 野次馬と化した群集の目から逃れられるよう、被せた黒い布は男の衣服であるが、それだけでは隠しきれない足に気が付き始めるように次第に指を指し始める者が現れる。
 その視線の先には動きを制する為の、いやに古びた鋼鉄の鎖があった。それが一際目を惹いたのだろう。先程とはまた異なる小さなざわめきが見て取れた。
 それは男にとって酷く不愉快なものでもあった。抱えた荷物を心配しているのも確かだが、男自身の感情もあったのだろう。「……早く……戻らねば」そう呟く男の表情が微かに歪む。
 そんな最中で一人、中年太りした男が群集の中から這いずり出てきて、教会≠ノ勝るとも劣らない声を上げた。

「こんのやろ、うちの目玉商品を返しやがれ!!」

 それはあまりにも人権を無視するようないやらしい言動だった。
 ――瞬間、男の目の色が変わる。
 目玉商品――その言葉が言葉が男の神経を逆撫でしてしまったように鋭い殺気が広がった。一般人には到底理解し難い感覚――しかし、どこか肌寒くとりはだが立ってしまうような感覚――、更に一般人とはどこか離れた教会≠フ人間達はその殺気を強く感じてしまう。凍てつくような殺意は鋭い刃物のようで、全身が切り刻まれてしまったような鋭い痛みと、錯覚を覚えてしまった。思わず一人の人間が徐に手のひらを見つめている。
 そして、男に向かって叫んだ中年の男は、終焉の者≠フ目が酷く冷たくなったような気がして、小さく息を呑んだ。
 街を見下ろすように叫んだ男を、一瞥している男の目は鋭い瞳孔が開かれていて、その威圧は形容し難い重力を感じさせてくる。その時間は数秒だったにも拘わらず、体感時間は数時間にも及んでいただろう。
 動きが止まってしまって風の音すら耳障りな静かな街に、終焉の者≠ェ微かに唇を開いた。

「――悪いが、これは私のものだ」

 明確な殺意と溢れた言葉から滲み出る独占欲――ふ、と男が地面を抉るように下から上へと腕を振り上げる。
 すると、同時に地面から勢いよく突き出した黒い爪は走るように中年の男の元へ一直線に、続々と鋭さと数を増して向かっていく――。
 ――突然白い服を纏う女がよろめきながら中年の男の前に躍り出た。――いや、正確には突き飛ばされたのだろう。
 驚いたように目を丸くする女の目線の先に居る優しげに微笑む一人の男が口を開く。それは教会≠フ中で一際異彩を放つ人間で、藤のように鈍い色の紫の色が特徴的な毛髪と、見慣れないオッドアイが誰よりも印象的だった。

「……街の人間を傷付けてはいけないからね」

 勢いがなくなることのない爪、立てずに地面に倒れてしまった女。
 目の前で人が死ぬ――その瞬間が訪れてしまいそうな光景に、群集の耳障りな悲鳴が上がった。あの爪なら体が引き裂かれるという事にはならなさそうではあるが、群集にとっては「体が貫かれる」という可能性もまた衝撃でしかないのだ。
 ――その裏に好奇心が刺激され、微かな期待が隠れているなどと気が付くこともなく、咄嗟に目を伏せる。中年の男は目の前で倒れた女を確実に盾にするように服を掴んでいて、女の透き通るような暗い目には黒い爪が映っていた。

「――おいおい、余計なことしてんじゃねえよ」

 女の眼前に黒い爪が差し掛かろうとしたとき――低く挑発するような声色が届いてきた。
 それは、群衆の間を縫うように――いや、無意識に群集が女までの道を一直線に開いていたのだ。その間を鋭い光を反射しながら何かが黒い爪に強くぶつかる。女の顔の横をすれすれで通り過ぎた何かは黒い爪にぶつかった後、宙を回ってそのまま大地へと突き刺さる。
 それは酷く美しい刀身だった。銀の刃に金の装飾が施されていて、柄は装飾と同じよう金で彩られ、所々に赤い宝石が煌めいている。
 ――一言で表すなら大きな大剣だった。
 教会≠ェ持つ十字架を模したように、刀身と柄の全体を見ればそれは人を殺す為の道具ではなく、巨大な十字架に見えてしまう。爛々とした太陽の光はそれを照らしていて、群集はおろか、一部の教会≠ナさえもその光景に目を奪われてしまっていた。
 弾かれた大剣、それは女の足元に――女を守るように――突き刺さっていて、女に――元を正せば中年太りした男に――向かっていた黒い爪は弾かれたと同時に芯から割れるように音もなく、砕け散っていってしまった。
 微かに滲み出る群集の期待に対する裏切り。それを踏み躙るように大剣が飛んできた方から足音が聞こえ、女の服を掴んでいた男の手を強く踏みつける――。

「いぎッ……!?」

 煙草の吸い殻を踏み潰すようにその足は小汚い手を地面に擦り付け、手を踏んでいるその人物は中年の男を、塵を見るような目で強く睨み付けている。
 それに気が付いた群集はその目に肩を竦ませ、目を合わせないよう咄嗟に顔を逸らす。中にはそそくさと足早に離れる者も居た。中年の男は目尻に涙を浮かべながら痛みと訴えるが、その声は届かないと言うように、手を踏み躙る足は一向に離れる気配がない。
 ざわざわと先程とは異なる騒ぎが教会≠ゥら聞こえてきた。訝しげな目がそれに向けられる。

「まあまあ、その辺にしなさい。遅かったね、――ヴェルダリア」

 その間を縫うように微笑みながら出てきた男は先程女を突き飛ばした人間で、ヴェルダリアと呼ばれた青年は赤い髪を揺らしながら「ああ……?」と言った。その服装は教会≠フ人間とよく似ていて、ほんの少し異なる。

「俺が遅かったぁ? だったらこんなことして良いと思ってんのかぁ、モーゼさんよぉ!」

 ヴェルダリアにモーゼと呼ばれた男は相変わらず薄っぺらい笑みを浮かべていて、その男の言葉が癪に障ったのか、ヴェルダリアは踏んでいた足を一度上げると、男の手の甲を強く力任せに踏みつける――。
 骨がずれてしまうような聞き慣れない鈍い音が微かに鳴った。「ひっ……」と誰かが息を呑むように声を上げ、群集の中に居るであろう子供がヴェルダリアの怒りに満ちた言葉に驚き、泣き声を上げ始める。
 先程まで緊張感の漂った雰囲気は一変してしまった。壊れた街並みよりも遥かに目を惹いてしまうらしい教会≠フ人間は泣き声にハッとすると、モーゼが小さく首を横に振って「やれやれ」と呟く。

「さあ、お前達。彼らの安全を確保しておくれ。教会の地下はまだ広かったろう? 終焉の者≠ヘもう逃げてしまった。街の損傷の他に何かないか確認を」

 モーゼの言葉に誰も彼もが屋根の上を見た。先程の一件で誰も彼もが終焉の者≠ノ目を向けなかったのだろう。――気が付けば黒い男の姿など見る影もなく、残されたのは見るも無惨に壊れてしまった建物ばかりだった。
 逃がしたことに悔しさを滲ませる教会=\―しかし、モーゼの言葉に従うように中心人物が指揮を執る。「住人の安全の確保を」その言葉に他の教会≠ヘ一斉に動き出した。
 耐えられなくなった瓦礫が音を立てて崩れていく。それに悲鳴を上げる女子供に寄り添う男、教会≠ェ「こちらへ」と導く。その声に簡単に従うほど、彼らは街一番の信頼を得ているようだった。
 ――やがて、飽きが来たらしいヴェルダリアは踏み締めていた手から足を離すと、突き刺さった大剣を無造作に抜き取る。石畳に刺されば相当な力を要するというのに、彼はいとも簡単に抜いてそれを鞘に収める。
 その姿は見れば見るほど、十字架そのものに見えた。

「……無事か。怪我はないな?」

 ヴェルダリアが見据える目線の先には先程の女。腰が抜けてしまっているようで、倒れ込んだまま身動きを取ろうとはしない。先程男の足を踏み締めていたとは思えないほど、優しい顔をした彼は女に手を伸ばすと、慣れた手付きで頭を撫でる。その髪は艶やかで、赤から青へと毛先にいくにつれて移り変わる美しい色をしていた。
 ヴェルダリアの金の目が不思議と柔らかさを湛えて、女の体を支えながら起こしていく。割れ物を扱うようなその仕草に女は薄暗い目を丸くして――唐突に糸が切れた人形のように意識を失った。
 彼はそれが予想できたように片腕に重くのし掛かる体重を引き寄せ、苦い顔を浮かべながら抱き寄せる。極力肌を晒さない為の服から微かに覗いた、首に巻かれた暗い色の――。

「今回の敗因は一体何だと思う? 終焉殺しのヴェルダリア≠ニして、意見を聞かせてくれないかい」

 不意にヴェルダリアに声を掛けたモーゼ。それに彼は強い苛立ちを露わにしたような瞳を向けたが、モーゼは薄気味悪い笑みを浮かべながら微かに首を傾げる。徐に立ち上がり、終焉殺しのヴェルダリア≠ヘ「決まってんだろ」と呟く。

「敗因は魔法∴齣。てめぇら……魔法に特化したアイツに勝てると思ってんのか?」

 魔法=\―それは存在する筈ものを生み出す為の一つの手段に過ぎない。一部の人間が扱える摩訶不思議な力だ。
 一般的に体を巡る魔力と呼ばれるものを使い、攻撃にも守りにも徹することのできる力。大抵の人間には備わっていないものだが、光明のルフランには魔法を扱える者が比較的多く居た。それは不思議と教会に集まっていて、街を守る為に力を駆使しているという。――そんな噂だ。
 そして、彼ら教会≠フ標的とされているのが黒衣を纏う終焉の者≠ニ呼ばれる男。彼は魔法を使うことに酷く特化していて、どれほどの人間の数を積もうが敵わないとされている。彼の扱う魔法は影か闇だと分類され、教会≠フ誰もが持っていない属性だと伝えられている。
 更に教会≠ェ男を確実に仕留めようとする理由は、終焉の者≠ニいう名前が強く影響しているのだ。

 光明のルフラン――この街にはどこかに黒の予言書≠ニ呼ばれる本が存在しているらしい。
 それは、この世界が終焉に呑まれるという史実が記されているというのだ。幾つかの噂の末、決定的な裏付けとなるものは「終焉の者≠ェ世界を滅ぼす」という一文。終焉の者≠フ特徴は何ものにも染められない黒をまとう存在だという。
 そして噂の蔓延るこの街で唯一黒を身に付けているのは、先程の男以外には見当たらないのだ。
 教会≠ヘそのことを伝承のように街に広めて該当する人物を見掛ければ即座に報告するように言い聞かせている。それ故に住人は終焉の者≠見て顔を青くさせたのだ。

「ああ……そうだったねえ」

 くつくつと笑う様は格別落胆しているようには思えず、寧ろその逆、モーゼは現状を強く楽しんでいるように見えた。
 薄暗い紫と白のオッドアイが瞼の隙間から覗く。「何にせよ、街の損傷だけで済んで良かった」――その言葉は嘘のように思えるほど、異常なまでに薄っぺらいものに思えた。ヴェルダリアは片腕に抱える意識を失った女を強く抱き寄せると、「俺は帰るぞ」と言った。

「街の損傷だけが損害だと……? 笑わせんじゃねえぞ、教会°、!」

 彼が赤い髪を靡かせて踵を返した矢先、下から威勢の良い声が上がる。
 見れば先程ヴェルダリアが強く手を踏み締めていた中年の男だ。男は手を押さえながらヴェルダリアを睨み付けていて、見下ろされた途端徐に立ち上がった。押さえられた手は痛々しく腫れていて、彼の力が強かったことが窺える。

「――何だてめぇ」

 ヴェルダリアの声色はあまりにも低く、終焉の者≠ノ匹敵するであろう殺意を湛えている。

「ひいっ……!」

 つい先程の一件の所為だろう。中年の男はヴェルダリアにあからさまな恐怖を見せていて、咄嗟に身構えてしまう。その隣でモーゼが宥めるように「まあまあ」と声を掛けるが、彼はやけに嫌そうであった。

「……おや……そのフードの留め具……貴方は商人(マーチャント)≠セったんだね。その口振りからすると、何かしらの損害が出たようだ」

 ざわめく街は気が付けば静けさを取り戻しつつあった。その中でモーゼの言葉は酷く耳に届きやすく、ヴェルダリアが改めて見れば、フードの留め具としてあしらわれている馬の金バッジがキラリと輝く。
 「そうだよ、損害が出たんだよ!」商人≠フ男は唾を吐き散らしながら叫んだ。それを小汚いと言いたげな目をしたモーゼが小さく衣服を払いながら、「それは一体どんなものだい」と問う。

「もしかして、彼女を盾にせざるを得なかった(・・・・・・・・・・・・・・)、『目玉商品』というやつかい?」

 「彼女を盾にせざるを得なかった」――その言葉にヴェルダリアの顔が顰められる。

「ああ、そうだ! あれはわざわざ遠くから持ち込んで来た一級品だぞ!……それを……それを終焉の者≠ニかいう男に横取りされたんだよ!!」
「まあまあ少し落ち着いて。それはどんな特徴があるか、さっさと教えてくれたら取り戻そう」

 商人≠ェ全身で怒りを露わにするところを見る限り、それはそれは価値のあるものだったのだろう。モーゼは男を宥めようとヴェルダリアの前に出て両手を前に出していて、ヴェルダリアはさも興味も無さそうに再び帰るための足を進めようとする。
 ころころと小さな瓦礫が風に押されて石畳を転がり、桜の花弁が躍り狂っていた。暴れるように吐き散らす商人≠ヘ支離滅裂な言葉を紡ぎながらも、はっきりとした口調でその特徴を強く叫ぶ。
 それを偶然にも耳にしてしまったヴェルダリアは驚いたように目を見開いたまま、彼らの方を見向きもせず足を止め、「……何だと……?」と呟きを洩らした。

「目玉商品の特徴は見て分かる! 白から黒に反転した目、月の満ち欠けに連動した瞳、目元には逆三角形の紫色の模様があるニュクスの遣い≠セ!」

◇◆◇

 夕陽が沈み、夜に差し掛かる時間帯。街から離れるように歩く男は一体何時間外で過ごしただろう、と首を傾げる。
 小脇に抱えた荷物は相変わらず抵抗する意志がないようで、男は難なくそれを担いだままとある屋敷へと辿り着いた。暗闇で辺りは見えないが、中庭と思われる場所には小さな花が咲いている。屋敷の扉は暗い闇に溶け込んで視認することは困難のように思えたが、男は慣れた手付きで扉を押し開けると、小さく軋んで男を屋敷の中へと招いた。
 屋敷の中は暗く音もない。まるで生活感のない暗闇に沈んだその場所は、「屋敷」と言うよりもどちらかと言えば「廃墟」という言葉がよく似合っていて――月明かりが差し込む様は街にはない美しさを醸し出している。

「……すまない。長い間連れ回してしまった」

 男はそう言って小脇に抱えたそれをゆっくりと床に降ろすと、それは微かに覚束ない足取りで、ろくに食事も与えられなかったであろう体を慎重に支えている。
 男はそれに、頭までかぶせた黒い布――長いコート――を肩に羽織らせるように捲ると、漸くそれの顔がよく見えるようになった。
 白く手入れのない毛髪は月の光によって輝いていて、反転した黒い目と月の満ち欠けに倣うような紫と金の色を持った瞳が酷く特徴的だった。伏せられている瞳は男を微かに一瞥すると、小さな警戒を覗かせるように体を縮こまらせる。手足に施された古びた鈍い色の鎖が小さく音を立てた。

「………………」

 男の謝罪に漸く姿を現した青年は何を言うわけでもなく、ただ顔を逸らして片腕を擦る。
 どこか怯えているような印象を受けた男はそれを追及することもなく黙って青年に手を伸ばすと、青年の肩が微かに震えた気がした。まるで暴力に怯える子供のようで、男は首にあしらわれた異色を放つそれを一瞥すると、微かに目を細める。
 何気ない憤りを覚えてしまった。それは、男に対する青年の態度ではない。彼の首に施された首の輪が、男の感情を揺さぶったようだった。
 ――男は羽織らせた黒衣に伸ばしていた手を咄嗟に首輪に移して――。

「――っ!」
「…………っ……?」

 ――ばちん、と唐突に弾かれたその手に青年が微かに驚きを見せた気がした。
 咄嗟に押さえた男の左手は微かに震えていて、鋭い激痛を感じたのか、いやに痛がる素振りを見せてしまっている。
 「根本的な干渉は禁じられているのか……」そう呟かれた言葉に青年は思い当たる節はないが、何かをしてしまったのかと自分の手で小さく首輪に触れてみせた。それに青年は衝撃を覚えることはなく、ただの勘違いだったのかと言いたげに眉を顰める。
 鎖が擦れる音が静寂に包まれた屋敷に響いてしまった。「ああ……忌々しい」――そう言って男が徐に顔を上げる。鋭い眼光が獲物を捉えた獣のように光り輝いていた。
 蛇に睨まれた蛙のように青年が身を強張らせると同時、パキンと何かが割れるような音が鳴り響く。その音の正体は、青年の手足に施されていた手錠や鎖が砕ける音だった。

「…………ぁ……」

 暗闇に慣れた目はその手首の色が微かに認識できるほどだ。抵抗する気がなかった所為か、赤みがあるようには見えず、一般的な成人男性よりも細い手首に触れると頼りなさげに思える。
 ごろごろと音を立てて転がった足元にある拘束具は先程まで青年に付けられていたと思うと、どこか嫌な気持ちになった。
 ――それで男は何をするつもりだろうか。屋敷の中には青年と男の二人しか居ない。どういう理屈であれ、青年は拘束具を失ったのだ。それは青年にとって嫌な出来事の切っ掛けにしか思えない。どこまでも転々として、馬車馬のように扱き使われ、挙げ句には何度も酷い目に遭わされてきているのだ。
 青年は微かに後退りをしながら何を言われるのかとじっと待っていた。――どうせ逃げられやしないのだ。
 しかし、そんな青年の考えとは裏腹に、男は鋭い目付きを止めたかと思えば口元に手を押し当て、小さく「臭う」と言った。

「…………は……?」
「……ああ……だから、臭う。連れ回した直後で悪いが、早急に風呂を沸かすから入ってもらうぞ」

 男は終始真面目な表情で青年に語り掛けていて、「少しだけ待っていてくれ」と言葉を残したまま部屋を後にしてしまった。
 「……何企んでんだ」と青年の疑いの声は薄暗い屋敷の中で微かに響いた後、誰にも届くことはなく消えていった。


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