虫の鳴き声と屋敷の静寂


「…………?」

 じわじわと熱に晒されながらひたすらに生きる虫の鳴き声に、ノーチェは閉じていた瞳を抉じ開ける。やたらと重たかった瞼の下に隠れていた瞳が、見慣れ始めた天井を映した。これといって汚れもない綺麗な天井だ。
 その天井を見た後、彼は一度瞬きをして徐に体を起こす。癖の残る髪の毛はすっかり寝癖がついていた。
 柔らかくなった頭をくしゃりと掻いて、ノーチェは寝具から足を下ろす。どこにでも敷かれた赤黒い絨毯に足を着いて、のそりと扉の方へ向かった。洗面所へ向かおうとしているのだ。見回りを怠った二階の突き当たりには、一階と同じように洗面所があるのだ。それに気が付いたのは一ヶ月を越した頃だった。
 ノーチェはその洗面所の扉を開けて、洗面器の水を捻り出しながら備え付けの鏡を見る。寝起き独特の無気力な表情がそこにあって、髪の毛は四方八方に跳ねている。今日もよく寝たな、なんて思いながら彼は顔を洗って――先程からの違和感に僅かに顔を顰めた。

 ――朝食の香りがしない。

 備え付けてある柔らかなタオルで顔を拭き、ノーチェは小首を傾げる。普段必ずといってもいいほど漂ってくる筈の香りが、今日に限ってはこれっぽっちも感じられないのだ。
 加えて、起こしにくる筈の終焉の姿も見ていない。もしかしたら朝からケーキ作りでもしているのだろうかと思った。――しかし、ノーチェのことを優先する終焉が、朝食を作らないなんてことがあるだろうか。

 彼は寝起きの足取りで廊下を歩き、寝間着としていた服を脱ぐ。タンスを漁って、同じような服を眺めてから適当に手に取ったものを着る。これといって服に拘ることも、着替えることも最早無意味だが、やはり用意されたのなら着るしかない。
 起きてから形の崩れた寝具を直し、締め切っていたカーテンを開ける。シャッ、と音を立てて開いた後、目を焼くような眩しい太陽光にノーチェは顰めっ面をする。朝だというのに昼と変わらない明るさに、嫌気さえ覚えた。
 これは終焉が嫌がる筈だと思いながら、彼は脱いだままの衣服を拾う。夏場というだけあって、見ただけでは分からないが、当然汗が染みているのだろう。そのうち終焉が「洗濯に出せ」と言うだろうから、先手を打って洗いに出すのが一番だ。
 再び部屋を出て、次に向かうのは脱衣室の方だ。
 廊下を歩いて階段を下り、そのまま左へと回って先にある扉を開ける。普段なら既に片付いている筈の場所には、未だカゴに入ったままの衣服が残されていた。

「…………何だ……?」

 ――酷い、酷い胸騒ぎがする。
 ノーチェは喉の奥に何かが突っ掛かるような酷い感覚に苛まれた。それをぐっと飲み下し、終焉の見よう見まねで洗濯機に洗濯物を入れて、回し始める。案外節約というものを視野に入れているようで、風呂の残り湯を使って、洗剤を入れる。そのまま洗濯機のポケットに柔軟剤を入れて、蓋を閉めれば後は自動だ。
 パタン、と閉じた洗濯機を見てみても、楽しめるものは何ひとつない。彼はその場を後にすると、何気なくリビングの方へと足を運んだ。
 扉を開けるものの、その奥には人の気配など感じられる筈もなかった。あるのはただ造りのいいテーブルと、椅子だけ。窓があったり、高そうな絵が飾られていたりするが、肝心の食事などどこにもない。――更に言えば、キッチンの方から調理の音も、何も聞こえなかった。
 ――可笑しい。
 ノーチェの胸にのし掛かる胸騒ぎは、時間が経つ毎に質量を増していった。起きた頃は感じていた空腹も、次第に胸焼けが増していく毎にどこかへと消えてしまう。今では家主が見当たらない妙な感覚だけが、彼の頭を揺さぶり続ける。どこかで得た既視感を記憶の中から引っ張り出して――、ノーチェはぐっと息を飲んだ。
 物音の類いは聞き入れていない。だからこそ、確証も得られない憶測に過ぎない。――それでもこの奇妙な静けさが、まるで以前商人£Bが押し寄せてきた頃によく似ている気がして、気分が悪かった。

 彼は咄嗟に踵を返してリビングに背を向ける。ちらりと見やるエントランスの扉は開いていない。故に外部からの侵入は限りなく少ないだろう。
 得体の知れない焦燥感に足を速める。屋敷の中を走るのはお門違いだ。足を速める程度で、その上屋敷内を騒ぎ立てるほどでもない速度で、ノーチェは階段の手摺りを掴む。
 勢いのままに終焉の部屋でも見てこよう――そう思ったときだった。落とした目線の先に、見慣れたような黒い、――黒い髪が床に広がっていた。

「えっ…………あ」

 目の前に出てきた光景に、一瞬でも「終焉(なまえ)」を呼ぼうとした。――しかし、何故か言葉が喉の奥で引っ掛かり、ノーチェは言葉を呑み込んでしまう。理由は分からない。ただ、無意識の何かがその名前を呼んではいけないというように、息が詰まるような感覚になるのだ。
 ――だが、今となってはそれももう気にしていられない。
 ノーチェは咄嗟に終焉の元へ駆け寄り、床に俯せに倒れている男の体を揺さぶる。「なあ」だの「おい」だの呟いて顔を覗き込むが、一向に目を覚ます気配がない。呼吸はしているが、その間隔はあまりにも狭く、正常だとは思えなかった。
 ――このままでは呼吸がしにくいだろう。
 終焉の体を抱えて、彼は男の体を仰向けにしてやる。
 すると、垂れた長い髪の合間から見えた蒼白い筈の顔には、見たこともないほど汗が滲んでいた。眠ったような顔をしているが、眉間にシワが寄せられている。矛盾したその顔にそうっと手を当てると、終焉からは冷たさなど微塵も感じられなかった。
 まるで真夏の炎天下で一通りの作業を終わらせた後のような熱だ。見た目は蒼白だというのに、汗をかくほどの熱が体にはあるのだろう。
 ――かといって正しい対処の仕方を知らない彼は、ただその様子を茫然と見つめることしかできなかった。普段氷のような冷たさを持つ男の介抱など、どうすれば良いのだろうか。

「…………」

 ――そう悩んでいると、終焉の目がゆっくりと開かれた。重い瞼が隠していた赤と金の瞳を露わにして、一度だけゆっくりと瞬きをする。状況を知ろうとしているのだ。天井を眺めた後、ノーチェの顔を見るや否や「ああ、」と吐息のように洩らす。
 そして何を思ったのか、体を支えるノーチェに手をつきながら、男は体を起こした。

「えっ、な、大丈夫なの……」

 体に鉛を乗せられているかのように思えるほど、動きの鈍い終焉を見たノーチェが呟いた。奴隷である彼がそう言うほど、終焉の様子は可笑しいのだろう。髪の隙間から見える表情は普段よりも冷たく、瞳は酷く暗く思える。
 「少し、寝ていただけだ」――なんて呟く声色は、あまりにも感情が込められていなかった。
 少し。その言葉が引っ掛かって、彼はリビングに備え付けられた音の出ない時計を思い出す。普段意識して見ないものを思い出すのは難しかったが、普段目を覚まして動く時間が大体九時前後だ。それよりも早く終焉は目を覚ます筈で。

 ――ならば、男は一体いつから倒れていたのだろうか。

 倒れていた終焉の姿が妙に瞼の裏に焼き付いている。ノーチェはゆっくりと立ち上がった終焉の背を、見上げたまま不思議な感覚に陥った。
 蝉の鳴き声が遠く聞こえて、部屋の中に少しずつ熱が充満していく。体に鞭を打つ気怠げな背中は、酷く頼りなさげに見えて仕方がない。ふらふらと覚束無い足取りに堪らず不安を覚えていると――、小さく「寒い」と男が呟いた。

「――……」

 直後の行動は、まるで自分のものではないかのような印象を彼は受けた。
 無意識だった。無意識のうちにノーチェは立ち上がって、項垂れたような終焉の手を掴む。咄嗟の出来事にノーチェはおろか、終焉も驚いたように振り向いて瞬きをした。彼の手には人肌よりも温度の高い熱が伝わってくる。それでもノーチェは手を離そうとはしなかった。
 ――こうしなければ後悔するような気がしたのだ。

「………………離せ」

 ぽつりと小さく、小さく終焉が言った。その声は蚊の鳴くような声量で、あまりにも小さかった。
 終焉が呟いた言葉にノーチェは一度だけ戸惑いを見せたが、僅かに首を横に振る。嫌だ、と言わんばかりの様子に終焉は微かに眉を顰めた。おずおずといった様子で――しかし、大人しく引くようなつもりはない――ノーチェの視線に、ふと体を強張らせるのが分かる。

「……何してんだ」

 思わず口から出た言葉が普段とは異なるような気がしていた。――だが、それを気にしていられるほど、ノーチェの頭は冷静ではない。終焉が倒れている姿を見て、胸の奥が騒いでいたのはこれが初めてではないのだ。

 未だ記憶に新しく思える男の息絶えた顔。生気が感じられない暗い瞳に、頭から流れる血液が頬を伝う。呼吸こそはしていなかったが、もう動くことのない姿に戸惑いを覚えていたのはいうまでもない。
 ――そんな光景が、ふと脳裏によぎってしまうのだ。
 今回はただ倒れていただけで意識はあったものの、万が一のことを思ってしまっては、足元から崩れ落ちるような感覚に陥る。この感覚はそう――終焉が自らを傷付けたときにも、似たようなものを覚えたものだ。
 自分は一体何を忘れているのだろう。――彼の頭には混乱があり、ただただ現状を理解することができない。終焉と出会ってから似たような既視感を味わい続け、何度も胸焼けを覚えたものだ。

 問い質していけば答えてくれるのだろうか――そう思っていると、終焉の様子が少しずつ変わっていった。先程から呼吸を繰り返すのが酷く辛そうではあったのだが、それがどんどんと露骨になっているのだ。
 肩で息を繰り返す様子が、男の異常を示している。ふうふうと、まるで熱い湯船に浸かってのぼせてきたような呼吸だ。浅く、十分な量を体に回せていないのがノーチェでもよく分かった。
 明らかに体調を悪くしている。それは、医者でもない素人の目でも見て分かるほど。蒼白い顔に熱が出ているなんて、矛盾しているようなものだろうが、そう変なことを考えてはいられないだろう。
 終焉の手を掴んだまま、彼はただじっと男を見つめていた。それに対抗するように終焉もまたノーチェを見つめ返していたのだが、次第に視線が揺れ動いているのが見て取れる。きょろきょろと、右往左往しながら足元へと落ちた目線は、少しずつ瞼の下に隠されていった。

「――!? うわ……っ!」

 あまりの突然の出来事に、ノーチェは驚きの声を上げながら咄嗟に足を踏み出した。ゆっくりと眠るように目を閉じた終焉が、そのまま意識を失うように前へと倒れ込んだのだ。
 手を掴んでいた彼は重心が傾く終焉の懐に入り、両腕で体を支えながら抱き留める。長い髪が鬱陶しいほどノーチェの視界に映り込んで、邪魔そうだなと思いながらもしっかりと両足で重心を保つ。男は先程まで体に力を入れて立っていたというのに、ノーチェの体の中で少しの力も入れていなかった。
 まるで死体のようなその脱力感に、彼はほんの少し胸の奥に焦燥感を掻き抱く。
 力の入らない人間の体は酷く重いというのに、終焉の体はそれを否定するほどやけに軽かった。

「…………取り敢えず、部屋に……」

 倒れ込んだ終焉には意識が残されていないのか、ノーチェの呟きには反応も示さずにいる。そんな家主の足元を懸命に抱え込み、足を引き摺らないように持ち上げる。背に腕を回してやって、自分がやられたように抱き抱えてやった。
 終焉は意識を手放していて、現状に対する感想を求められないのが残念なところだろう。
 ――なんて考えを頭の片隅に追いやり、ノーチェは終焉の部屋へと足を向ける。存外慌ててしまった自分がいることに多少驚いたが、それも当然のことだろう。今まで何の不調も訴えそうにないような、「完璧」を体現した男が倒れるなど、余程のことがなければ起こらないだろうから。
 彼は部屋の扉を開けて、部屋の暗さに一度だけ足が止まる。朝だというのに、まるで夕暮れの後のような仄暗さに確かな違和感を覚えた。――だが、不思議と心地が悪いわけではない。夜の静けさにも似た雰囲気が気持ちを落ち着かせるようで、ノーチェは小さく吐息を吐いた。
 すぐ傍では終焉の浅い呼吸が聞こえてくる。やけに辛そうな呼吸に、どうすればいいのかと考えながら寝具へと近付いた。相も変わらず形の整った寝具がそこにはあって、ノーチェはゆっくりとその上に終焉を寝かせる。
 酷く暑そうに汗をかいているのだが、先程から「寒い」とばかり呟きを洩らしていて、つい対処しようとする手が止まってしまう。
 早く対処したいと思う反面、現状に困っているのも確かだ。気持ちと行動が一致しないというのはこのことを指すのだろう。

 このときばかり、彼は屋敷に自分や、終焉以外が住んでいないということを嫌に思った。せめて、せめてあと一人でもいてくれれば――

「…………」

 ――そう思った矢先、ノーチェは振り返って出入り口の方をじっと眺めた。
 いや、正確に言えばその奥にあるエントランスを見つめていた。何かしらの音が鳴ったような気がして、目に見えないとしてもつい顔を向けてしまったのだ。
 ――しかし、数秒待っても扉のノック音など彼の耳に届くことはなかった。焦って幻聴でも聞こえたのか、それとも鳥や虫達がぶつかった音が扉を叩く音に聞こえてしまったのだろう。頼る人間が誰もいないと分かると、ノーチェは落胆したように「……どうしよう」なんて呟いた。

「……とー! いるでしょー!」

 ――不意にノーチェの耳に随分と聞き慣れたような女の声が届く。直後に強く扉を叩く音が聞こえて、彼はびくりと体を震わせた。――それでも現状を打破できそうな人間が来てくれたことを視野に入れると、やけに安心したような気持ちになる。
 ドンドンドン、と催促する音に導かれ、ノーチェは横たわる終焉に目を配らせてから、足早にエントランスへと向かった。屋敷内ではあまり走ることはしなかったが、このときばかりは急ぐのが正解だっただろう。ばたばたと駆け寄った後、色が重い扉を開けてノーチェは唇を開いた。
 現状をどうにか説明しようと、思い至ってのことだった。
 しかし――

「ああ、いいわよ。何も言わなくて。全部分かってるの。だから私が来たのよん」

 ――遅い、とも言わずに、リーリエは軽く笑ってにこりと微笑んだ。

◇◆◇

 水とタオルの入った桶からタプンと小さく音が鳴る。溢れるかと思って慌てるものの、万が一に備えて満タンではなく、少なめにしたのが功を奏した。夏場の水は随分と冷たく思えて、これなら汗も止まるだろうかと期待もしてしまう。
 濡れたものとは別に乾いたタオルを片手に、ノーチェは閉まりきった扉の前でゆっくりと手を伸ばした。

「お疲れ様〜」
「…………」

 扉を開ける前に、きぃと音を立てて開いたそれを見て、ノーチェは茫然とする。目の前には自分よりいくらか背の低い女がにこにこと笑っていて、入れと言わんばかりに扉を開けているのだ。何の合図も出していないノーチェとしては、何故分かったのかが気になるところではあるが、部屋に入ることを優先した。
 ぱしゃんと跳ねる水が溢れないように注意を払って、寝具の傍へと歩み寄る。寝具の上では終焉が酷く苦しそうに顔を歪めていた。寝苦しいのだろうか――堪らずタオルを絞り、水気を切った濡れタオルで額を拭ってやる。
 すると、閉じていた瞳がゆっくりと開いた。

「…………平気なの」

 ぽつりと小さく呟くが、終焉からの応答は返ってこない。余程体調が悪いのかと、ノーチェは思わず扉の近くにいるリーリエへと目を向ける。女は一度肩を竦めたかと思うと、にこりと笑って一言――

「じゃあ体拭いといてね」

 ――と言い放った。

「…………いや……アンタ何しに来たの」

 リーリエの言葉に豆鉄砲を食らった鳩のような顔を仄めかせて、ノーチェは眉根を顰めた。リーリエ曰く「ちょっと食べるもの探してくるだけ」と言って、扉の向こうへと消えようとする。一体何をしに来たのかと問えば、リーリエは「様子を見に来たの」と言った。
 なら、アンタが世話したらいいのに。――何気なくそう呟くと、女は軽く笑いながら「無理よ」と告げる。

「エンディアってば金髪の女嫌いなのよ」

 だからよろしくね。
 そう言って女は扉を閉めて姿を隠してしまった。取り残されたノーチェは僅かに目を丸くして、理解が追い付かないような顔をする。「金髪の女が嫌い」――その事実に頭を悩ませて、首を傾げてみせた。
 じゃあ何でアンタと関わってんだ、と聞き損ねたことを後悔する。確かに身の回りには金髪など見かけないが、それが本当かどうかなと、一度聞いただけでは判断できなかった。
 ほんのり溜め息を吐く気持ちでふう、と吐息を吐いて、彼は目線を終焉へと移す。男は変わらずにぼんやりと天井を眺めていて、息は荒く汗をかいている。今はただ、言われたことを優先するべきなのだろう。

「……体、拭くから。脱いで」

 額からタオルを離し、ノーチェは小さく終焉に語り掛ける。重い――わけでもない体を起こしてやって、リーリエに言われた通りのことを実践しようとした。家主が不調では、居候のノーチェは何をすればいいのか分からないのだ。快復に向かわせることが、今やれるべきことだろう。
 ――しかし、終焉はただぼんやりとするだけで、丁寧に着ているシャツやベストなど脱ごうともしなかった。
 脱げもしないのだろうか、と疑問が頭を掠める。
 ノーチェは動きのない終焉にそうっと手を伸ばし、服のボタンへと手を掛けた。

「っ……嫌だ……」
「……?」

 服の生地がノーチェの手を掠めると同時、終焉は小さく言葉を紡ぐ。まるで子供のように、普段とは違った様子でどこかを見つめながら、胸元で服を強く握り締めていた。
 怯えるような素振りといえばそうなるのだろう。ノーチェは瞬きを数回繰り返した後、ほう、と息を吐く。普段自分がやられているように、ゆっくり、ゆっくりと終焉へ言い聞かせる言葉を紡いだ。

「……汗……拭かないと、悪化する。変なことはしないから……」

 これ以上苦しくなってもしらないぞ。――なんて呟けば、終焉は茫然とした後、漸く目を覚ましたかのように瞬きをした。「……あ……? えっと……」と呟いてノーチェの顔を覗き込む様子は、事態を把握できていない人間の素振りとよく似ている。
 じっくりと終焉の顔を見つめるノーチェに、終焉は押し負けるように服に手をかけた。
 ゆっくりとではあるが確実に、着込んでいるらしい服を二枚程度脱いだ後、漸く露わになったのは汗ばんだ肌だ。風呂の一件ではまじまじと見ることはなかったが、男の体はしっかりと筋肉がついていて、腕はやけに逞しい。トレーニングをしているような様子は見たことはないが、普段から家事に専念しているのが体に表れたのだろう。
 長い髪が汗まみれの体につくのが鬱陶しいのか、終焉は背中にある髪を何度も払うような仕草を見せる。これほどまでに鬱陶しいと思っているような表情は見たこともなかった。僅かに顔を顰める終焉は、髪を束ねるように手でまとめ始めた。

「……気持ち悪いなら背中から拭く」
「…………ん」

 終焉の行動を見かねたノーチェは、手が届きそうにもない背中を優先すべきだろうと言葉をかける。存外彼の言うことに素直に従った男は、難なく背中を見せてノーチェに委ねた。
 背が高いのが仇となっているのか、それとも単純に体調が悪いからか――終焉の背中は丸みを帯びている。湿ったタオルを押し当てると、びくりと肩を震わせたのが手に取るように分かった。

「……俺言ったろ……体調悪いんなら休めって」
「………………ん」
「アンタがそんなんだと、俺、何したらいいかわかんねぇから……」

 沈黙に耐えきれる筈もなく、軽く会話を交えながら彼は男の背中を拭う。湿ったタオルに何気なく触れてみれば、そこにあるのはやはり冷たさではなく、微妙な温もりだった。ああ、この人にも体温があったんだ――なんて思いながら、彼はぽつりと言葉を紡ぐと、終焉が軽く俯く。
 「……奴隷のような言葉を言わないでくれ」と、酷く悲しげに呟いた。
 何故終焉が悲しそうな声色を出したのか、どうして俯いたのかは彼には分からない。ただ一人の人間であるという意識をしっかりと持ってほしかったのだろうが、生憎ノーチェは人権など剥奪されたようなものだ。
 だからこそ彼は、こう言った。

「首輪がある限り、今はアンタのもんだよ」

 多分アンタは許さないだろうけれど。
 そう言ってノーチェは湿ったタオルを桶に戻し、乾いたタオルで終焉の背中をまた拭いてやる。その間にノーチェの言葉に反応はしなかったが、恐らく終焉は納得していない筈だ。
 かくいうノーチェでさえも実際は嫌だと思うものの、首輪がどうにもならなければ意味がないのだ。彼はあくまで自分は奴隷であると、言い張るまでだった。

「……どう……多分、さっぱりしたと思うんだけど」
「…………ん……」

 乾いたタオルで拭った後、ノーチェは終焉の顔をじっと見つめた。今は後頭部しか見えないものの、髪をまとめていた手が離れると同時に男の顔が振り返る。ほんのりどこか虚ろで、虚空を見つめるような目をしながら「…………有り難う」と小さく呟いた。
 別に、大丈夫。ただそう呟いて前の方も拭こうかと手を伸ばしかけたとき、終焉が彼の行動を止める。手の届かない背中は任せたが、手の届く前は自分でやるというのだ。
 それを裏付けるよう、終焉は桶へと戻された濡れたタオルに手を伸ばす。――だが、思うように力が入らず、絞りきることのできないそれをノーチェが代わりにこなした。「ああ……すまない」なんて男は呟いて、受け取ったタオルで懸命に体を拭いていく。その様子を――ノーチェはただぼんやりと見つめるだけだった。

 傷が――まるで生傷のような傷痕が身体中に刻まれているのだ。切られたであろう場所だけ色が濃く変化していて、顔の肌とはまるで違った印象を受ける。背中にはひとつも刻まれていないことから、切りつけてきたであろう相手に、終焉は背中を見せることはなかったのだろう。
 ――やけに強い人だと思えた。狂気に立ち向かう、弱みのない強い人なのだと。
 その間にも終焉は頼りない手つきでありながらも体を拭いている。腕や肩、腹回りの隅々まで。その中にある傷痕の中で、一際古い傷痕が、酷く気になってしまうのは気のせいだろうか。

 ――ぱたん。
 そんな小さな音と共に、扉が閉じるような印象を受けた。
 気が付けば部屋に入ってきていたリーリエが、不機嫌そうに目を細めて終焉を見ている。ノーチェには到底出せないあからさまな不機嫌さだ。隣では終焉がもそもそと服を着ようとしていて、咄嗟に「それ洗うから」と言えば、男は「そう……」と手を離す。
 そうしている合間にリーリエは終焉の近くへと歩いてきて――「どういうこと?」と言った。

「食べ物らしき食べ物が全然ないじゃない! あるのは材料だけよ!」

 私はお腹が空いたのに。そう言って女は頬を膨らませていた。
 材料しかない、という点においてノーチェは頭に何かが引っ掛かるような感覚を覚え、ゆっくりと終焉の目を見る。終焉はぼんやりとリーリエを見つめていたと思えば、ノーチェの視線に気が付いて目線を下ろし、「仕方ない……」と言葉を紡いだ。

「……ノーチェの、誕生日だから」
「誕生日だからってろくなものも揃ってないってある!?」
「か……買い出しには行く予定だった」
「普通ならそこそこ食べるものある筈だけどね!」

 あんた、どんだけ弱っていたのよ、と女は強い口調で終焉に言い放った。対する男は何も言うこともせず、ただ黙りを繰り返したまま。最早親に叱られている子供のような様子と光景に、彼は堪らず間に割って入る。
 「一応、病人……」そう呟いて女を見上げていれば、リーリエははあ、と溜め息を吐いて「それもそうね」と肩を落とす。
 終焉は相変わらずただぼんやりと虚空を見つめているようで、リーリエの叱咤など聞いてもいなかったのだろう。――というよりは、起き上がっていることが酷く辛く思えているのか、肩で息をする様子が窺えるのだ。
 取り敢えず寝かせておくべきなのだろう。
 彼はリーリエを宥めた後、部屋のタンスを軽く漁って、見慣れたシャツを手に取る。黒地でブイネックの七分丈の服だ。終焉はそれをやけに好んでいて、着ていないことがまずないと言ってもいいほど。特に就寝時は毎回欠かさないのだ。

「…………これ」
「……」

 代わりに着ておいて、と言わんばかりに差し出してみれば、男は素直に受け取ってもそもそと服を着始めた。
 恐ろしいほどの素直さにリーリエは「何か気持ち悪いわねえ」なんて口を洩らしていて、彼はそれを横目に見やる。特別何かを思っているわけではないが、あくまで自分を人として扱う終焉を、不躾な言葉で形容されるのは腹立たしかった。
 その視線に気が付いたのだろう。女は肩を竦めた後、「悪かったわよ」と言って腰に手を当てる。これからどうしようかと思案を繰り返しているようにも見えた。口を挟むべきことではないのは承知の上だが、女が何を言おうとしているのか、ノーチェは気になって仕方なかったのだ。
 終焉は寝具に転がった後、布団を目深にかぶってやけに寒そうに丸まっている。真夏だというのに異様な行動は、やはり体調の悪さからくるのだろう。

 ――何か。何かしてやれないだろうか。

 ――そう無意識に思っていると、リーリエがぽつりと呟いた。

「……エンディアの真似事でもしてみる?」


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