熱に紛れる赤い髪


「熱を下げんならここら辺じゃねえの」

 そう言っていくつかの雑貨を手渡してきた男を見て、ノーチェは多少、あからさまに嫌な顔をしてみせる。今の自分ができる限り眉間にシワを寄せたつもりだ。目の前のそれはノーチェの顔を見て、揶揄うようににんまりと笑った。
 赤い髪に金の瞳。傷痕の残る顔にはこれでもかというほど、小馬鹿にしたような笑いがこびりついている。終焉のように高い背丈を持っているが、あまりノーチェと変わりがないように見える。――ヴェルダリアだ。
 彼は数個の氷嚢を見て、選んだのがヴェルダリアであることが酷く不愉快に思える。

 店先で声を掛けてきたのはヴェルダリアで、ノーチェは咄嗟に肩を震わせながら振り向いた。目の前にいたのは終始つまらなさそうな表情をしたヴェルダリアで、じっとノーチェの顔を覗き込んで「何してんだ」と問う。彼はノーチェを頭の先から爪の先まで眺めてから、返事を待たずして辺りを見渡した。
 「…………アンタに関係ないだろ」そう口を突いて出たであろう言葉が、ヴェルダリアの耳に届く。神経を逆撫でするかのような金の瞳が再び彼を見た。男は「ふぅん」と口を洩らすものの、ノーチェを逃すような素振りは見せない。結構関係あると思うけどな、なんて呟いて、彼の手元のそれをひょいと掴み上げた。

「あっ」
「盗らねぇっての。何買うんだぁ? これ、アイツんだろ」

 ポケットに収まる程度の大きさである黒い財布を手に、ヴェルダリアはノーチェを見下ろす。辺りは騒ぎを覚えたかのように耳障りな声を上げていて、その声色に彼は微かに意識を奪われていた。よりによってこんなやつと会うなんて――と言いたげな目付きが、負けじと見つめ返す。
 思えば、初めて見たときとは違和感があった。何が原因だろう、と思うノーチェの視界に映るのは赤い髪。よく見れば前髪を掻き上げていた筈のヴェルダリアが、前髪を下ろしているのだ。違和感は童顔に見えることへのものだろう。
 彼は何かを言うことはなかった。確信を得られそうな言葉を紡ぎ、相手に利益など持たせたくはないのだ。
 ――とはいえ、終焉が傍にいない以上、特定の人間達にはノーチェが滑稽な餌にも見えるだろう。辺りを警戒するように、誰も彼もを疑いノーチェを守るように、終焉は絶えず傍らにいるのだ。そんな男がいないと知るや否や、人目も憚らず手を出す人間がいても可笑しくはない。
 例えば、目の前にいるヴェルダリアでものを言えば、「保護」と称してノーチェを教会≠ヨ連れていくことが可能だ。彼の存在は誰もが認知しているのだろう――道すがら、時折ヴェルダリアを見る目が穏やかであったり、恐怖に染まっていたりするのが見える。そんな男が、ノーチェを「保護した」と言えば、誰もがそれを受け入れるだろう。
 だからこそ、ノーチェは何も答える気はなかった。――答えたくはなかった。道端で恵みを乞う人間に向けるような瞳が、ただ彼の神経を逆撫でするのだ。
 事を荒らげたくない筈なのに、胸や腹の奥で沸々と怒りが湧き、堪らずに歯を食い縛る。彼の頭の奥底で誰かが警告を鳴らすように、忘れた筈の苛立たしさが募る。――が、首輪のお陰もあって、口に出すようなことは決してなかった。

「関係ねぇと思ってるその頭が緩くて笑えるな」

 沈黙を貫いているノーチェの間近へ、ヴェルダリアの顔が近付いた。
 彼は驚き咄嗟に顔を逸らしたが、ヴェルダリアの言葉にぴくりと手指が動く。賑わいの中であくまで聞こえるように、と近付いた顔を横目で軽く睨み、「どういうことだ」と問い掛ける。
 酷い、酷い熱気だ。つぅ、と頬に伝う汗が気持ち悪い。
 ――そう言いたげに汗を拭うのは、ノーチェに限った話ではない。行き交う街の人々、外気にこもる熱気。それらが混ざり合い、目の前にいるヴェルダリアでさえも酷く暑そうに顔を歪め始める。
 流石は夏といったところだろう。太陽の光は春や梅雨と非にならないほどに強く、リーリエ曰くノーチェの白い肌は僅かな痛みを訴えているような気がする。彼は堪らず「ふぅ」と息を吐くと、見かねたヴェルダリアが「あちぃ」と言いながら、ノーチェの腕をぐっと掴んだ。
 何すんだ、と言おうにも、腕を掴みながら歩き始めた男に口を開くことはできず、縺れながらもその背をついて歩く。向かう先は店の奥のようで、迷いなくずんずんと歩いていくのだが――いかんせん、気遣いは見られなかった。

 ――あの人はかなり俺のことを気遣って歩いてたんだろうな。

 そう思えるほど、ノーチェの足は絡まり、転けるのではないかという不安が襲う。歩幅も勿論終焉とは違う所為か、多少の疲労を覚えたのは言うまでもないだろう。
 ――代わりに体を冷やすように頬を撫でた冷気に、ノーチェは思わず心地好さを覚えた。冷房が効いているのだと気が付くのに時間は掛からない。涼しい、と言葉を紡ごうとしたが、手を引いて歩くのが終焉ではない以上、彼は何も言うことはなかった。
 店の奥は雑貨が棚にずらりと並んでいる。出入り口にあった人の波は少なく、人が疎らにいる程度。程好い広さの店内に充満している冷えた空気に、先程とは異なる溜め息をほぅ、と吐いた。

「非番だし暑いし外にいたくねぇんだよ。体を冷やすもんでも買いに来たんだろ?」

 そう言いながらヴェルダリアはノーチェの腕を放し、何食わぬ顔で彼を見やる。まるで心の内やら頭の中を覗かれたような感覚に、ノーチェは咄嗟に「どうして」と言葉を洩らした。
 どうして分かったんだ――と呟いて、小さく警戒をしながらヴェルダリアの行動を窺う。深緑に彩られた服に赤い髪。酷く目が痛むと思いながら返事を待つと、「うちのやつがそうだからだなぁ」と興味なさげに返される。
 頭を掻きながら溜め息を吐いて、面倒くさい、と言い出しそうに顔を歪めて言うのだ。

「うちのやつが熱で倒れたんで、折角だから冷やすもん買ってくるかっていう考えだぜ。坊っちゃんもここでの夏は初めてだろぉ?」

 大方お前も熱に耐えかねたんだろ。そう言いたげな視線にノーチェは反論をしようとしたが、目の前の男が一体どういう人間なのかを思い出して、咄嗟に口を閉ざす。何てことないような、さもありきたりな言葉を選んでいるようだが、ヴェルダリアが終焉がいないという事実を見抜いていることは分かっているつもりだ。
 何を企んでいるのかは分からないが、安易に終焉がいないことは口にしない方がいいのだろう。
 ヴェルダリアは終焉のことを毛嫌いしている。それは、終焉もまた同じ。互いが互いを嫌い合っているが故に、彼らは互いの存在の有無を容易く見極められるのだ。
 それを裏付けるためか、ヴェルダリアはくつくつと軽く笑って「まあ、そんなわけがねぇよな」と言う。先程ノーチェの口から洩れた「関係ない」の言葉に返すよう、男が発したのは終焉に対する己の衝動だ。嫌い合っているために、殺したくなるのだと。彼には到底理解し得ない事柄だ。
 澄ました顔を見ると腹が立つ。どうせなら無様に、惨めに泣き喚けばいい。絶望したまま死ぬ終焉を想像すると――、清々しいほど晴れやかな気分になると言う。

「………………」

 そのヴェルダリアの言葉に、ノーチェはやはり何も言わなかった。言葉が何も思い付かない――というわけではない。唇を開かず、ただ沸々と沸き立つ怒りのような衝動を、奥歯で擂り潰して呑み込んでいるだけだ。自分ですらまるで知らないこの苛立ちを、口を開いた瞬間に吐き出してしまいそうで。
 ノーチェ自身、自分の無力さは痛感しているつもりなのだ。踏ん切りがつかなかったから奴隷にまで成り下がった。首輪の影響か、それともただ望みがないと思ってか、奴隷という立場から抜け出そうとは思っていない。勿論、抜け出せるのなら抜け出したいと、頭の片隅では思っている。
 しかし、抵抗も虚しいものだったのだから、今のノーチェには「何かをする」などと思考は働かないのだ。ましてや立ち向かうなど、自分自身でも到底考えられないものだ。
 だからこそ彼は、挑発じみたヴェルダリアの言葉を受け流す気持ちでいた。何度商人≠ノ罵倒されようが抱くことを忘れた感情を、今になって思い出しているのかは分からない。初めて会ったときに、屋敷に訪ねられたときに挑発されたのが原因のような気がしたが――、どうも少し違うような気がした。
 商品棚に囲まれながら、ノーチェはヴェルダリアをじっと、僅かに睨み付けている。唇も開かず、噛み締めるように口許に力を込めるノーチェには、その時間がやたらと長く感じたように思える。
 ヴェルダリアは黙りの彼を一瞥した後、再び頭を掻いて「無言か」と呆れがちに言った。今は易々と挑発に乗らねぇのか、とまるで以前に出会ったことのあるような言葉を残し、すぃ、と店内を見渡していく。

 ――まただ。

 リーリエやヴェルダリアがしょっちゅう与えてくる謎の違和感に、ノーチェは再び胸の奥に蟠りができる。もやもやと、どす黒い何かが渦巻いているよう。頭がずきずきと痛み、若干の吐き気すら覚えてしまう。それは、思い出そうとすればするほど酷くなる一方で、酷く不快になってしまうのだった。
 今問い質せば聞けるのだろうか。
 彼は咄嗟に歩いていったヴェルダリアの背を追い、商品棚の列を流し見ながら足を進める。どのみち終焉のものである財布は返してもらえていない。このままでは、一人での外出を嫌がる終焉に外へ出たのがバレてしまう。
 そうなったが最後。あの体を射抜く視線の槍を避けることはできないだろう。
 それだけはどうにかしなければ。
 焦りから僅かに足を速め、タイルの床を黒い靴でコツコツと踏み鳴らした。首輪に少しだけ残る鎖がカシャカシャを軽く音を立てる。その音すらも今日という日はやけに煩く聞こえて、空いている手で鎖を軽く握った。
 もしかしたら問い質せば何かを教えてくれるかもしれない。――そんな考えと並行して頭によぎるのは、自分が何故こんなにも酷く焦燥感に苛まれているのかという理由だ。終焉の視線に晒されるのが嫌だ、という考えも勿論あるのだが、それとは別の理由も次々と浮かんでくる。
 例えば、ヴェルダリア自身にやたらと腹を立ててしまうとか、――終焉が倒れてしまったからだとか――。

「…………!」

 赤い髪を追い掛けて曲がったとき、唐突に投げられたのが氷嚢の箱だった。

 ぽんぽんと渡されたそれを見て、ノーチェはじっと箱を見つめる。種類だの性能などは全く同じだが、見た目のデザインが異なるようだ。「好きな柄でも選んでおけば」そう言って自分の手元にある氷嚢をしげしげと見つめるヴェルダリアは、やたらと真面目な表情に変わっていた。
 金の瞳がじっくりと氷嚢を見つめている。ちらりと見えたデザインはピンク色の地に、赤っぽい色のアーガイル調が施されたデザインだ。特に女受けが良さそうなそれを見て、ヴェルダリアの言った「うちのやつ」が自然と女相手であることを彼は理解する。
 こんな人に女が寄り付くのか、と何気なく偏見じみた言葉を脳裏に浮かべた。
 それをそのまま片隅に追いやって、ノーチェもまたデザインの違う箱をじっと見つめる。使うものが同じならば特に気にすることもない。柄など見て楽しむものだろうが――いかんせん、今の彼にはその楽しみが理解できる自信はない。
 これ、と何気なく選んだのは、清涼感のある青みがかった水色。デザインがあるわけでもないが、何もない無地の方が目が回らずに済むような気がしたのだ。夏の晴れた昼の空の色はどこか懐かしいような気がして、苛立っていた心を落ち着かせるにはうってつけだった。
 寒色系は気持ちを落ち着かせる色だと、どこかの本に書いてあったような気がする。彼は燃えるような赤い髪をじっと見続けていた所為で、無性に忘れていた感情を思い出してしまったのだろう。
 ヴェルダリアがぼんやりと箱を見ている間に、選ばなかった氷嚢を彼はそそくさと戻した。

「…………それ」
「あー」

 財布を返してほしい。その一心で唇を開き、紡いだ言葉はヴェルダリアの呟きによって掻き消される。それどころか持っていた氷嚢の箱を半ば奪い、男は踵を返してノーチェの背を向けてしまった。彼は目を丸くしたが、咄嗟にその背を追って「おい」と言う。
 商品棚から顔を出して見つめた先、ヴェルダリアは財布を開けて店員に支払いを済ませているところだった。

「よそ者なんだから、ろくに理解してねぇだろ」

 そう言って男は支払った商品と財布とノーチェに手渡す。
 正直な話――教えてもらったがはっきりとした区別のつかない彼は、最終的に店員に訊こうとさえ思っていたのだ。誤って硬貨を出してひと悶着あれば、店にも迷惑が掛かれば、喧しい野次馬が集まってしまう可能性すらある。そういった人目を避けるためにも、よそ者であることを提示しようとしたのだ。
 奇しくも相手がヴェルダリアだった、というだけで、余計な会話も抑えることができてしまった。相手が相手なだけにノーチェは釈然としなかったが、受け取ったそれを見て、ほっと安堵の息を吐く。

「…………アンタは自分で払えばよかったろ」

 一部を見かねた彼でも分かる、商品の代金の出所。当然だと言わんばかりに、ヴェルダリアは終焉の財布で自分の分までもを支払っていた。彼はそれが酷く気に食わず、じっと訝しげな目を向けてやる。特別表情は使っていないつもりだが、その分、目には小さいながらも感情を込めているつもりだった。
 ヴェルダリアは買ったばかりの箱を軽く真上に投げては受け止める。何気ない動作を繰り返して、軽く暇を持て余しているようだ。その間にノーチェの言葉を聞いた男は「別にいいだろ」とだけ呟いた。寧ろノーチェの顔を眺め、「満月だから外に出てきたのか」と笑う。

「……えっ」

 そうして彼が呆気に取られていると、再び踵を返した。涼しい店内を後にして、自分の帰路に就くのだ。

「手ぇ出さねぇんだからよぉ、金くらい許せよ」

 赤褐色のブーツでタイルを踏み鳴らしながらふ、と笑って、ヴェルダリアは軽く手を振った。「大事に使ってやるよ」と呟き、あの熱のこもる街中へと歩いていってしまう。
 そんなこと言っても、この財布はあの人のものなんだからな。
 ――そう思いながら手元のそれを見やる。一度ヴェルダリアが触れたもの――何気ない事実が酷く癪に障って、彼は財布や箱を咄嗟に服で拭ってやった。これらはあくまで自分の私物ではなく、終焉のもの。その終焉が毛嫌いしているのがヴェルダリアである、という事実が彼をそうさせたのだろう。
 触れたであろう箇所をひたすら拭って、満足した頃に彼は早く帰ろうとタイルから石畳へと飛び込んだ。

 店を出た後の熱気は酷いものだ。涼しい場所にいた所為か、店に入る前と比べ物にならないような熱がノーチェの体を襲う。時間が経った所為もあって頭から焼けるような感覚は、短時間で全身に回るほど。道行く人々は日傘を持っていたり、木陰で休んでいたりとそれなりに対策をとっているようだ。

「…………あち……」

 気を紛らせるよう、ぽつりと呟いた言葉は誰にも届くことはなかった。
 特に回り道や、寄り道などをしていない分、屋敷を辿るための道のりには迷うことはない。その安心もあってか、余計に人声や虫の鳴き声が聞こえてくるような気がしてならない。
 じわじわ、じりじりと独特な虫達の鳴き声が街全体に反響しているようで、彼は軽く耳を押さえつけたい衝動に陥った。時折石畳の上に死んだと見せかける蝉が突然動き出し、子供達が騒ぎ立てる声を耳に入れてしまう。

 暑い。早く涼しいところへ帰ろう。看病もしなければ。

 そう思いノーチェは足を速めると――、不意にある人物が彼の目に留まる。
 知らない人間とは言えなかった。そこらの住人とは訳が違う。深い緑の外套に身を包み、暑苦しくもフードをかぶって辺りをきょろきょろと見渡している。何故だか不安げに胸元に手を当てているが、その容姿に弱々しい姿など、似合わないという他なかった。

「…………うわ……」

 つい彼は嫌悪を口にしてしまう。自分から出るとは思わなかった低い声。嫌だという感情が強くこもった小さな呟き。相手に届くことは到底ないだろうが、その目がいつ自分を見付けてしまうのか、気が気でなった。
 中年太りした、見たことのある商人≠フ男が、辺りを警戒しながらゆっくりと歩を進めている。その男がいる方向は、彼が屋敷へ向かうために選んでいる道のりだ。このままだと当然すれ違うことになるだろう。
 見つかることはほぼ明白だ。いくら人目があるとはいえ、ノーチェの容姿は目を惹くものがある。白い毛髪に反転した目、加えて首輪があるということは、彼は注目の的でしかないのだ。それを押しきり、街へと買い物に来たのだが――間違いだったか、と思わざるを得ない状況である。
 一難去ってまた一難、とはこのことだろうか。ヴェルダリアの次は商人≠ニいう、どうも自分の邪魔ばかりをする人間達に会うことに、彼は頭を抱える衝動に駆られた。
 幸い、相手はまだノーチェの存在に気が付いていない。ローブを所持していない分、見付かる可能性は高いが、そそくさと通り過ぎれば逃げられる可能性はあるだろう。人混みの中にわざと体を捩じ込むのは骨がいるが、文句を言える立場ではないのは理解しているつもりだ。
 だから彼は覚悟を決めて、携えている財布を握る手に力を込める。ふう、と息を整えて、静かに息を潜める。
 奴隷になる以前はしょっちゅう集中を研ぎ澄ませていたが、奴隷である今ではその機会が滅多にない。何年振りだろうか、と緊張を胸にノーチェはそうっと足を忍ばせる。
 辺りは熱気と、人の多さで参るほどだ。上手くいけば逃れられるに違いない。こうして行動に出てしまうのも、ヴェルダリアが言った「満月だから」だろうか――。
 ――しかし、運命はやはり彼の味方をすることはなかった。

 ――ゴォーン

 不意に鐘の音が響く。それは、時刻を知らせる街の鐘の音だ。昼時のそれは、人の声など掻き消すように街の中心部の方から響いてくる。背中の方からぐっと、圧のようなものを感じて、彼は肩を震わせた。
 街の中心部は丁度ノーチェの背の方だ。鐘の音は誰の耳にも届いていて、俯いていた人間がふと空を、街の向こうを見上げてしまうほどに目立っている。――当然商人≠烽サれにつられるように顔を上げてしまい、パチリと目が合ってしまったような気がした。

「――……」

 見付かった。その事実が彼の不安を煽る。
 逃げようとすれば人混みに紛れることもできただろうが、体に染み付いた暴力への萎縮が、彼の足を止めてしまっている。また捕まることは容易に想像できて、ノーチェは手中にあるそれを強く、強く握ってしまった。柔らかな箱が歪んでしまったような感覚が手を伝う。
 ノーチェの存在に気が付いた商人≠ヘ、驚いたように目を見開いて、足早に彼へと近付いてくる。また殴られるだとか、痛いのは嫌だとか、そういうことを思う前に、屋敷で倒れている終焉の安否が気になって、小さく目を俯かせた。
 時刻を知らせる鐘の音が、今ではやけに邪魔に思う。視界の端に映り始めた足元を見て、連れていかれるのかを小さく想像した。

「……おい」

 無理矢理に口を塞いで引きずり歩くのかと思えば、商人≠ェ耳打ちをするように彼に声を掛ける。ノーチェはそれに疑問を抱きながらもちらりとその顔を見ると、男は辺りを警戒するように目を配らせている。
 返事こそはしなかったが、彼には選択権などないと思わせるように男が口を開く。「ついてこい」と小さく、恐れるように。
 そうして、彼は漸く違和感に気が付いた。

 この男はどうしてフードをかぶっているのだろうか。

 気が付けばその違和感に目を奪われてしまう。
 ノーチェの沈黙を了承と得て、男はくっと顎で行く道を指し示した。勿論屋敷とは反対の方向で、帰る場所が遠ざかることに彼は少しだけ残念に思う。こうしている間にも終焉は魘されているのだろうか。置き去りにしてきたリーリエが、怒られていないだろうか、なんて考えもした。
 しかし、奴隷としての思考が植え付けられたノーチェには、商人≠ノ逆らうはなど、容易ではない。

「早くしろ」
「…………」

 今でも殴り付けてきそうな目――は何故かしていないが、顰められた顔を見て、ノーチェはそのあとをついて歩いた。

 石畳を歩く音、人の声を耳に掠め、虫の鳴き声を遠くに追いやる。次第に聞こえてきた水の音に涼しさを覚えると、裏路へと足を踏み入れた。建物が影になってくれていて、日の下よりも遥かに涼しさを感じる。
 汗を拭い、ほぅ、と息を吐けば、商人≠ヘ知らない建物の前でピタリと足を止めた。見ればそこは使われていないような古い家で、ぼろくなったカーテンが窓の近くでふらふらと揺れている。屋敷に比べたら小さいが、そこらの建物よりは大きなそれに、彼はぼんやりと思考を巡らせていた。

 今日は何の日だったっけな。

 ついていない――そんな言葉を胸に、ノーチェはゆっくりと目を閉じたのだった。

◇◆◇

「……本当……あんたの影響はいつだって凄いのね」

 ぽつり。小さく呟かれた言葉が終焉の暗い部屋に染み渡る。暑い筈の外の空気も、小煩い蝉の声も、一切が遮断されるほどの深い暗さに、リーリエは独りごちる。備え付けの椅子に座って、机に肘を突いて、ノーチェの帰りを待っているのだ。
 傍らの終焉は、はあはあと荒い呼吸を繰り返しながら布団を握り締めている。額には汗が滲み、あれだけ変わらなかった表情は強く歪んでいた。酷く魘されている様子に「手が掛かるわぁ」と呟いて、乾いたタオルで顔の汗を拭ってやる。――それの繰り返し。
 稀に終焉の呻き声が聞こえてきて、相当無理を強いていたのだと、痛感されるほどだ。
 原因は明白だ。リーリエの目に狂いはない。過度な労働と、睡眠不足。そして――食事の制限(・・・・・)。それらが終焉の体に異常をきたし、倒れて発熱にまで追い込んだのだ。
 食事の内容を、この男はノーチェに伝えたことがないのだろう。口にして「上手い」と感じられる甘味の他にあとひとつ。生きる上で大切であるだろうものを、終焉は滅多に口にしなくなったのだ。
 その原因もやはりノーチェにある筈で。リーリエは堪らず「無茶をするのねぇ」と、汗を拭いながら呟いていた。
 恐ろしく我慢強い男だ。倒れる寸前まで、顔には一切出さなかったのだろう。熱に慣れていないであろう冷たい体に、発熱はキツいものがあるのかもしれない。ノーチェはそれを懸念して街に行ってしまったのだと、女は決定付けることにした。
 街から屋敷への往復には数十分から十数分掛かる程度だが、向かったのはノーチェだ。未だに街の広さや人混みに慣れていない他、また誰かしらに目をつけられている可能性もあり得る。特に後者など、可能性が高いほどだ。いくら終焉が倒れているとはいえ、ノーチェ自身も痛い目に遭わないなど、決定付けられるものではない。

 どうか少しでも、二人が早くどうにかなりますように。

 ――そんな気持ちを込めながら、リーリエは「お腹空いたわねえ」と溜め息がちに口を洩らした。
 すると――

「――……」
「……あっ……?」

 ――魘されていた筈の終焉が、ゆっくりと目を覚ましたのだ。


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