お祭り騒ぎとりんご飴


 祭りは一大イベントなのだろうか――一度屋敷に商人≠ェ訪れて以来、まるで脅威のない生活にノーチェは空を仰ぎながらぼんやりとする。夏は相変わらず終焉の睡眠の邪魔をするようで、日中男は暇を見付けると何かに寄り掛かって眠りに就くのを多く見るようになった。その度にノーチェは終焉の服の裾を摘まんでは引っ張ってみる。すると、男はゆっくりと目を覚ますのだ。
 眠いなら寝たらいいといくら言おうとも終焉は首を縦には振らなかった。ただ「気にするな」の一点張りで、変わらず家事をこなし続けている。その様子にノーチェも深く追及することはなかったが、彼は「眠いなら寝たらいいのに」と小さく呟くだけのことはした。
 祭りはもう目前にまで迫ってきている。街へ買い出しに行けばその慌ただしさが身体中に犇々と伝わり、急用以外では街には赴きたくないとさえ思えるほどだ。かくいう終焉も寄り道することもなく足早に家路に就いてしまうものだから、街に居たくないと思うのはノーチェだけではないのだろう。
 毎日の恒例となった植物の水遣りを終えるべくノーチェは水道の蛇口を捻って締める。きゅっ、と心地のいい音が鳴って水が止まったのを確認すると、彼はホースをまとめ、水道に掛ける。朝日を反射して煌めいている庭を見るのはいつまでも新鮮で、思わず感嘆の息を洩らしてしまうのも最早日課だ。
 青々と茂る植物を見ていると少しでも嫌な気分が晴れるような気持ちになれる。ノーチェはぼんやりと緑に色付いている葉を見つめて、行き届いている手入れに思わず顔が綻んだ――気がした。

「ノーチェ」

 不意に呼び掛けられ、彼は徐に立ち上がる。気が付けば傍には終焉が立っていて、「朝食ができているよ」と静かに声を掛けられる。それに彼は小さく頷いて屋敷の中へ戻る終焉の背を追った。相変わらず長い髪は暑苦しいと思えるほどどこまでも暗く、透き通りさえも見せない黒に彩られている。
 暑くはないのだろうか――そんな考えも無意味だと言わんばかりに男の表情は静かで冷たく、何の感情も宿していないように見える。夏が嫌いなのだろうか、不思議と感情を読み取れない時間が長くなったようにさえ思えた。
 屋敷の中は相変わらず外よりと涼しくて居心地がいい。終焉の後を追うと薄手のカーテンが靡く客間に辿り着いた。テーブルには朝食が用意されていて、「向こうじゃないの」と思わずノーチェが呟くと、男は小さく顔を俯かせながら「たまにはいいだろう」と答える。

「日差しは嫌いだが、庭は好きなんだ」

 そう言って最早定位置である椅子に座ると、紅茶ではない見慣れない飲み物を終焉は注いでいく。香ばしく黒く独特な香りのするそれは、コーヒーと呼ばれるもので、香りからしてかなり苦いであろうそれに終焉は砂糖とミルクを混ぜるのだ。
 ノーチェも定位置であるソファーに体を沈め、終焉の手からコーヒーが注がれたマグカップをもらう。流石の彼もブラックで飲むなどということはなく、砂糖とミルクを適量注いだ。ほんのり甘く色付いたそれを口に含むが、変わらない苦味に僅かに眉を顰め彼は朝食であるサンドイッチへと手を伸ばす。
 食事にも随分と慣れたようだ。口に含む量は変わらないが、自ら進んで食べるノーチェを見て終焉は満足げに微笑みを溢し、パンケーキに手をつける。今日もまたメイプルシロップをふんだんに使用した甘ったるい朝食に、ノーチェは静かに溜め息を吐いた。「よく朝から食えるな」そう言えば終焉はパンケーキを飲み込んだ後「甘いものが好きだからな」なんて言った。
 今夜はリーリエが二人を誘った夏祭りの日だ。夕方から夜にかけて始まる規模の大きいそれは、街から離れた終焉が居る屋敷にもよく分かるほどだという。何度か準備に勤しむ街を訪れたとき、見なかった筈の飾りつけを嫌というほど目にしたときには祭りがあるのだという実感をした。
 ノーチェは勿論祭りなどという行事にも疎く、「本当に行くのか」と終焉に問えば男もまたリーリエと同じよう「当然だろう」と澄まし顔でノーチェに告げる。男は祭りの参加自体は初めてだというので「食べ物目当てだろう」とさえも彼は思っていた。――思わざるを得なかった。

「……ご馳走さまでした」

 ポツリと呟いたノーチェの言葉に終焉は小さく頷いて、毎日恒例の「どうだった」という味の問い掛けをノーチェに投げる。当然彼の回答も何ひとつ変わることなく、「美味しい」とだけ言葉を紡げば、男は安堵の息を吐くようにほう、と吐息を吐いた。

「…………別に……毎日訊かなくても、アンタの料理、普通に美味い……」

 何気なく呟かれたノーチェの言葉に終焉は僅かに顔を上げながら瞬きをして、本当か、と問う。本当だと言うように小さく頷いてやれば――、終焉はほんの少し嬉しそうに――それもどこか幼さが残るような表情で――小さく微笑んだ。

「……それならよかった…………っ」

 ――突然終焉が口許を押さえながら大きく咳き込んだ。
 ごほごほと喉の奥の何かを掻き出すような咳にノーチェは目を丸くすると、咳を終えた終焉は喉元に手を当てながら首を傾げている。気管に入って噎せてしまったのだろうかと思い、「あんまり変なこと言わない方がいいか……」なんてノーチェが一人呟く。終焉も原因がはっきりしないようで「噎せたのか……」と小さく呟いていた。

「……まあ、今日は作らないんだがな」

 気を持ち直して終焉はポツリと小さく呟く。今日の夕食は街で済ませる予定であることが気に食わないのだろう。どこかふて腐れたような表情にノーチェはぼんやりとその目を見つめていて、「別に今日だけだから……」と宥めるように言葉を洩らす。
 目前となった祭りを前に、余計な食事をしては入るものも入らないと言ったのはリーリエだ。日課となっている料理をするなと念を押された終焉は嫌々ながらもそれに従い、街に買い出しに行くことはなかった。
 そもそも祭りの準備に勤しむルフランは様々な人間で溢れ返り、買い物など落ち着いてできるような状況ではないのだ。わあわあと四方八方から沸き上がる歓声のような声に耳を塞ぎたくなるのは事実。しぶしぶ祭りの日はリーリエの意志に従って、買い物に行くのをやめた。
 終焉は食事をノーチェとのコミュニケーションの材料にしているのだろう。「……明日からはまた作るから」そう言ってちらりとノーチェに目を配らせる様は、不必要だと言われることを懸念しているようにも見て取れる。それにノーチェは首を縦に振って応えた。
 食事の概念を忘れかけていても、男の料理はやけに美味しいと思えるのは本当のことだった。屋敷に置いてもらえている以上、断るための明確な理由がなければ終焉はそれを許してはくれないだろう。彼は首を縦に振った後、「……量は考えて……」とだけ小さく言った。
 祭りの規模はどの程度だろうか――先日のリーリエの言葉を脳裏に掠めながら、ノーチェは微かに目線を落とした。

◇◆◇

 夕闇に沈む街がよりいっそう街の恐ろしさを引き立てる中、ポツポツと照らされる灯りと漂う香りが鼻を小さく擽った。春頃に開かれた祭りは花の香りが漂っていたが、今回は食べ物の香りが入り口にまで広がっている。終焉曰く中心部は噴水広場の方にあるというのだが――一部とはいえども密集する住人に、ノーチェは引け目さえも覚えた。
 今年も相変わらずだな、と終焉は呟きを洩らす。その姿は真昼同様、黒の服に身を包み、長い髪を隠すようにフードをかぶっている。人混みが嫌いだと言わんばかりの冷めた口調に、「もう帰ろうか」とさえ思ったほどだが、帰れない理由が隣にあると思い出すと溜め息が溢れる。
 街灯が次々と灯りを点ける下、金の髪をサイドにまとめあげたリーリエがニコニコと笑みを浮かべながら街の方を見る。賑やかすぎて迷いそうだわ、と大きく笑っていて、手元には煙草が一本収まっていた。ふう、と吐く息に煙が混じってノーチェは思わず顰めっ面を浮かべると、察しのいい女は「街中じゃ吸わないわよ」と言ってくしゃりとそれを握り締める。
 信じがたいリーリエの行為に引け目を感じていると、開かれた手のひらには吸い殻はどこにもなかった。最早手品の領域にあるそれに、商売くらいやっていけるのではないかと遂に思ってしまうほどだ。
 女の服装は普段とは多少異なっているように見えた。体のラインを際立たせるようなドレスとはうって変わって、裾に向かうと薔薇が蕾から花を咲かせる過程のような、マーメイド調の黒いドレスを着ている。祭りの雰囲気には似合わないと思うものの、ここまで黒い服が似合うと思える人間はそうそういないだろう。

「…………アンタらお似合いだな…………」

 何気なくポツリと呟いた言葉が二人の耳に届く。

「私が愛しているのは貴方だけだ」
「旦那にするにはちょっとタイプじゃないわ〜」

 間髪入れず否定に入る言葉にノーチェは思わず肩を竦める。見れば終焉はちらりとノーチェの方へ目を向けていて、リーリエは面白いものを見付けたようにくつくつと笑っている。各々言ってはいけないことがあるのだと彼は再度確認して、「すんません……」と萎縮した。殴られると思っているわけではないが、終焉の視線が肌を焼くように刺してくるのだ。
 ノーチェの言葉に男が「分かればいい」と言ってす、と街の方を見た。夜に呑まれていくルフランに訪れることは殆どない所為か、顔色を変えていく街がどこか不思議なものでしかないのだ。足首を掴まれて引きずり込まれてしまうのではないか、とありもしない想像をしては頭の奥がむず痒くなる。どうしても、奴隷商人達に捕まった頃を思い出してしまうのが嫌だった。
 ――だが、今目の前にあるのはそれとは全く違う景色だ。入り口でも分かるほど人通りが多くなっているのが見て取れる。夜が深くなればなるほど、日が落ちていくほど住宅から人が溢れるように出てきて、歓声を上げながら走り回っていくのだ。
 この人混みなら嫌でも商人£Bはノーチェに近付くことも許されないだろう。

「……結局何しに行くのか聞いてない……」

 そう呟いてノーチェは終焉の服を小さく摘まんだ。大きく掴もうとしないのはリーリエという「他人」の目がすぐ傍まであるからだろうか――。終焉は小さく眉を顰めると「ノーチェ」と彼の名前を呼ぶ。
 はぐれるからしっかり掴んで、なんて言おうとして――。

「そんなの、雰囲気を楽しみに来たに決まってるじゃない!」

 ――終焉の言葉を遮り、リーリエは胸を張って答えた。ふふん、と背筋をピンと伸ばし、胸元に手を添えて誇らしげな様子だ。ドレスも相まってか女の様子は何よりも際立って相応の色気さえも覚えかけたが、「酒豪」という言葉が似合う普段の振る舞いを見ていれば抱く感情も、印象も変わらない。リーリエはノーチェにとって「変わった人間」というだけだ。
 そうと決まれば行くわよ。そう言ってリーリエは賑わいを増していく街の中に足を踏み入れる。土から変わる石畳を踏み締め、鉄製のアーチを潜り、「食べるわよ〜!」と大きく声を上げる。

 道すがら万が一はぐれたときはどこかを目印に集まろうという話をした。噴水や教会、時計塔などの名所ともいえる場所が挙げられたが、どこも人だかりができやすいという理由で終焉に却下を食らう。街一番の目印を男はいやに毛嫌いしていて、「だったら自由行動は無しだ」とさえ言い出してしまう始末だ。
 それにノーチェは反論も嫌気も差さなかった。そもそも興味のない行事に差す嫌気すらないのだが――リーリエだけは違うのだ。
 女は大ブーイングの後、何とかノーチェを味方にして――と言うよりも最早無断で巻き込まれ――やっとの思いで勝ち取った自由行動はかなりの制限を課せられたものだった。
 無駄遣いしないこと、無駄に飲酒しないこと、辺り構わず絡みにいかないこと、人に迷惑をかけないこと――などなど、当たり前のようなことだらけのものだ。
 そんな当然のことを大人であるリーリエが受け入れないことはないだろう――と思うものの、ノーチェや終焉は知っている。女は酒が好きだということを知っている。暇さえあれば酒を飲み、酔った口で周りの人間に絡みに行くのだから、迷惑になることこの上ないだろう。
 だからこそ女は悔しそうに表情を歪めながら一通り考え込んだ後、精一杯絞り出した「……仕方ない!」の言葉を泣く泣く紡いだ。楽しいのに酒が飲めないことがリーリエにとって相当辛いのだろう――、僅かに肩を落としながら歩く様は見ていられなかった。

 それでもリーリエは瞬く間に気を持ち直し、美味しいものがあると言って足早に街へと駆けていった。その様子は落ち込んでいたとは思えないほど、子供のようにはしゃぎ回るように見える。一体何が楽しいのか彼には到底理解することができないのだが、街に入れば何かが変わるのだろう。
 「……行かねえの」そう言って立ち止まり続ける終焉の服を引いてノーチェは小さく呟く。空の向こうはすっかり日も落ちて紫と橙が入り交じるような薄気味悪い色をしている。暗くなるのが本番なんだろ、なんて気を紛らせるように言えば、終焉は「そうだな」とゆっくり足を踏み出した。

「…………万が一はぐれたときは、結局……」

 大きくなる雑音に足音が掻き消される中、決まらなかった事項に対してノーチェは訊くと、「ああ」と前を見据えたまま終焉は思い付くように言う。

「まあ……皆殺しは最終手段として…………そうだな……私が探しに行こうか」

 惜しむこともなければ隠すこともなく、皆殺しという言葉を言い放った終焉はノーチェの顔を見ることもないまま祭りへと興じる。点々と灯る街灯など意味も成さないほど街の中は賑わいが溢れていて、思わず彼は目を瞑った。様々な香りが鼻を擽る中、笑い声が四方八方から聞こえてくるのは聞き間違いではないだろう。
 ちらりと目を向けてみれば大人達が子供達同様に和気藹々としながら食事を楽しんでいる。中でも不思議に思えるのは、綿のようなふわふわとした見た目のものを一心に食べ進めている子供の姿だろうか。最近は綿すらも食べられるのだと思い、茫然とそれを見ながらノーチェは「なあ」と小さく呟く。

「はぐれたらさっきのとこでいいだろ……あそこなら多分平気だと思うし……」

 こういう日にあんまり足を引っ張りたくない。
 何気なく洩らした言葉に終焉がピタリと動きを止めたのがよく分かった。迷惑云々のことを考えられているのだと気が付くと、ノーチェは咄嗟に「あ、えと、違う……」なんて言って頭の中を整理する。
 ただほんの少しでも楽しんでもらえればと思うのだ。街の中に漂う香りは中心部へ向かえば向かうほど、食事のそれがよく届く。一つ一つが何かは分からないが、屋敷で嫌というほど味わってきた甘い香りは彼の鼻を擽った。
 終焉の様子を見るに、男は当然祭りの類いなど楽しんだことがないだろう。街に入ってからぴりぴりと肌を焼くような威圧感が掴む服から伝わってきている気がしてならない。折角の賑わいだ、周りの雰囲気に身を任せて何か甘いものでも堪能してほしいと思ったのだ。
 常に家事をこなす見事な男だ。それくらいの暇もあっていいものだろう――そう思って呟いたことなのだと彼は言った。

「別にそんなこと――」
「最近」

 そんなこと気にしなくてもいいと終焉が言いかけたときだった。ノーチェは終焉の言葉を遮り、男の目を見ながら「寝てんだろ」と小さく口を洩らす。アンタ、最近よく寝てるだろ。無理してんじゃねえの、なんて言って終焉の言葉を待った。
 男は僅かに驚くように目を見開いたような気がしたが、一度目線を落とすと徐にノーチェへと向き直る。彼の服を掴んでいた手に自分の手を添えて、「大丈夫だ」と言った。そのときの周囲の静けさといえば何とも言い表せばいいのだろうか――街は異様に賑わっている筈なのに、雪が降る冬の夜のように辺りは一面静寂に包まれたような気がして、思わず息を止める。
 心地が悪いわけではない。寧ろやけに心地のいい時間だった。安心して眠りに就けるような、心臓の音が大きく聞こえる現象だ。
 有り得ない感覚にノーチェは咄嗟に唇を微かに動かして「えっ」と声を洩らすと、一瞬にして耳障りな騒がしさが波のように押し寄せる。ガヤガヤと人の話す声と、子供達のはしゃぐ声、何かを焼き続けるような音が戻ってきて驚きを隠せなかった。
 呆然と立ち尽くすノーチェに終焉は一度瞬きを落とすと、「だがまあ……」と言って彼の手を引き、人気を避けるように路地へと足を踏み入れた。遠くなる賑わいを背に、どこに行くのかと思い顔を上げた先にあるのは住宅に囲まれてできた小さな場所だ。
 ベンチがひとつと木が一本、石畳は敷かれておらず、踏み締められて固くなった土と若葉が、外から来る灯りと街灯で僅かに照らされている。まるで外の世界から切り離されたような静けさにノーチェはぼうっと木を見上げていると、終焉が小さく溜め息を吐いた。

「…………少し休んでもいいか…………思うように動かん」

 ノーチェの手を離しながらぽつりと呟いた終焉は、木の傍らにあるベンチに腰掛けるとゆっくりと力を抜いていく。人酔いでもしているのだろうか――腕を目元に当てて空を仰ぐように体を背凭れに預けた。
 肩で息をしているのが見て分かるノーチェは終焉に近寄りながら「体調悪いの」と軽く訊ねる。しかし、何を言おうとも男の答えはたったひとつ――

「…………気にしなくていい」

 ――という言葉だけだった。
 祭りの賑わいはノーチェでさえ平常を保てる自信がない。縦横無尽に人が動き回り、色が、光がちらちらと視界の端でひたすらに踊るのだ。入り口で別れたリーリエは臆する様子もなかったが、この手の賑わいにはなれているのだろうか。
 終焉の肩でする呼吸が次第にゆったりと深く、眠るようなものになるのを横目にノーチェはそれを見る。
 騒ぎの中でちらほらと見える赤色の丸い何かが点々と並んでいる。光の下で見ている所為か、艶々とした光沢が目に見えて美しく、半透明の何かに覆われているようだ。それを咀嚼する子供達の顔を見る限り、不味いものではないのだろう。
 首元に指先を当てて、ノーチェは小さく終焉の服を引く。

「…………ん」

 すると、男はぴくりと手指を動かしたかと思うと、「何……」と小さく言葉を洩らす。

「…………あれなに」

 眠ってしまっていたのだろうか。そう思いながら彼はそれを指差すと、終焉はゆっくりと姿勢を戻してそれを見る。

「……りんご飴……」
「…………りんご飴」

 ぼんやりと答えた終焉の言葉を繰り返して小さく瞬きをする。リンゴは終焉が以前作ってくれたアップルパイに使用されたものだろう。それに飴をコーティングして売るという、ノーチェには馴染みのないものだ。
 彼は何気なく「甘い?」なんて訊くと、終焉は間髪入れず「甘い」と答えた。そしてゆっくりと背凭れに体を預けてふぅ、と息を吐く。体調は良さそうには見えないが、甘いもののことなら知らないことはないのでは、思えるほどの答え方。相変わらずだな、なんて思いながらノーチェはただ終焉の服を引く。
 たったそれだけの動作で何を言いたいのか、男は分かっているように思えた。

「……食べたいのか…………」

 小さく小さく呟かれたその言葉がどこか大きく聞こえて、ノーチェの指先が小さな反応を示した。
 正確に言えば口にするのはノーチェではなく、終焉だ。
 甘い香りが漂っているというのにまるでそれへの執着を見せない終焉の代わりに足となり、男の元へ甘いものを届けるという簡単な仕事。当の本人から求められたわけでもなければ、褒められたいがためにやることでもないが――世話になっている分何かしらの恩を返さなければならないと思ったこと。
 与えられているものの一割も返せる自信はないが、やらないよりはまだいいだろう。
 その旨を伝えることはなく、ノーチェは「ん」と返事をすると、終焉がゆっくりと体を起こした。どうやらついていこうと思っているのだろう。――それをノーチェは押し留めるために両手を肩に添えて、ぐっとベンチに押さえ込む。起きたての終焉はそれに対する抵抗もなく、起こしかけた体が再び背凭れに寄り掛かるのを感じて目を丸くした。

「…………?」

 驚くような視線がノーチェの肌に刺さる。

「……目の前だし一人で平気」
「けど……」
「…………アンタ、俺を人間として扱う割に……俺のやりたいこと、やらせてくんねえのな」

 当たり障りないように理由もなく呟いただけの言葉が、終焉の胸を針で刺すように突き刺さる。出してはいけない筈の感情がつい表に出ようとするのを抑えて、「私は……」と言葉を紡ごうとした。私はただ、貴方が心配なのだ、と言おうとして――静かに噤む。自分にそんなことを言える資格はないのだと思ったのだろう。
 大きく息を吸い、深い溜め息のように行った呼吸の後、目を閉じる。「……そうか」小さな声で呟かれた言葉は妙に悲しげで、ノーチェはじっと見つめた後、「……冗談」と言った。

「…………ん?」
「アンタは俺のやりたいこと、やらせてくれる方だと思う……」

 気怠そうな終焉を少しでも気楽にさせるために紡がれた言葉は特別良心的とは言えなかったが、ノーチェの気遣いがやけに嬉しかった男は軽く微笑んで「焦るだろう」と呟いた。どうやら人混みの中で張り詰めていた神経が軽く緩んだようで、ベンチの上でゆっくりと力を抜く。
 黒いコートのポケットから何かを取り出したことに気が付いたノーチェは、差し出されたそれを手中に収める。開いた手の先にある金や銀、銅に輝く円形の鉱物――所謂金だということを理解するのに時間は要らなかった。奴隷にされてからは持ったこともない大切なものに思わず体を強張らせると、終焉は「買っておいで」と父親のような声色で言った。
 ただしすぐ戻ってくるんだぞ――彼の現状を把握する終焉は、手に入れたなら早々に戻ってこいと続ける。勿論ノーチェ自身もそれは十分に理解しているつもりで――更に言えば食べるのは自分ではないので――、早々に戻る予定だった。
 分かってる。
 ノーチェはその一言を置き去りに終焉が残るベンチを後にする。土から石畳へ、薄暗い場所から人工的な光が輝く眩しい街中へ。静寂から賑わいに変わるそれは別の空間へと迷い込んだような気持ちに陥って、辺りを警戒するような目を配らせる。
 思わず首元を隠すように襟を握り、彼はりんご飴があるというその店へ向かった。甘い香りと艶が近くで見ればよりいっそう見られるほど、不思議な見た目をしているものだ。空気に触れないように袋で包まれたそれを咀嚼する人間は笑っていて、口の周りに飴をつけながらはしゃぎ回っている。

「いらっしゃい。いくつ?」

 ノーチェを目の前ににっと笑った中年の男は問いかけた。半袖と思われる服を肩まで捲り上げて、ところどころ汗が滲んでいる。普段終焉の涼しげな表情を見ている分、これが普通なのだと思うのに時間がかかったが――「…………ひとつ」とノーチェが言えば「おう」と言う。
 以前にも何気なく思ったことではあるが、この街の住人はやけにお人好しが多いようだ。ぶつかっただけで病院に行くだとか、求めただけでこんなにも嬉しそうに笑う。ノーチェが奴隷だと分かれば手のひらを返すように態度も変えるのだろうか。
 何気なくノーチェがぼんやりとそれを待っていると、不意に店主が商品を差し出してくる。いくらかもろくに把握していないノーチェは、終焉に渡されたものをそのまま手渡して、差し出されたそれを受け取る――。

「兄ちゃん、奴隷か?」
「――!」

 小さく紡がれた言葉にノーチェは思わず肩を竦めた。何を思ってそれを口にしたのかは分からないが、店主が首にある鉄製の首輪を見て確信を得たのは言うまでもないだろう。人の機嫌を窺い続けてきた彼には男の目が何かを探るようにこちらを見てくるのがよく分かる。
 この街もまた商人≠ニ同じように奴隷には普通の生き方などさせないつもりだろうか。
 ――何か悪さをしたわけではない。払うものは払って受け取ろうとしたまでだ。自分に悪意が向けられたのなら、耐えるまでだろう。
 受け取ったりんご飴を軽く握り、じっとその目を見返す。「奴隷が買っちゃ駄目なのか」と警戒しながら問いかけると、店主は首を横に振って「兄ちゃんが悪いんじゃねえんだよ」と言った。

「俺達が許せないのはあくまで奴隷商人だからな。あいつらはその気になればこの街の人間達にも手を出すだろうよ」

 ああいう奴らはさっさと消えればいい。
 店主の敵意はノーチェに向けられたものではなかった。その分、商人≠ノ向ける目が鋭さを増していることにしっかり気付くことができた。何があろうとも住人はこの街が好きなのだと思わせるような熱意が肌にひしひしと伝わるような感覚に陥る。
 徐に「……この街が好きなんだな」なんて独り言を洩らすと、店主は表情を一変させてにっと笑った。

「ところでお前さん、奴隷の割には随分と身なりだとか見た目が綺麗だな? いいご主人に買われたのか?」

 ――ふと店主の好奇心から訊かれたことに、彼は確かな違和感を覚えた。

 それはひと月前の話――ノーチェが終焉に攫われる春の月のことだ。
 彼は人の目から憚れるようにコートをかぶせられていたが、人の悲鳴がいくつも上がったことや影の落ち方、足元の明るさでそれが真昼のことだとそれとなく理解していた。荷物を片手に抱えて軽々と飛び回る終焉の後に、いくつもの破片や倒壊の音が聞こえたことから、その規模は随分と大きかったように思っていたが――彼の推測は外れたのだろうか。
 記憶に誤りがあるのも無理はないだろう。勿論人間の記憶力などたかが知れているものだが――飛び回られた後、目を回したノーチェは途中で意識を失ってしまった。その後に何が起こったのかは把握できていなかったのだ。
 それでも奴隷が一人攫われたことは大きく知られても可笑しくない筈だ。何せ、この街には商人≠ェいる。声を大にして、隅から隅までノーチェを取り戻すために探し回っていても可笑しくない筈なのだ。
 無論、そんなことが行われていたらノーチェの詳細も知る住人がいる筈で――

「………………」

 ――ノーチェはゆっくりと瞬きをして考えることをやめた。自分が何をどうこう考えたところで何の意味もないと思ったからだ。
 それでもただひとつ、訂正を入れるために唇を開く。

「……あの人は主人じゃない」
「……ほお……?」

 店主がやけに興味深そうに呟きを洩らした。
 奴隷を手中に収める主人は普通の暮らしはおろか、彼らを人間扱いはしないのだろう。衣食住は約束されず、痛め付けられ、命運が尽きるまでただの道具のように思っているだけなのだ。
 ――だからノーチェのいう主人ではない存在という存在が不思議に思えたのだろう。「変わった人間も居るんだな」そう言われてノーチェは僅かに目線を逸らす。彼自身特に気にも留めていないのだが、ただ迷うことがあるのだ。

 死んでは生き返る生き物を果たして人間と言ってもいいのだろうか――と。

 だが、迷うだけ時間の無駄だと彼は首を横に振って、「単なる物好き」なんて呟く。攫ったのも、身の回りの世話をするのも、「愛している」だなんて言うのも、ただ物好きなだけなのだと言い聞かせて。
 そんなノーチェの答えに店主は大きく笑うと、差し出していたりんご飴を離し――また新たにひとつ、りんご飴をノーチェに差し出す。
 思いがけない行動に彼は目を丸くして、歓声が大きくなる賑わいの中で戸惑いの声を溢すと、目の前の男は言った。

「その変わった物好きに渡しとけ! あんた達に聖母マリアの加護を」

 自分で食べるんじゃないのに。
 押し付けがましい好意をノーチェは恐る恐る受け取って、小さく頭を下げる。そのまま店を後にすると、並んでいた子供達が一斉に「ひとつ下さい」と言って、店主が気前よく答えた。
 歓声を背にノーチェは手元にあるふたつのりんご飴を凝視する。それは見れば見るほど赤く艶がキラキラと辺りの光を反射しているように見えて、既に調理されたものだけをよく見かける彼は「最近の食べ物は綺麗なもんだな」なんて思いながら足を踏み出す。
 そこで――

「うわ……っ!?」

 ――ノーチェは押し寄せる人の波に呑み込まれていったのだった。

◇◆◇

 遡ること数十分ほど前。街の中心部で笑うリーリエは金の髪を肩に流し、勢いよくジョッキをテーブルに叩き付ける。ダァンッとテーブルにだけ起こる振動が地鳴りにも思えるほどの衝撃、賑わいに負けず劣らずの周りの歓声に赤い瞳がキラリと輝く。

「次ぃ!」

 口許を拭いながら笑う女の周りには沢山の野次馬と、我こそはと戦いを挑む酒豪達。テーブルを挟んだその向こうに居るのはジョッキを片手に頭を垂れる数人の男だ。周りの歓声は猛る雄々しい声と、呆れる女達の声が入り交じる。「体を壊しても知らないよ」――そんな言葉に返すのはいつだって「男の戦いに口を出すな」だった。
 この出来事が終焉にバレたらどうなることやら――。頬を赤く染めたリーリエはこの先にある怒りだけを静かに恐れる。自由行動を勝ち取るために与えられたのはいくつもの制限だ。そのうちのひとつ――いや、殆どを無視して迎えた今ほど、恐ろしいものはないだろう。
 へらへらと笑いながら合流し直した後、頬を赤らめ酒の匂いをまとわせ、袋を肩にかけた様子を見て冷徹な表情を向けるに違いない。男の性格上、怒りなどの感情を露わにすることは殆どないが、冷めきった鋭い眼光は体を針で刺すほどの威圧感だけを与えてくるのだ。
 目は口ほどにものを言うとはよく言ったものだ――リーリエはジョッキの持ち手をぐっと握り直し「まあいっか!」と前を見据える。頭を垂れた男はふらふらと覚束無い足取りで野次馬の中へと戻ると、続いてリーリエに挑む者が席に着いた。すると――驚きの声が上がる。

「あら、これはこれは有名人の登場?」
「そんなことはないと思うがね」

 辺りが口々に「モーゼ様だ!」と言い出しては野次馬と化していない住人達は「何だ何だ」とそれに加わる。――夜とはいえ暑さが残る夏の月だ。野次馬に囲まれて熱気が増す空間に、更なる熱が舞い込んでくる。こうなってしまっては収拾がつかない、と女は口の端をくっと上げた。
 目の前に現れたのは薄紫の毛髪を持つ男。薄ら笑いを浮かべながらジョッキも持たず、テーブルに肘を突いてただほくそ笑む。僅かに弧を描く瞳は紫と白の色を湛えていて――、それを目にしたリーリエは露わになっている片目で嫌なものを見るように眉を顰めた。

「そう……あんたが『薔薇の男』ね? こうして対面するのは初めてかしら」

 ジョッキの持ち手を握る手に、爪が食い込むほどに力が込められる。

「おや、その口振りだと私のことを誰かから聞いたようだね。――こちらこそ初めまして、『原罪の魔女』さん」

 対する男はただ胡散臭い笑みを浮かべたままリーリエと向かい合うのだから、端から見れば一触即発の状況に見えただろう。歓声だったざわめきは次第に不安の色を帯びていて、ところどころから不安げな声が聞こえてくる。
 それを耳にしたリーリエは「酔いが醒めてくるからどうにかして頂戴よ」と言って漸くジョッキを離した。

「……そうだね。私もゆっくりと話をしてみたい」

 そう言って男はゆっくりと立ち上がると、ざわめきを増してくる野次馬に向かって「お開きにしてくれるかい」と柔らかな口調で言った。

「お祭り騒ぎはいいものだけど、あまり気を抜くと隙を突かれてしまうからね。ここらでやめて、店で飲み直してくるといいよ。野外は恐ろしい」

 祭りが盛んな月は犯罪が増してしまう。そのことを知っているのか、野次馬達はぞろぞろとその場を去り始めていったが、そのうちの数人が押し退けて男の目の前へと躍り出る。彼らは不安げに「どうしてですか」と唇を開いた。

「どうして黒い服を全身に着ているのですか」

 何も知らない者が聞けば不思議に思う言葉だっただろう。黒の服などどこにでもあるのだから、好んで着る人間がいても可笑しくはない。
 ――だが、この街ではそれが異質だった、特に「黒で全身を隠す」ことは。
 男が着ているのは殆どが黒に彩られた裾の長い服だ。神父のような見た目ではあるが、教会≠フそれとは全く色合いとデザインが異なる神父服。奇しくもそれは男によく似合っていて、欠点の付け所もないほどだった。
 男は――もとい、モーゼはゆっくりと口許に人差し指を当てると、たった一言

「ただの『警告』さ」

 ――とだけ言って彼らに別れを告げる。さあ、行った行った、とにこやかに笑って軽く手を振るのだ。
 そんな彼らはモーゼに対して一礼すると、頼りなさげな足取りで屋台へと向かった。よく見ればそれは菓子だけではなく、フランクフルトやラムネなど、街並みにそぐわないような――そうでもないような――ものがところ狭しと並んでいる。稀に自分の手料理を振る舞う住人も居て、誰もが楽しそうに笑っていた。
 この街はいいところだね、そう言ってモーゼは肘を突いたままのリーリエに視線を投げる。女は酔いが醒めたと言わんばかりにふて腐れた表情のまま「そうね」と興味なさげに呟いた。空のジョッキの中には酒など残っている筈もなく、リーリエは手を突いてゆっくりと椅子から立ち上がる。

「……全身を覆う黒い服は終焉の者≠フ象徴――つまり、忌み嫌われた色。そんなものを『警告』と称して着るあんたが私に何の用?」

 リーリエの服は夜に紛れる闇の色。本来ならば近寄りがたい存在と思われる状況で声をかけてきたのは、街を支配するという教会≠フ人間だ。彼らは悪と認めた存在に関するものはひとつの慈悲さえも見せないというが――リーリエが着ているのは黒いドレスだ。それを意に介せず声をかけてきたということは、それなりの理由があるのだろう。
 女はテーブルに手を突きながらモーゼの出方を窺うように問いかけた。どこか怒りを含んだ視線を送っているというのに、目の前の男は霞のように薄っぺらな笑みを浮かべたままだ。
 ――なんて気味の悪い。
 熱気がこもる暑さがあるというのにも拘わらず、リーリエが感じたのは体の芯から冷えるような寒さだ。出方を窺っているというのに、探られているのはまるでこちら側なのではないかと錯覚してしまうほど。モーゼはただ立っているだけなのに誰一人としてそれに近寄ろうとはしなかった。
 腹の奥に何を抱えているのかも分からないこの男を野放しにしておくことこそ危険なのではないか――。
 興が冷めれば楽しい筈の祭りはただの騒音へと姿を変える。そんな煩わしさを覚えているリーリエにモーゼはひとつ、「欲しいものがあるんだけど」と呟く。

「貴女自身もまた、私の欲しいものに該当しているみたいだね」

 ――ぞくり、と背筋を走る悪寒が酷く不快だった。
 女は何かを言った試しはない。そもそも、この男との対面すらも初めてのことだ。唯一知っていることといえば薔薇の花ということくらいで、背丈も、見た目も、声も――何も知らなかった。
 なのに男はまるで初めから全てを知っていたと言わんばかりの態度で言葉を紡いだのだ。モーゼが欲しがっているものはとある命=\―それを、リーリエは持っていると言うのだが、女は否定も肯定もせずにただ思う。

 この男は一体何をどこまで知っているのか、と。

「……で? 私を殺すとでも?」

 ふぅ、と息を整え、リーリエはその目を見る。
 感情を込めていないというよりは、欲しいもの以外にまるで興味も持てないような瞳。――いや、生き物を「生き物」として見ていないような瞳だ。モーゼにとってこの街も、住人も、リーリエも机の上に置き去りにされた文具のようなもの。捨てようと思えばいつでも捨てられるような存在なのだろう。
 虫けらを見るような目が不愉快だという言葉を呑み込み、リーリエはモーゼの言葉を待つと、男は首を横に振って「いいや」と言う。

「確かに似ているけれど、貴女のそれは他者に移すことはできないだろう? 殺したところで何の価値もない」

 男の口調は終始穏やかで、当たり障りのないようなものに思えた。――しかし、それが更にリーリエの神経を逆撫でするのだ。

「……じゃあもうひとついいかしら?」

 リーリエは胸中に憤りを抱えながらなるべく穏やかな口調を保つようにゆっくりと唇を開いた。モーゼは「どうぞ」と微笑み、女の言葉を待つ。

「……あんた、罪の意識はないの?」

 ポツリと呟かれた言葉は確信を含んだようなもので、モーゼは瞬きを数回繰り返した後「誤魔化しようもないね」と言う。その表情に焦りなど微塵もなく、ただ子供の悪戯を「仕方ない」と許す父親のように穏やかだった。

「――全ては愛ゆえに、だよ」
「本当に……最っ低ね……!」

 その会話を最後にモーゼは興味を無くしたのか――呆気なくリーリエに「それじゃあまた」なんて言って背を向ける。女の瞳に映るその後ろ姿は父親でも、ましてや神父でもない。ただの罪人がいるだけだった。
 ほんの少し悔しそうに唇を噛み締める。チクリと刺す痛みと共に、口紅とは違った赤色がじわりと滲んだ。全てを知っているわけではないが、何も知らないわけでもない自分には何もできなかったのだと、リーリエが知る事実が刃のように胸に刺さる――。

 ――そうして、不意に瞬きを落とした。

 通常、目に見えないものが他の誰かに見えてしまうように、リーリエには僅かに先を読むことに長けている。それがリーリエの昂る気持ちを落ち着かせるように突然見えてしまって、――賑わいを背に静かに唇を動かした。

「……何でそっちに居るのよ、少年は……」


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