黒を纏いて影を追う


 報われないとばかり思っていた。――いや、実際はその通りなのだが。
 何度も同じ目線から夢を見て、何度妬ましいと思ったことだろう――。

 夢を見ていた。終始客観的な夢だ。愛に飢えた生き物に、身に余るほどの愛を注ぐ人間の夢だ。そこに男はいなければ、男が知る彼もいない。ただ、見せ付けるように繰り返し見る光景に、男は次第に「羨ましい」と思うようになっていた。
 羨ましい。羨ましい。どうして私は愛されないのだろう。
 その場に項垂れて、拳を握り締めること数十回。目を閉じ耳を塞ぐこと数回。妬ましいと思うこと数時間。
 気が付けば夢から覚めて、見慣れた天井を見つめて溜め息を吐くのが日常となっていた。
 そんなときに見掛けてしまったものだから、男はあの短時間で何度も自分を疑った。
 男の知る彼は、何故か奴隷になってしまっていて、見窄らしい姿をしていた。平均以下の体重に、傷だらけの肌は最早似て非なる者ではないか、とさえ思うほど。――しかし、見れば見るほど彼が男の知る者と同一であることを本能が囁いて、堪らず手を出した。
 彼は男を知りはしなかった。――それでも構わない。愛されずとも、奴隷などという枷から解放してやりたいと思った。
 これを逃せば一生巡り会えないかもしれない。
 最後の望みを掛けながら、男は彼の身を匿うことにしたのだ。

◇◆◇

 目を覚ました終焉は、ゆっくりと体を起こす。酷く重く、違和感のある体はやけに不快で、堪らず顔を顰める。すると、ぱさりと音を立てて何かが布団の上へ落ちたのに気が付いた。何だ、と思いながら終焉はそれに目を向けると――落ちたのは額に置いてあった濡れたタオルだ。
 程好く熱を持ったタオルは、お世辞にも冷たいとは言い難い。
 終焉はそれを軽くもたげて訝しげな目を向けていると、男の傍らで「お目覚め?」と女の声が聞こえてくる。ちらり、と目を向ければ金の髪を持った女――リーリエがにこにこと微笑みながら終焉の様子を窺っている。大した含みもない、ただの笑みだ。
 男はそれが不快――というわけではなく、ただ無表情のままでいる。勿論、申し立てるなら、「何故笑っているんだ」の一言に尽きるが、そんなことを言う気力もないのだ。
 終焉はゆっくりと辺りを見渡して、閉じきったカーテンの向こうを見つめた。あの布の下にある外の景色は眩しく、緑が煌めいているに違いない。嫌気が差すほどの日光にうんざりしながら、涼しさを求めて水を撒くのもお馴染みだ。
 ――なんて光景を想像して、屋敷の中にひとつの気配がないと漸く気が付く。
 それは、誰に何と言われようと大切に匿っているものだ。白い毛髪に夜の瞳――あの特徴的な容姿が酷く気に入っていて、手元に置いていたいとさえ思うほど。夜の名を持つノーチェの一族は特殊なお陰か、終焉が感じている気配は人間とは多少異なっているような気がしていた。
 そんな彼の、存在を感じられない。
 ――そう気が付くと胸の奥が冷えるような気がして、男は気怠げな瞳を徐に、大きく見開いた。

「やだ、寒い。あんたどんだけこの屋敷を所有物にしてるのよ」

 不意に呟かれたリーリエの言葉に、終焉は鋭い眼光を向ける。
 女の言葉は誰が聞いても理解し得ない言葉だ。冷房も点けていない部屋の気温が下がるのは、終焉の所為だと言いたげなもの。――だが、それは自分自身を化け物と宣う終焉だけは理解していて、開かれていた目をゆっくりと小さく細める。

 ここは終焉の言う領域≠セ。その領域こそ、まるで誰かの手で意図的に全てを支配されているように、気温さえも思いのままに操れるもの。ひと度足を踏み入れれば、領域の支配者である終焉は気が付くことができる。領域の範囲は屋敷内の全て。各部屋の至るところまで、人の出入りを男は把握しているのだ。
 当の本人が屋敷を領域と定めたのは、あくまで自分が過ごしやすい空間を作るためである。本人が留守にすれば当然その意識も薄まるわけで。そのときはせいぜい人の有無が分かる程度だ。

 領域は終焉の意思によって気温が変わる仕組みだ。それを知るリーリエは夏だとは思えない寒さを感じて、堪らず男に唇を尖らせて文句を言った。その口振りは――昔馴染みに対する口調によく似ている。苦笑交じりの、軽い戯れ程度。
 しかし、終焉はそれに反応を示すことがなかった。体調が悪いのだから当然と言えば当然なのだが、違和感のある様子に女は瞬きを数回繰り返す。
 静寂に包まれたかのような静かな顔。何の情も抱かない、綺麗だが無機質な顔立ち。どこかぼんやりと――しかし、何かを見据えているような瞳は、何故だか懐かしさを感じた。

「……ノーチェは」
「……え?」

 静かに、淡々と呟かれた言葉に、リーリエは拍子抜けした。「何故ここにいる?」や「何をしているんだ」などを言われるのではないか、と思っていたからだ。意味合いは然程変わらないような気がするが、終焉は気にしたのは彼の存在の有無だ。
 「ノーチェはどこにいる」と、静かな声色で終焉はリーリエに問い掛ける。リーリエは少しの間、黙秘を貫こうとして、ぎゅっと唇を一文字に結んでいた。終焉が大切にしているノーチェが一人で外に向かったなど、言えばすぐに威圧感が飛んでくる。彼らには言っていないが、リーリエも終焉の眼光は少しばかり苦手だった。
 己を強者だと目で語る終焉は、倒れる前のものとはまるで異なる雰囲気を持っている。何の情も抱かないような顔付きは普段と同じなのだが、根本的な何かが異なっているのだ。まるで、恐怖で人を支配するような――。

「……リーリエ。お前、俺に逆らうのか」

 息をするようにそうっと紡がれた言葉に、リーリエは目を見開いた。あくまで淡々と、少しの感情も込めた様子はない。
 しかし、その口振りが確かに懐かしくて、女は天井を仰ぎながら「はあ、」と大きな溜め息を吐く。

「……そう。そうなのね。あんた、そうなるのね」

 苦笑交じりの言葉と苦笑いを終焉に向けて、リーリエは起きたての終焉へと事情を説明する。

 リーリエ自身、ノーチェが一体何を目的として外へ赴いたのかは分からない。ただ財布を持ち出して、通過の見方を教わって、そのまま何も告げずに外へと飛び出したのだ。終焉ほどではないが、リーリエもノーチェのことを知っている。彼の瞳が一面金色に染まっているのを見かねて、「そこまで行動するのか」と呆気に取られたような気持ちにさえなった。
 似ても似つかない、小さな背中を見送って女はぐっと息を呑む。何も変わらない。突然突き動かされたかのように行動する様は、根っこから変わることがない限り同じなのだ。
 屋敷を出たのが十時前後。街まで数分から数十分。何を買い求めに行ったのか分からないが、迷うことなく辿り着いていれば、屋敷に戻るまでそう時間は掛からない筈だ。往復で三十分程度かそれ以上――だというのに、ノーチェは帰ってくるような兆しを見せなかった。
 そう気が付いたとき、終焉が徐に目を覚ましたのだ。

 リーリエが話をしていると、終焉は眠たげに欠伸をひとつ。目尻に涙を浮かべたと思えば、一度だけ気分が悪そうに額に手を当てた。目を閉じて、ふぅ、と一息。そのまま立ち上がろうと、寝具の端へ移動するものだから、女は「ちょっと」と声を掛ける。

「あんた、体調悪いのよ。動くのはやめときなさいよ」

 まるで不調であることを忘れているかのような行動に、リーリエは訝しげな顔をした。女の赤い瞳が僅かに細められる。その目を見て、終焉は小さく瞬きをすると――軽く首を傾げて「そうか」とだけ言った。
 ぎっ、と音を立てて軋む寝具をよそに、終焉はゆっくりと立ち上がる。
 すらりと伸びた背筋。長い間放置されたままの黒い髪。鬱陶しそうにそれを払いながらリーリエが座る椅子へと近寄ると、背凭れにかかっているコートをぐっと掴む。
 何を言ってもこの男はノーチェを探しに行くつもりなのだろう。
 リーリエは今度こそ大きく溜め息を吐いて、頭を軽く左右に振る。話を少しも聞いてくれなさそうな終焉に、何を言っても無駄なのだと分かってしまっているからだ。
 黒いコートに袖を通し、慣れた様子で男はそれを着こなす。髪はコートの下に隠して、ファーがついたフードを目深にかぶり、ポケットから出した黒い手袋を両手に着ける。万全な日焼け対策ともとれる姿に「全く」と女は遂に呟いてしまった。
 終焉は何も言うことはなかったが、ただじっとフードを越しにリーリエを見つめている。留守を任されるのか、ついてくるのかを無言で問われているような気がして、女は「いやねぇ」と肩を竦めてゆるりと立ち上がった。
 リーリエもまたそれなりに彼の身を案じているようで、迷いのない瞳をしている。

「……自分に責任があると思うか?」

 何気なく終焉が問い掛ければ、リーリエは「当然でしょう」と言わんばかりに緩く微笑んだ。哀愁漂うその表情に、様々な想いが込められているようにすら思える。やっぱり無理矢理ついていくべきだったわね――そう言って懐からタバコを出すものだから、男は堪らず顔を顰めた。
 露骨――とは言い難いそれに、リーリエは素知らぬ顔をして先端を柔い唇で挟む。「流石に屋敷の中で火は点けないわよ」なんて言ったが、その手には火を点けるためのライターが握られている。四角い金色に、小さな薔薇が彫られた特徴的なライターだ。何度も蓋の開け閉めを繰り返し、パチンパチンと音を鳴らす。
 その様子にどこが反省しているのだ、と終焉は口を開きそうになったが、どうも気怠さを感じてしまい言葉を呑み込む。熱があるとは感じさせないほど、清々しい顔をしながら、そっと扉へと向かう。
 その姿に、やはり不調であることが窺えるのだ。
 端整な顔立ちの額に微かに汗が滲む。機敏な動きはどこか緩く、足元のふらつきも隠しきれていない。
 それでも、男は真っ直ぐ前を見据えたまま歩いていた。扉を開けて、赤黒い絨毯を掠めてエントランスへと向かう。寒いとも暑いとも言わずにただ黙々と、黒い裾を靡かせて。
 リーリエもまたドレスを靡かせながら、エントランスへと歩いていった。「そう急かなくてもいいでしょう」の言葉に「ふざけるな」と男が呟く。

「今日は……」

 ――先の言葉を、リーリエは呆れたように肩を竦めながら聞いたのだった。

◇◆◇

 男の足取りは、お世辞にも軽いものとは言えなかった。
 しかし、体調が悪い、なんて判断はできそうにないほど、足取りはしっかりとしている。時折ふらつくように体が傾くが、何食わぬ顔で軌道を戻すものだから、末恐ろしいものだとリーリエは思った。
 地面はすっかり乾いた土になっていて、周りは草原のように広く青々とした草木が繁っている。道中、見上げた桜の木を通り過ぎ、終焉はただ彼の元へ向かおうと街へ歩いている。
 途中、昼の鐘が大きく響いた。時間感覚のない彼らは「もうお昼なのね」「……時は金なりとはよく言ったものだな」なんて会話を交える。その間にも終焉の目はただ真っ直ぐ前を見ていて、傍らのリーリエなど視界にも入れなかった。
 それを気に――することなく、紫煙をくゆらせ、ふふんとほくそ笑んだ。

「……あ、そうだ。あんた無理したと思ったら承知しないわよん」
「何故」
「何故って……馬鹿ねぇ。医学を嗜んだ身としては、本当は外にも出したくないのよ?」

 リーリエはタバコを咥えたまま両手を腰に当て、子供を叱る母親のような目で終焉を見上げる。「あんたは前例がないんだから」と言って、歩く終焉の背をひたすらに追った。その様子を男は横目で見て、「善処する」と言ったが――、無理をするのは明白だ。
 自分が気を遣ってやらなければ。
 ――そう、リーリエの勘が囁く。
 自慢ではないが、リーリエの勘はよく当たるのだ。こればかりは目だの魔法だの、そういった特別なものを駆使しているわけではない。ただ何となく、そう思ったから、行動に移すまでなのだ。
 だからこそリーリエは、頭の片隅で思う。――ああ、面倒なことになるのだ、と。

「……ほんっと、賑やかね……」

 呆れるわ。
 そう呟いたリーリエと同じように、終焉もまた目の前をじっと見つめている。眼前に広がる街の景色には、やはり人が多く、熱気だか活気だか区別のつかない暑さがそこにある。子供のはしゃぐ声も、値引きを強情る声も、もう聞き慣れたものなのだ。しかし、それに加えて降り注ぐ太陽の熱には慣れることがない。
 終焉はフードを深くかぶり直し、ほう、と溜め息を吐く。太陽が苦手な男にとって、夏に外へ出るという行為は自分の首を絞めるものと同じだ。暑さを感じることはないのだが、目を焼く眩しさには酷く悩まされている。ちりちりと、目の奥が痛むような気がして、終焉は地面を見るように俯いた。
 石畳の広がる地面を、ノーチェはどのような足取りで歩いたのか。ゆっくりと目を閉じて感覚に縋ろうとするが、どうにも体調が悪いようだ。頭の思考もまとまらなければ、じっと突っ立っているだけで気分の悪さも覚えてくる。
 胸の奥――腹部から何かが競り上がってくるような不快感。頭を締め付けてくるような頭痛――それらが相まって、終焉は顔を歪めた。

「……リーリエ」

 ぽつりと消え入りそうな呟きを洩らし、終焉はリーリエの名を呼ぶ。
 リーリエは立ち止まる終焉の傍らでタバコを握り消し、「何かしらん」と陽気に答えた。その目は爛々と輝いていて、街の在り方に心を躍らせているようにも見える。普段街に行かない分、目の前の光景が新しくて仕方ないのだろう。
 しかし、街並みの把握をできていない分、迷子になることを懸念しているようだ。終焉の傍らから離れず、男の言葉をただ待つ。
 ――そんなリーリエに、終焉は目頭を押さえながらぽつりと言った。

「先導しろ」
「あんた迷子になりたいの?」

 終焉の言葉に間髪入れず、リーリエは先程までの爛々とした目付きを変えて、酷く訝しげな目で終焉を見る。形の整った眉が眉間に寄って、シワが作られていた。道を迷うことに絶対的な自信があるのか、リーリエは迷うことなく言葉を続ける。

「私、森に住んでる分、街なんて分からないわよ」

 特に人が多い時間帯は。
 ふんぞり返るほどに胸を張って、女は威張るように言った。威張れるような言葉ではないことは確かで、終焉は至極嫌そうに溜め息を吐く。はあ、とあからさまに肩を落とし、「何のためについてきたんだ」と言いたげだ。
 終焉は闇雲に先導しろなどと言っているわけではない。女の勘の良さは重々承知している。調子が良くない終焉には、頼れるのはリーリエだけで、それ以上の成果など求めてはいないのだ。
 終焉は言った。

 ただ歩くだけでいい。「何となく」道を行けばいい。不調の所為か、鼻も利かず、ノーチェの匂いを辿れない。生憎彼を易々と手放す気はない――と。

 ――末恐ろしい執着心だと、女は思った。歪みのない、透き通っているが暗い色の両目が、憎らしげに青い空を睨んでいる。男の優れた五感すらも不調と晴天の下では成す術もなく、封じられてしまう。ああ、忌々しい――と、終焉が口癖の如くひとりごちた。
 死にたいから、彼を手放さないのか。愛したいから明け渡さないのか。正直なところ、リーリエには終焉の私情など理解はできない。――それでも、男のために最善を尽くしてやろうと思ってしまうのだ。

 漸く噛み合った歯車を、狂わせる予定など毛頭ない。

「仕方ないわねぇ。本当に迷子になっても知らないから」

 金の髪を振り払い、リーリエは赤い口紅のついた口の端を上げて笑う。

「街中は把握しているよ。お前はただ、導けばいいのだ」

 酷く澄んだ声に後押しされ、リーリエは土から石畳へと足を踏み入れる。一斉にざわめきが耳に届くような違和感を覚えながら、つい、「気が付いていないのね」と呟いた。
 それは、人の賑やかさに掻き消されたのか、不調故に届かなかったのか――男は反応を示すことがない。黒紫のヒールはカツン、と音を立てて迷うことなく進み始める。

 ――勘の良さは終焉も負けてしまうほどだった。

 自分よりも背の低い女を追うように歩きながら、終焉は堪らず息を洩らす。感嘆の息に最も近い吐息だ。リーリエの足取りが軽いものであるのを見かねて、本当に「何となく」で歩いているものであることを実感させられる。
 目に頼るわけでもない、力に頼るわけでもない。生まれつき備わっているただの勘に、男は圧巻した。
 特別注目の的になるわけでもない終焉は、リーリエに注がれる視線に気が付いてしまう。
 ルフランでは嫌われている黒を身に纏う女が、ただ悠然と街中を歩くというのが注目を集めているのだ。相も変わらず終焉は無意識のうちに気配を霞めているが、リーリエは何も気にせずに堂々と歩いている。胸元が露出した、スリットドレスを靡かせて、観光しているかのように楽しんでいるのだ。
 自分の日焼けなどこれっぽっちも気にせず、すらりとした生足に、時折周りの目が釘付けになる。――リーリエは、終焉とは別の意味で視線を集めることが殆どだ。

 こんな注目を集めていて何が楽しいのだろうか。

 リーリエの軽い足取りについていく終焉の足は重い。一歩一歩が怠そうに、ゆっくりと進められる。歩幅が終焉の方が広いお陰か、距離は開かないのだが、下手をしたら見失ってしまう可能性もあるだろう。
 終焉がリーリエの姿に目を配らせていると、不意に女が「ねえ」と言った。
 スキップでもしそうな足をしながら、リーリエは青い空を見上げている。「何だ」と呟いたつもりだが――、あまり声にはならなかったようだ。リーリエはふと振り返って終焉を見たと思えば、「あんた大丈夫なの?」と言う。
 体調のことだろうか。反射的に頷こうとすれば、女の指先が自身の目元を差した。

「目、どう? あまり診ていないけど」

 トン、と触れていた女の目元は、終焉のものを指し示しているようだ。
 男はリーリエの意図を察すると、何気なく自分の目元に触れる。金色に彩られた、透き通る瞳がゆっくりと、指先で隠れて見えなくなる。眉から頬まで、傷痕をなぞるように撫でた後、終焉は「悪くなった」と言った。
 視力が悪くなった。――そう言って、目を伏せる。
 特別見えなくなるわけではない。しかし、無事であるとは言い難い。元々視力が良かった終焉は、悪くなった片目を不便だと思っているが、愚痴を洩らすことはまずない。片目を補うようにもう片方を駆使している気がしているが、生活に支障が出ることはなかった。
 そう、悪くなっちゃったのね。――そうリーリエは呟くと、再び前を見て歩く。鬱陶しいほどの市場が通り過ぎて、日陰の少ない噴水広場の近くへと躍り出た。時計塔の時計の針は十一時近くを指している。あと一時間もすれば昼食だ。
 噴水の水音が心地好い。それらを掠め、リーリエは軽く迷った後にふらりと裏路地へ足を踏み入れる。日陰の心地好さに漸く一息吐いて、終焉は安堵の息を洩らした。日の下にいるのは酷く億劫で、子供達の声すらも耳障りに思えてしまうのだ。
 そんな厄介なものからの解放は、終焉の心を落ち着かせるに至った。
 青空は顔を覗かせているが、太陽の鬱陶しい光は降り注いでこない。日陰にいる分、頬を撫でる風がやけに涼しく感じられる。体は重いのだが、解放された途端に足が軽くなるような感覚に、男は陥った。

「……裏にいるということは、また厄介なことに巻き込まれているのか?」

 何気なくそう呟けば、リーリエは「多分ね」と終焉に返す。
 目の前には、屋敷と比べれば小さい大きさの廃墟が堂々と聳え立っている。がら空きの窓からカーテンが揺れ動いているのを見かねて、男は小首を傾げる。リーリエはこの廃墟を目の前に足を止めて、ぼんやりとそれを見上げていた。恐らくノーチェがそこに訪れたことには間違いはないだろう。
 間違いはないのだが――。

「…………ここか?」
「……の……気がしたんだけど……」

 思わず問い掛けてみれば、女は悩ましげに首を傾げながら、うーんと唸る。本人も薄々気が付いているようで、どうしたものかと独り言を洩らしている。
 この廃墟には人の気配がないのを、リーリエの勘も囁いているのだろう。
 蒸し暑い夏の日に、彼は腹を空かせていないだろうか。――何気なくそう考えていると、思い立ったようにリーリエは屈んでいる。迷った末に実力に出るのが吉だと、勘が囁いたのだろうか。「鏡よ鏡よ鏡さん、」なんて陽気な歌を口ずさみながら、地面に――と言うよりは影に――向かって指を踊らせている。
 「鏡なんて無いんだがな」と言えば、女が「気分よ、気分」と言って、赤い紅の載った唇を小さく開く。

「あの子の足跡、この私に教えて頂戴な」

 ほんの少し、頭の中に浸透するような声色でリーリエが足元に語り掛ける。すると、リーリエの足元にある影が微かに蠢いた後、ゆっくりと地面から這い上がった。
 目はない。これと言って鼻のようなものも見当たらない。ただ黒いシルエットのようなものが、軽く尻尾を振る。――猫だ。

「…………それは」

 何気なくそう呟けば、リーリエは「魔女と言えば黒猫でしょう」と言った。足元に佇むそれは、にゃあと鳴く素振りもない。――しかし、どこか懐かしいような気がして、僅かに頬の筋肉が動く。

「……冗談よ。あんた達に道案内したい〜って子が来てくれたの。感謝しなさいよね」

 終焉の様子を知ってか、女は口許に人差し指を当てて「いい子ね、この子」と言う。すっかり実体を失った猫はくるくると回った後、ふと方向を変えてこちらを振り向くような動作を見せる。「ついてこい」と言いたいのだろうが、その先には塀があるだけだった。
 猫はその塀に軽々と飛び乗って、再びリーリエと終焉を見る。二人が動かないのを見て、座り込んでからじっと見つめてきた。――気がする。
 終焉は特別何かを問題視しているわけではないが、傍らに添うリーリエが訝しげな顔をしていた。じっと猫を見つめ、うぅん、と額に手を押し当てる。猫だから、だろうか。道なき道を行くのは。女が登るには少々骨のいる高さに、「足跡じゃないじゃん」と遂に言葉を洩らした。

「……仕方があるまい。猫は猫なりの道で彼を追ったのだ」
「それでも普通に道案内してほしいんだけど?」
「よかったな、近道を教えてくれるそうだ」
「道ないんですけど」

 終焉の言葉に懸命に返すリーリエの言葉は、人間として正論としか言い様のないものだった。
 だが、相手は終焉と猫だ。時折常識も通じない相手でもあることを、女は知っている。「あんた本当に行くの?」なんて問えば、終焉は一歩足を踏み出して「当然だろう」と言葉を置いた。

「嫌なら帰ればいい。何となくで着くんだろう?」

 後は自分で何とかする。
 そう呟いた終焉の目は冗談を言っているようには思えなかった。
 このままでは本当に置き去りにされてしまう――観念したリーリエは肩で大きく息を吐きながら「ちょっと手伝ってほしいんだけど」と、終焉に声を掛けた。


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