道なき森と猫の鳴く声


 ――ふ、と目を覚ましたとき、強い違和感に苛まれた。
 重く垂れる瞼を開けて、ノーチェは瞬きを数回繰り返す。頬に当たる冷たい感触に疑問を抱きながら、倒れていた体を起こす。力が抜けきっていたであろう腕でぐっと床を押し退け、辺りをぐるりと見渡した。
 酷く暗い印象を受ける部屋だ。街の明るさなど露知らず。光を一筋も通さない部屋で、彼は寝かされていたようだ。手のひらに当たる硬い床は、ひやりとしていて夏場には心地のいいもの。無駄にぺたぺたと手のひらで床を追っていると、革のような質感が手に当たる。
 彼はそれが何なのかを思い出し、咄嗟にそれを手に取った。
 閉じていた瞼を開けた直後のお陰か、はたまた生まれ持った視界のお陰か。それの認識は苦労することなく、無事を確かめて、ほっと息を吐く。
 手のひらサイズほどの四角い黒い財布と、箱がひとつ。何の衝撃を受けたのかは分からないが、箱は潰れていて最早見る影もない。これなら中身を取り出して懐に持ち歩いていた方が安心だ、と判断して、ノーチェは蓋を抉じ開けた。
 がさり、と音を立てて開いた箱の中から出てきた氷嚢は一般的なものだ。円を描く硬い蓋に、水色の布がぶら下がっているようなもの。懐に入れるには大きいような気がしたが、このまま放置してしまうのも気が引けたのだろう。一度考えるような素振りを見せた後、彼は自分の体をじっくり見渡した。
 懐に入れると言ったがポケットのようなものはない。スラックスにはついているが、せいぜい入って終焉の財布くらいだろう。氷嚢を持ち歩けば、手を塞がれてしまう。意識を失う前に一緒にいた男の存在を思い出せば、訝しげな目を向けるに違いない。
 「こんなものは邪魔だ」――そう言われて捨てられてしまえば、屋敷に残された終焉は、どうなってしまうだろうか。

「………………」

 ポケットがないなら適当に空間を作ってしまおう。
 ノーチェはベルトを軽く緩めると、黒いシャツの裾をスラックスに軽くしまいこむ。服と体にできた隙間に荷物をしまう。財布と氷嚢が収まっている服、というのはあまりにも見てくれが悪いが、捨てられるよりはマシだろう。
 ふう、と彼は一息吐いて暗い室内をじっくり見渡す。仄かに冷気が漂っていて、外よりはマシだと思えるこの空間で、ノーチェは眉を顰めた。

 ――ここはどこだろうか。

 窓のようなものはない。薄暗いこの室内はまるで地下室のようで、床に触れれば冷たさだけが返ってくる。彼の記憶が正しければ、やたらと暑い時間帯に街へと出た。眩しい太陽に晒されて終焉のために冷やせるものを買いに行っただけ。
 その道中で商人≠ノ出会い、反抗が許されないノーチェは、ただぼんやりとしながらその後をついていったのだ。
 辿り着いた場所にあったのは、廃墟同然の屋敷のような建物。仄かに開かれた窓から覗くぼろいカーテンが、熱風で小さく揺れていたのは覚えている。人が一人もいないような薄暗い外見をしていて、特別生き物がいるような気配はしなかった。
 流石に地下室があったかどうかなどの判別はできていないが、あの廃墟にいるというような考えに至れない。辺りを見れば、あるのは使われていない道具がちらほらと視界に入った。
 掃除に使う古びたモップや、凹凸のある銀色だったバケツ。使われていないような布団や、日常的に使えそうな道具ばかりが乱雑に置かれている。
 ノーチェは部屋の隅に歩いていって、ぽつんと取り残されているかのように置かれた机に手を置く。ざらりとした木の感触の他に、埃特有の砂のような感触が指の腹に押し寄せた。中央に乗っているのは使い古されたランタンだろうか。どれもこれも埃がかぶっていて、ノーチェは小さく咳をした。
 空気が悪い。今までやたら綺麗な屋敷にいた所為だろうか。埃があるこの部屋にいるだけで喉や鼻を通る空気が埃っぽくて、彼の吐き出してやろうと堪らず咳を繰り返す。不用意に近付かない方がいいのは分かった。彼はその机から離れると、再び床に座り込んでぼうっと虚空を眺める。

 今日はろくでもない人間に出会ってしまっただとか、外が暑かっただとか、あまりにも他愛ない考えしか浮かばない。ぼんやりとしながら膝を抱え込んで、時折終焉の安否が気になっては、ここからどう出てやろうかを考えてしまう。
 生憎ノーチェはこの部屋の外がどうなっているのかは理解していない。この部屋から一歩出た後、その先にあるのが部屋なのか、階段なのかも分からない。耳を澄ましても、あれだけ騒がしかった街の人の声が聞こえないのだから、離れにでもあるのだろうか。それとも、単純に地下に押し込められているのだろうか。
 ――考えても仕方がない。
 ノーチェは何故か頭を打ち付けられるような頭痛を覚え、膝を抱えている腕に顔を埋める。目の奥か、後頭部か、こめかみかは分からない。ただ漠然と強烈な痛みが頭部を襲っているだけで、酷く不快感が増していく。

 ――最悪な誕生日。

 そう呟いて、ノーチェは頭痛から逃れるように目を閉じた。

◇◆◇

 ――目を閉じてから大した時間も経っていない頃に、それは来た。
 頭痛から逃れるために閉じていた目を開けて、ノーチェはじっと前へと目を向ける。閉じていた頃に治まりかけていた頭痛は戻り、目の奥が酷く痛むような感覚に苛まれながらもそれを待つ。
 彼の視線の先には扉があった。その向こうから微かに足音が聞こえてくるのだ。コツ、コツ――と急ぎもしない普通の足取りで、確実に誰かが近付いてくる。ノーチェ自身としては、知っている顔――それこそ終焉やリーリエ、最悪ヴェルダリアやモーゼでもいい――の存在を望んだ。
 商人≠ナなければいいのだ。奴らであれば、彼の素性も知られている上に、それなりの使い道が決まってしまっている。そうなれば最後、ノーチェは懐にしまい込んだ財布と氷嚢を、病に伏している終焉に渡すことができないのだ。
 ――とはいえ、終焉の存在を望むなど、場違いであることは理解している。しているのだが、この状況で真っ先に思い浮かんだのが、終焉だったのだ。何せ男はしょっちゅうノーチェの傍にいるものだから、当然だと思ってしまっているのだ。
 思考回路が麻痺してしまったのだろうか。
 堪らず頭を抱えたい気持ちになったのだが、その衝動も束の間。コツン、と響いていた足音が唐突に途切れたのだ。それも、彼がいる部屋の扉の前で。
 ノーチェは望みを断ち切って、扉から誰が顔を出してくるのかをじっと眺めた。
 終焉やリーリエの筈がない。可能性があってもヴェルダリアかモーゼだ。顔はこれっぽっちも見たくはないのだが、屋敷に帰してくれる可能性のある人物といえば、彼らしか思い浮かばないのだ。

「――何だ、目が覚めたのか」

 ――勿論、可能性があれば、の話なのだが。
 きぃ、と金属のような音を立てながら開かれた扉から姿を現したのは、フード付きのマントを羽織った商人≠セった。その姿は以前から見ていたものと何ら変わらない、憎たらしい姿そのもの。唯一違う点を挙げるとするならば、ノーチェを連れて歩いた男ではないというところだろうか。
 あの男よりも比較的若い顔をしていて、終焉よりもいくらか背の低いがたいの良さそうな男だ。片手には見慣れないグラスを携えていて、無色透明な液体で満たされているらしい。暗闇で軽く揺れた景色が、そうだと認識させた。
 結局彼に残されているのは奴隷としての人生なのだろう。――歩み寄ってくる男を見つめながら「……何」と呟けば、男は屈んでグラスをノーチェの目の前に差し出す。

「水だ」

 飲め。
 そう言ってグラスを押し付けた男に押し負け、ノーチェは咄嗟にそれを両手で包んだ。僅かに火照っている手のひらに伝わるのは、水特有の冷たさだった。先程汲んできたのだろうか――冷たいそれの匂いを確かめながら、彼は訝しげな表情を浮かべる。
 毒の類いでも含まれているのだろうか。そう易々とただの水を渡してくるとは思えない人間達に、確かに警戒していると、男が気怠そうに頭を掻く。短い髪が軽く揺れた。

「お前、暑さで倒れたんだ。ただでさえ貴重なんだから、易々と見殺しにするわけないだろうが」

 さっさと飲んでおけ。――そう言われて受け取った筈のグラスを口許に寄せられ、ノーチェは堪らず水を口にしてしまう。渇いた舌と喉を潤すように、冷たい液体が食道を通って、鳩尾の辺りが仄かに冷たくなったような気がした。
 易々と殺してくれないのは奴隷になってから重々承知しているつもりだった。しかし、何度も同じように望んでしまうものだから、改めてそう言われてしまうと傷付くものがある。自分は永遠に奴隷として生きていくのだ、と思わされているようで、酷く悔しかった。
 頭痛の原因を知った彼は「ここは」と問い掛ける。倒れる前に見た屋敷であるならば、それ相応の答えが返ってくるだろう。
 ――だが、男の返答は彼の予想もしていなかったものだった。

「ああ……確か、街からほんの少し離れた家の、地下室……? だったかな」
「……離れた家……?」

 一体どういうことだろうか。わざわざ廃墟同然の屋敷を見せてきたというのに、置き去りにしたのは街から離れている場所にある家の中だという。しかも、この家もそれなりに広いようで、地下室なんてものがあるのだ。多少涼しいところに置いてくれたのは感謝しようかと思ったが、彼の口を突いて出たのは、疑問に対する答えを求める言葉だった。
 あの屋敷じゃないのか。堪らずそう訊けば、男は一度考えるような素振りを見せる。ううん、と唸って、眉を顰めて――やがて「そのうち知るから言っても問題ないか」と言えば、ノーチェの目を見つめる。

 男の説明を一口で言うならば、「逃げるため」だった。
 廃墟同然の屋敷には商人£Bが何人か潜んでいたようで、あの場所を待ち合わせとしていたらしい。ルフランへ共に来た仲間達と、売り物であるノーチェを奪い返して、この街から逃げようという魂胆なのだ。その道中、ノーチェは脱水によって意識を失ってしまい、元々身を寄せている人気のない家へと逃げ込んだらしい。
 ルフランは森に囲まれていて、簡単に逃げ出せないのは目に見えている。ノーチェが目を覚ますまで、数人の仲間達は森の出口を探し歩いている真っ只中ということだ。彼が殴られもせず、蹴られることもなく叩き起こされなかったのは、逃げることを優先しているからだという。
 倒れた拍子に投げ出された財布や箱を捨てるのではなく、敢えて拾ったのは、ノーチェがいた痕跡をなるべく減らしたいからだそうだ。

 ――そう説明されて、ノーチェはただ困惑した。この街にやって来たのは、あくまで奴隷を売るためだ。それは上手くいった筈だし、今後とも贔屓するために街を知る必要があるだろう。今まで通りの手口で事が行われる筈なのに、そうしないことへの疑問がただ募る。
 思わず「どうして」とノーチェは訊いた。どうして逃げようと思ったんだ、と。
 だが、目の前にいる男もそれは知らないようで、「さあ」と言わんばかりに肩を竦めるだけだった。

「――怖いんだよ」
「……っ!」

 以前よりもどこか柔和な雰囲気を割くように、呟かれた言葉に彼らは肩を震わせる。驚いて扉が開いている方へと顔を向けると、ノーチェを連れていた商人≠ェ、じっと二人を見つめていた。
 コツン、と音を鳴らしながら男は部屋の中へと入る。どうやら彼らに靴を脱ぐ、という習慣はないようで、土足のまま上がり込んでくることに彼は多少の違和感を覚えた。
 それと同時に、ノーチェは体が強張るのが分かる。膝を抱えている手に力がこもり始め、反射的に震えを覚えてしまう。
 普段から殴られていた所為か、その男が振るう暴力に対する恐怖が体に根付いているようだ。何てことはない、と何度も自分に言い聞かせても、足音が近付いてくる度に、どくどくと鼓動が強く脈打つ。酷く気分が悪くなり、無意識に腹に力を込めようと覚悟を決めた。
 ――途端に呟かれていた商人≠フ言葉が脳裏をよぎる。ただ一言、「怖いんだよ」という言葉が。

 ――何がだ。一体何が恐ろしいのだろうか。

 目の前に躍り出た男の顔は、以前見た頃よりも遥かに痩せているように見えた。夏の暑さにやられている所為だろうか。それとも、単純に痩せる気でも起きたのか、理由は彼には分からない。薄暗い部屋では具体的な顔色は窺えないが、目元の違和感と、僅かに肉が落ちた頬は見えた。
 商人≠ヘノーチェを殴るような行動には出なかった。それも痩せているのが原因だろうか。殴りはしなかったが――彼の襟をぐっと掴み上げて、酷く暗い瞳でノーチェを見る。

「……ッ、ぁ……」

 唐突に目の前が歪むような感覚に襲われた。それも倒れた影響だろうか。後頭部がずきずきと、まるで頭の内側から衝撃を与えているような痛みが走り、堪らず顔を顰めてしまう。
 息はできる。だが、目の前が回るように歪む。
 ――そんなノーチェに対し、男はぽつりと問い掛けた。

「お前、何で俺が怖いのか、知ってるか?」

 ――聞いた当初はただのからかいかと彼は思った。満足のいく答えが得られなければ、顔を殴る。答えなければ腹を蹴られる。そういった行為に出ると、思っていたのだ。

「…………?」

 しかし、ノーチェが答えられずにいると、男の顔が酷く歪む。くしゃりと表情筋で顔の表面をシワだらけにして、目は何かを訴えるかのように見開かれる。外よりも涼しい筈の地下室で、額から汗を滲ませて――ノーチェが異変に目を奪われている間に、男は手を離した。
 殴られなかった。殴られなかったのだが、不可解な現象に見舞われている。
 ノーチェは襟を直しながら男の様子を窺った。男は頭を抱えたかと思うと、唸り声を上げ始める。ノーチェに水を与えた若い男が声を掛けると、顔を覆っていた手の隙間から、焦点の定まらない瞳が見えた。

「あ、頭が……っ」

 頭が痛い。そう呻く男は、耐えられずにその場に崩れ落ちる。
 奴隷であるノーチェでさえ、その様子はあまりにも可笑しいことは分かっていた。まるで薬か何かを盛られてしまったかのように、男は不調を訴える。男が呟いた疑問が、それを引き起こしているのかと思っていると――、男は丁寧に、苦しそうに言うのだ。

「ここには、ここにはいちゃならねえ……いたくねぇ……けど、何でそう思ってるのか、全く思い出せない……!」

 ここに来た理由はよく分かっている。だが、今に至るまでの記憶の殆どを失っているようだ。男はいくつか思い付く限りの単語を溢しては頭を抱え、それが何かを誰かに問う。倒壊、修復、蝋燭、花、教会――何かを暗示する言葉を洩らすが、それが何を示しているのかが分からないようだ。
 呻き声を上げる男の口からぱたぱたと涎が滴る。汗にまみれた顔を上げて、「にげるんだよ」と呟いて、ノーチェへと訴える。相手の事情など気にも留めず、血走った目で、彼ではない何かを見つめていた。
 あまりにも突然の出来事に彼はただ表情を歪める。この男は何を言っているんだ、と正気を疑う言葉ばかりを心中で呟く。からかっている様子は全くないのだが、それがまた恐ろしく思えて、後退りをした。

 森に仲間達が入ってからもう一時間は経つようだ。何かしらの結果を見付けたら戻ってくるように言ってある、と若い男が言った。頭痛を訴えていた商人≠ヘ次第に呼吸を整えて、ゆっくりと立ち上がる。顔には汗が滴っているが、目は先程よりも正気に思えた。
 準備ができ次第、早々にこの街を立ち去ると言って、男達は外の様子を伺いにいった。
 コツコツと複数になった足音が少しずつ遠ざかっているのがよく分かる。取り残されたノーチェは胸元に手を添えて、未だに高鳴る心臓を落ち着けようと試みた。

 冗談ではない、早々に立ち去るなど。彼の懐には終焉の財布と、終焉のための氷嚢が収まっているのだ。素肌に当たる異物感は既に慣れていて、最早違和感もない。それらを渡せずにルフランを出るなど、彼の何かが許そうとしなかった。

 ――とはいえ、今のノーチェに何か打てる手があるわけでもない。たとえ今宵満月だとしても、武器も何もない彼が身ひとつで逃げ出そうとするなど、あまりにも無謀だ。聞いた話では仲間を集めているのだから、尚更無理があるだろう。
 しかし、渡せないという事実に屈するつもりは毛頭ないのだ。
 隙を突いて家から抜け出すのがいいだろうか。満月である以上、それなりの活力に溢れている彼は、ゆっくりと立ち上がる。暗い部屋の扉を開けて、そうっと顔を出せば目の前には階段があった。どうやら階段の上にある扉の向こうが、ただの部屋に繋がっているようだ。
 ゆっくり、一歩一歩確実に階段を上り、そうっと扉に耳を当てる。何人かの男の声。どれも商人≠フものであることは間違いない。その内容は、外の様子と、森の様子を窺うものばかりだ。中には今後のことを話している内容もあって、抜け出せるような隙などまるで作っていない。
 何かが理由で抜け出したいのは明白となった。

「…………駄目そうか……?」

 自分の無能さを打ち消すよう、ぽつりと言葉を紡ぐ。ほう、と呼吸を落ち着かせて、意識を研ぎ澄ませる。ニュクスの遣い≠フ血を継いでいるのだ。幼い頃に学んだことは、今となっても忘れることはなかった。
 扉の向こうにある人の気配は五、六人――いや、それ以上だろう。森に数人送り込んだと言っているのだから、十人はいるだろうか。それだけの数がいたのかどうかさえも覚えていないが、元から潜んでいたのが紛れている、ということも有り得る。
 どのみち、抜け道でも探さない限りは逃げることも許されないだろう。

 他の手が、何か思い付くのだろうか。

 ――そう思っていると、不意に悲鳴にも似た声が、扉の向こうから聞こえてきた。

「何だと……? そんなわけねぇだろ!」

 バンッ、と机を叩くような音に、ノーチェは堪らず目を瞑る。強い衝撃音だ、耳に痛みが走ったような気がしたが、構わず扉の向こうへ意識を向けた。聞こえてきた話の内容が、可笑しかったのだ。

「嘘じゃない、本当だ!」
「信じられるわけねぇだろ……いくら歩いても、この街に辿り着くなんてあるのか!?」

 ――話の内容を要約すれば、出口とおぼしき森の外へと辿り着けない、ということだ。歩いても歩いても、辿り着くのは街の出入り口だけ。漸く外かと思えば、目を凝らした先にルフランがあるのだという。
 端からすれば非現実的な話ではあるが、聞いていると冗談には思えない。口調からくる焦りと、感情の大きさから言葉から犇々と伝わってくる。「街から、出られない……?」そう呟いてみるが、商人£Bは彼が近くにいることに気が付いた様子はなかった。
 街から出られないとするならば、持ち物を終焉に返すことができる。
 ――不思議とそう思って安堵の息を吐いたが、裏を返せば、ノーチェは死ぬまでここから出られないということだ。
 話を聞けば聞くほど街への疑問ばかりが浮かんで、未だに頭痛を覚えている頭で必死に事の整理を試みる。

 ルフラン自体は大きな街だ。噴水を中心に、東西南北広く開拓されている。終焉が身を寄せている屋敷は、その中でも特に人気のない場所にあるものだ。その近辺に広がる森の広さは、予想を遥かに超えているものだろう。
 その森をただ歩いていても、それなりの日数は掛かる筈だ。多く見積もって三日程度になるだろうか――それを踏まえて聞けば、出口に着かないのは当然だとも言えるだろう。
 だが、森へ行ったと思われる商人£Bは、日数も跨ぐこともなく街へと帰ってきたのだ。単純に道に迷っただけだと、ノーチェを含める何人かが思ったらしい。「ただ迷った末に戻ってきたんだろ」という言葉が聞こえて、彼はそれに対する回答を待った。
 その答えはまるで理解し難いものだった。
 一本の木に印を付けておいたようだ。持ち合わせのナイフで軽く傷付け、何の気なしに足元には小石を落としておく。どこかで見た童話のように。歩きながら目印を置いて、瞬きをした後――戻ってきているのだという。
 街から外への目印と言わんばかりに続いた小石の道。無造作に傷をつけられた木。生温い筈の風が酷く冷たく思えて、彼らは咄嗟に踵を返して再び外を目指す。
 青々として心地のいい見た目をしている森に、鳥の囀りがよく聞こえてきた。歌を歌うように、チチチ、と鳴いている。時折小さな動物が木を駆け上がり、じっと商人£Bを見つめていた。まるで、監視でもされているようで、薄気味悪い。
 思わず足を速めて、今度は瞬きもせずに真っ直ぐ突き進んだ。回っているというのなら、どこかで曲がっている筈だと思いながら。
 機能しないと思って頼りにしない方位磁針を不意に見ると、やはり針が行き場所をなくしたかのようにぐるぐると回っていた。回っていて――不意にピタリと止まるのだ。ただ、西だけを指して。
 その現象に見舞われたとき、彼らは再び傷を付けた木の傍に立っているのだという。

 頭が痛くなった。
 彼は眉を顰めて扉から離れ、首を傾げる。本当にそんなことがあっていいのか、と。何せ彼らはこの街に辿り着く前にあの森を通っているのだ。道に迷わず、思うままに歩いていれば、大きな街が姿を現したのだ。

「…………そこから既に始まっていた……?」

 あの迷わずに街へ辿り着いた出来事が、切っ掛けに過ぎないのだろうか。
 街に辿り着けた時間は、覚えている限りでは日が昇っている昼の時間帯だ。そして、森へ入ったのも、恐らく日のある時間帯だ。見た感じ大きいと思えるあの森を、たった数時間で街に着けるほど簡単に抜けられるとは思えない。
 あの日はまるで。――そう、まるで、時間でも忘れたかのような――。

「仕方ない。少し様子を見に行くぞ」
「あれはどうします?」
「……どうせ一人じゃ何もできやしねぇよ」

 ――ふと聞こえてきた言葉に、ノーチェはハッとした。
 直後に足音が遠ざかり、扉が閉まるような音が鳴る。金属製ではなく、木製の響きに、ノーチェはゆっくりと目の前の扉を開いた。
 言葉から伝わる、商人£Bがこぞって森へ向かうという事実。奴隷程度には何もできないという先入観に囚われ、ノーチェを置き去りにするというのだから、滑稽なことだ。
 扉を開けて、こっそりと覗き見た部屋には人が一人もいなかった。予想通りだ。このまま帰ってくるのが遅ければ、ノーチェは逃げられること間違いないだろう。街の広さにまた迷うかもしれないが、何とかなる――という、謎の自信がノーチェの足を動かした。
 恐る恐る踏み入れた部屋は、ごく普通の部屋だった。クローゼットと、本棚と、キッチン。真四角のテーブルに、小さな窓に掛かるカーテン。地下室の扉はどこかの壁にあるようで、真隣には本棚が聳え立っている。
 地下室への扉を閉めて、何気なく歩いて開いてみたクローゼット。未だに生活感が垣間見えるほどにすんなりと開いた先、いくつもの手紙がノーチェの足元にばさばさと音を立てて広がった。

「うわっ、なん……」

 何だこれ、と言いかけた口が思わず止まる。中身を見たわけではない。特別可笑しなものがあったわけでもない。ただ、本能がそれに対する嫌悪感を露わにしたのだ。無意識に口許を押さえて、声を出すことをやめてしまうほど。
 不気味な量の手紙だ。封がされているが、数十――いや、数百に及ぶであろう大量の手紙からは、何故か寒気を覚えてしまう。――薄気味悪い。見てはいけないものだ。
 ノーチェは気を取り直し、散らばった手紙もそのままに咄嗟に扉へと向かった。床から微かに軋む音が聞こえたが、気にしている場合ではない。早く屋敷へ戻って、魘されている筈の終焉の元へと、帰りたいのだ。
 未だ太陽は空高く昇っているのだろうか。それとも、多少は傾いてきただろうか。何にせよ暑すぎるであろう外に覚悟を決めて、ノーチェは光が微かに洩れる扉へ手を掛ける――。

「――んなぁ」
「っ!」

 不意にやって来た猫の鳴き声に、彼は反射的に振り返った。
 甘えるような愛らしい鳴き声が背中から聞こえた。突然のことに心臓は高く鳴り、気分の悪さを助長させる。はっきりと聞こえた鳴き声に、一体どこから入り込んだのかと、確かな疑問が頭によぎった。
 この家には先程まで商人£Bがいたのだ。彼らは自分の邪魔になるであろうものなら、容赦なく手を出して追い出してしまう人物。猫の侵入すらも許さない筈なのに、猫がいる筈もない。気配に敏感なノーチェが気が付かない筈もないのだ。
 しかし――

「……あ、え……? 今、確かに……」

 ――そこに猫の姿はなかった。
 気のせい――ということはないだろう。ノーチェは確かに猫の声を聞き入れたのだ。この耳ではっきりと。家の外から聞こえたような声量ではない。この部屋の中心――テーブルから聞こえたのだ。
 猫、といえばあの白い猫を思い出してしまって、何とも言えない気持ちになる。何の害もない動物達が、無造作に命を刈り取られるのは、妙な気持ちになった。

 ――ざり、

 ――そんな気持ちに浸っていると、足音がすぐ近くにまで迫っていることに気が付く。土を踏み締める独特な音だ。扉のすぐ近くにいるようで、小さな違和感を胸に抱く。

 もし、もしも商人£Bが、帰ってきたのなら――どうなるのだろうか。

 そんな彼の不安を他所に、扉は無慈悲にも開いていった。


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