賑わいに潜む嵐の前触れ


 じわじわと外からの騒音が激しくなる夏の日の朝、彼――ノーチェは汗を拭いながらふぅ、と一息吐いて肩の力を抜く。
 季節が過ぎるというのは早いもので、つい最近まで梅雨だと思って降る雨に鬱陶しさを覚えていると、瞬く間に夏の日差しが屋敷を照らしてきた。若草も春の頃に比べれば緑の色が濃くなり、虫の数は増したようで日中の騒がしさは底知れない。花の彩りは前の季節に比べて減ったような気がするが――太陽に向かって花を咲かせる向日葵は、力強く根付いている印象を受ける。
 ノーチェは草木に囲まれた中庭を、ホースを使い、何とか水遣りを終えたところだ。終焉が手入れをしているらしい中庭は広く、隅々に水を与えるには多少の疲労感さえも覚えてしまう。しかし、水遣りを終えた後の達成感は、屋敷に来る前には感じなかったもののひとつだ。
 彼は水道の蛇口を捻り、水を止めると、手際よくホースをまとめあげる。草木や花に水滴がついて太陽の光を反射させるところを見ると、何とも言えない感動のようなものが胸の奥から迫り来るような気がした。達成感の余韻に浸る時間はいくらでも残されていて、ノーチェは人知れず心中で自分を褒めてやって、ホースを元の位置へ戻した。
 捲り上げていた袖を下ろし、ノーチェは屋敷の扉を開ける。

 夜に寝付けなくなって以来、終焉はそれとなくノーチェに物事を頼むようになった。ほんの些細なことではあるが、掃除や洗濯、街に出掛けたときの荷物持ちなどの手伝いだ。初めこそ終焉はノーチェに手伝わせたくないと言っていたが、ある程度彼を身近なところに置いておけると気が付けば抵抗は失ったようだ。買い出しに行く度に彼の身を案じていた終焉だからこそ、傍らに置いておける身の回りの手伝いというのがいいものだと思えたのだ。
 ――とは言え、男はノーチェに頼むのにはやはり抵抗を覚えるようで、時折顔を顰めながら顔を見合わせるときは滑稽なものだ。一度渋るように顔を顰めては唇を尖らせ、「よろしく頼む」なんて言う光景を、彼は何度見たものだろうか。その度にノーチェは「ああ、嫌なんだろうな」なんて思いながら引き受けて、自分がやけに大事にされる理由をぼんやりと考えるのだ。
 ――本当に「愛しているから」という理由だけでこの関係が成り立っているのかと。時折見せる意味がありそうな表情が、何かを隠しているのではないかと。

 扉を静かに閉めれば、部屋の奥から終焉が「お疲れ」なんて言いながら顔を覗かせる。エプロンを着て調理器具を持っていたところを見ると、料理をしていたのだろう。「貴方の要望通りのものを作っているから」そう言う様は、家政婦か――ノーチェに嫁いだ人間のようだった。
 夏に入ると終焉は早々にノーチェに中庭の水遣りを頼むようになった。どうにも男は日差しに弱いようで、やたらと忌々しげに空を睨んでは長い髪をコートの中へ隠し、フードを目深にかぶるのだ。
 何故光を毛嫌いするのか、それも確かに気になるのだが――彼にはそれ以上に気になる点がひとつある。それは勿論、夏に入ったというのに何故黒いコートを着続けるのか、ということだ。
 ノーチェでさえも日に日に熱を増していく夏にはそれとなく暑さを感じているほどだ。朝の水遣りも初めは涼しいと思えていたが、終わる頃になればじわりと体に汗が染み出るほど。そのときの不快感と言えば言い表しようもなく、朝が始まったばかりだというのに、体を洗い流したい衝動に駆られるのだ。
 というのにも拘わらず、終焉は相も変わらずコートを着込み、寒そうにポケットに手を入れて歩く。かぶる頻度の少なかったフードを殆ど毎日のようにかぶせて、まるで自ら太陽から逃げているようで――陰に隠れてしまう姿は人間に怯える動物を彷彿とさせた。
 彼は「朝から甘いものはやめてほしい」と終焉に伝えると、終焉は渋々といった様子でそれを了承し、一般家庭で見掛けるようなものをノーチェに提供するようになった。――無論、奴隷であるノーチェからすればただの残飯処理や食事が与えられないなど当然のようだったので、文句も言える筈がないのだが――終焉があくまで対等に接したがるのだ。頭を捻り、ふと思い付いたことを言えば、男はそれを受け入れるようになった。
 未だ履き慣れない靴を脱ぎ、ノーチェは終焉が居るであろうキッチンの方へと向かう。微かに楽しみになりつつある食事の時間だ。今日は何が食べられるのだろう、と思い、リビングの扉を開けると、終焉が「タイミングがいいな」と言う。

「朝食と言えば限られているからな。ありきたりなものですまないが、食べられるくらいの量だとは思うぞ」

 そう言って男が用意した朝食は食パンに目玉焼きという、ごく普通のものだ。その普通が彼にとっては最早異常で、思わずじっと男の顔を見つめていると、終焉は瞬きをしてから「どうした」と呟く。

「貴方の為に用意したのだから、食べてもらわないと悲しくて泣いてしまいそうだ」
「…………アンタ、そんな冗談真顔で言うなよ」

 訝しげな目を向けてノーチェはポツリと呟く。そのまま止まっていた足を踏み出し、用意された料理の前へと赴く。俯きながら歩く視界に映るのは赤黒い絨毯と、造りのいい豪華な家具だ。それに加え、ノーチェに合わせて靴を履かなくなった終焉の足がちらりと映る。
 気にしないで履いてもいいと彼は言ったが、終焉はその言葉に聞く耳も持たず、己の意志を重視するように平然と日常を過ごしている。それでも全身が白黒に彩られていることに変わりはないのだが、このままでいいと言うのなら問題はないのだろう。
 椅子を引きノーチェは料理を目の前にすると、未だ目覚めたとは言えない食欲が小さく腹を鳴らす。くぅ、と鳴って、漸く「空腹だったのか」と感じてしまう現状に終焉は納得がいっていないようだが――、それでも食事を摂ることには満足しているようだ。
 徐に彼がパンへと手を伸ばすと、終焉がエプロンを取りながらノーチェの目の前へと座る。その手には当たり前かのように用意されたケーキが一切れ、皿に盛られていた。

「………………」

 朝から何てものを食べるんだ――そう言いたげにノーチェはじっとそれを見つめている。
 終焉が用意したのは甘栗色よりも深く、茶色というよりは色素の薄いチョコレートケーキだ。チョコレートを彷彿とさせる甘いクリームと、刻みチョコが印象的な女受けのよさを裏付ける。黒に近いような焦げ茶色のスポンジの合間にもクリームがふんだんに使われていて、いくらノーチェでもそれが朝食に向かないことは一目瞭然だった。
 ノーチェは手を止めてその光景をじっとりとまとわりつくような目で見ていると、終焉がケーキをやけに嬉しそうに頬張ったような気がした。
 ――気がした、というのは言うまでもない。表情の変化がろくに見受けられないのだ。それでも変わったように思えたのは、口許が緩んだかのように見えたのだろう。
 ――不意に終焉がノーチェの目に気が付き、「ん」と小さく口を洩らす。すると、何を思ったのか――男は銀色のフォークで一口サイズのケーキを掬い、ノーチェに差し出す。「食うか?」と悪意のない、純粋な言葉が彼の耳に届いた。
 ノーチェは咄嗟に首を左右に振り、自分に用意された朝食を少しずつ食んでいく。トースターで程好い焼き目がついた食パンは硬く、それでいて香ばしい。時折脇に添えられたウインナーやレタスを頬張って、用意されたお手製のスムージーを飲むと、ポツリと終焉が語る。

「やはり異端か」

 男は気が付いているようだった。自分の朝食が他の人間とは全く違うということに。自分の主食が本来のものとは異なっているということに。

 その事実にノーチェでさえ驚きを覚えたものだった。普段食事風景を見掛けない彼は、終焉は見ない間に食事を済ませているのだと思っていたのだ。それは確かに間違いではなかったのだが――、明らかに異なっていたのはその食事内容なのだ。
 ある日ノーチェが渋々夕食を口にしていると、終焉がキッチンから出て来て「一緒に食べてもいいか?」と言ってきた。勿論、ノーチェ自身に拒否権などないと思い、頷いて了承の意を示したのだが、「すまんな」と言って食事と思える何かを手にしてきたとき、彼は目を疑った。
 ショートケーキだ。白い生クリームとイチゴが可愛らしいショートケーキが終焉の持つ皿に盛られているのだ。
 終焉はそれを手にしたままノーチェの目の前に座り、何食わぬ顔で平然とそのケーキに手をつける。柔らかなスポンジをフォークが突き刺して掬い上げるように先端へと載せる。それをそのまま口の中へと運んで平然と食べ進める姿はまさに食事そのものだった。
 それが夕食に似つかわしくないものだと奴隷であるノーチェにもよく分かった。御茶会やおやつとして食べるものを、男は夕食として食べているのだと思う頃にはすっかり食事をする手が止まっていて、それに気が付いた終焉が「はあ」と溜め息を吐く。怒られるのかと思い、ノーチェは肩を震わせると――「だから知られたくなかったんだ」と男は呟いた。

「私は甘いもの以外の味がよく分からないんだ」

 男曰く甘味以外のものは何の味もしないのだという。色や見た目はノーチェと同じように見えていながら、味覚という味覚が十分に理解できていないようだ。
 実際「甘味以外の味が分からない」と言われたノーチェは、終焉がやたらと甘いものを口にしている光景を思い出す。キャンディから始まり、手軽に作れるクッキーやパンケーキ、お手製だと思われるケーキまで日頃から口にしているのだ。時折掃除をしながらキャンディを堪能している光景さえも見るほどだ。
 だからこそ男は甘いもので食事を堪能しているのだろう。そして、それが可笑しいのだと自覚していて、敢えてノーチェに見せてこなかったのだ。
 落胆するように終焉は額に手を添えて深い溜め息を吐いた。「すぐ目の前から消える」そう言って黙々と食べ進める様を見るのは、胸の奥の蟠りを針でつつかれているような気分に陥り、思わず「別に気にしない」と口を溢す。
 ――本当は多少の引け目を感じていた。
 しかし、ノーチェの言葉に「本当か?」と様子を窺うように上目で見る姿を見ると、どうにも否定をする気が起きなくなるのだ。彼は小さく頷いてやると、僅かに終焉が喜んだような気がした。

 ――以来男は時折ノーチェと食事を共にすることがあるが、彼の中の違和感をそれなりに分かっているのだろう。ノーチェが多少の焦りを感じている間に、終焉はケーキをペロリと平らげてしまって、広いテーブルの上に肘を突く。「異端であることは当の昔から知っている」――そう呟く表情に喜怒哀楽の全ては含まれていなかった。
 妙な雰囲気になった朝食で、不意に「美味いか」と問い掛ける終焉にノーチェは控えめに頷く。これも男がろくな味覚をしていないのだと知ると、執拗に味の良し悪しを訊いてくる理由が分かる。終焉はどこまでもノーチェを気にかけていて、どこまでも彼に甘いのだ。
 そして、同時に味への自信の無さが窺えてくる。
 味が分からないといいながら的確な味付けをする終焉に、ノーチェは小さく首を傾げてみせる。何せこの味付けは終焉が何度も料理と味見を繰り返していなければつかないような、ある一定の――固定された味付けなのだ。レシピ通りに作っていると言われればそれまでであるが、特筆して塩加減が多かったり、甘味が際立ったり――個人特有の好みのようなものが現れることがある。終焉に限ってしょっぱすぎるということはないが、どうにも手慣れている様子の料理作りに「味付けへの自信がない」なんて言われているようで、違和感が胸を掠める。
 男は嘘を吐いているのだろうか。席を立ち皿を片しに行く終焉の背中をノーチェはぼんやりと眺める。長い、長い黒髪がゆらゆらと上機嫌に揺れて、扉の向こうへ消えていった。口の中に残る目玉焼き特有の黄身の後味は拭えることがなく、仄かに塩や胡椒などの風味が味わえる。
 果たしてこれが、味付けに自信のない男が作る料理だと言えるのだろうか――。

「…………まあ、いいか……」

 ぼんやりと考えていても仕方のないことを、ノーチェは朝食と共に咀嚼し、喉の奥へと押し流す。胸の奥にある違和感をも腹の中に押し込めて、扉の向こうで皿を片しているであろう終焉の元へと向かうべく、彼は席を立った。年季の入った椅子なのか、ほんの少し軋む音を立てて足元から離れる。
 ノーチェはキッチンへと向かうと、終焉が丁度皿を洗っているところだった。

「………………」

 彼は無言で皿を差し出すと、気が付いた終焉は「ああ、有難う」と言ってその皿を受け取る。そのまま泡が立つスポンジで丁寧に洗って、水で綺麗に注ぐのだ。その後に傍らに立つノーチェが乾いた布巾を手に、濡れた皿を受け取り、落とさないように丁寧に拭いていく。
 そんな一連の流れに終焉は慣れないのだろう――、じっとノーチェを見つめて行く末を見守った。

「…………アンタ、怒ったりしないよな……」

 ふと皿を拭くノーチェが小さく呟いた。
 拭き終わった皿を終焉に手渡して、男は戸棚に片しながら「怒る必要がないからな」と呟く。食器がぶつかり合う音が一瞬だけ響いて、思わずヒヤリとする胸を押さえながら戸棚が閉まるのを見守る。ノーチェは「そういうことじゃない」と言って、振り向く終焉の目を見つめ返す。

「……俺が無言で差し出しても、何も思わねぇの……?」

 小さく首を傾げ、ノーチェは問い掛けた。不安ではなく純粋な興味のようなものが、薄暗い瞳に仄かに宿っているように見える。ぼんやりとした、夜空に半月が浮かぶ瞳に終焉は一度瞬きをすると、ゆっくりと唇を開いていく。

「……気配がなければ話が別だがな。だがまあ、何もしなくていいと言うのに手伝ってくれる人間に、怒りを露わにする必要があるのか?」
「…………そう」

 気配がなければそれ相応のものがあるんだな。
 納得するように小さく頷いてノーチェは終焉の考えを呑み込む。確かに終焉はノーチェに強要した試しが――全てがないとは言い切れないが――全くないのだ。そんな終焉の思いを振り切って半ば無理矢理手伝いをしているノーチェの何を怒るべきなのだろうか――。

「…………なあ」

 ふと思い付いたことをノーチェはぼんやりと口にする。

「アンタは俺を殺してくれないの……」

 それに、終焉はただ感情を露わにすることなく、ノーチェの頭に手を乗せた。

「怒るぞ」

 何の感情もないただの言葉だ。しかし、その抑揚のなさがそれを冗談だと思わせるものになってはくれない。――いや、ノーチェを特別視している終焉のことだ。それ相応の怒りを彼にぶつけ、以前彼に教えた「感情の吐露による死」を迎えるのだろう。
 話は終わりか、と終焉の手が惜し気もなくノーチェの頭を離れた。感情を抱いているように見えないその横顔は雪が降る冬のように静かで、ぼんやりと扉の方を見つめる瞳は随分と冷めきっている。本当は静かに怒っているのではないか、と思うほど男の所作があまりにも静かで――

「さあ、暇潰しに外にでも行こうか」

 ――気を紛らすために呟かれたような言葉は淡々としていた。

◇◆◇

 夏を迎えて終焉が用意したのは生地の薄い風通しのいい服だった。男曰く半袖を用意しようと思ったものの、ノーチェの体にある傷痕を露出させたくない、という意向で相変わらずの長袖だった。未だに取れる兆しのない首輪の造りは他のものよりも遥かに特殊なのだろう――風呂に入ったとしても蒸れず、暑さを感じることがなかった。寧ろ冷たささえも覚えるほどだ。
 特殊な金属か魔法でも施されているのだろうか。ノーチェは首輪に指を当てながら、「服とかに活かしたら絶対に売れるのに」と心で呟く。夏の、特に昼間の日差しは暑く、いくら薄手の服を着ていても汗が体にじんわりと染み出るのだから、首輪に施された特殊なものを衣服に活用すれば人気が出るだろう。
 それすらも視野に入れない人間というものは、あくまで自分が優越感を抱いていたいがために奴隷を売り、買ってしまうのだろうか――。

「ノーチェ、こちらを向いて」

 首輪に手を宛がいながら茫然としているノーチェに低く抑揚のない声がひとつ。上から降り注ぎ、何かと彼が顔を見上げると、終焉の冷たい手のひらが彼の頬を包む。ぬるりとしていて、何とも言えない感覚が顔中に広がった。
 ノーチェは咄嗟に首を左右に振って終焉の手から逃れると、「吃驚した」と小さく呟いて顔に塗られたであろう何かを手の甲で拭う。すると、終焉が「取れるぞ」と言って懐から何かを取り出した。

「…………それは?」
「日焼け止め。リーリエの奴がしつこいのでな」

 終焉の手のひらに載せられる白いクリームが仄かに香りを放つ。それを手に馴染ませ、頬に塗る様子は日焼けを気にするただの人間だ。――しかし、終焉もまた面倒だと思っているようで、どこか鬱陶しそうに顔に塗る様は、化粧を嫌う男のようにも見える。
 リーリエの名を聞いたノーチェは、「ああ……」と納得するように溜め息がちに呟いた。

 森に住むと言われる魔女、リーリエは時折終焉の屋敷へ訪れてはお節介を焼く女だ。ブロンドの髪に赤いルビーのような瞳が特徴的の、黒いマーメイドドレスがよく似合う「魔女」の異名に相応しい女。それが夏の初めに屋敷へと押し掛け、化粧水のような見た目の容器をぐいぐいと終焉やノーチェに押し付ける。

『いい!? 日焼けは美容の大敵よ! あんた達は特に肌が綺麗ですっごく腹が立つんだから、シミや日焼けなんてしたら許さないからね!?』

 二人が言葉を挟む余地もなく、用事を済ませたリーリエは「またね〜!」と手を振ってすぐに家路に就いた。腹が立つというのに褒めてケアをしろと言ってきた女にノーチェは理解が及ばず、思わず終焉に「あの人何なの」と問い掛ければ、男はどこか遠くを見るような目でリーリエが去った方を見つめ――

『……何なんだろうな』

 ――と呟いた。

 押しが強く厄介な女ではあると思うノーチェは渋々日焼け止めを塗ると、終焉の姿をまじまじと見つめる。――やはり終焉はお決まりの格好をしていた。
 黒地に白のラインが目立つ裾の長いコート。フードにこさえた灰色のファーが柔らかく、風が吹く度に先がふわふわと揺れる。直接ボタンなどで留めるわけでもなく、ベストを見せるように開かれたコートにはささやかに逆十字の留め具が施されている。
 終焉は「やはり私らしくなくては」と言うように満足げに頷いて、フードを頭にかぶせる。更には両の手をコートのポケットに入れ始めてしまった。――勿論、その手は黒い手袋に覆われているのだ。
 一言で言い表すならば、ただただ暑かった。
 終焉を見つめるノーチェは自分の体にじわりと汗が滲むのを感じて、思わず眉を顰める。首輪が冷たくて心地がいいとさえ思えるほどの熱を、太陽ではなく、終焉の姿を見て感じてしまった。当の本人は特に暑がる様子もなく、仰々しく空を見上げては煌々と照り付ける太陽を睨む。口癖のように「忌々しい」なんて呟いて、ふ、と顔を逸らした。
 自慢の長い黒髪は衣服の中に隠れているのだろう。男はフードをこれでもかと言うほど目深にかぶって、深く溜め息を吐く。

「…………見てて暑い……」

 耐えきれずノーチェが誰もが思いそうなことを言うと、終焉は瞬きをして「そうか?」なんて言った。

「むぅ……私は人間ではないから、人間とは体温感覚が違うんだろうな……」

 終焉は口許に手を添えて考え込む仕草を取る。私には丁度いいんだが、なんて言って悩む姿はまさに人間そのもの。人間ではないという箇所を強いて言うなら血液の色と、命≠ニ体温程度だろう。それ以上の何かが男にはあるのかも分からないが、ノーチェは遂に追求することをやめて「あんま気にしないで」と小さく呟いた。
 ろくでもないほどに容赦のない太陽に生温い風。今ではその生温さも涼しいとさえ思えるほど彼は汗に濡れていて、思わず手を扇ぐ。少しの風の当たる量が増えるわけではないが、最早この行動は衝動的なものだろう。
 「暑い……」思わず呟いた言葉が終焉の耳に届いたようで、彼の背後から名前を呼ぶ低い声が聞こえる。ノーチェはそれに徐に振り返ってやると、終焉の体が――正確にはコートに隠れた体が――頬にぶつかった。
 突然の熱に足元がふらついたのかと思い、彼は咄嗟に謝ろうとしたが、自分がふらついていないのだと知るのに然程時間はかからなかった。徐にノーチェの後頭部に添えられた手がぐっと終焉の体に顔を押し付ける。その手の感触に素手独特の冷たさは感じられず、布の生地が後頭部をざらりと撫でるような感覚がした。
 ふと男が手袋をする理由が相手に冷たさを与えないためなのではないか、とノーチェは思う。人間にとって終焉の素肌はまるで死人で、相手に驚きを与えかねない。そういった衝撃を与えないよう工夫を凝らしたものが、手袋やコートなのだろうか。
 ノーチェは体に顔を押し当てられたことに対し、ぼんやりと終焉を見上げて顔を見る。フードをかぶる終焉はノーチェをじっと見下ろしていて、その顔に汗のひとつも流れていないのが特徴的だった。
 ああ、なんて涼しげな顔をするんだろう――そう思ったのも束の間。ノーチェは自分の体感温度に多少の変化が現れたことに気が付き、徐に自分の手のひらを見つめる。何の変哲もないただの手のひらではあるが、ノーチェ自身は確かに感じているのだ。――つい先程まで感じていた暑さが拭われたことに。

「…………どうだ?」

 じっとノーチェを見下ろしていた終焉がふと彼に問い掛けた。男はノーチェが涼しさを感じている原因を知っているのだ。「多少変わると思うのだが」と呟かれた言葉はまるで自分の所為で感覚が変わっていると言いたげだった。
 確かにノーチェは涼しくなった。風をまとったかのような、触れられている頭から地面に面している足先まで、妙な心地よさを覚えているのだ。夏に吹く風など非にならないそれは、春や秋に感じる心地よさと同じで、ほう、と彼は吐息を吐く。

「何か……涼しい」

 徐にノーチェがそう答えると、男は一度目を閉じて「そうか」とだけ言った。

「街の方は人で溢れているからな、更に暑さを感じると思うぞ。夏は接触をお勧めする」

 そう言って終焉は自分から触れていた手を離して主導権をノーチェに譲る。このまま押し付けるわけにはいかないだろう、なんて言ってノーチェを体から離すと、彼の動きを待った。その瞬間にノーチェの体をまとう涼しさが消え失せ、湿気をまとう熱気が体の内側から這いずるように出てくるのだ。
 ノーチェは思わず頬を伝う汗を袖で拭い、ちらりと男を見上げる。終焉は相変わらずノーチェがどんな動きを取るのか観察しているようで、ノーチェをただ黙って見下ろしているだけだった。

「…………屋敷じゃ、あんまり暑くなかったのに」

 そう呟いてノーチェは終焉の手を取る。控えめながらも小指だけを手のひらに包むと、そこから涼しげな風が吹くような感覚に陥った。終焉はどこか退屈そうな目でその手を見つめていて、納得がいかないようにむぅ、と呟く。手を握ってくれても構わないのに、なんていう言葉が聞こえてきそうで、ノーチェは思わず目を逸らした。
 屋敷から離れるように終焉が歩き出すと彼もまた倣うように歩を進める。ノーチェの疑問に答えるよう、街へと歩きながら男がポツリと語った。

「屋敷は私の『領域』だから」
「……領域?」
「…………そう。謂わば縄張りのようなものだ」

 だから屋敷が涼しいという理由の裏付けにはならなかった。
 それ以来終焉は口を開くことをやめて、ノーチェに歩幅を合わせながら歩いていく。結局何故涼しくなるのかは分からないが、これもまた魔法の類いなのだろうと決めつけたノーチェは疑問を持つことをやめた。
 どこを歩いても若草だった緑が深く色付き、夏の息吹を感じさせる景色をぼんやりと眺めながら歩く。時折ポツポツと立つ街灯に虫がついては鳴き喚いていて、耳を押さえたくなる衝動に駆られるのだ。ちらりと何気なく終焉を見やると、何に対しても動じることがなくただ前を見据えているのがフード越しでもよく分かる。
 普段から無表情でいる人物は何においても動じることがないのだろう。ポーカーフェイスというやつだろうか――それくらいできていれば奴隷商人に不意を突かれなかったのかと、ノーチェはぼんやりと考えて小さく息を洩らした。終焉の気も知らないで小指を握る手に僅かに力を込める。――すると、男が何かを思い出したように「そうだ」と声を発した。

「言い忘れていたが、夏と秋は犯罪率が格段に上がるのだ。街に入ったときは何がなんでも私から離れないでくれ」

 振り返ってノーチェの顔を見た終焉の表情は真剣そのものだった。伏し目がちの目は相変わらずの無表情を湛えているが、よく見れば眉根が僅かに寄せられ、眉間に微かなシワを刻む。声色は普段と変わらないようでほんの少し低く思えたのは気のせいだろうか。
 一般的に言う犯罪率が上がる時期というのは春麗らかな日和と、夜の時間が延びる冬の時期ではないだろうか――。ノーチェは小さく首を傾げ、「何でその時期なんだ……?」と終焉に問い掛ける。活気のいいルフランならば犯罪など、周りの人間達の手で食い止められそうなものだろう。いくつか路地裏があるようだが、そこにさえ入り込ませなければ犯罪は抑制できるのではないだろうか。
 そんな彼の意見に男は「もっともだが」と呟くが、徐にノーチェの手を掴み、空いている片手を彼の頬に添えて、「理屈など関係ないのだ」と言う。
 手袋越しだというのに、先程よりも遥かに終焉の冷たさが頬に伝うような感覚に陥った。

「この街は光明≠ニ呼ばれているが、同時に晦明≠ナもあるのだ。そして、夏や秋は祭り事がやたらと多く用意されている。この街は教会≠ノ支配されていると言っただろう……? 言いたいことが分かるか?」

 ルフランは教会≠ノ支配されている――それは、街の安全を教会≠ェ保証しているということだ。警察のようなものよりも遥かに優秀で、力や存在も認められた、人々から信頼を得ているひとつの組織。それが犯罪を抑制していると男は言う。
 勿論、ノーチェもその事実は僅かながらも理解していることだった。春の暦、花達が背筋を伸ばして凛と咲く季節――忘れもしない一瞬の出来事を彼は未だ昨日のように思い出せる。あのときに助けに入ったのは確かに教会≠フ人間らしいが、そこまで重要な機関だとは思えないのだ。それでも大きな街を支配できるというのだから、何かしらの秘密でも抱えているのだろう。
 一瞬の拉致を許してしまったことを男は悔いているのだろうか、それともまた別の理由があるのだろうか――街に入る際は片時も離れることのない終焉が、強く「離れるな」とノーチェに言い聞かせる。頬に手を添えるだけでなく、額を合わせてくるのだ。

「……あのときのように消えられては困るのだ」
「…………アンタは俺に、殺されたいから……?」

 長い睫毛が印象的だと思いながら、ノーチェは何気なくポツリと呟いてみせた。しかし、終焉はすぐにそれを否定して――というよりは曖昧に濁して――「愛しているから」と恥ずかしげもなく理由を述べる。

「愛しているから、手離したくないんだ」

 アンタ本当に恥ずかしい奴だな、なんてノーチェが顔を引きながら突き付けようとした。――と同時に終焉が唇を開き「だから連れ去られてしまったら、」と続きを紡ぐ。彼は邪魔してはいけないと咄嗟に唇を噤み――どきりと跳ねる心臓が気持ち悪いと心中で悪態を洩らした。

「――ノーチェ以外の人間を皆殺しにしてしまうよ」

 背筋を走るゾクリとした悪寒は明らかに終焉に対する警戒の意志を持っていた。瞼の裏に隠れていた男の瞳は獣のように鋭いだけではなく、嘘偽りのない固い意志を瞳の奥に宿している。フードをかぶっているのが裏目に出たのだろうか――、影が差すその顔付きは、ノーチェが一度見た終焉が蘇生した後の表情と酷似しているようだった。
 涼しく汗のかいていなかった筈の体に、じわりと染みるのは熱によるものではないのだろう。走った後のような心臓はひたすらに鼓動を繰り返していて、ノーチェは自分の頭に血が上らない感覚を覚える。足元がふらつくような――首の周りをいつ切れても可笑しくない縄で絞められ、吊り上げられた挙げ句、ぽっかりと空いた穴に落とされてしまうような奇妙な感覚。血の気を失い、呼吸が僅かに乱れるのが彼自身もよく分かっていた。
 自分に向けられたものではない筈なのに、本能が「逃げろ」と警報を鳴らす。――しかし、終焉の威圧感は意志を持つ動物の行動を縛るようで、一向に動かない足に彼は意気地無しだと自虐を胸に募らせる。
 ――そう、何ひとつ勇気が出ないから、遠い昔に思えるあの頃のように体が動かないから、彼は今奴隷としての人生を迎えてしまっているのだ。

「…………冗談だ」

 不意に終焉がノーチェの体を引き寄せて頭に手を置いた。柔らかくなった毛髪を撫でるように、上から下へ。子供をあやすような手付きで撫でて、低く心地のいい声色で「大丈夫」と言う。以前と何ら変わらない声はただ大丈夫とだけ言って、ノーチェの呼吸を落ち着かせるには十分だった。
 先程の雰囲気のどこが冗談だと言えるのだろうか。
 ノーチェは頭を撫でて落ち着かせてくる終焉に「もう平気」と呟くと、男が惜し気もなくゆっくりと離れる。顔色が戻ることはなかったのか、「悪かったな」なんて言ってそっぽを向いてしまう様子は、嫌われることを覚悟しているかのようなものだった。
 ――だが、どうだろうか。威圧感を与えられるノーチェは確かに終焉が恐ろしいとは思うことがあるのだが、不思議と嫌いだとは思えないのだ。まるでずっと前から知っている馴染み深い存在に抱くような、友達や親友、または上司と部下――恋人未満に抱くような感情に最も近いものを彼は覚えている。
 脳ではなく、体が終焉に対する見知らぬ感情を憶えているのだ。
 その違和感は教会≠ノ属しているらしいヴェルダリアや、森に住むリーリエが与えてくる違和感に近かった。もしかしたら、物心つく前の――もしくは物心ついたばかりの――小さい頃に終焉と出会っていたのかもしれない。
 ノーチェは違和感を胸に押し留めて離れたばかりの終焉の手を小さく握った。それに男が驚くようにノーチェの顔を見てくるのだから、可笑しな話だ。

「……買い物……行くんだろ……」

 眩しいし早く行こう。そう終焉に伝えるノーチェには男に対する嫌悪の欠片も見当たらず、太陽の眩しさを防ぐ術もないから早く帰りたいという意志が伝わる。それに終焉は目を逸らして、「……そうだな」と小さく言葉を洩らした。

◇◆◇

 街の中は案の定活気と、人々と太陽の熱気に溢れていた。石畳を反射する太陽光が足元をじりじりと焼き付けて、まるで鉄板の上で焼かれているかのような気分に陥る。流石の住人も暑さには弱いのか、打ち水をする姿が他方から見受けられて、涼しくなるどころかじっとりとまとわりつく湿気が増すような気がしてならなかった。
 相変わらず人通りは多いのだが、春の頃に比べると大人は落ち着きを持っているようで、子供達は意気揚々と遊びに熱中する。石畳を駆け回り、躓いては転び、泣いては手当てを受けてまたはしゃぎ回る――そんな光景ばかりだ。灼熱の太陽ははしゃぎ回る子供達を煌々と照らし続けていて、気が付いた母親が水分補給を進めに行った。
 街の噴水は夏場になると自由に出入りができる期間に入る。流石にコインなどの現金は投げ込まれていないが、子供達は溢れる水に体を沈めたり、両手で掬って水をかけ合った。そのときに吹く風はさぞ心地のいいものとなるだろう。
 相も変わらず市場は展開されているが、所々日傘を差して商品を守る他、店内へ入れる店も春よりは多くなった。――と言うよりは、店内へ入れる店に注目がいくようになった、というべきだろう。特に生物を扱う店は空調が効いた店内が丁度いいのだ。
 その店から出てきた二人は――ノーチェは――荷物を片手に街の流れに逆らった。終焉はやはり慣れた様子で人混みを避けようとするが、寸ででノーチェの存在に気が付いて無理に避けようとしなくなった。代わりにノーチェの手を引いて、人混みが少ない道を選んで進む。人目が少なければ当然の如く犯罪に巻き込まれる危険性は高いのだが――終焉が人にぶつかってもろくに認識されないことから、その危険性は無さそうだと彼は安堵の息を洩らす。
 すると、それをどう捉えたのか、終焉はノーチェに向き直って「休憩しようか?」と問い掛けた。
 ほうっと一息吐いただけのそれが疲れによる溜め息だと勘違いしたのだろう――ノーチェは首を左右に振って「平気」と呟くと、終焉は「そうか」と言って彼の頭に触れる。

「……いや……少し休もう。太陽がもう高く昇っている。体の方は動きが鈍っているぞ」

 少し熱が溜まったな。男はそう言うとひとつの店に顔を出して何かを注文した。窓のように空いただけの小さな建物には人が一人。いくつかの機材を使って巧みにそれを作り上げていく。それが終焉の好物である甘いものだと気が付くのに時間は必要なかった。
 どうぞ、と料金と引き換えに渡されたのはジェラートだ。ワッフルコーンの上に盛り付けられ、小さなプラスチックのスプーンがジェラートに刺さっている。終焉はそれを受け取るとノーチェの方を向いて「どちらがいい?」と訊いた。
 どちらも甘いものであるのには代わりなかった。違うというのは見た目と味だろう。仄かに赤やピンク色がかった方はイチゴで、深くココアのように濃い茶色はチョコレートだろうか――より甘い方はどちらかを考えて、ノーチェはイチゴを指差した。
 終焉は瞬きをひとつ落とすと、ノーチェにイチゴを手渡して近くにある木陰の下にあるベンチを示す。身長よりも大きな背丈の木がさわさわと木の葉を揺らしていて。影が騒ぐように蠢いている。
 その真下にあるベンチに腰掛けて、ノーチェはほう、と息を吐いた。

「む……」

 ノーチェが一息吐く頃には終焉は既にジェラートを口にしていて、その甘味な後味に思わず感嘆の息を洩らしているところだった。よく見ればプラスチックのスプーンを使うことなく直に頬張っていて、余程耐えられなかったのだろうと推測される。唇の回りについたジェラートを指で拭って舐めては一心不乱にそれに齧りつく。
 ノーチェも負けじと――勝負をしているわけではないが――ジェラートに向き合った。終焉とは違い、プラスチックの小さなスプーンでジェラートを掬い、ちまちまと口へと運ぶ。甘く綻ぶように溶けて消えるそれを舌の上で転がして、飲み込んではまた次へと手を出す。イチゴの酸味が程好く甘さを引き立ててくる上に、暑さが功を奏してか冷たさを求める手が止まらなかった。
 ちまちまと食べ進めること数分、半分を過ぎた辺りで何気なく終焉の方を向くと、ノーチェの方をじっと見つめていた終焉と目が合う。その目は催促するようなものではなく、もっと別の――興味を示している子供のような目だった。ノーチェは不思議と終焉の考えていることが手に取るように分かってしまって、恐る恐る「……いる?」と食べかけのジェラートを差し出す。
 彼は終焉の手にジェラートが一欠片も残っていないことに気が付いていた。その上で見つめている先にあるものは、終焉が買い与えてくれたジェラートである。男はこのデザートをいたく気に入ってしまったのだろう――与えた筈のイチゴの味が気になって仕方がないのだ。
 いるかと訊かれた終焉は思考を放棄するように「え……?」と呟いて、瞬きを数回繰り返した。赤と金の瞳が丸く不思議そうにノーチェを見ている。彼もまた何故男が茫然としているのかが分からず、じっと見つめ返すだけだった。
 時間が経ち、じわじわと熱に溶かされるジェラートがワッフルコーンから垂れていく。それをきっかけに終焉は咄嗟に立ち上がり、先程の店へと足早に歩いていった。

「…………食べかけが嫌だったのか……?…………あ、食べかけか」

 先程と同じようなやり取りを繰り返す終焉を眺め、ノーチェは男が咄嗟に逃げるようにその場から離れた理由が分かった気がした。
 愛していると言う割には行動のひとつひとつを意識してしまっているようで、直接的である一定以上の接触を終焉は避けているのだ。手を触れることは構わない、自分から何かを与えるのは構わないと思う反面、ノーチェが手をつけたものを与えられるというのには酷く慣れていない様子だ。
 何とも言えないほどに初な反応に、ノーチェは「あの人でも狼狽えたりするんだな」なんて他人事のように呟いて、溶けかけているジェラートを食べ進める。先程のシャリシャリとしたシャーベット状の食感は殆ど消えてしまって、最早飲み物の一種のようだ。
 ほんの少しの不満を胸に抱くと、終焉がイチゴのジェラートを片手にノーチェの元へ戻ってきた。「食い終わったら帰ろう」なんて言う様子に先程の慌てぶりは見られず、首を縦に振ってノーチェはワッフルコーンを口にする。上部はジェラートによってふやけてしまっていたが、下部は焼き立てのクッキーのような食感を残していた。
 夏場の冷たいデザートは誰でも好きになってしまうのだろう。
 ――案外美味しかった。
 そう心中で微かに呟いてみると、隣では追加のジェラートをペロリと平らげてしまった終焉が黒い手袋をはめ直していた。流石の男も手袋をはめたままジェラートを食べるなんてことはしなかったが、見ていて暑苦しいと思えるので手袋を外してもらいたいと思っているのは彼だけの秘密になるだろう。
 がさりと音を立てて荷物を肩に提げるノーチェはゆっくりとベンチから立ち上がった。十分休んだと言いたげに背筋を伸ばし、「ん……」と小さく声を上げる。そのまま思い切り脱力して、再びほう、と息を吐いた。

「……重くないか?」

 徐にノーチェの顔を覗き込んで問い掛けてくる終焉は、無表情の下にノーチェの身を案ずるような感情を隠している。
 それに彼は一度間を置いて終焉を眺め――、「馬鹿にしてる……?」と小さく呟いた。

「別に重くない……というか…………多分、アンタも抱えられる……」

 ノーチェはあくまで自分が常人とは異なった力を持っていることを終焉に伝えてみせた。力仕事なら彼の得意分野だとも言えるだろう。「抱えてみようか?」なんて首を傾げるノーチェに、終焉は咄嗟に「いい、いらない」なんて断ってそっぽを向く。
 ああ、また照れているんだな、と分かってからノーチェはくっと男の袖を引いて、「帰ろ」と言った。
 荷物を肩に提げたまま終焉に近寄れば頬を撫でるように涼しさが増す。例えるなら夏の心地のいい夜の風だろうか。ほんの少し熱によって昂った鼓動を落ち着かせるよう、涼しさは心地よくノーチェの体を包んでいった。
 行く先は勿論街の外れにある屋敷だ。彼らは会話もなくただ黙々と歩いていて、流れていく人の波を見送る。――道中、ノーチェがふと街灯に目をやると、ひとつの貼り紙が目に飛び込んできた。それは夏の夜空を描いていくつもの花が咲き誇る一枚のポスターで、彼は歩く終焉の手を引いて「なぁ」と語りかける。

「……犯罪が増えるって、あれの所為……?」

 終焉がノーチェに目を配らせたことを確認して、彼はポスターに指を差す。

「ああ……どうにも教会≠ェ主催のようでな……今までもそうだったんだが、こればかりは夜間に行われるだろう? 規模も大きいし、いかないんだよ。悪さを企む者に目が」

 だから気を付けてくれ。男はそう告げると再び前を向いて歩く。コツコツと石畳を踏み鳴らす音が四方八方から聞こえてくるが、街の中央部に行けばそんなものは聞き取れないのだろう。終焉の声色は真剣で、ノーチェは本当に自分に何かあれば目の前の男が何かをしでかすのではないか、と小さく震える。

 祭りを匂わせる小さな風が、ゆったりと白い毛髪を撫でていった。


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