染まる紫陽花、気紛れな御茶会議


 春の季節があっという間に過ぎた頃、ぽつりぽつりと色付いてくるある植物をノーチェはじぃ、と見つめていた。それは限りなく花の形によく似ていて、「春も終わった後にこんな色の花も咲くんだな」と彼は関心を胸に抱く。その色は春には似つかわしくない色合いだったが、妙な儚さは春のそれに似ているような気がした。
 それを窓越しに眺めるノーチェはぼうっと一点だけを見つめていて、その呼び掛けに気が付かない――。

「ノーチェ」
「っ!」

 唐突に掛けられた声にノーチェは勢いよく振り返ると、相も変わらず黒い服を纏った終焉が何の感情もこもらない瞳で彼を見下ろしている。ノーチェは赤いソファーに膝を立てて窓の向こう――広い庭を見ていたのだ。庭には春とはまた違った花や植物が顔を覗かせていて、奴隷であったノーチェには珍しいことこの上ない。
 ――勿論、庭自体がかなり目を惹くものだった。手入れが大変そうなその庭はやはり金持ちを彷彿とさせるもの。更に言えば、その中心部にはテーブルや椅子などがよく見える。終焉がそこを利用しているところは見たことはないが、利用できないことはないのだろう。
 それを終焉はどう理解したのか、ノーチェの顔と庭を交互に見やった後、考え込むような仕草を見せる。「ふむ」そう口を洩らして両目でノーチェを見つめている。その視線がやけに鋭く、ノーチェは徐に目を逸らせば、終焉は思い至ったように彼を手招いた。
 その手に従うようノーチェは席を立ち、何も考えず終焉の元へ歩く。男は彼が近くへと来たことを確認すると、徐に背を向けて「おいで」と言った。明らかに命令ではないそれに逆らってやろうかと思ったが、終焉は振り返って立ち止まるノーチェに再び「おいで」と言う。その口調は明らかに迷子の仔猫にでも語りかけるようなもので、微かな反抗心が芽生える。
 まるでペットのような扱いに思えた。勿論、首輪も鎖もあるのだからペット同然とも言えるが、人間である自覚はある。「……嫌」――男の招く言葉に妙な反抗心が芽生えたノーチェは、無意識のままその言葉を洩らした。

「…………あっ」

 咄嗟に口許を手で隠したが、時既に遅しとはこのことをいうのだろう。復唱するように「嫌?」と呟く終焉のその言葉が何かしらの意味を含んでいるようで、ノーチェはきゅっと唇を結ぶ。
 言葉に対する反抗心によって紡ぎ出されたその一言が終焉にどう印象を与えたかは分からないが、恐らく男はいい気持ちではないだろう。それどころか逆鱗に触れかねない。感情のこもらない瞳を怒りに染め上げ、何らかしらの方法で処分しにくるか――死なない程度にいたぶられるか。
 どうせ怒られるなら前者がいい。ノーチェは意を決したかのように服を握り締め、ちらりと終焉を見やる。男は依然ノーチェを見つめていて、その目の色を変えることはなかった。寧ろ、終焉は何かを考える素振りを見せた後、「言い方を変えよう」なんて言って、ノーチェの目を見る。

「一緒に来てくれないか」

 ――それはやはり「命令」ではなく、彼に頼み込むような言葉だった。表情はともかく、奴隷という身分であるノーチェにでさえも「頼む」と言わんばかりの口調だ。終焉は何を言おうにもただ対等に扱い続けるつもりなのだろう。
 それに未だ慣れないノーチェは一度だけ迷うと、大人しく終焉の後へ続いた。礼を言われる筋合いなどない筈なのに、終焉はノーチェに「有り難う」と言って足を進める。ノーチェは言葉を受け取ると、何かしらむず痒さでも覚えたのか――妙な顔付きをしてしまった。「礼を言われることはしてない……」そう呟くノーチェに男は言う。

「私はあくまで『来てくれないか』と聞いただけだ。命令でもないのに来てくれたのだから、嬉しいと思っただけ」

 終焉の言葉はノーチェには理解しがたいものだった。彼は赴くままに「意味が分からない」と呟いてみたが、終焉から不機嫌になるような声色はまるで聞こえてこない。ただ、疑問を抱くように「そうか?」と呟いた後、目の前の扉を押し開ける。
 男が向かっていたのはキッチンだった。大きな部屋を抜けた先にある、機能も道具も充実した場所だ。思えばそこは、終焉自らノーチェを連れてくるような場所ではない。――理由は簡単、ノーチェが自殺などという考えを持たないと言い切れないからだ。

 ノーチェは誰がよく分かるよう、首には鉄製の首輪が施されており、それには特殊な仕掛けが組まれている。それは、無理に外そうとすれば爆発する――などという危険なものではなく、首輪をつけられた本人の欲や意志を奪うという制欲魔法というものだ。その首輪の解除法は辺りに知られているわけではないのが特徴的で、いくら終焉とあろう者でもそれの外し方はまるで知らない。
 ――そもそも制欲魔法が組まれた首輪というものは、特殊な種族だけに使用される特別なものだ。特にノーチェのような存在は、ただの首輪ではすぐに反抗し、力付くで相手を捩じ伏せることが可能である。それを無力化するために用意されたものが、彼が身に付けている首輪なのだ。
 終焉がそれを外す方法を知らないのは、終焉自身がそれを施されたことがないという理由が大きいだろう。首輪を外すことができるのは商人自身か――ノーチェの一族が挙げられる。それまではただ彼は「生きている先にあるのは絶望しかない」というような感覚しか持ち合わせられないのだ。

 そんな彼を懸念して終焉はキッチンへと近寄らせなかったのだが、男は気が付いていないのだろう――そもそも、彼に自殺するような勇気がないことに。
 しかし、それを懸念していながらもキッチンへ招いた終焉は何を考えているのか、ノーチェを手招いては戸棚に手を伸ばす。アンティーク調のやけに高そうな棚だ。その中には白地に金のラインが施された、汚れ一つないティーカップやソーサー、ティーポットの他にいくつもの皿が収納されていて、ノーチェは茫然とそれを見つめる。
 高そう、ではなく、恐らく高い。彼の直感がそう囁く。終焉は慣れた手付きでティーセット一式を棚から出しているが、それを見るノーチェは何故こんな場所へと連れてこられたのか、不思議でならなかった。
 終焉は取り出した一式をテーブルへ置くと、徐にヤカンを取り出して水を入れる。水を入れたヤカンを火にかけ、ある程度沸騰したそれを少量ティーポットへ注ぐ。冷たい筈のティーポットが少量のお湯で温まり、ほうほうと湯気が立ち上る。ヤカンを最後まで沸騰させるために再び火にかけた終焉は、戸棚から四角い缶を取り出した。

「アールグレイ、ディンブラ、ルフナ、ダージリン、アッサム、アプリコットティー……まあ、種類は適当でいい」
「…………?」

 唐突に紅茶の種類を語られ、ノーチェは首を傾げる。よく見れば棚の中にはまだ茶葉があるようで、それを語られているのだと悟ったノーチェは「それは」と訊いた。終焉の手の中にある四角いそれは、終焉曰くアッサムなのだそうだ。「ミルクティーによく合う」そう言って男は茶葉をティースプーンで二杯、温まったポットへと入れる。そして、完全に沸騰したであろうヤカンのお湯をティーポットへと注ぎ、素早く蓋を閉じた。
 ノーチェは終焉の行動をじっと見つめていて、時折溢れる終焉の話を耳に入れる。「注ぐときは勢いよくでいい」や「蒸らす作業が大事らしいぞ」なんて、美味しい紅茶の作り方をだ。
 何が理由で彼は紅茶の作り方を教わっているのか定かではないが、何かしらの理由を終焉は持っているのだろう。ノーチェは軽く首を上下に動かして頷いてみせると、終焉がやはり彼の頭を撫でる。

「う」

 大事に扱われている気はするが、どうも「可愛がられている」ようで、ノーチェは多少睨む気持ちで終焉を見上げた。相変わらずの整った顔立ちではあるが、どうしても目元にある傷痕が痛々しく思え、目を逸らす。何故だかは分からない――ただ、得体の知れない妙な罪悪感だけが胸に募るのだ。
 三分ほど経つ頃だろうか。徐に取り出したトレイの上に一式を載せた終焉は、それをノーチェに手渡す。驚いた彼は一瞬だけ肩を揺らし、差し出されたそれを咄嗟に受け取った。紅茶が入っている分、多少の重みが腕にのし掛かる。一式を託した終焉は再び戸棚に向かい合うと、小さな包みを取り出した。
 終焉の意図が分からずノーチェは茫然としていると、終焉が手招きしながら扉へと向かう。「落とすなよ」の一言に無駄な力が腕に入り、動きがぎこちなくなるのが分かった。躓いて落としてしまわないよう、細心の注意を払いながら終焉の後に続くと、履きやすい靴を履かされる。そうして数回くぐったそのエントランスの扉の向こう――覗き見ていた庭へと足を踏み入れた。
 足を踏み入れて迎えたのは爽やかな風で、髪を舞い上げてくるそれに思わず目を閉じた後、ノーチェはゆっくりと目を開く。庭自体がどこまで広いのかは分からない。辺り一面に広がったのは垣根のように大きく育ったバラだ。開花の時期を迎えるのか、所々蕾が花開き、バラ特有の朗らかな香りが風に乗って漂う。窓の近くに群集するのは梅雨を知らせる紫陽花で、花のように色を染め上げているのは可愛らしい葉っぱだった。
 足元には見慣れない小さな花がある。それとは別に花壇が用意されているのだから、雑草の一つなのだろう。蕾のような白い花に、周りには三つ葉がぽつぽつと窺えた。しかし、探したとしても四つ葉は見つかりそうにはないだろう。
 ノーチェはその光景に意識を奪われているかのように足を立ち止まらせる。今まで窓越しに見ていた景色が眼前に広がっているのだ。バラの向こう、白い建物の下で終焉がノーチェを呼ぶ。「こちらへ」そう言って小包を白いテーブルに置いて、彼に向かって手招きをする。
 彼は今自分が落としてはいけないものを持っていることに再びハッとして、微かに力む体でそれを運ぶ。恐らくそれは、終焉なりのノーチェへの気遣いなのだろう。何もしないことが違和感となっているノーチェにとって、使われることは確かに安堵のようなものを覚える――が、そういうことではないのだ。
 彼が強いられたのは完全なる肉体的労働。人よりも遥かに桁違いの力をもって、誰よりも苦しい労働を強いられていた筈なのだ。それが今となっては随分とかけ離れたものとなってしまい、使われることに安堵は覚えたが、違和感が拭われない。
 しかし、やけに高価にも見える物だ。もういっそのこと落としてしまえば一思いに殺されるのではないだろうか――。

「……そう力まなくても、落とすなというのは軽い冗談だ。怪我さえしなければいいよ」

 ノーチェの心中を察したかのような終焉の言葉に、彼は瞬きを数回繰り返した。「少し味は落ちるかも知れないがな」なんて終焉が白い家具の傍で軽く苦笑を洩らしたように見える。その表情から見るに、やはり男はノーチェを殺すという手段は選ばないようだった。
 もしや、――いや、もしかしなくとも期待外れなのかも知れない。
 ノーチェはガゼボへ足を踏み入れる。カチ、とカップの取っ手が触れ合う危なげな音がした。手に持っていたトレイをテーブルの上に置いてやると、終焉がティーポットの取っ手を掴む。その手は珍しく普段つけている手袋をつけていない状態で、白い素肌が顔を出していた。
 深く透き通る液体がティーカップへと注がれる。赤いような、茶色いようなそれは芳ばしい香りを漂わせながら、大人しくティーカップへと収まった。ノーチェは促されるがままに白い椅子へと腰掛けると、目の前に紅茶が置かれる。茶葉のカスもまるで見当たらない、底が見えるほどに透き通った綺麗なものだった。
 ちらり、彼は終焉をそっと見やる。終焉はノーチェ同様に椅子へ腰掛けたと思うと、同時に用意していた角砂糖とミルクを手にしている。本当に溶けきるのかと疑いたくなる四つの角砂糖を入れた後、素知らぬ顔をしながらミルクを一周させるようにくるりと回しながら注いでいる。
 甘ったるい――その一言だけが頭に過る。終焉は何食わぬ顔をしたままスプーンで底を混ぜ続けるが、四つの角砂糖を加えてしまったそれにミルクを加えるなど、味の想像もつかなかった。
 終焉はノーチェに砂糖もミルクも差し出したが、ノーチェは角砂糖を一つ、紅茶の中へ入れる。とぽん、と弾けるような音が鳴る。差し出されたスプーンを受け取り、くるくると回すとあっという間に砂糖は消えてしまった。終焉を見れば甘ったるい紅茶だったものに口をつけていて、堪らずノーチェも同じように紅茶を口にしてみる。あっさりとしていて、しかし苦味のある口当たりのいい液体が、喉の奥へと押し込まれていった。

「……よく飲めるな……」

 そう口を開いたのは他でもない終焉だった。男はノーチェの紅茶を見て訝しげな目を向けている。薄々――ではなく、はっきりと確信したのはどう見ても終焉が甘党だということ。角砂糖一つを入れただけの紅茶に対して嫌そうな顔をするほどなのだから、相当甘いものが好きなのだろう。
 ノーチェからすれば終焉が口にしているものの方が飲めるということに驚きを覚えてしまう。ざらりとした溶けきらない砂糖、苦味を湛えたままの甘い紅茶だったもの。――それらを踏まえた上で、平然と飲むものだから、ノーチェは意識を逸らそうと口を開く。

「俺、外に出てもよかったの……」

 ポツリと呟いた懸念すべき点。奴隷及び拉致された身として、外に出ることは許されないものだと思っていた。数回外に赴いたことはあるが、全て目的を持った行動だ。今回のような何の意味もなく、ただ何となくで外に赴くようなことは有り得ないと言っても過言ではないだろう。
 彼はあくまで「自分が奴隷だから」とは言わなかった。何せたとえ奴隷でなかったとしても、拉致された身としては外部の人間に見付かるのはいいとは言えないだろう。それは終焉にとっても有り得ない話ではない筈で、ノーチェは男の顔をじっと見つめた。
 終焉は小さな包みに手を伸ばし、口を締めていたリボンの端を摘まむ。それを引いてリボンをほどけば、中から出てきたのは一口サイズの小さなクッキーで、何も言わずに終焉はそれを口にする。見た限りではその出来映えも最高のもので、小さな花型のそれを、終焉がそっと進めてくる。

「……見て分かると思うが、外部の人間が来ることは殆どない」

 「だから安心するといい」――差し出されたクッキーをひとつ、口の中に放り込んだと同時に終焉がそう呟いた。仄かな甘味が広がる芳ばしさが身に染みる。二種類の味があるのは終焉の気分だろうか――色の薄いプレーンのクッキーと、茶色のココアが丁度いい味を出している。
 そういうもんなんだな、とノーチェが口を洩らす。終焉は相変わらず甘ったるそうなミルクティーらしいものを平然と口にしていて、ノーチェはほんの少し胸焼けを覚える。――すると、草の影から小さな鳴き声が聞こえてきた。
 みゃあ、と愛くるしい猫の鳴き声が足元から聞こえてくる。その声の主はノーチェ――ではなく、終焉の足元にぴったりと寄り添っていて、くるくると体を擦り付けている。随分と懐いているその様子にノーチェは視線を送っていると、終焉が首を傾げながら「珍しいか」と訊いた。

「……と言うよりは、アンタも懐かれるんだな、と……」
「…………貴方がそれを言える立場か?」

 不思議と驚きよりも意外性を感じた。どんな生き物も近寄らせないと言いたげな雰囲気がそこにあるというのに、猫は機嫌良さげに終焉の元で座り込んでいる。まるで何度か感じていた獣のような威圧感を覚えることもなく、だ。
 それにノーチェはどこか意外だと思ってしまい、呆気に取られる。その後、終焉が呟いた立場が妙に気になり、ふと首を傾げてみせた。すると突然耳元で小さな鳴き声が上がる。――小鳥だ。
 ぼうっとしていたノーチェはそれを認識するのにいくらかの時間を使い、胸焼けを忘れた頃に漸くそれが何なのかが分かった。小鳥は数羽ノーチェの肩や頭に留まっていて、警戒というものをしていないようだ。
 「……んだよ」ノーチェは徐に紅茶を覗き込む小鳥を手で払い、口をつけさせないようにする。いくら小鳥でも口にして良いものと悪いものがあるのだ。屋敷の敷地内で死んでしまっては終焉に迷惑がかかるだろう。
 ――そう手で払うのだが、小鳥は飛び去るというよりは、彼の手元にちょっかいを出して、いやに楽しそうに囀ずるのだ。

「…………」
「そう変な表情をするな。ここに来る子らは無駄に警戒してこないからな、馴れ馴れしいのも大目に見てやってくれ」

 こいつらの人生は楽しそうだな――そうジト目をくれてやると、終焉は長い髪を垂らしながら足元の猫の喉を撫でる。くるくると喉を鳴らし、気分良さげに目を閉じている猫を見ると、どうにも羨ましく思えるほどだった。いっそのこと人生そのものを代わってくれ、と言いたくなるほどだ。
 その光景をノーチェは横目で見ていると、不意に終焉と目が合う。澄まし顔によく似合う澄んだ瞳――、それがノーチェを見つめて、緩く弧を描く。

「――撫でてやろうか?」

 ふとそんな言葉が聞こえた。
 ノーチェはハッとするとすぐに無表情を取り戻し、「何言ってんだよ……」と目を逸らす。小鳥達は相変わらず小さく鳴き喚いてはノーチェに何かを語りかけているようだ。時折自分の体ほどもある翼を広げ、何かを言っているがノーチェには意図は通じない。
 「……分かんねぇよ」そう言ってノーチェは小鳥の相手を止めると、ほんの少し温くなった紅茶を口にする。口当たりの良いアッサムが舌にころころと転がっていった。随分と贅沢な飲み物を口にしているのは自覚済みで、奴隷である自分がこんなものを口にしていいのか、と彼は酷く慎重になる。もしかすると目の前の男は何かしらの恩を着せようとしているのかも知れない――そんな思いが胸に募る。
 別に何をされようとも主導権は終焉にある。ノーチェ自身はあくまで男に従い、忠実であればいいのだ。そこに何の意味があろうとも、抵抗を見せるのは極力控えたい。何せ、面倒事が酷く億劫に思えるからだ。
 そんなノーチェの様子を察したのか、終焉は甘ったるいミルクティーを一口。小さく啜った後、ノーチェを見ながら「外に出した理由だが」と呟く。

「強いて言うなら、少し恋しかったのだ。前はよく二人でこうして雑談を交えながら、小さな御茶会を開いていてな。その上、貴方も外をよく眺めていただろう? もしかしたら外に出たいのかと思ってな……」

 余計な世話だったか?――軽く首を傾げながら終焉は寂しげに微笑んで言った。
 「二人でこうして雑談を交えながら」そんな言葉がノーチェには何故か自分を指されているような気がしてならない。まるで懐かしむようにノーチェを見やる終焉は、彼のためというよりは、自分のためにノーチェを外に連れ出したと言っているようなものだった。
 生憎男はノーチェに恩を着せようなどと思ってはいないのだ。ただ、同じように同じ時間を過ごしてほしいだけ。終焉は自分で作ったであろうクッキーを頬張り、ほう、と吐息を吐く。「食べてもいいんだよ」と勧められたクッキーを食べる気にはならなかったが、紅茶をちまちまと口にしていた。
 終焉は「もう梅雨の時期か」と思いを馳せるように独り言を呟いた。視線の先にあるものを辿れば、ノーチェが先程まで見ていた花とも葉っぱともつかないそれが密集している。地面に近付けば近付くほど赤紫に近付いているその色に、どこか寒気さえも覚えた。それは、土が酸性かアルカリ性かで葉の色を変える紫陽花という植物だ。
 「綺麗な桜の木の下には死体が埋まっている」――などという話を聞いたことがある。それと同様、赤い紫陽花の下には死体が埋まっているという話さえも耳に入れるほどだ。青から赤へ、土に近付いていくほどに色を変えているあの紫陽花の下には、死体が埋まっているのだろうか。――まさか、終焉は本当に人を殺しているのだろうか――そんな考えがふと頭を過る。
 いくら死にたいと頭で思っていても、時折体がそれを否定するように竦んでしまう。目の前に人殺しを腹に抱えているであろう人物が居るというのに、「殺してほしい」と言うどころか、何も言えずに紅茶を啜っているだけだ。もしや、死にたいなどという考えは一時的な気の迷いでしかないのだろうか――。

「……あの紫陽花、色が移り変わっているだろう」
「あっ、ああ……」

 不意に話し掛けてきた終焉に、ノーチェは肩を微かに震わせながら答える。紡がれた言葉に続けられるのは何か、いくつかの予測を立ててみたが、男が口にしたのは何の変哲もないただの感想だった。

「色が変わっている理由は分からないんだが、私はあの色の変化が好きでな……随分と綺麗だと思わないか」

 ぐっと腕を組み、終焉は懐かしいものを眺めるような目で紫陽花を見つめた。男曰く、自分が屋敷に来た頃には既に紫陽花の色が移り変わっていたというのだ。
 そこでノーチェは終焉が屋敷の持ち主ではないことに気が付かされる。我が物顔で屋敷内を把握しているというのに、終焉が来た頃にはもぬけの殻だったようだ。身寄りがないという男はその屋敷に身を寄せて、持ち主が帰ってくるその日まで預かっておくのだという。

「……帰ってこなかったら?」

 どうすんの、とは言い切れなかった。終焉が言い切る前に口を開いたのだ。

「今まで通り過ごすよ」

 終焉はミルクティーを飲み干してそう呟いた。甘く、ざらりとした砂糖が舌に乗るのを、終焉は随分と堪能しているようだった。それに、ノーチェは「じゃあ帰ってきたら?」と訊いた。持ち主が帰ってきたら、アンタはどうすんだ、と。
 それに終焉は一度だけ目を閉じると、ノーチェを見据えてこう言った。

「――その頃にはもう、私は居ないんじゃないか?」

 確信を得るような言葉ではない。しかし、曖昧にするような形のない言葉でもない。だが、ノーチェには終焉がそう自分を居ないものとして扱う理由が分からなかった。
 いくら自分に「殺してくれ」と言ったところで、ノーチェに終焉を殺す理由はない。だからこそ、男の存命は約束されている筈だというのに、終焉はあくまで自分は屋敷に居ないものとして扱ったのだ。
 もしかすると別の場所に移動しているのかもしれない。
 ノーチェは確証も得ずに「そこに居ないの?」などという言葉を吐く気にはならなかった。あくまで彼は奴隷だ。そして、この隠れるような生活も、遅かれ早かれいつしか終止符が打たれる筈なのだ。そんなときに長々と終焉と馴れ合う気はなく、浅い付き合いをするものだと思っているからこそ、男に踏み込むようなことはしなかった。
 代わりに用意されているクッキーを一つ。「ふぅん」と呟きながらノーチェは程好い甘さの、軽い食感を持つそれを噛み砕く。サクサクとして、程好い甘味の中に混じる芳ばしさが終焉の手作りだと裏付けているようだった。いくら口にしても感じるそれは、「美味い」の一言で表せるそれだ。
 そして、恒例であるかのように終焉が「美味いか」と彼に訊いた。ノーチェは相変わらず頷いてみせると、終焉は嬉しそうに「そうか」と呟きながら足元に目を配らせる。――すると、気が付いたかのように瞬きをした。

「怪我をしたのか」

 珍しい。そう言わんばかりに終焉は足元に座る猫を見やる。よく見ればその足には赤い血が滴っている。屋敷に来る際に木の根にでも足を引っ掻かれたのだろうか――猫は痛む様子も見せず「にゃあ」と一鳴きする。くるくると終焉の周りを回って、頭を擦り付けた後、長い尻尾を揺らしながらガゼボから出ていってしまう。
 終焉はまるで会話をするかのように「手当ては要らないのか」と猫に言った。すると、猫は一度終焉に振り返った後、そのまま走り去っていく。その軽快な足取りは傷があるなどと思わせるものではなく、「無事みたいだな」と男は安堵するように呟きを洩らした。
 ふう、と息を吐くと先程までの騒がしさが嘘のように静まり返る。気が付けばノーチェの傍らにいた小鳥までも姿を消していて、漸く落ち着きを取り戻すようにノーチェが椅子の背凭れに寄り掛かる。
 少し騒がしかった――終焉と居るだけでは味わえない状況に慣れないノーチェは、呆然と終焉を見つめた。
 独り身でいるにはあまりにも勿体ない。奴隷の相手をするなどもっての他だ。料理の腕は抜群、紅茶の淹れ方も文句の付け所もない。更に言えば見目も麗しく、表情の変化さえあれば周りから好かれること間違いなかっただろう。
 そんな男が何故独りで奴隷の相手をしたがるのか、彼は気になった。――何故出会って間もない人間のことを「愛している」と言えるのか、気になったのだ。

「……あまり、そう見つめないでくれるか。恥ずかしいだろう」
「…………どこが恥ずかしがってんだよ……」

 終始無表情のまま終焉がポツリと呟きを洩らした。その冷めた瞳で「恥ずかしい」と言われてもにわかには信じられない。思わずノーチェは睨んでしまっていたようで、終焉が「変な顔をするな」と言った。「別にしてない」そう呟くが、実際眉間にシワが寄るような違和感がそこにあって、ノーチェは額を手で擦る。ほんの少し力んだそれが、疲労感を誘った。

「……紅茶の淹れ方は分かったか? もし暇を持て余しているのなら、好きに出ていいぞ」

 ノーチェが額を指先で擦っていると、終焉がそっと口を開いた。不意の発言にノーチェは終焉が何を言ったか理解できず、呆然とする。そして、ぼうっとする頭で男が何を言ったのか理解した瞬間、首を傾げる。終焉が物は好きに使っていい、と言っているような言葉に対し、何故そう言われるのかが理解できていないような様子だ。
 終焉はそんなノーチェの様子を一瞥した後、はあ、と大きな溜め息を吐く。どうしても拭えない彼の奴隷意識にどう話をするべきか、腕を組んで頭を悩ませていた。

「まあ……その、なんだ…………私の家、というわけではないが、この屋敷は自分の家だと思ってくれて構わない。私は貴方に無理強いはしないし、貴方は無理に何かをしようと思わなくていい。やりたいことがあるならそれを優先してくれ。私は貴方の主人ではない」

 これで伝わっただろうか。終焉がどこか不安げにノーチェの顔色を窺うように覗き込んだ。光の灯らない奇妙な瞳だ。ノーチェは終焉の言葉を咀嚼し、自分の中でよく噛み砕く。簡潔に言えば「今は奴隷であることは忘れろ」ということなのだろう。
 長年染み付いた奴隷としての意識がそれを許してくれるかどうかと聞かれれば、それは許してはくれないだろう。人間に対する不信感が浮き彫りになる他、ろくな生活を与えられなかったのだから、終焉のいうものを信用するのもまた難しいと思ってしまう。
 ――しかし、折角与えてくれる珍しいものだ。ノーチェは「できる限り……」と呟いて、否定をすることをやめた。すると、終焉は安心したように胸をほっと撫で下ろし、手作りと思われるクッキーを一口。自分の作ったものの出来映えに誇りを持っているのか、「やはり私が作るものは美味い」と言った。

「…………もし、許してくれるなら、暇があるときにこうして付き合ってくれるか?」

 クッキーをもらおうとノーチェは伸ばしていた手を止め、終焉の顔を見やる。何を不安がる要素があるのか、終焉はノーチェの意志を問うように、恐る恐るといった様子だった。
 許すも何もない筈だろう。それとも、終焉にはノーチェに対する罪悪感でもあるのだろうか。――「別にいいけど」そう言ってやるつもりで口を開いたノーチェが呟いたのは、もっと肯定的なものだった。

「……アンタがしたいなら付き合うけど」

 そう言ってやると、終焉はやけに嬉しそうに――そして、安心するように「そうか」と目を閉じて言った。


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