終わらない命≠ノついて


「永遠の命≠ニいうものを知っているか?」

 洗剤を入れ、水の中で回り始める洗濯物を眺めていると、終焉が静かにノーチェに話し始めた。ノーチェは回る洗濯機を一度だけ横目に見てから終焉の声がした方へ向かうと、案の定終焉が茶菓子を持ちながらノーチェが脱衣室から出てくるのを待っていた。思わずそれに「要らないんだけど」と呟いてみるが、終焉は聞いていないふりをして背を向け始める。雨が屋根を打ち付ける音――それを楽しむために紅茶を嗜もうというのだ。
 前回の御茶会に比べて足りないものは景色であるが、それなりの話をするのに屋敷内の静けさはうってつけで、彼はしぶしぶ了承した。
 今回の紅茶のお供になるのは甘い香りのパウンドケーキだ。プレーンの生地にココアを混ぜて、アーモンドを加えたごく普通のパウンドケーキ。それに然り気無いチョコチップを混ぜているのが終焉のお気に入りのようで、「美味いぞ」というその表情は何かを期待しているようだった。
 終焉の後に続いたノーチェは赤いソファーに身を沈め、終焉は向かいの椅子に腰かける。相も変わらず足を組んで頬杖を突く様は誰よりも、何よりも似合っているような気がして、頭が上がらなくなる。こんなにも偉そうに振る舞う様が似合っている人物が居るかどうか頭の中で考えては、終焉が甘いものを口にする度に意外性だけを感じていた。
 席に着いて僅か数分。空のティーカップを目の前にノーチェは首を傾げる。何せそのパウンドケーキはすぐに喉が渇いてしまう。そうでなくても終焉は率先して紅茶を注いでくれるのだ。それがいつまで経ってもやってこないので、ノーチェは徐にティーカップを傾けてやる。催促しているつもりはないが、「紅茶が欲しい」という気持ちを込めて。

「…………」

 すると、終焉は微かに唇を尖らせて「むぅ」と言いながらゆっくりとティーポットを傾けた。赤茶色の透き通る温かい紅茶がティーカップへと注がれる。漂う芳ばしい香りにほっと一息吐けたが、何故終焉が不満そうに表情を変えたのか分からなかった。
 分からないままぼうっと思考に身を委ねて紅茶を飲むと――、ノーチェは咄嗟に原因を思い出す。
 終焉は然り気無く待っていたのだ。ノーチェが紅茶を注いでくれるのを。理由は簡単、男は一度もノーチェが注いだ紅茶を口にしたことがないからだ。
 以前自分を魔女と名乗るリーリエが屋敷を訪ねた際、彼は確かに紅茶を振る舞った。挑発されて妙な苛立ちを覚え、唐突にやったこととはいえ、ノーチェから何かを振る舞ったのはリーリエが初めてだ。
 それを終焉は拗ねている――どう見てもふて腐れている。表情が乏しいが、しっかりと喜怒哀楽を表せる人物であったら間違いなく頬を膨らませていただろう。眉を寄せて眉間にシワを作り、唇をへの字にも曲げていたのかもしれない。
 その可能性が垣間見える終焉に、ノーチェは思わず「また今度」と呟く。いつになるかは分からないが、気が向いたとき――例えば終焉が身動き取れないようなとき――に振る舞うと言ってやる。すると、終焉は表情を緩めたと思えば唐突にノーチェから目を逸らし、「ん」と言った。
 ここ最近は何となく終焉の考えが読めるようになった。やることがなく、理由もなく終焉を観察していたからだろう。未だ読めない表情は多いが、目を逸らす行動は照れ隠しのひとつだと彼は気がついている。先程の言動のどこに照れる要素があるのかは分からないが――、それでも許してくれるというのだ。いつかは男に振る舞ってやらなければならないだろう。
 機嫌取りを一回。ノーチェはカップをソーサーに置きながら「やってしまった」と心中で呟いてしまう。手料理も充分すぎるほどに得意な男に自分の何かを振る舞うのだ。そのときが来るまで多少の練習は欠かせないだろう。
 これはまた面倒だと思いながら用意されたパウンドケーキを一口。ふんわりと柔らかな食感が甘い香りを誘ってくるが、その分喉が渇いて仕方がない。何気なくちらりと終焉を覗き見ると、男はやはり砂糖やミルクをふんだんに使ったミルクティーを飲んでいて、彼の胸には蟠りのように胸焼けが募る。
 もう当分は甘いものは要らないな、とパウンドケーキを食べる手を止めてしまった。

「――それで、永遠の命≠ヘ知っているか?」

 きぃ、と音を立てたのは終焉が使っている椅子だ。木製に赤い生地をふんだんに使った座り心地のいい――らしい――それは、年季が入っているようで時折軋んで音を立てている。ノーチェからすれば座っているソファーもなかなかの居心地で、椅子よりも満足するようなものだった。
 そんなソファーで足をぶらつさせながらノーチェは終焉の問いかけに首を左右に振って、「どういうもんなの」と何気なく問いかける。終焉はパウンドケーキを頬張ってから「そのままのものだよ」と呟いて指先を軽く舐めた。

「これといって特別な意味を孕んでいるものではない。そのまま『永遠に繰り返されるひとつの命』というものだ」

 紅茶だった濃厚なミルクティーを一口。軽く口に含んでから終焉は再びパウンドケーキに手を伸ばし、「甘さが足りないな」とぼやきながらそれを食べ進める。

 永遠の命=\―それは人や物に宿るとされる摩訶不思議な命だ。一度「殺す」か「壊す」ことで対象が機能しなくなった後、永遠に同じ命が繰り返されるのだ。壊した筈のそれは早ければ数分、遅ければ一日経てば傷痕もなく当たり前のように存在している。それ以降は「死」という概念を忘れさせ、自然の理から強制的に外れるのが永遠の命≠宿す者の特徴である。
 簡潔に言えば不老不死に近いのだろう。厳密に言えば初めて死んだ頃から年を取ることはないが、死なないということはない。――つまり、何らかの致命的な傷を負い、便宜上「死ぬ」ことがあるが、そのまま肉体が滅びることはないということだ。
 対象者に負担はかからないというが、それは客観的な話であり、本人からすればそれなりの負担はあるのだろう。その負担は人によって様々であり、その度合いも異なるという。

 その命を終焉は宿しているというのだ。
 ノーチェは終焉の説明を聞き終わると紅茶を一口。程好い苦味と風味が気持ちを落ち着かせるのにうってつけで、彼は聞いたものを頭の中で並び立て、理解をしていく。
 永遠の命≠ェ宿されているというのなら、死んだ筈の終焉が生き返って飄々としている理由が分かった。話だけならろくに信じていなかったが、実際にそれを目の前にしてしまうと疑う余地もなくなってしまう。その命があるという理由を裏付けるように、終焉は着ていた服を軽く脱いでみせると、黒い染みの下にある筈の丸い傷がどこにもなかった。
 色の白い素肌に残るのは、見慣れない大きな傷痕だけ。それは肩から胸を切り裂くような勢いでつけられた鋭いものだ。全貌は見せてはくれないが、形や方向からして斜めに大きく斬りつけられたのだろう。
 真新しい傷はどこにも見当たらないくせに、そのいやに痛々しい傷痕が残る体にノーチェはじっと視線を投げかけてしまっていたのだろう――終焉が徐に服を着直し、肌を隠してしまった。
 傷痕に釘付けになっていたのだと気がつく頃には終焉は気持ちを落ち着かせるように息を吐き、パウンドケーキを口にした。ノーチェも同じように紅茶を飲み続けるが、先程見た傷痕が妙に気になって仕方がない。目線を外すもチラチラと向けてしまうそれが妙に滑稽で、何故かと考えてみれば、不思議と見たことがあるような気がしてならないのだ。
 確信は得られない。見たことがあるというのもただの気の所為なのかもしれない。――そう思っていたのも束の間。ノーチェはふとその違和感に苛まれるように疑問を口にする。

「……目の傷は治んねえの……?」

 ポツリと呟いただけの言葉に、終焉は動きを止める。時間にして僅か数秒――しかし、その数秒がやけに長く見えたのは言うまでもないだろう。
 唐突に動きを止めた終焉にノーチェは触れてはいけない部分に触れたのかと、胸の奥に蟠りを募らせる。ざわつくような胸騒ぎが酷く不愉快でぐっと歯を食い縛り、耐えるように眉間にシワを寄せる。話したくないのなら話さないだろう。都合よく話題を変えてケーキを食べる手を進める筈だ。
 だが、終焉はふと目を瞑ると、「治らないよ」と小さく呟く。

「永遠の命≠ェ目覚めるのは『一度死んでから』が条件だ。それ以降の傷は治るのだが、目覚めの前に死ぬ要因となった傷はどうやら治らないらしい」

 今まで何度も死んできたが治った試しがない。そう言って終焉は目元の傷に触れた。その手つきは妙に愛しげで、遠い過去に想いを馳せるようにも見える。普段冷たい無表情に飾られた顔が、このときばかりは父親のように、友のように、恋人のように柔らかく温かく見えた。
 永遠の命≠ェ目覚める要因になったその傷痕――恐らく体にもあったものも含める――が、何故だか終焉は大切に思っているようだ。ノーチェは軽く首を傾げる。治らないというのに何故か大切にしているような素振りを見せられるのが疑問だった。
 ――まあ、関係がないだろう。
 ノーチェは食べかけのパウンドケーキを一口齧って、「便利だな」と口を洩らす。

「……怪我しても治るなんて……」

 ――それはあくまで一般的な人間の反応だった。怪我をしても治るというのは少なくとも羨ましいと思えるものだ。長く続く痛みなどどこにもありはしない。たとえ殴られたとしても、青痣すらも残さず瞬く間に消えてしまうのだろう。
 理不尽に殴られる痛みを知るノーチェにとって、長く続く苦しみが途切れるというのは確かに羨ましかった。立てなくなるほどの激痛も、腫れる頬もまるで見当たらなくなるのだ。化け物と罵られるとしても、痛みに悩まされるよりはマシだと思えた。
 だが、相手は他でもない終焉の者≠セ。彼は終焉の内なる願いを忘れていたのだろう。「……本当に便利だと思うのか?」と呟かれ、見やったその顔は先程の温もりなど見当たらず、妙に寂しげで――それでも無表情であることには変わりがない――責め立てられているような気がした。

「貴方は自分の願いを忘れたわけじゃないだろう。そして、奇しくも同じ願いを私は抱いている」
「あ……」

 ただ、死にたい。そんな思いが頭の中を掠める。
 奴隷として捕まってからノーチェにはそんな思いが胸に募った。ありきたりで――多少周りとは違っていたが――普通の家族が居て、当たり前の幸せなどあって当然なのだと思っていた。
 それが瞬きをした瞬間に崩れ去り、労働を中心に金目当てで遠くに飛ばされ、時には玩具として弄ばれる――そんなことが当たり前になってしまった。いつ頃だかはっきりとはしていないが、気が付けば胸の奥には「死にたい」という思いばかりが募るようになる。
 どうせ故郷に戻れないのなら、いち早く現状から逃げられる死を迎えた方がマシだと思うようになったのだ。何も考えなくてもいい、何もしなくていい。死んだ先に何があるのかは分からないが、もう奴隷として扱われることがないのだ。これ以上にない救いの手になることは明らかだっただろう。
 家族や知人はいくら待っても助けには来てくれない。恐らく、奴隷商人に捕まるような弱者など、居なくなって当然だと思われているのだ。もしくは、誰も覚えていないというのが道理だろう。見知らぬ誰かに視線を投げ掛けて見てもすぐに逸らされる。期待もできない助けを待つより、死んで楽になる方が救われるのは確実だ。
 ――そんな思いからノーチェは月を追う毎に死にたいと願うようになった。無駄に頑丈な体は簡単に衰弱死するに至らず、ずるずると生を引き摺ってしまって今に至るのが現実ではあるが、どんな状況下にいても思いは消えることはない。
 長く募らせてきたつもりの感情を簡単に覆させるなんてことを許す筈もないのだ。
 ――そんなノーチェと同じよう、終焉は死にたいのだという。暮らしに何か不自由があるわけでもなければ、何かの地位に縛り付けられているわけでもない。ノーチェから見て明らかに人生を謳歌しているように見える男は、何故かノーチェに殺されたがっているのだ。他でもない、奴隷である彼に。

「……死にたいと願う貴方が仮にこの命を宿していたら、ただの苦痛でしかないだろう。それと同じだよ」

 形のいい唇が相変わらず甘いケーキをひたすらに迎え入れた。時折ミルクティーを飲んで一息吐く様は、誰がどう見ても死にたいと思う存在には見えない。ノーチェは思わず「ごめん」と呟くと、終焉は「気にするものじゃない」とだけ呟いて、カップをソーサーに置いた。白魚のような指が持ち手を軽く撫でる。
 ノーチェは納得がいかなかった。理由も教えてもらえず、ノーチェに殺されたがっている終焉の現状に多少の羨ましささえ抱いているほどだ。奴隷であるわけでもなければ、何もできないわけでもない。生きていくことに困らなさそうな暮らしを送っている男が、何故奴隷なんかに殺されたがっているのかが理解できなかった。
 その上仮にノーチェが殺せる側の人間だとしても、一番の問題点はその命が宿っていることだろう。

「……でも、アンタ……死ねないだろ……なのに、どうやって殺すんだよ……」

 ノーチェは一番の疑問を終焉にぶつけた。何せ男は死んでも生き返るという奇妙な命の持ち主だ。仮にノーチェがその体に傷をつけたとしても意味は成されないだろう。殺す以前に傷すらつけられなければ話にはならない。
 そんな疑問に終焉は一度考えるような素振りを見せると、徐に席を立った。「見せた方が早いだろう」とノーチェを置いて向かったのはキッチンで、引き出しから小振りの果物ナイフを取り出して彼の元へ帰る。
 携えたのは刀身が銀色に輝き、歯溢れもない綺麗なナイフだ。思わず魅了してくるようなそれに、ノーチェは目を奪われていると――終焉が徐に指先を当てて一気に引いた。
 当然のように切れた指先から溢れるのはやはり赤ではなく黒い液体で、白魚のような指を伝い、黒に染め上げていく光景があまりにも痛々しかった。微かに香る鉄の匂いにノーチェは顔を歪ませると、「配慮が足りなくてすまんな」と終焉が小さく口を洩らす。

「――だが、見せた方が早いだろう?」

 そう言って終焉は指先を軽く舐めて血のようなものを拭うと、それをノーチェに見せびらかした。

「…………死ななくても、傷は治るのか……?」

 差し出されたそれにあった筈の傷はなく、ノーチェは小綺麗な指先を見せられているだけだった。しかし、終焉の手元にある果物ナイフが微かに刀身を汚している様を見れば、男が傷を負ったことを裏付ける証拠にもなっている。終焉は死んではいない。だが、跡形もなく無くなった傷痕に茫然としていると、「小さいものはな」と男は呟く。
 そうして終焉は徐にノーチェに近付いたかと思えば彼の手を取り、ナイフの柄を握らせるようにナイフごと手を握った。恐ろしいほどに冷えた素肌がノーチェの体を揺さぶる。思わず肩を揺らし驚いた彼を他所に、終焉は刀身に指先を押し当てる。
 ――握らされている筈なのに何故か自分が刃を向けて、終焉を傷付けるような光景が、理由もなく酷く恐ろしく思えた。

「やめ……っ」

 ノーチェの制止の声も虚しく、引かれて傷をつけた指先からは黒い血が溢れ落ちる。それを終焉はやけに美味しそうに口へ含んでいったが、それを気にする余裕もないノーチェは徐に胸元を押さえる。
 どくどくと音を立てて脈を打つ心臓が嫌だった。体に滲むのは奴隷の頃にも滅多に出なかった冷や汗がじわりと広がる。脳に酸素が回らない所為だろう――軽く目眩を覚えると、呼吸が苦しくて仕方なかった。
 訳も分からず混乱していると、終焉がノーチェを抱き寄せて頭を軽く撫でる。「大丈夫」なんて言って子供をあやすような仕草に「何が大丈夫なんだ」と訊きたくなったが、死ぬような傷ではなかったのに訊くのは可笑しいだろうと理性が語る。
 ゆっくりと呼吸を繰り返し、思い出してしまうのは奴隷商人に捕まる直前の嫌な過去で、咄嗟に目を瞑って頭を振ると、ノーチェは「もう平気」と呟いた。離れた終焉は申し訳なさそうに目を伏せていて、「そうなるとは思っていなかったのだ」と何かを知っているかのように呟く。見せた方が早いと言って傷つけられた指先は――、一向に治る気配がなかった。

「……治ってない」

 速まる鼓動を抑えつけながら眺める指先からは真新しい血が玉のように溢れている。少しでも動いてしまえば溢れ落ちてしまうのではないか、と思わせてくるほどだ。ノーチェはそれから目を離さずにいると、終焉が「私の場合は例外でな」と傷口を舐める。

「少し分かっただろうか。私は永遠の命≠所持していながら、死ねる可能性のある生き物だ。瞬く間に治る筈の傷が貴方につけられたのでは塞がらないだろう」

 黒い液体が舌の上をじんわりと染みていった。ノーチェは話を聞きながらそれをぼうっと眺めていると、誰もが私を殺せるのではない、とノーチェの目を見て終焉が語る。

「私が死ぬためには特定の人間に殺されなければならない」
「……それは……」

 それが自分なのかと唇を開くと、終焉はどこか嬉しそうに、しかし悲しそうに微笑む。

「『世界で最も愛した人間に殺されること』――それが、ノーチェだよ」

 終焉がノーチェに殺す役割を与えたことに初めて納得がいったような気がした。
 終焉は死にたいのだ。理由はどうあれ、死にたいと思っているのに間違いはない。それを成し遂げられるのが自分ではなく、他の人間ではなく、ノーチェだったという話だ。永遠の命≠ヘ融通が利くわけではない。ただ無限に繰り返す一度だけだった筈の命を与え、人間によってはただの苦痛でしかない時間が続くのだ。
 それが自分だったらどうなのかと思い、ノーチェは嫌悪を隠せずにはいられなかった。万が一彼に永遠の命≠ェ宿っていれば、ノーチェは奴隷人生を約束されていただろう。傷を負っても死を避けられない怪我を負っても、奴隷商人達をどうにかしない限りは永遠に籠の中の鳥になるのだ。
 その籠を壊せるのは終焉にとってノーチェだったというだけで、彼は目眩を覚えるのを必死に抑えながら「そう……」と小さく呟く。

「……さっき、便利なんて言って、ごめん……」

 軽く俯き、ノーチェは終焉に謝罪の言葉を洩らす。男が怒りを露わにしないのは分かりきっていることだが、事情を知るとそうもいかない。仮にノーチェが言われる側になってしまったとき、当然のように死ねることに対して妬ましささえ覚えるだろう。
 終焉は表には出さないが、不快になっていないとは言い切れないのだ。当然普通の人間であるノーチェが簡単に死ねる可能性があることに、妬ましさを覚えた筈だろう。
 ――しかし、終焉は「気にするな」とノーチェに呟くと、やはり頭を撫でるのだ。

「活用法は分かっている。これで貴方を死守できるのなら、本望だ」
「…………変……」

 暗に命を擲ってでもノーチェを守り通すと言っているような発言に、彼は漸く呆れるように訝しげな目を向けた。終焉はノーチェの元を離れると再び椅子に腰掛けてほう、と息を吐く。傷ついた指はそのままに、軽く庇いながらケーキを頬張る。
 出会って長い時間が経ったわけではないのに命を懸けて守る意味があるのかと問いたかった。生まれながらの知り合いならば気にかける程度の意識はするだろう。両想いならば互いに何かを犠牲にする覚悟もできている筈だ。
 だが、ノーチェにとって終焉は――本人は拒否しているが――主人であり、それ以上でもそれ以下でもない。男はノーチェを愛していると言うが、彼にはそんなものを終焉に抱いたこともない。
 だからこそ、そこまでして自分を犠牲にする必要はないのではないかと思った。人間は自分の身が世界で一番可愛い生き物だ。他人のために自らを犠牲にするなど、お門違いにもほどがあるだろう。

「……アンタは、何で……」
「……ん?」
「……その……俺を、あ……愛してる……なんて言うんだ……? そこまで仲良しとかじゃ……ないと思う……」

 思い切って訊いたそれはあまりにも気恥ずかしかった。
 「愛している」など人生で一度言うか言わないか――それも飛びきりの想いを乗せて相手に向ける言葉だ。それを表情ひとつすら変えず、終焉はノーチェに何度か呟いてみせた。言われる側の気持ちなど考えてもいないような素振りで、だ。
 対してノーチェは語尾が消え入りそうな声で恥ずかしそうに迷いながら呟いた。絶対に言う機会がないそれは、何の意味も持たずとも口にするのは羞恥心が掻き立てられるもののようだ。多少体が温まったかのような感覚に陥り、ノーチェは咄嗟に気を紛らせるよう、紅茶を一気に飲み干す。喉の奥を通り、食道を抜けて胃の中に収まる感覚を得ると、羞恥心ではなく熱さで汗をかいているように思えた。
 ざあざあと降る雨の中に身を投じたいとこれほど強く思ったことはなかなかないだろう。ノーチェは唇を尖らせて「もう二度と言わない」と心中で誓いを立てている。その最中、彼の向かい側で終焉は一度唇を開いたかと思うと、すぐに閉じて、そうだな、と小さく言った。

「――――」
「……ん……?」

 男が唇を開いたとき、タイミングが悪く雷が鳴った。地鳴りのようにゴロゴロと天を這う耳障りな音に、終焉の声は掻き消され聞き取ることができなかった。思わずノーチェが首を傾げると終焉は諦めたかのように溜め息を吐いてから、「一目惚れだよ」と言う。

「……? 初めて会ったときって……そんなもん、思えるもんだったっけ……」
「いいや、興味なさげに無視をされてしまった」

 嫌味のように男が首を傾げたノーチェに素っ気なく言い放つ。当の本人はそんなもので惚れるようなものがあったのかと問いたくなったが、徐々に量を増していく雨に気が逸れてしまい、訊くことはできなかった。
 徐に終焉が席を立ち、「ある程度は話せただろう」と空になった皿を手にノーチェを見やる。雨が止むような兆しは見られないのか、残念ながら部屋干しだな、と呟く様はほんの少し呆れるようなものだった。
 未だ終焉はできることをいくつか終わらせようと思っているようで、手早く食器類をトレイに載せる様子は家政婦にも思えるほど。その手がノーチェが使っていたティーカップへと届くのを見て、彼は咄嗟にそれを引き寄せる。半ば反射的な行動に終焉はおろかノーチェまで軽く驚いたが――茫然とする終焉の手から咄嗟にトレイを奪ったノーチェは「自分でできる」と呟く。

「……いや……」

 何もしなくていい、と終焉が言葉を紡ごうとすると、ノーチェはそれを持ったまま立ち上がって徐にキッチンへと向かった。歩く度に終焉がノーチェの名前を呟くが、彼はそれに聞く耳も持たずに足を速めて行ってしまう。
 ――何もしないのはどうも許せなかった。元より彼は一日やれることは無理にでもやらせてもらう予定だったのだ。多少の予定外が屋敷を訪れ、安心しきっていた環境を嘲笑うように壊してみせたが、それも終焉が何とかしてしまった。驚きを覚えたことにすら驚いたが、結局ノーチェは何もできずに事が終わってしまったのだ。
 生憎外に出ようとも悪天候に阻まれ、荷物持ちの役にも立たない。ノーチェはその食器類をシンクへと置くと、後から終焉がキッチンへと入ってノーチェの名を呼ぶ。男は終始彼に労働を強いているわけではないという旨を無表情で呟いているが、ノーチェはそれをぼうっと見つめながら徐に悪態を吐くように言った。

「……アンタって、俺を駄目にしたいの?」

 それに終焉は一度目を見開くと、「違うんだ」と表情を曇らせる。

「ただ……そういうものをもう、与えたくないと……」

 男にしては随分と口ごもった解答だった。恐らく終焉本人も未だにノーチェをどう扱えばいいのか分かっていないのだろう。与えるだけ与えていてはいずれ駄目になってしまうと分かっていながらも、何をするのが彼のためになるのかが分かっていない。
 ――まるで「自分は人間を理解できていない」と暗に言われているようだった。
 勿論彼は理解したつもりだ。何故男がやたら常識を越えるような働きをするのか、完璧を体現しているような行動ばかりを取るのか。全ては永遠の命≠ェ宿っているからこそ、加減を知らないのだろう。
 特に一度「死」を経験した場面を見てしまったのだ。恐らく終焉はノーチェの為なら簡単に命を犠牲にしてしまう人物だ。片手で数えられるほどしか見かけていないが、感情を軽く表に出すほどの場面に遭遇したノーチェには感覚的にそれが分かる。
 理由などない。ただ「そう思ったから」そうなるのだと分かるのだ。
 根拠のない勘は、胸騒ぎを覚えるほど確かなものになる。理由も分からずに終焉の死に思考を止めた感覚は、胸騒ぎが的中したときの絶望感とよく似ていた。それがまた訪れるときがあると思ってしまうのは、男が自らを「化け物」と揶揄したからだろう。

「……こんなんでも、やれる範囲はやれる……アンタがあくまで俺を『人間』として対等に思う以上、俺はやれることはやるつもり……」

 ノーチェは軽く腕を捲り、蛇口から水を出す。雨の音とは比べ物にならないが、水が流れる音が微かに耳に届いた。「あ、でも洗い方あるんなら……」と躊躇する手にはスポンジが握られていて、終焉を見上げるその目は男にとって子犬も同然だろう。じぃっと見つめられるのはあまり心地がよくないのか、終焉はパッと目を逸らすと「特にない」と呟きを洩らす。
 照れているのだと理解するのに時間は要らなかった。やはり言葉を伝えるのと視線を投げられるのでは、終焉が持つ羞恥心を掻き立てるものは異なるようだ。「変なやつだな」と彼は心中で呟いてみると、唐突に思い出したかのように「あ」と言う。

「……そういや、あの人達どうなったんだ……?」

 何気なく終焉にそう問い掛けてみると、男は一度視線を宙に漂わせると――「秘密」と口許だけで笑っていた。


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