洗濯と看病と甘い洋菓子


 洗濯するなら初めから終焉の服を回収しておけばよかった。
 ――そう思ったときには時既に遅し。がたがたと音を立てながら脱水をしている洗濯機を見て、ノーチェは抱えた黒いブイネックと白いシャツをじっと見下ろす。カゴの中に衣類は残されておらず、空になったものに洗っていない衣服を入れるのはどうかと考えてしまった。
 順序を考えてこなしていく終焉の姿をじっと見てきたが、やってみると上手くいかないことに彼は溜め息を吐く。この作業を自分のものにするまで、あの人は一体どの程度の時間を要したのだろうか。ぐるぐると回る洗濯機を横目に、ノーチェは衣服をカゴに掛けた。
 脱衣室を後に、彼は何をしようかと辺りを見渡す。やることの定番といえば、家事に掃除だろうか。終焉と出会うまで力仕事を強いられてきたノーチェだ。慣れるまでに沢山の時間がかかるのは目に見えていた。
 ――とはいえ、この屋敷は掃除をする必要がないほど、綺麗なのは見て分かるほど。床の木目にも埃が残らない様子を見るに、掃除はしなくてもいいのだろう。
 そうなればやれることといえば、料理の類いだろうか――。

「……いや……できる気がしねぇな」

 悩むような素振りを見せていたノーチェは、微かに眉を顰めると、自分の考えを否定した。
 彼が間近で見ている終焉の姿はいくつもある。掃除をする様子、本を読む様子、何食わぬ顔をしながら庭をいじる他、ぼんやりと空を眺めている姿など様々だ。
 その中で特に目にしているのは、料理をする姿だろう。手際もよく、片付けをしながらも手の込んだものを仕上げていく。ここ最近は減ってきたが、気分が良くなると野菜が可愛らしく形を整えられていることがある。味の拘りはないようだが、文句の付け所のないあの料理は真似できないだろう。
 ノーチェは腕を組み、うんうんと唸るように思案を繰り返した。何かいい案が浮かぶかどうか、頭を悩ませながら何気なくキッチンの方へと向かってみる。リビングの向こうにある扉を開けて、手入れの行き届いた一室を見渡すと――くぅ、と腹が鳴った。

 そういえば何も口にしていないんだっけか。

 屋敷に来て以来、食事を欠かすことがなかった。そのお陰か、彼の体は食事を求めていて、ひと度鳴れば立て続けにくぅくぅと腹が鳴る。空の胃袋に違和感を覚えて気分を害していると、キッチンの戸棚へと目が奪われた。
 その戸棚には、終焉が隠し持っている菓子の類いがある筈だ。
 ノーチェは戸棚の戸を開けてみると、そこには確かに菓子の類いが隠されている。その量は以前見たものよりも遥かに少なく、ストックも買えなかったのかと、多少の苛立ちさえも覚えたような気がした。何度も忠告していたというのにも拘わらず、言うことをひとつも聞いてくれないことが腹立たしく思える。
 強情な人だな、とノーチェは小さく呟きを洩らした。きつね色のクッキーは、以前見たことがある辺り、終焉のお気に入りというものなのだろう。程好い食感と、芳ばしい香り。仄かに感じる甘味に、堪らず舌鼓を打つ。これなら終焉が気に入るのも頷ける。
 クッキーを頬張りながら、ノーチェは戸棚の奥へと手を伸ばす。何も腹を空かしているのは彼だけではないのだ。いくつか手のひらをプラスチックの袋が掠めて、何にしてやろうかと探る。クッキーやビスケットで満足するような女には見えない。かといって、適当なものを選んで好みに合わないものがあれば、気まずくなるのだろう。
 垣根を分けるように戸棚を探っていたが、それらしいものがないと分かると、ノーチェは戸棚の戸を閉める。パタン、と音を立てて閉じた棚を後目に、何気なく冷蔵庫へと手を伸ばしてみた。
 扉を開けばひんやりと冷えきった空気がノーチェの肌を掠める。「……冷たい」と人知れず呟いて、冷蔵庫の中身をじっくりと眺める。忙しなく動く、というわけでもない金の瞳が、舐めるように冷蔵庫の中を眺め見た。
 あるのはやはり材料ばかりだ。ミルクだとか、調味料の類いだとか。分かりやすい食材の他に、生クリームやイチゴなど、それらしい食材が鎮座している。終焉は本当にケーキを作るつもりだったのだ、と彼の胸の中に妙な感情が生まれた。
 その奥に控えめに、こっそりと存在するのはお手製のシュークリームだろうか。
 ノーチェはそれに手を伸ばすと、丁寧にラップされたシュークリームが顔を覗かせる。小麦色の生地の上に白い粉砂糖がまぶされていて、仄かに甘い香りが漂う。何気なく人差し指でつん、と生地をつつけば、硬い感触が指先を伝った。
 これは、間違いなく美味いものだ。
 鼻をくすぐる甘い香りに、ノーチェは堪らずそれを手に取って冷蔵庫を閉める。見た目で判断するに、両手で包める大きさのシュークリームが三つ。中のクリームは生クリームだかカスタードだかは判らないが、甘いことには変わりないだろう。
 終焉の手作りか、市販だろうがリーリエなら満足してくれるだろう。それよりも空腹によって不機嫌になる方が、彼にとっては都合が悪いのだ。

 シュークリームが載った皿を片手にノーチェは立ち上がると、何食わぬ顔顔をしてキッチンを後にする。普段とはうって変わって、まるで人気のないリビングを素通りして、廊下へと足を踏み出した。冷蔵庫に入っていた皿は冷たく、着々と手が冷えていくのを感じる。
 食べたらあの人に謝らないと――そう思って階段の手前を曲がった矢先、扉が開く音がした。

「あら、何持ってんの?」
「…………」

 終焉の部屋から出てきたリーリエが、タバコを片手にノーチェの存在に気が付く。彼は堪らず訝しげな目を向けていたが、その視線に気が付いた女は、さっと懐にタバコを隠した。「いや、別に、吸おうと思ってたわけじゃないのよ」なんて言って、あからさまに目を泳がせているのだから、尚更だ。
 赤い口紅を塗った口許ははくはくと開閉を繰り返している。嘘を吐いていることは明白で、「本当かよ」と何気なく問えば、リーリエはがっくりと肩を落とす。恐らく、空腹への不満を喫煙によって耐えようとでもしていたのだろう。くしゃりと歪められた顔を他所に、ノーチェは手元にあるそれを差し出した。
 「これしかなかった」仄かに甘い香りのするシュークリームを差し出すと、途端にリーリエの表情が明るくなる。花が咲き誇るような眩しさに、単純な人だと思いながらラップを捲ってやる。すると、女は間髪入れずシュークリームを手に取って、口紅を気にすることもなくがっついた。

「おーいし〜!」

 頬に手を添えて、満足そうに笑うリーリエを見つめ、ノーチェもふとそれを手に取る。見た目とは裏腹にずっしりと重いシュークリームを口許へ運び、唇を開く。出来立てのようなさっくりとした食感の後、甘いクリームが生地について回る。バニラビーンズの香りと、ほんのり味がついたような甘さ――生クリームよりも黄色に彩られたそれは、カスタードクリームだ。
 物足りなさも覚えずに美味しいと、頭の片隅で思えるほど。この完璧と言えるほどの美味しさは、終焉の手作りで間違いはないだろう。
 立ちながら食べるものではないと思い、ノーチェは黙って踵を返した。向かうは広間で、それに気が付いているのか、リーリエも黙って彼の後をついて歩く。朝食の香りが立ち込めていない屋敷は何とも新鮮で、ほんの少し寂しさを覚えながらノーチェはソファーへと体を沈めた。
 ぼすん、と柔らかな弾力が、微かに彼の体を押し返す。甘いシュークリームも程々に、それでももそもそと食べ進めていると、リーリエが満足げに息を吐く。

「やぁっぱり、エンディアの作るお菓子は美味しいわねえ。何というか、味が癖になるというか……」

 ほぅ、と感嘆の息を吐きながら恍惚の表情を浮かべる女は浮かれているようにも見える。ノーチェは暇を潰すように足をぷらぷらと振りながらゆっくりとシュークリームを堪能していると、リーリエは最後の洋菓子へと手を伸ばした。終焉が作ったものだ、男が楽しみに取っておいていたのではないかと思うが――ノーチェには強く止められやしなかった。
 確かに美味い。リーリエに倣うよう、ノーチェも僅かに感嘆の息を吐いてみる。肺の中に残る酸素を押し出すようにほぅ、と息を吐けば、シュークリームの甘味が体に染み渡るような感覚を得た。シュークリームで美味いというなら、終焉の作るケーキはどれほど美味いのだろうか。
 ノーチェが丁寧に食べ進めている間にリーリエはぺろりと平らげてしまっている。食事をする手が遅すぎるのかと思ったが、甘味に気分が高揚して食べるのが早くなっているのだろう。
 口の端についてしまったクリームを指で掬い取り、ノーチェは満足げに笑うリーリエの顔を見て「なあ」と唇を開いた。

「あの人、平気なの……」

 小さく小さく言葉を呟いて、ノーチェは残りのシュークリームを頬張る。
 ノーチェの言葉に女は瞬きをして、僅かに微笑む。そのままノーチェの隣に腰掛けて、「平気よ」と問いかけに答えてやる。

「見た感じ、原因は過労と睡眠不足よ。休めばすぐに良くなるわ」

 倒れるまで動くなんて馬鹿ね、とリーリエは呟いた。黒いスリットドレスから覗く足を組んで、軽く頬杖を突く。懐かしいものを眺めるような横顔に、喫煙者の面影を見た。
 「過労」そう繰り返してノーチェはリーリエを見つめる。
 確かに終焉は忙しなく動いていて、休むような様子は短時間にしか見掛けないほどだ。それでも夜は眠っていた筈で、彼はぼんやりと眠る直前を思い返して「ああ……」と嘆息した。
 夜の物音は紛れもなく終焉が原因なのだろう。秘密裏にどこかへ出掛けて、知らない間に帰ってきては多少眠っているのかもしれない。
 あれだけ休めと言ったのに――彼は唇を尖らせながら、リーリエの話を聞いた。
 女曰く終焉はろくな休息も取らなかったことによる過労と、睡眠不足だそうだ。無理が祟って免疫力が落ちた体に異常を来したのだろう。男は体調を崩す、ということがまずなかった所為か、今回ばかりはリーリエでさえも驚いているようだ。
 リーリエは退屈そうに天井を見ていたと思えば、「体調を崩すと思っていたのはあんたなのよ」と小さく言葉を溢した。

「…………俺」
「そう、少年よ」

 未だに持ちあぐねていた皿をテーブルに置いて、ノーチェは小首を傾げる。目を丸くしたように眉を上げて、瞬きをひとつ。理由は分からなくもないが、予想に反して終焉が倒れたことに驚きを覚えているようだ。
 かくいうノーチェもまた終焉が倒れるとは思っていなかったのだ。ましてや熱を出すなど、誰が思うだろうか。
 ――そう思っていた矢先、ノーチェはふと疑問を思い浮かべる。それは、今まさに隣にいる女に対してのものだ。
 
 ノーチェは終焉が倒れていたのを知ったばかりだったというのに、リーリエはタイミングを見計らったかのように屋敷へと来たのだ。まるで初めから知っていた、と言わんばかりの態度で。
 不思議に思ったノーチェはリーリエに訊ねてみると、女は「分かるのよ」と言った。詳しく聞けば、リーリエは占いを軽く嗜んでいるようで、不思議なものが目に見えるのだという。特にその相手に何かしら不幸が訪れるときに、よく目にするらしい。
 女がタイミング良く訪ねてきた理由に、彼は「ああ、成る程な」と納得する。四六時中、決まったときに見られるわけではないようだ。多少不便だな、と思ったことは口に出さないで彼は徐に立ち上がる。シュークリームが載っていた皿を置き去りに、「あの人のとこ行ってくる」とだけ呟く。
 行ってらっしゃいと女はノーチェの背に手を振って、彼を見送った。気怠げな背が心配だと頭を掠めたが、頭を横に振ってほう、と天井を眺める。終焉の真似事を勧めたはいいが、家事全般が苦手なリーリエは苦笑して、「そりゃあ倒れるわよねぇ」と呟いたのだった。

◇◆◇

 客間を出てエントランスを通り過ぎ、突き当たりの部屋へノーチェは足を踏み入れる。作り置きされていた洋菓子を食べてしまったことを謝らなければ、と頭の片隅に思考を追いやる。甘いものが好きな終焉を差し置いて完食してしまったのを知られれば、怒られるのだろうか、とぼんやりと考えながら。
 部屋の中は変わらずに薄暗いままで、足元が一時的に止まってしまう。――それでも、すぐに目が慣れて足を進めることに恐れは抱かなかった。男の小さな呻き声が耳を掠めてしまうことで、暗さへの興味など微塵もなかったのだ。
 赤黒い筈の暗い絨毯を素足で掠めて、終焉が寝ている寝具へと歩み寄る。本が散らばっていた机に置いてある桶を横目に、魘されている男を見つめて頬に手を添えた。
 薄暗い部屋でも分かるほどに悪い顔色に、じっとりと滲むような汗が頬を伝う。息も荒く、寝顔には眉間にシワが寄っていて、普段の余裕そうな表情など、見る影もない。頬に当てた手のひらがじわりと熱くなる。額に乗せた濡れたタオルが温く、取り替えてやろうとそれを手に取った。
 氷水に浸してやるのがいいのだろうか。――思案を繰り返しながら、ノーチェは桶に入った水にタオルを浸してやる。ぴちゃんと水音が暗い部屋に鳴っては呻く声がするというのに、話に出てくるようなやらしい雰囲気だけは決して起こらなかった。
 気が付けば「寒い」から一変、「熱い」と宣うようになっている。体がしっかりとした対処を試みているのだと思っては、額に濡れたタオルを載せてやる。すると――閉じていた終焉の瞼がゆっくりと開かれた。赤い瞳と金の瞳が、微かに潤んでいるような気がするが、ノーチェは「辛そうだな」とじっと見つめるだけだった。

「…………何か、食べたのか……?」

 自分を差し置いて他人の心配をする男を見て、ノーチェは小さく眉を顰めた。
 「自分の方が重傷だろ」と呟いて、べたつく終焉の頬を人差し指と親指で突っぱねる。力は加えていないが、終焉は僅かに痛そうな素振りを見せた。――男はノーチェの食生活が不安で仕方ないのだろう。
 食った、と彼は呟いた後、自分が何を口にしたのかを思い出して、終焉から目を逸らす。

「んと……冷蔵庫にあった菓子、食っちまった……」

 軽く唇を尖らせて、ノーチェは頭を掻いた。冷蔵庫にあった菓子というのは勿論シュークリームのことで、彼はそれが悪いことだと思ったようだ。もし、シュークリームが終焉が食べるものだとしたら、不機嫌になるだろうか。
 ノーチェはバツが悪そうに目を逸らしていたが、ちらりと男の顔を見れば、終焉はゆっくりと瞬きをしていた。
 「……構わない」――そう呟いて味の善し悪しを訊ねる終焉を見て、彼はそれが自分のためだったのだと理解する。何せ男はノーチェの為に用意した料理の類いは、必ずと言っていいほど味を訊いてくるのだ。今に始まったことではないその言動に、彼は呆れながら「美味かった」と終焉に告げてやった。
 終焉は多少満足そうに「良かった、」と口を溢した後、小さく咳を繰り返す。移るから、という理由でノーチェを部屋から追いやろうとしたが、彼は首を横に振ってそれを拒否する。
 ――どころか、口をへの字に曲げて、「駄目」と言い放った。

「……アンタのことだ。どうせ、俺がいなくなったら起きるんだろ。そうなったら元も子もない」
「そんなことは……」
「ある。俺の誕生日だからって動くんだろ」

 そうだよな。
 そう言ってノーチェは終焉の様子を窺うと、次に目を逸らしたのは男の方だった。
 ああ、言わんこっちゃない。――そう言いたげにノーチェは溜め息を吐いて、終焉を咎めるようにじっと目を見つめてやる。いつか見つめられた仕返しだ、という気持ちを込めているのは、彼の胸の中だけでの秘密だ。
 終焉は彼の視線に押し負けたように、おずおずと布団を目深にかぶる。そして「……うごかない……」と弱々しく言った。あまりの弱々しさに疑念すら覚えたノーチェだが、体調が悪いのも相まってのことだと思うと、強く咎める気持ちにもならなかったようだ。ふう、と小さく息を吐いて肩を落とす様子は、誰がどう見ても呆れている人間の態度だ。

「まあいいや……過労だって。早く寝て」

 ノーチェは終焉の様子に「これ以上言うこともないだろう」と思ってか、終焉の体をぽんぽんと軽く叩く。何か都合が悪いことがあればすぐに呼んで、と言えば、布団にくるまった大きな塊は「ああ」と返事をした。
 どうせ呼ばないだろうな、なんて思っていることは伏せて、ノーチェは椅子に掛けられている黒いコートへ手を伸ばす。普段から終焉と街へ買い出しに出ているお陰で、目当てのものがどこにあるのかが分かるのだ。
 薄い皮の質感に気が付いて、彼はそれを手に取る。手中に収まったのは、黒い財布だ。どの程度の金額が中に入っているのかは知らないが、目当てのものは買えるだろう――。
 ふと気が付くと、傍らにいる終焉――がくるまっている布団から、規則正しい寝息が聞こえてきた。寝苦しくなるだろう、と思って布団を引き剥がしてやって、寝顔を見る。睫毛の長さは最早女に匹敵するほどだろう。整った顔は、ノーチェから見ても確かに綺麗だと思うしかなかった。
 ずれ落ちたタオルを額に戻してやって、彼は終焉の部屋を出る。極力物音を立てないよう、細心の注意を払って、扉を閉めた。手に持った財布はそのまま彼の手元にある。外は暑いのだと思うと憂鬱でしかなかったが――仕方ないことだ。

「何しにいくの?」

 ――不意に声を掛けてきたリーリエに、ノーチェは丁度いいと言わんばかりに近寄る。

「これ」
「財布じゃない、どうしたの?」
「……何か、買ってこようと思って。これ、どれくらい入ってんの。俺、よく分かんねぇ……」

 あくまで余所から来たノーチェには、この街の通貨などまるで知らず。手に持った財布の中身をリーリエに見せて反応を窺う。財布の中には金銀銅の硬化がいくつか散らばっている他、札のようなものがちらりと顔を覗かせている。
 女はそれを見て「余所とあまり変わらないわよ」と言った。
 金は五百、銀は百、銅は十単位であり、札は四桁の金額を提示しているようだ。
 本や小説にあったように、どこかで見聞きしたような情報に、ノーチェはほっと安堵の息を吐く。自分の認識と、この街の常識が相違ないのが酷く安心できたのだろう。「……ありがと」と呟いて、彼はリーリエの隣を抜けてエントランスへと向かった。
 どこかに行くの、と背に掛けられた声に、彼は靴を履きながら答える。

「何か、買ってこようかと」

 トン、と踵を鳴らして履いた靴は、初めに比べれば随分と履き慣れたものだった。
 リーリエはノーチェが財布の中身を見せてきた理由に納得がいったようで、「成る程ね」と言いながらエントランスへと近付いてくる。すらりと伸びた足にはほんのり薄手のタイツを穿いているのか、多少の違和感を覚えて顔を見た。終焉とは違った赤い瞳が、じっとノーチェを見つめている。あまりに凝視を続けていれば、胸の内を見透かされそうな感覚へ陥った。

「ついて行こうか?」

 そう言ってリーリエは自らを指差し、小首を傾げる。赤色に染められた爪が存在を主張していたが、ノーチェは首を横に振って「いい」と女に告げた。

「街、よく分かんねぇって言ってたろ」
「あら、覚えてたの」

 案外記憶力いいのね、とリーリエは呟いたが、祭りの出来事は僅か数日前のことだ。忘れる筈もないだろう。

「アンタはあの人のこと見てて。すぐ帰ってくるから、平気」

 そう吐き捨てて、ノーチェはエントランスの扉を開けた。扉の先は眩しいほどの光に包まれていて、思わず顔を顰めるが、僅かに眉が寄るだけ。何か言いたげのリーリエを扉の向こうに押しやって、白石の段差を軽く降りる。
 夏の景色は目を焼いた。木々の他に、足元の草たちが酷く煌めいていて、目が痛む。目の奥がじりじりと焼かれるような違和感に、彼は堪らず舌打ちをして、何かかぶるものを持ってくればよかった、と独りごちる。辺りからはじわじわと蝉の鳴く声が響き、出てくる汗は不快でしかない。
 それでも歩みを進める彼の手には、たったひとつの財布が握られていた。
 屋敷から街への道は一直線だ。時折虫がちらりとノーチェの眼前に現れては、彼はそれを追い払う。道中春に見かけた桜の木を見上げて、深緑に色づいているそれを見て息を吐く。額から流れる汗を拭って、日焼け止めを塗ればよかったと後悔。焼けたらリーリエが口うるさいだろうな、と思っては、面倒だという気持ちが胸に押し寄せる。
 陽炎が漂う地面を踏み締めて、見えた街の入り口を見て「はあ」とノーチェは肩を下ろす。初めの道のりは何とかできたが、未だに彼は街の構成を理解していない。目当てのものが売っている店に辿り着けるかどうか、不安でしかないのだ。

「……あの人にいるか分かんねぇけど、冷たいもんとかないよりはマシだよな……」

 そう呟いて、見えた街の出入り口から一歩、街へと踏み込んだ。
 地面から石畳へ。熱気は増して、人のざわめきが目立つ街中へ。「暑すぎ、」と言って何気なく触れた首輪は、ひやりとして冷たかった。こんなものに多少救われたような気持ちになるなんて、と不愉快になったのはノーチェ自身も気が付かない。
 人の波を終焉の背を見て学んだように、見様見真似で避けながら街中を流し見る。食品の取り扱いが目に付くものだが、生憎欲しいものは食品ではない。タオルだけでは限界があるだろう、と思って冷たいものを探しているのだ。
 いうなら雑貨の類いだろうか。いや、生活用品でもあるかもしれない。
 彼は何気なく人集りがする店へと体を捻じ込んで、辺りをきょろきょろと見渡した。――その間、何やら人の視線が自分へ注いでいるような気がして、ちらりと辺りを横目に見る。原因は首輪だろうか。
 酷く嫌な気持ちに苛まれていると――

「――おい」

 ――と、低い声がノーチェの背中から聞こえてきた。

◇◆◇

 眩しい外へ、日焼け止めも塗らずに出て行ったノーチェを強制的に見送ってしまったリーリエは、頭を掻いた。勿論、あの色白の肌が焼けるのが気に食わないこともあるが――、何よりノーチェが一人で屋敷を出て行ってしまったことが気にかかるのだ。
 幸い、女の赤い瞳には、彼が痛い目に遭うことは見えなかった。――しかし、この先もそうであるとは限らないのだ。
 ノーチェの話は事前に終焉から聞いている。彼が奴隷であること、そして、何ひとつ覚えていないこと。
 話を聞いた女は、存在自体が同じであるだけで、自分達の知る彼はいないのではないかと終焉に告げた。――だが、終焉自身が間違える筈もないと、思っていたのもまた事実だ。
 それを裏付けるように、目の前にいた黒い男は、自分の素性をよく知っていたのだ。

――私は、自分の存在を知っている

 ――そう告げた終焉の不思議な言葉を思い出して、リーリエは顔を歪める。
 非現実的な話だが、男はどこかにいる「自分」の存在に気が付いているのだ。黒く長い髪に、愛用のコートを着て、息を繰り返していると言うのだ。
 そして、今まで記憶がなかったとは思えないほど、自分が覚えている限りのことを話し始めた。自分がどういう存在であったのか、何をして生きていたのか。――体についている傷痕を撫でながら、「可笑しな化け物だな、私は」と言ったあの顔を、リーリエは忘れることができずにいる。
 終焉が「彼はそうである」と告げているが、何故彼に記憶がないのか、女は頭を悩ませた。大方、女王≠ェ関係しているのは確かなのだが、一体何をしたのか、皆目見当も付かない。女王≠ヘ彼が嫌いなのだ。余程酷い目に遭うよう仕向けているかもしれない――。

「……っはあ。馬鹿ねぇ、アンタも、あの子もみんな」

 あれに酷い顔をしてほしくないのは皆一緒なのに。
 そう呟いて、リーリエは額に手を添える。一本の糸がぐしゃぐしゃに絡まって、頭が痛むような感覚を覚えたのだ。ふう、と溜め息を吐いて「手が掛かる」という呟きは、母親の言動と酷似している。呆れて、ものも言えないような苦笑を浮かべた。

「無事に帰ってこないと、私が怒られんのよ」

 ――そう呟かれた言葉を、誰も聞くことはなかった。


前項 - 次項
(41/83)

しおりを挟む
- ナノ -