悪意なき助言


 広い聖堂の中。妙な音色を奏でるのはパイプオルガンの音。色鮮やかなステンドグラスから溢れる光を胸に、教会≠フ人間がマリア像に祈りを捧げる。神と同一視されているマリア像はステンドグラスから溢れる光を背に受け、煌々と輝いていた。
 ――やがて音色が止まると、彼らはゆっくりと顔を上げて立ち上がる。白い修道服を着こなし、胸に十字架を抱える。その視線の向こう――マリア像の傍らに悠然と立つモーゼが「やあ」と微笑む。

「さて……皆分かると思うけど、夏や秋には残念なことに犯罪率が上がってしまう。それは恐らく、今回も免れないだろう」

 モーゼが胸に手を当てて、ゆっくりと彼らに語りかける。夏や秋にはイベントが多く、犯罪率が上がってしまうことは教会£Bもやはり問題視しているようだ。規模が大きければ大きいほど彼らの目の届く場所は限られてきてしまう。――それにいくつかの手を打とうと試みたが、どれもこれも失敗ばかりだった。
 モーゼは言う。「マリアは悲しんでおられる」と。より良い街にするべく創設された教会≠ェ、なす術もなく犯罪を許し、被害に遭う人間がいることを。
 誘拐、暴力、窃盗、強盗――そして性的暴行。数知れない犯罪が教会≠フ目を掻い潜り、起こっているのだ。勿論彼らは規律を守ることも重視しているため、許せないと言わんばかりに怒りを胸に募らせる。それは、聖堂内の空気さえも揺るがすようだった。
 他人事ではないのだ。彼らにも知人や恋人、家族が勿論いる。そんな彼らの大切なものに犯罪の手が伸びないなどと、確約することができないからだ。元より彼らの多くは教会≠フやり方を推奨している人間達ばかりで、犯罪を減らしたいという願いを抱えている者ばかり。
 その多くの矛先が終焉の者≠ノ向かっていただけであり、街に目を向けていないということではないのだ。
 彼らの怒りはモーゼの肌を針のようにチクチクと刺し続け、男は思わず「痛いよ」と小さく笑う。肩を竦めて彼らを宥めるが、一向に止む気配がない。恐らく己の不甲斐なさを痛感しているのだろう――モーゼはふう、と溜め息を吐くと、「気を張り詰めないで」と笑う。

「お前達が怒るのも無理はないね。本来なら奴隷商人すら受け入れたくない筈なのに、悠々とそれを逃してしまっているのだから」

 だからと言って自分を追い詰めることはやめてほしい。男は全ての罪を赦すような微笑みで諭すように呟く。
 本来なら受け入れない筈の奴隷商人を受け入れる理由はただひとつ。外の街との交流を避け続けるルフランにとって、唯一の情報網だからだ。
 ルフランの周りは広大な森に覆われている。そこは昼でも夕暮れ時のように薄暗く、夜は光さえも呑み込むほどの暗い闇に覆われてしまう。獣の(ひし)めく声は森中に反復し、梟は静かに鳴いて人々を迷いに誘う。一度道を外れれば街に戻ることは叶わず、仮に道を辿っていたとしても、不可思議な現象によりルフランに戻されてしまうのだ。
 街に訪れてくる外の人間は大体が奴隷商人である理由は、人の目を避け続けるからによるもの。多少の危険があろうとも、一級品を持ち歩いていれば誰もが盗られないよう独占したがるだろう。希少価値が高ければ高いほど、彼らはそれを金品そのもののように扱うのが殆どだ。
 ――ただし頑丈な人間は別だが。
 ――そんな人間達が生まれ育った故郷を荒らすなど、彼らは許さなかった。終焉の者≠フ存在を異様に敵視しているのも彼らが街を、家族を好いているからだ。自分達人間が無事に人生を全うできるのなら多少の犠牲も付き物だという認識をしている。
 全ては街を――家族を守りたいという思いが彼らを突き動かしているのだ。

「――というわけでね」

 パン、とモーゼが自分の手のひらを合わせ、心地のいい音を胸元で鳴らす。あくまで沈んだ気持ちを押し上げるよう、モーゼの声色はどこか明るく、彼らもモーゼが雰囲気を変えようとしていることを察して瞬きをする。
 男はあくまで薄っぺらい笑みを浮かべたまま彼らを見つめていたが、やがて唇を開くと、彼らは目を丸くした。

「私もお前達と同じように見回ってあげるよ」

 茫然とした間抜けな顔がひとつ、ふたつと増える。その理由は簡単――モーゼは教会≠フ責任者であるというのに殆ど顔を出さないからだ。それを知る男達は一度言葉を噛み締めるように瞬きを数回繰り返すと、「よろしいのですか」と徐に言葉を紡ぐ。
 よろしいのですか――その言葉にモーゼは小さく頷くと、「この本も希望の内容が書かれていなかったからね」と懐から一冊の黒い本を取り出す。それには題名は勿論、著者などの名前が記されていない他、目を引く表紙のイラストなども一切見当たらない本だ。
 墨を溶かして滲ませたかのように不気味なほど黒一色で塗り潰された本――それを再び懐へとしまうと、「また探さないとね」と小さく笑う。
 それに彼らは目を伏せて、「本当にあるんですか」と男に問い掛けた。

「永遠の命≠他者に移す方法なんて、本当にあるんですか……」

 その問いかけにモーゼは答えを返すわけでもなく、ただ柔らかく微笑んだまま、否定も肯定もしなかった――。

◇◆◇

「……夏祭り」
「そう! 夏祭り〜!」

 ポツリと呟いた言葉に魔女が上機嫌に笑った。彼の手元にあるのは一枚の紙切れで、以前街の中で見たものと同じものだった。
 花が夜空に咲き誇るようなデザインが目を惹くポスターだ。街の風景に開催日や模擬店の種類などの情報が書かれていて、一風変わった景色が堪能できるようだ。行事に無縁だったノーチェには何がどう変わるのか少しの予想もつかないのだが、ポスターを持ち寄った魔女――リーリエはいやに楽しげに表情を綻ばせている。
 女は相変わらず片手に酒を携えていた。ノックをされて扉を開けたノーチェや、掃除をしていた終焉はその様子に呆れさえも覚えるよう、渋い顔をする。「ちょっとお話しなーい?」なんて返事も聞かず、躊躇なく屋敷に足を踏み入れた瞬間、終焉がやたらと表情を歪めたような気がしたのは気のせいだろう。
 靴を脱いで客間のソファーに座るリーリエはノーチェにポスターを手渡し、現在に至る。終焉はキッチンで何かをしているのか、掃除をやめた後奥へ向かったままなかなか姿を現さない。その間にノーチェはリーリエの相手をしながら、ポスターを持ち出した理由を何気なく聞き出した。

「私ねえ、あまり街には行かないんだけど、祭りは基本的に行きたいのよ〜! 何て言ったってご飯が美味しいからね!」

 片目は前髪で隠れて見えてはいないが、ウインクをしたような素振りにノーチェは瞬きをひとつ。ふぅん、と彼は生返事をしながらポスターをテーブルに置くと、リーリエが「その興味なさそうな声は何かしら」なんて言う。「だって興味ないから」――なんて言えるわけもなく、ノーチェはぼんやりと押し黙っていると、ふわりと漂う紅茶の香りが鼻を擽る。
 夏日には暑さを覚えるほど長い黒髪がノーチェの視界の端に映った。これで会話から逃れられる――しめたと言わんばかりに彼はリーリエから目を逸らすと、相変わらず冬の寒さを感じさせるような冷たい目が合う。「言ってくれれば手伝ったのに」そうノーチェが呟くと、「苦ではないからな」と終焉は小さく口を溢した。
 男は慣れたように携えていたトレイを、ポスターを避けながらテーブルに置く。トレイの上に並ぶのはティーセットに加え、小さなバスケットに納められたビスケットだ。プレーンばかり並んだその横にはジャムの類いが添えられていて、初めて見る茶菓子にノーチェは茫然とそれを眺める。
 リーリエは喜んでいの一番にビスケットへと手を伸ばした。女曰く「程好い塩味が利いたビスケットにジャムの甘さが堪らない」のだそう。試しにノーチェもリーリエと同じようビスケットにジャムを載せて口へと運べば、普段とはまた違った味覚にぼんやりと思考を奪われる。
 程好い塩気が甘さを引き立たせるには十分だった。柔らかな歯応えがありながらジャムとの相性は抜群と来たものだ。普段の茶菓子と比べたら一風変わったように思えるが――終焉が手掛けるものはやけに美味しいと感じるものが多かった。
 ノーチェは満足げに――とはいえ相変わらず何を考えているかも分からない無表情だが――ほう、と一息吐くと、リーリエとの会話を避けるように次へと手を伸ばした。やはりソファーの上が気に入っているのか、リーリエが居るとしてもソファーを先取るように足早に座って、終焉は普段と変わらず目の前の椅子へと腰掛ける。ジャムを載せては口へと運ぶ光景を見て、ふ、と柔らかく口許が上がるのが分かった終焉は、口許に手を当ててそれを隠した。
 暑くなってきたとはいえ、然程の変化も見せない彼の食欲に男は満足したのだろう。持ってきた菓子へと手も着けず、ゆっくりと椅子に深く座り直す。まるで疲れ果てたかのようなその様子にノーチェはビスケットを食べる手を止めて、小首を傾げる。

「…………なあ、アンタ、どうかしたの…………」

 普段なら率先して菓子類に飛び付きそうな男が一度も手をつけないことが気になったのだろう。ノーチェは思わず疑問を口にすると、終焉は「ああ、」と気が付いたと言わんばかりに微かに顔を上げて、彼の目を見る。
 「別に何もないよ」――そう言って腕を組んで終焉は力を抜いた。背凭れに体を委ね、静かに目を閉じる。ゆっくりと呼吸を繰り返し気を抜く様を見るに、終焉は仮眠を取っているようだった。
 夏の日差しが苦手そうな終焉のことだ。夏は日が昇るのが早く、終焉の眠りを妨げてしまうのかもしれない。かくいうノーチェも空が白み始める時間帯が早くなっていると気が付くと、どうしても眠気を胸に抱えたまま起きるしかなくなるのだ。
 二度寝をしようものなら遮光カーテン越しに明るくなる外が瞼を刺激する。――なら、先手を打って起きるのが得策だろう。
 疲れた様子の終焉に仕方ないよな、と小さく頷いて手の中に残る食べかけのビスケットを頬張る。屋敷には空調の類いは設備されていないが、やはり外よりも断然過ごしやすい空気が漂っているのだ。これもまた終焉の影響だとするのなら、疲れるのも無理はないだろう。
 薄いタオルケットでも掛けてやるのが得策だ。
 ノーチェは思い立ったように立ち上がってリーリエに席を外す旨を伝えると、女は親指と人差し指で丸を描き、中指から小指までを立たせて了承の意を示す。ノーチェが立ち上がったとしても終焉は瞼を動かすこともなく、ゆっくりと呼吸を繰り返して寝息を立てる。
 先日に気配がどうのと言っていた割には一度も目を覚まさない終焉を横目に見て、「相当眠いんだな」と思いながらもノーチェは階段を上った。
 本来ならば終焉の部屋にでも入って使い込んでいるであろう布団を掛けるのがよかったのだろうが――、何せ他人の部屋だ。了承もなくずけずけと足を踏み入れるような真似をしたくないノーチェは、わざわざ階段を上って与えられた部屋の、与えられたタオルケットを持ち出す。終焉を見習って畳んでいたタオルケットを両手で抱え、足を踏み外さないように階段を下りて、眠る終焉へとそれを掛けてやる。
 日の光が苦手だという素振りを何度も見せ付けられているからか――、ノーチェは終焉の顔までを覆い隠すようにタオルケットをかぶせてしまって、リーリエが大きく笑った。

「流石にそれは起きたとき吃驚すると思うわよ!」

 腹を抱え、目尻に涙を浮かべる様子を見て彼は内心「煩いな」なんて思いながらもずるずるとタオルケットを下ろして顔を出してやる。リーリエの笑いは止まることがないが、これだけ騒がしいというのに終焉は目を閉じたまま微動だにせず寝息を立てたままだった。
 これだけ煩いのによく眠れるものだと安堵の息を吐きながら、「…………うるさい」と一言。地を這うようなじとっとした目付きを配らせてみれば、悪びれる様子もなくリーリエは「だって面白いんだもん」と唇を尖らせた。

「……………………その酒瓶がどうなってもいいんだな」
「あらやだごめんなさい。私が悪かったわ」

 ちらりと敵意を剥き出してみれば、リーリエは両手で酒を抱き抱え、咄嗟に真顔で謝罪の言葉を口にする。命よりも大事だと思われているらしいそれは、かなりの度数を誇る強い酒だ。酒豪だろうか――そんな考えを他所にノーチェは終焉の顔をじっと見つめた。
 肌の白さは最早見慣れたものだ。その白さに映える黒い睫毛は長く、整った顔立ちは美形そのもの。顔付きが凛々しい所為か、今回は「美人」という言葉はあまり当てはまらないような気がするのは気のせいだろうか――。
 本当綺麗な顔立ちしているわよねぇ、と拗ねるような声色がひとつ。リーリエは、男だというのに女のような顔立ちをしている終焉に納得がいかないのだろう。ソファーの背凭れに寄り掛かり、体を仰け反らせて唇を尖らせている様子が安易に想像つくものだから、ノーチェは振り返ることもせず「…………そうだな」と一言。ノーチェもまた整った顔立ちではあるが、それよりも遥かに綺麗だと思わせるのだ。
 この顔立ちで苦労はしたことがあるのだろうか――ぼんやりと終焉の顔を眺めていると、リーリエはポツリと言葉を洩らす。

「そんな顔だから襲われんのよ」

 すらりとした手袋に覆われた指が取り出したのは一本の煙草だった。
 静まり返った屋敷の中で女の声はやけに大きく響いた気がした。ノーチェはリーリエの言葉にゆっくりと、耳を疑うように振り返ってみれば、女は火を点けた煙草を吸い、ふぅ、と白い煙を吐き出す。ドレス姿でふんぞり返るように足を組み、ソファーに座る様は誰よりも似合っているような気がしてならなかった。
 知らなかったでしょう、とリーリエは呟く。それに素直に頷いてみれば、女は確信を得るように「やっぱりね」と呆れがちに微笑んだ。

 当然のごとくノーチェは終焉の物事を多く知らない。平たく言えば語られることがないのだ。彼はあくまで「奴隷」であり、終焉は買い主のようなもの。実際は買われたわけではないが――、ノーチェは必要以上に踏み込むことも、詮索することもする気はなかった。
 たとえ何度奇妙な違和感を覚えさせられたとしても、深いところまで足を踏み入れる気はなかったのだ。
 終焉もそんな彼に甘えていたのだろう。――いや、ノーチェが奴隷であるからこそ、可笑しなものを吹き込まないようにしていたのかもしれない。対等を望みながら隠し事をし続けるのも、終焉にとって知られたくないものを知られるわけにはいかないのだ。
 ――リーリエ曰く、終焉はルフランに来た当初に名も知らぬ男に体を求められたのだ。
 その頃の男は今とは打ってかわって大人しく、密やかで――まるでユリの花の如くおしとやかな――それこそ淑女のような男だった。物憂いたような静かな瞳も、女のように艶やかな唇も、長く伸びた髪も魅力的な存在だった。威圧的な態度も見受けられないほどに物静かで、何を言おうとも反論することもなかった。
 そんな男がある夜、やけに遅く帰ってきたことがある。服は僅かに乱れ、自慢の黒髪は微かに艶を失っていた。どこか俯きがちの表情は相変わらず読めなかったが――まとう雰囲気が一変したことはよく分かった。
 鉄の香りが鼻を突くのだ。つん、として思わず顔を顰めたくなるような酸っぱい香り。それが男の体から仄かに漂っているのは明白だった。
 その頃に終焉は人が変わったように人を寄せ付けなくなったという――。

 ふう、と白い煙を口から吐いて「興味ないでしょ」と小さく笑った。足を組みながら苦笑する様は呆れた母親のような表情をしているのだが、話を聞いたノーチェはただ茫然とリーリエを眺めた後、ちらりと終焉の方へと視線を流す。
 男の表情は静かだった。眠っているのだから当然だとは思えるのだが、湛える静けさがまるで違うのだ。謂うならば雪が降り積もる冬の静けさのような、波ひとつ立たない泉の水のような――脆い静寂がぼんやりとそこにある。
 ゆっくりと呼吸を繰り返して眠る姿を見て、ノーチェはあくまで自分が奴隷ではなく一人の男として、終焉と出会っていたら何を思うのかをぼんやりとする頭で考える。
 男は酷く静かな存在だった。それでいて威圧的な雰囲気も瞳も、その容姿によく見合うほどの鋭さを兼ね備えている。その実力は計り知れないもので、一風変わった存在に彼は目を惹かれていたのかもしれない。
 ――何せノーチェの一族には黒髪など居ないからだ。
 白髪に反転した瞳、目元に逆三角の模様と、胸元と右手の甲にある模様がニュクスの遣い≠フ特徴だ。そんな存在を見慣れていれば嫌でも他の存在に目を奪われることも多くなるだろう。特に相反する色合いを持つ黒ならば、珍しいと思わざるを得ないほどだ。
 奴隷でなければ彼は興味本位で近付き、愛されていることもなかったのだろう――。

「…………別に……」
「うん?」
「興味……ないわけじゃない……」

 ポツリと小さく呟いたノーチェの言葉にリーリエは瞬きをひとつ。あら本当、なんて返事して予想外とも言えるような振る舞いを取る。恐らくリーリエは彼が終焉に興味を持つこと自体が予想外のものだったのだろう。「何」とノーチェが訝しげな目を向けてみれば、女は「いいえ〜」と気分良さげにタバコを掻き消した。
 流石魔女と呼ばれるだけあって女も魔法の類いは扱えるようだ。一度燃えていたタバコを火傷も気にせずぐっと握り締めると、瞬く間に煙と共にそれが手のひらから消え去った。種も仕掛けもまるで分からないその芸に、ノーチェは「変なやつ」とだけ喉の奥に言葉を押し留めると、再び終焉の顔を何気なく見つめる。
 綺麗な顔立ちと威圧的な態度を持っていても男は嫌な目に遭ったのだ。それが十分に理解できるノーチェは「アンタも苦労してんのな」なんてリーリエに聞こえるか聞こえないかの声で呟いて、ぼんやりと顔を眺める。綺麗に整った顔立ちに疲労の色は見えなかった。
 奴隷と主人である以上、男に付き添っていなければならない。
 終焉は認めることこそはないが、彼は未だ奴隷としての意識は失っていないつもりだった。同情するような感情や分かち合うような感覚を持つのは二の次だろう。

「…………じゃ、私からもひとつ訊くわ」

 ――不意にノーチェの耳に女の声が届いた。振り返ればリーリエは人差し指をノーチェに向けて、「終焉は寝てるようだしねぇ」と軽く笑う。マニキュアが塗られた爪が星屑のようにキラキラと瞬いているような気がした。鋭くなる女の瞳が、ノーチェの体を射抜く。

「あんた、自分の意志で終焉の傍に居るの?」
「…………?」

 胸中を探るような言葉遣いが酷く不快になる中、外では煩い虫の鳴き声が強く強く響いているような気がした。

◇◆◇

「……気を抜きすぎてろくな話もできず悪かったな」
「あっはっは! いーのよー!」

 すっかり日が傾いて燃えるような色が空を焼き付くす中、リーリエは大きく笑いながら終焉の肩を叩く。その顔は赤く、混じる息には酒独特の香りが強く匂っていて、終焉は思わず眉を顰めた。くしゃりと歪みかける表情を見て、この程度なら死なないんだな、とノーチェはそれを眺める。
 リーリエが携えていた一升瓶は空になり、代わりにリーリエは機嫌がよくなった。女の頭から胸元まである、それ相応の量を女は一人で全て飲み干してしまったのだ。度数はそれなりに高かった筈だが、リーリエの態度は多少大きくなった程度で随分と酒に強い印象を抱く。
 ノーチェは終焉がリーリエに肩を叩かれている光景を見ながらぼんやりと思考を巡らせる。

 自分の意志で終焉の傍に居るのかと問われたノーチェは僅かに首を傾げて「どういう意味だ」と小さく問い掛けた。終焉が眠る間に言われている以上、聞かれたくもない話なのだと思い、最低限の配慮を踏まえた上でだ。案の定終焉は起きる様子もなくすぅすぅと寝息を立ててままだった。
 リーリエは「別に深い意味もないわよ」とカラカラと笑うが、その表情は至って真面目で笑っているようには到底思えない。ノーチェはゆっくりと体を女の方へと向き直すと、「……嘘だろ」と口を溢す。

「…………何か意味、あるんだろ……そういう顔付きしてんだよ…………」

 伊達に顔色を窺って生きてきたわけではない。――そう言いたげにノーチェはソファーに座るリーリエの目を見ていて、女は「そうねぇ」と口許を緩める。
 確かに深い意味はない。しかし、意味がない話でもない。そう言うような表情で微かに首を傾げて、リーリエはノーチェの顔をじっくりと眺めるように見つめていた。金色の髪が僅かに揺れる。
 「そのまんまの意味よ」――と、女が静かに唇を開いた。

「自分の意志で終焉と居るわけじゃないならとっとと身を引きなさい。あんたもそれとなく分かっているんでしょう? ただでさえ奴隷なのに、終焉と居れば何かの厄介事に巻き込まれそうなことくらい」

 例えば誰かが死んだり、例えば自分が痛め付けられたり――女が例に挙げる事は(ことごと)くノーチェがその身を以て体験したことだ。元々殴られることが当然だった彼にとって最早暴力は終焉の影響ですらないと思っていたのだが、そうということだけではないようだ。
 特に意志がなければ終焉に近付くなと女は言った。明確な理由は明言されず、ただ近付くなと言うのだ。
 ノーチェは僅かに眉を顰め、リーリエの表情を読もうとする。――しかし、女の表情はまるで霧がかった森の中のように意図も汲めず、いくら顔色を窺っても真意も読めない。何かを企んでいるのかと思えば、そうではないと言うように「警戒しないの」と笑い、ひらひらと手を振る。

「私、あんたの為に言ってんのよ。ねえ、痛い目見たくないでしょう?」

 今更何を言っているのだと彼は言いたかった。だが、喉の奥底に詰まるような違和感が胸に募り、「ああ、またか」と苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。
 女は何かを知っている。それは、どこかノーチェにも関係があると言わんばかりの言葉遣いだった。何かを教えてくれそうにないくせに、遠回しに「気が付け」と言わんばかりの胸を抉るような口振りに、彼は不快感を覚え始める。腹の中に納めた筈の違和感が沸々と沸き立ち、妙な焦りさえも覚えてくるのだ。
 リーリエはノーチェの返事を待たずして、ソファーに体を沈めながら言葉を紡ぐ。「自分の意志でないなら離れなさい」「これ以上可笑しな目に遭いたくないなら別の人間に匿ってもらいなさい」――そういったノーチェの身を案ずるような言葉ばかりを述べていくのだ。
 彼はそれに、これ以上に安全な場所があるのかを問いたくなった。
 勿論この街には教会≠ニいう街を支配する組織がある。彼らの元に居るならば商人≠焜mーチェ自身には手を出せないだろう。――だが、教会≠煦齦藍マわった――終焉を嫌う人間たちばかりが居るのだ。ノーチェが終焉と関わっていたと知れば、彼も無事ではいられないだろう。
 終焉はいやに不思議な存在だった。何ものにも染められない黒に身を包み、街から離れた屋敷にひっそりと隠れて暮らしている。――にも拘らず、男はノーチェを白昼堂々奪い去った。自分が人に注目されようとも、彼を「奴隷」という枷から解き放とうとしたのだ。
 リーリエの言葉にノーチェは返す言葉を決めた。一度呼吸を繰り返し、胸の奥に溜まった淀んだ酸素を肺から押し出す。酸素の入れ換えをすると頭が冴えるような気がして、焦る気持ちが落ち着くような気分に陥った。その様子を見て、女は現実を噛み締めるよう、数回瞬きをすると微笑む。
 終焉に恩義を感じていないわけではない。しかし、大それた恩を返してほしいと思っていない存在であることは明白だ。終焉が望むのはノーチェから与えられる死だけ。それを叶えてやれるかと訊かれれば口ごもることは目に見えているが、ノーチェは自分が何かしらの恩を返せない程度にまで落ちぶれた人間ではない、と思っているつもりであった。

「…………アンタが何を知ってんのか分からない…………分からないけど……この人と一緒に居る居ないを決めんのはアンタじゃない……俺だ」

 俺はまだここの居心地がいいから居るだけ。ノーチェははっきりとした口調でリーリエに告げると、女は満足げに頷いて「そう」とだけ言った。「そう、よかった」そう言って肩に提げていた酒瓶の蓋に手を掛ける。
 相変わらず確信に触れらるような理由は語られることはなかった。彼はそれが気に食わず咄嗟に「なあ」と声をかける。「なあ、アンタ何知ってんの」――そう言おうとして、ポン、と心地のいい開封の音が鳴る。

「さ〜! 酒盛りするわよ〜!!」

 ――そこまで思い出してノーチェは酷く頭が痛んだ。
 酒を飲み始めたリーリエのテンションは異様に高く、何かを言えば食って掛かるような――平たく言えば面倒臭い女へと変貌した。笑うところではないところで酷く大笑いして、膝を叩いては肩を震わせてただ笑うのだ。
 笑い上戸なのだろう。耳障りだと言わんばかりにノーチェは耳を塞ぐと、不意に頭に何かがのし掛かる。彼はびくりと肩を震わせると、頭に載せられたのが終焉の手のひらなのだとすぐに分かった。
 髪に埋めるように、毛髪の柔さを堪能するようにくしゃりと撫でて「全く、騒がしくて寝られやしない」と低い声を洩らしながら男がゆっくりと立ち上がる。すると、ノーチェがかけたタオルケットがぱさりと音を立てて終焉の足元へと落ちた。赤黒い絨毯の上に落ちていったタオルケットを拾い上げ、男が不思議そうにしげしげと見つめると、彼は咄嗟に口を出す。
 「かけた方がいいと思って」――そう言えば終焉は口許だけで微笑むと、有り難うと言ってするりとノーチェから手を離した。
 終焉は酔った風のリーリエの相手に勤しむようノーチェを置き去りにしたが、彼は文句のひとつも出てきやしない。何せノーチェ一人では女の相手をするには手に負えない。大きく笑うリーリエに鬱陶しげに顔を顰める終焉を見て、ほう、と吐息を吐く。
 起きてくれてよかったという感覚と、起きていなければ話を聞き出せたのではないかという感覚が頭の中を駆け巡り、酷く倦怠感を覚えたのだった。
 ――そうして気が付いた頃には日が傾き、虫の鳴き声も落ち着いてきて過ごしやすくなりつつある時間にまで経っていた。女の酒盛りは夕暮れになるまで落ち着くことがなく、終焉やノーチェは確かに嫌気を覚えていたのだ。重い腰を上げるように席を立つリーリエの姿を見て二人が安堵の息を吐いたのは言うまでもない。

 終焉は謝罪の言葉を紡いだが、その表情は早く帰れと言わんばかりの無表情だ。案の定リーリエもそれに気が付いているのだろう――「あんたちょっとムカつくわね」なんて呟いて、終焉の額を人差し指でつつく。長い爪が鬱陶しかったのだろうか、酷く嫌そうに男は身を仰け反らせて、同時に手を払った。
 彼らは仲がよく昔ながらの知り合いだと言われても違和感はないだろう。寧ろ男女の仲だと言われても彼はそれに納得してしまいそうになるのだが――、終焉はそうではないようだ。
 からかわれている男はポツリポツリと何かを呟いているが、ノーチェの耳はそれを聞き届けられなかった。ただ、目が合ったリーリエが上機嫌に手を振り、「またね」と言っていることはよく分かる。結局何をしに来たのかも理解できないままノーチェは「ん」と返事すると、女はにっこりと笑った。

「じゃああんた達、ちゃんとお祭り行くわよ! 忘れないでよね」
「一人で行けばいい話だろう」
「私が迷わないとでも思ってるの!?」

 自信ありげに両手を腰に当て、胸を張る女に終焉が遂に溜め息を大きく吐いた。森で暮らしているから仕方がないな、と目を背けながら額に手を宛がう仕草はまさに呆れた様子そのものだ。あまりにも人間らしい素振りにノーチェは「この人も人間らしいところがあるのか」と思うと、途端に今までの感覚が馬鹿らしく思えてくる。
 男は生きている。ノーチェと同じよう、食事を摂り、息を繰り返し、感情を表すことができる。傍に居るだけで何かの影響を受けるような厄介な存在ではないことは確かだ、と彼は考えを投げ捨てた。
 リーリエは扉に手を掛けて手を振りながら外へ出る。ノーチェは控えめながらも手を振り返したが、終焉は腕を組んだまま微動だにしなかった。扉の閉まる音は暑苦しい外との繋がりを断ち切るようなものに聞こえ、慣れない関わりに詰まっていた息をほう、と吐き出す。
 傍らで終焉が「疲れたろう」と一人呟くように言葉を洩らした。

「………………まあ……あの人の相手はちょっと……」

 ――そうノーチェが遠慮がちに呟くと、終焉が微かに笑って「そうだろうな」と言った。

 夕食は相変わらずまともな手料理と甘い洋菓子が並ぶ。最早変えようもない事実に彼は口を出さないまま「美味しい」と言って平らげると、男はやはり満足そうに頷いた。
 ノーチェは与えられた部屋に足を踏み入れ、倒れ込むように寝具へと体を叩き付ける。ぼすん、と柔らかな生地に体が包まれる感覚はいつまで経っても新鮮で、不意に「あとどれくらい堪能できるのだろう」と考え込む。
 頭の中で繰り返し木霊するリーリエの言葉が酷く耳障りだった。
 もそもそと薄い布団へ潜り込むノーチェの思考を、「用がないなら離れなさい」と繰り返し呟くリーリエの言葉が邪魔をする。
 ――確かに傍に居る理由はないのだ。ノーチェはただ拉致されただけであって、無理に体の自由を縛られているわけではない。寧ろその逆――奴隷だと言い聞かせられていた頃に比べれば遥かに自由を得ているのだ。
 そんな彼が何故終焉と共に居るのかと言えば理由は簡単だ。この街にノーチェが知る人間も、ノーチェを欲しがる人間も――商人≠除いて――誰一人として居ないからだ。
 あくまで奴隷としての生き方が体に染み付いた彼にあるのは「自分で行動する意志」ではなく、「ただ相手に付き従う」ことのみ。今更足掻いたところで何の意味も持たないという先入観がノーチェの行動を邪魔するのだ。
 ――そんな状況下で終焉の元を離れたところで商人≠ノ見付かり、再び奴隷としての生活を強いられることは目に見えている。ならば多少の鎖が取れた今、できることの最小限を、まだしていたいと思えることをやろうと思えるのだ。
 ゆっくりと枕に顔を埋め、ノーチェは落ちてくる瞼をゆっくりと下ろし、目を閉じる。身の回りのことを手伝うようになってそれなりの眠気がノーチェの意識を心地よく微睡ませる。目を閉じて呼吸をしたらすぐに眩しい朝が来るのは十分すぎるほど理解していて、肩の荷を下ろすようにふぅ、と小さく息を吐いた。
 肺の中に残る酸素がなくなる感覚は荒れかけた気持ちを落ち着かせてくれる。
 ――明日も早い。早く寝よう。
 ゆっくりと意識を手放すノーチェの耳に梟の鳴き声と、扉が閉まる微かな音が届いていた。


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