青き幻想、棺は薔薇に埋もれ


 ――永遠の命≠ニいうものの存在を信じるだろうか。それは文字通り、決して「死ぬ」ことのない命だ。何の負荷ももなく、ただ対象に死ぬことのない永遠を与えるだけのもの。寿命という概念を忘れさせ、仮に生死に関わるような大怪我を負ってしまったとしても、たちどころに――何事もなかったかのように体が回復するのだ。
 勿論痛みはある。痛覚というものを失うわけではないので、極力怪我を負う事態は避けるべきだ。その他五感は確かに存在していて、一般人ともまるで変わらない生活を送ることは可能である。
 だが、その命の存在は証明することが難しく、手当たり次第に何かを壊して回らないと発見できないのだ。永遠の命≠ェ宿るのは動物だけとは限らず、草木や無機物もまた宿る可能性がある。命が宿る条件など理解されているわけもなく、宿る原因さえも解明されていない。
 永遠の命≠ェ宿る対象はたった一人、もしくはひとつ。見極める方法は「殺す」か「壊す」ことで、翌日――または直後に跡形もなく、傷ひとつも残らなければそれが永遠の命≠持っているということになる。
 ――この話はルフラン中に広まっているわけではない。街を支配するという教会≠ナさえもその情報を知るのはほんの一握りで、話を信じているのは一割にも満たないほど。結局永遠の命≠ヘただのお伽噺として僅かに知られているのだ。

 ステンドグラスの向こう、酷く淀んだ雲が教会の真上をゆっくりと通過していく。太陽が差し込めば綺麗な筈の礼拝堂はまるで幽霊屋敷のように不気味さを湛え、マリア像は無機質に両手を合わせている。
 そのマリア像に隠されているあるものをいじると、隅にある本棚が重そうにずずず、と音を立てながら横へ移動した。
 現れたのはひとつの扉で、そこに手をかけ押し開くと暗闇の中に階段が顔を覗かせている。それをひとつひとつ丁寧に下り進め、床に足を着くと辺り一面は暗闇で密閉されたかのような圧迫感を覚える。
 そこから逃れるよう歩を進めた先にあるのは再び閉ざされた扉で、先程と同じように手をかけ押し開くと、この世のものとは思えない光景が眼前に広がった。
 例えるなら一面を多い尽くす透き通る青。ありのままに言えば透明や紫など寒冷色をその身に抱えた氷の世界が広がっている。仄かな灯火を下から当てたような青や紫、水色の氷は見れば見るほど幻想的で、白昼夢でも見ているような感覚に陥る。
 氷は結晶のように生えているだけではなく、床や壁、天井にまで生え渡り妖しげな煌めきを放っている。当然空気は肌を刺すような鋭いもので、長時間そこに居ては凍傷も免れないだろう。
 その中を悠然と、「相変わらずだな」と小さな呟きを洩らしながら進んでいった。時折氷柱のように天井から下がる氷が頬に当たり、思わず体を仰け反らせる。それでも諦めることなく燃えるような赤い髪を靡かせながら歩くと――、漸くそれに巡り会えた。

「よお、モーゼさん。なかなかこれは……イカれてんじゃねえの」

 先程の氷とはうって変わって足元に広がるのは赤――部屋を多い尽くすほどの赤だ。氷の道を歩いてきたヴェルダリアは眼前に広まる燃えるような赤い光景に口許を引きつらせ、半ば睨むようにそれを見やる。
 ヴェルダリアの見つめる先に居るのは勿論モーゼだ。モーゼは赤に埋もれた椅子に腰掛けながら本を片手に「やあ、遅かったね」と声をかける。黒い表紙の本を見せるように振って「少し確かめたいことがあってね」と笑った男の目線の先には、棺が転がっている。

「……まあ、ヒントくらいのもんなら教えてやってもいいけどよぉ……何だ、これ、バラか?」

 ヴェルダリアは足元に転がる赤を爪先でいじった。すると、くしゃりと音を立ててバラだと思えるその赤は脆く崩れていく。足先に微かに伝わったのは生花を踏み締める柔らかなものではなく、氷のような何かを踏み締めた感覚に酷似していた。
 バラの花が凍りついているのだ。それも数百、数千の数が隙間なく一斉に。霜が降りるほどの冷たい空間に投げ込まれた所為だろうか――それは朽ちることなく、美しい造形を保ったまま氷付けにされている。
 常軌を逸脱した幻想空間にヴェルダリアは軽く引いた。
 モーゼ曰くこの花は毎日一本丁寧に棺へと捧げているそうだ。花祭りの春や特別な日には百の赤いバラを捧げ、数時間絶え間なく愛を囁く。時間が来れば棺に別れの挨拶を告げ、表向きの日常へと戻る――その日課のひとつなのだという。
 欠かされることは一度もないようで、床に敷き埋まったバラがそれを確かに物語っている。恐らく棺へ近づけば近づくほどバラは生花であった頃の柔らかさなど忘れてしまい、剥製のような硬さを持っているに違いない。
 その集大成をヴェルダリアは気味の悪いものを見るような目付きで眺め、モーゼとの距離を取った。モーゼもまた自分の行動の意味を知られたいと思っているわけではないようで、「分かり合えなくていいよ」と柔い笑みを浮かべる。そんなことより話をしようか、と切り出す男の瞳には仄暗い闇が宿る。

「ヴェルダリアは永遠の命≠フ存在を信じているかい?」

 それは朽ちることのないただひとつの命。信じているものは少ないが、それが本当に実在しているのか確かめた者もまた少ない。
 モーゼもまたその中の一人だった。正確に言えば半信半疑。あってくれたらいいなあ、という程度で、心から信じているわけではない。どのようなものに宿り、どのように機能するのか――何を基準に宿るのか、それすらも解明されていないのだ。信じようにも信じるための切っ掛けがどこにもない。
 そんなモーゼがヴェルダリアに永遠の命≠フ存在を訊いた。自分はろくに信じていないが、自分自身のことをよく思っていないヴェルダリアが一体どう思っているのかが気になったのだ。
 勿論彼は答えることはしなかった。その代わりに「アンタはどう思ってんだぁ?」と挑発するように呟く。謂わば腹の探り合い――モーゼはそれに乗って、「半信半疑といったところさ」と正直に述べる。

「だって、ねえ? 確かめようがないじゃないか。間違えて殺してしまえば殺人になってしまうからねぇ」

 黒い本で口許を隠し、目は弧を描く。その様子を見て笑っているのだと彼は悟る。その姿はまるで人を殺めることに罪悪感など抱いていないという様子で、「流石イカれ野郎だな」とヴェルダリアは肩を竦めてみせる。
 確かめる方法は単純、「殺す」ことで全てが分かるのだ。
 殺した後、蘇生にどの程度の時間がかかるかは判明されていない。ただ殺した後に生き返るという話があるだけで、信憑性など皆無に等しい。命を持つものは死ぬまで自覚することなく、ただ普通の人間と同じように暮らしているのだ。
 ――だが、そんな話を何故モーゼは半分信じているのだろうか。
 その理由も簡単――モーゼが持つ黒い古書に秘密があった。

「今まで見つけた本の数は軽く三十を越える。その中で、この本が最も『現在(いま)』に近いような気がしてね、読み進めていたよ」

 モーゼは携えた本を開き、パラパラとページを捲る。黒い表紙を持つ本の中身も黒く、白い字で書かれたそれは見慣れない言語だった。その本を読み進めるのに一体どれほどの時間を費やしたのか定かではないが――ヴェルダリアは確かに頭が上がらなくなるほどに呆れさえも覚えた。
 男の永遠の命≠ノ対する渇望は最早人間の範疇を越えている。行動にすれば昼夜問わず寝食さえも忘れて古書の解読に専念し、命を捧げなければならないと言われれば他人を殺めることも容赦しないだろう。自分の体はおろか、他人の犠牲も省みないほど、モーゼは半信半疑ながらも永遠の命≠欲している。
 その原因はモーゼの傍らにあるバラに埋もれた棺にあった。
 思えば気が付くべきだった、モーゼは小さく口を溢す。黒い本の中身を軽く撫で見つめる様はまるで父親のよう。一人娘を愛でるかのような様子で男はその色を注視する。

「実はね、私は終焉の者≠この目で直に見たことはないんだよ」

 突拍子もない話にヴェルダリアは興味なさげに「へぇ」と呟く。見たことがないという割にモーゼが終焉の者≠認識しているのは、その手に収まる黒い本を読んだことにあるのだろう。ただでさえそれに対する言い伝えは仄かに街に浸透していて、最早知らない人間など居ないほど。
 そんなモーゼが理由もなく話を切り出す筈もなく――「お前達は凄いね」と小さく褒め始める。

「私はあれが恐ろしい。恐ろしい――巨大な化け物に思える。それも直で見なくても、気配で何となくそう思えるほどに」

 「そんなものにお前はよく剣を振るえるね」――そう呟いたモーゼに、ヴェルダリアは漸く興味を示し始めた。
 恐らくモーゼは無意識のうちに黒衣の男がまさに終焉の者≠セと知っている。実際のところ終焉の者≠セと名乗ったところを見たことはないのだが、ルフランでは見かけない『黒』に、一直線に殺意を向けるヴェルダリアの姿を見て確信を得ているのだろう。
 この街は黒を好む人間を無意識に終焉の者≠ニ結びつける傾向がある。それに畳み掛けるよう、住人から信頼を得ている教会≠フ人間が敵意を向ければ尚更だ。終焉の者≠フ情報は教会≠ェそれとなく広めた所為だろう――何の力も持たない住人でさえもそれを認識すればあからさまな悪意を向ける。
 その誰も彼もが終焉の者≠しっかりと見ていたのだが、唯一モーゼだけは一度もその姿を目に納めたことがないという。
 しかし、多少の印象は頭の中に叩き込まれていた。

「黒い髪に黒い服装……内容を抜粋したが、まるでこの本と同じだ。年齢は分からないけれど、声を聞く限りでは成人はしているね」

 つい、と本を指の腹で撫でて、モーゼは柔らかく微笑む。永遠の命≠ゥらかけ離れた話題にヴェルダリアは軽く首を傾げ、小さく溜め息を吐いた。何かを期待していたわけではないが、興味を持つほどのことではなかったと落胆が隠せなくなる。
 その様子をモーゼは子供をあやすように「まあまあ」と呟いて、――目の色を変えた。

「分かった分かった、単刀直入に訊くよ。永遠の命≠ヘ存在しているかい?」

 にこりと微笑んでいるが、目が笑っていない。腹の底を探るような面持ちで男はヴェルダリアから目を逸らさずに黙って見つめている。
 それにヴェルダリアは「何で俺に訊くんだよ」と溜め息混じりに呟いた。彼は永遠の命≠ネどにはこれっぽっちの興味がない。誰に与えられていようが、誰が与えていようが、彼はそれを教会≠ノ告げるつもりがない。
 元々彼はモーゼの解読が行き詰まっていると思い、赴いてやったのだ。礼拝堂に隠された奇妙な地下室にまで下り、行き詰まっているであろうモーゼをからかい、然り気無くヒントを与えてやる。地獄の底で(たむろ)する人間達に蜘蛛の糸を垂らしてやるような心持ちでやってきたのだ。
 そもそもの話、ヴェルダリア自身ろくに教会≠好いていない。そんな奴らに直接的な助言を与えてやるなど、彼の自尊心が許さなかった。

「勿論答えなくてもいい。――彼女がどうなってもいいならね」

 その言葉にヴェルダリアはあからさまに顔を歪め、小さく舌打ちをする。弱味を握り、それをちらつかせてくるモーゼには酷く嫌気が差した。モーゼは教会に居ながらにして平然と生き物を殺すことのできる人間だ。それに何かをされるなど、気味が悪くて仕方がない。
 ヴェルダリアはゆっくりと息を吐き、小さく吸い込んだ。氷のように冷えきった空気が喉を通り、肺の中に溜まる。体が中から冷えていくような感覚を味わいながら自分の揺らぐ自尊心を保つ。しなやかに伸びる雑草のようにどこまでも根深く――しつこく、苛立たせるような自尊心はヴェルダリアの象徴。失わないよう、ほんのり口角を上げる。
 大人しく手の中で踊るような存在ではないことを知っていた。モーゼは挑発的に笑いを浮かべるヴェルダリアを見て「そうこなくちゃね」と褒めるように呟く。

「私はね、終焉の者≠ニ同じようにふらりと現れたお前の言葉は、他の誰よりも信憑性があると思っているんだよ」

 燃えるような赤い髪。青い部屋の中でヴェルダリアが呟く言葉に、モーゼは満足げに笑った。

「――俺が本当に殺せてると思ってんのか(・・・・・・・・・・・・・・)?」

◇◆◇

 しなやかに靡く黒い髪は艶やかで、子供のように笑うその様子はどこか懐かしい気持ちになった。
 ノーチェは絶命した筈の終焉の姿に驚きを隠せず目を見開いていると、商人£Bが口々に目の前のものを信じられないと言ったような発言をしていった。「確かに殺した」「どうして生きているんだ」――と用意されたものをそのまま口に出しているかのようだった。
 勿論ノーチェも例外ではない。彼は見たのだ。椅子の上で力なく項垂れ、黒い血を垂れ流している終焉の姿を。胸だけではなくこめかみまで撃たれ、微動だにしなかった。誰がどう見ても存命の希望は持てず、終焉もまた他の人間のように簡単に死んでしまうのだと思い知らされたのだ。
 そんな彼らの目の前に立ち憚る終焉は傷こそはないが、胸元のシャツが黒に染まっている。墨汁を溢してしまったかのような染みは紛れもなく先程つけられたものと一致していて、部屋で見た光景は夢などではないことを物語っている。
 それを裏付けるよう、終焉はポツリと呟いた。

「死ぬのは楽じゃないな。酷く疲れてしまう」

 妖しく笑ったまま、男は死を口にした。死ぬのは疲れる、と常人には俄には信じがたい言葉を放ってみせたのだ。

「何をほざいていやがる!」
「――っ!」

 キリキリと安全装置を下げ、引き金を引いた商人≠フ腕が軽く弾けた。パンッと鼓膜を突き破るかのような鋭い音にノーチェや他の商人≠ヘ反射的に目を閉じてしまう。それは確かに終焉の胸を貫いたが、「それにはもう飽きた」と言わんばかりに男がふう、と首を横に振った。
 恐る恐る目を開いたノーチェは終焉の行動を上目で見つめていた。
 男はトンと軽く胸を叩き、「つまらんな」と小さく口を溢してゆっくりと歩を進める。一歩一歩確実に距離を詰めて歩いてくる間にも終焉は見知らぬ他人のようにただ笑っていて、得体の知れない寒さを覚える。
 肌を刺すような空気は殺気だと誰に教えられることもなく、ノーチェは察した。
 終焉は笑いながら殺気を放っている。――いや、終焉の目線で言うならそれは殺気ではなく、ただの怒りに等しいのだろう。獲物を見つけたときの獣のように目を輝かせているというのに、言葉の端から滲み出るのは身を焦がすような怒り。じりじりと獲物を追い詰めるような行動は人間ではなく、まさに獣そのものだった。
 あくまで敵意は商人£Bに向いている。そのお陰だろう、自分には害はないと思えるその客観視でノーチェは足元の違和感に気がつく。
 ざわざわと揺れ動くのは足元に留まる自分の影。酷く薄淀んだ空の下ではその存在感は薄く、誰もがその変化に気がつかない。波打つように揺れ動く影を見たのはこれが初めてではなく、その原因が終焉にあることを薄々勘づいていた。
 蠢く影が何をするのか様々な予想を立てる。蟻地獄のようにずるずると人間を呑み込んでしまうのか、それとも体に巻き付いて拘束するのか。はたまた先程からやられているように弾丸でも模してみるのか――色々な可能性を考えた。
 彼が考えたものはどれもこれも非現実的で、最早超常現象の類いだと言っても過言ではない。何せ、一口に魔法と呼んでいるものは理由が分からなければ超常現象の域に到達してしまう。例えば水を操ったり、炎を従えたり、風の流れを利用したり、土を造形物に変えたり――様々だ。
 それを彼は少なからず目にする機会が多かったため、影が動くことも特に大きく驚くことはなかった。ただ影を操る魔法なんてものがこの世に存在していたかどうか――という考えに陥ってしまった。炎を従えるのも水を操るのもどれもこれもありきたりなものは一通り見てきたつもりだ。ノーチェの一族もまた通常のそれとは全く異なるものなのだから、驚愕を覚えるほどではない。
 そのつもりであったが――目の前のそれが本物の殺意だと知ったとき、ノーチェの頭は思考を放棄した。

「あ……?」

 泡が吹くように溢れた商人≠フ言葉に乗ったものは赤い液体。音は無かったが勢いがよかった黒い影にノーチェは茫然とする。
 あろうことか蠢いていた影だったものは縛るでもなく、呑み込むでもなく――鋭い刺のように商人£Bの身体中を貫いたのだ。それは一ヶ所に留まらず、足元から脳天に至るまで複数の影が刺さっている。立体的で且つ具現化したそれに真新しい血が伝い、地面をゆっくりと侵食していく。
 商人£Bは多少の意識がある者と即死した者に分かれた。――しかし、どのみちノーチェを除く生き物が全て殺されてしまうことなど手に取るように分かってしまう。緑を赤に染めていく血液は生臭く、胸の奥に蟠りを残すような鉄の香りを解き放つ。
 人の死に疎いわけではないが、目の前で他人が串刺しになるところは見たことがなかった。ノーチェは腹の奥から競り上がる異物感を抑えるようにぐっと口許を押さえ、徐に半歩下がる。終焉はただ笑いながら近付いてきていて、まるで今までの優しさなど垣間見えなかった。
 男は圧倒的な力を手にしていながらも敢えて人を殺めることはしなかったのだ。目の前で崩れ落ちていくそれに、次は自分だろうかと無意識が叫ぶ。次は自分で、漸く死ねるのだと――。

「ノーチェ」

 不意に終焉が彼の名を呼び、ノーチェは微かに肩を震わせる。

「そういえばシャンプーやリンスのボトルが空になってしまった。詰め替えが棚の中に入っているから、詰め替えておいてくれるか?」

 よろしく頼むよ。終焉はそう呟いて柔らかく微笑んだ。それに敵意や殺意の念はこれっぽっちもこもっていない。普段のような口振りに彼は思わず「……ん」と小さく頷いて、足早に屋敷の中へと戻っていく。
 終焉が外に留めておきたくないことノーチェは何となく分かっているつもりだった。屋敷に戻り、逃げるように裸足のまま浴室の方へと駆けていく。自分が素足で外に出ていたと気が付かないまま、洗濯機の傍らにある洗面台――の下の戸棚を開けて、洗髪剤の詰め替えを二つ取り出す。
 浴室にあるボトルは確かに空だった。口を捻って、詰め替えの口を開けて、溢さないようにそれを入れていく。シャンプーは勿論リンスも仄かに甘い香りがして、先程の鉄の匂いなど掻き消されるような気持ちになった。
 リンスはシャンプーよりも固形に近い所為か、詰め替えるのに多少の時間はかかったものの、溢れることはなく事を終える。空になった袋はゴミ袋にでも入れておくのがいいのだろう。
 ノーチェは重くなったボトルを元の場所に置いて、重い足で浴室を出る。手にはゴミを持って、報告をするべきなのかを考える。
 終焉はあの場所からノーチェを追い出したがった。その様子は見られたくないものがあるときの然り気無い言動に最も近く、余計なものに触れないように彼はそそくさと屋敷に戻ったつもりだ。

 ――だからこそ今、男が何をしているのかは知らない。誰がどう見ても絶望的だった彼らがどのような目に遭うのかなんて、知る由もない。ノーチェを匿うように閉ざされた扉の向こう――外ではくつくつと獣が笑い、それを喰らう。待ち望んでいた肉を目の前にした野生のように、ただ血肉を貪った。
 香しい鉄の匂い。癖になる肉の食感――それらを彼は酷く毛嫌いしていたような気がする――。

「…………あ」

 茫然と立ち尽くすノーチェの前に終焉がゆっくりと屋敷の中へ入ってきた。長い髪も黒い服もまるで以前と変わらない。そして、爛々と輝いていたあの獣のような瞳も今は冬のように酷く静まり返っていて、何ら変わりのない――普段の終焉がノーチェを見やる。
 胸元には黒い染みが広がっていた。何度見てもそれは終焉が撃たれた証拠だ。そして彼は終焉の死を目撃している。その所為だろうか――ノーチェは咄嗟に終焉へ言葉を放つ。

「アンタ、あの、怪我とか平気……なのか……?」

 口を突いて出た言葉は蔑む言葉でも怖がる言葉でもなかった。
 それを言い放ったノーチェ自身、自分の発言に多少の驚きを覚えただろう。――だが、それ以上に驚きを見せたのが終焉だった。口を僅かに開き、目を見開いて茫然と立ち尽くす。「……問題ない」そう呟かれるまでにかけた時間は数秒だったが、それが妙に長く感じられるのは人間としての感覚なのだろう。
 ほんの小さな会話を済ませて恐怖という本能よりも安堵を覚えた自分に彼は違和感を覚える。あれだけ敵意を露わにして、更に躊躇いもない殺人を犯していた終焉だ。本来ならば多少の恐怖を覚えても仕方がないというのに、ノーチェは何故か終焉が怪我をしていないことが何よりも重要だった。
 ――それはきっと、終焉が身の回りの世話をしてくれているからだろう。
 ありきたりで一番に思い付いた理由を胸に、ノーチェは「そう」と口を洩らす。あくまで先程のものには触れないように注意を払った上で、だ。ノーチェは自分の立場を分かっているつもりで、それ故に踏み込むような真似はしたくなかった。

「……ノーチェ」

 ポツリと終焉が喉の奥から絞り出すような声を洩らした。それに彼は「ん」と反応を返す。

「……私が恐ろしいか」

 あくまで彼はそれに触れないつもりだった。しかし、敢えて終焉はノーチェの反応を窺ったのだろう。
 見れば男の表情はどこか悲しげで、怒られるのを恐れる子供のような顔をしている。放っておけば俯いて不安げに指を絡め始めるのではないかと思わせるほど。整った眉を微かに下げて、警戒する小動物のような終焉の行動にノーチェは瞬きをする。
 終焉は無表情で威圧的で弱味など一切見せないような存在――謂わば完璧を体現しているかのような人物だった。それはひと月を跨いだだけでも十分伝わるほどのものだ。朝起きれば既に朝食が用意されていて、部屋の掃除は隅々まで行き届いている。風呂に入っている間に夕食が用意され、良質な睡眠を取れるように気持ちが落ち着くような飲み物さえも用意してくれる。
 まるで主夫のような男に彼は小さく首を傾げる。
 先程見かけた表情は確かに知らないものだった。無邪気な子供のように笑って、その顔の裏に敵意を孕んでいたが、自我を失っていなければノーチェに向ける表情も何ひとつ変わらない。恐らくこの後、終焉は洗濯物を取り込んでからノーチェの機嫌を取るようにまた洋菓子を作り始めるのだろう。彼はそれに「要らない」と言ったとしても「駄目だ」と言われて口に突っ込まれるに違いない。
 その後もまた変わらない日常を送るように風呂も用意され、夕食も完璧なものを出されるのだろう。味の良し悪しを訊かれて当然の如く「美味しい」と言って、いやに安心したよな表情を見せるのだ。
 その光景がまるで瞼の裏に焼き付いたかのように鮮明に見え出す。俗に言うセピア色などではなく、これから起こるであろう多色に彩られた未来だ。その上、恐ろしいという感情なら彼は既に身をもって知ってしまっている。終焉が身動きひとつ取れなかった先程のそれに比べれば――答えは既に出ていたのだ。

「……別に」

 特別怖いと思ったことはない。そう言いたげにノーチェはたった一言呟いてみると、終焉は一度瞬きをしてから肩の力を抜くように「そうか」と言う。

「……優しいな、本当に」
「……?」

 吐息を吐くように終焉は小さく言葉を洩らしていた。運良くそれが耳に届いたノーチェは一度考える素振りを見せてから、何気なく首を横に振る。ただ思ったことを言っただけだと言いたげに男の言葉を否定してみたが、依然終焉は「ノーチェは優しい」の一点張りで、引く気配はなかった。
 何を根拠に決めつけたのだろうか。ノーチェ自身はっきりとした理由は分からないのだ。確かに怖くないと思っていたけれど、それが単純に自分の身が可愛いと思ってしまっているからかもしれない。終焉の機嫌を取り、あわよくば自分の望みを叶えてもらうためにわざわざ嘘を吐いたのかもしれない。
 そんな可能性があるというのに、終焉は言葉を撤回しなかった。
 ノーチェは怪訝そうに顔を歪めた後、終焉に何を言っても聞かないと知ると溜め息を吐きながらしぶしぶといった様子で折れる。もう何でもいいと言ってこれから何をしようかと考えていると、ふと終焉の望みを思い出した。
 男はノーチェに「殺してくれ」と言った。あくまで奴隷でしかない彼に、だ。勿論ノーチェはそんなことはできているなら奴隷になっていないと言ってそれを断るが、終焉は「ノーチェにしかできない」と言うのだ。
 傷もなく、出血もない死んだ筈の終焉を一体どう殺せというのだろうか。

「なあ……」

 彼は咄嗟に問いかけようと終焉の顔を見た。すると、終焉は憂うようにぼうっと外を見つめていて、小さく溜め息を吐く。気になって首を傾げると、不意にポツポツと屋根を叩く小さな音が聞こえてきた。それが雨だと理解するのに時間はかからない。――だが、終焉が残念そうに外を見つめる理由は分からなかった。
 何かあるのかと彼はじっと終焉を見つめていると、「ちゃんと話をしようか」とノーチェの顔を見る。

「だが……その前に洗濯をやり直そうか」

 苦笑するように口許だけ笑う終焉に、ノーチェは「ああ……」と察したように頷いた。


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