来客の訪問、煽る言葉


 それは、小さな御茶会から数日経った、じっとりとした湿気が体にまとわりつくある日のこと。ノーチェは漸く慣れてきた足取りで階段を下りると、エントランスに黒衣を纏った終焉の姿があった。湿気を体に感じているノーチェはその格好がやけに暑苦しく思え、思わず顔を顰めると、徐に終焉が振り返ってノーチェを見つける。すん、と彼は咄嗟に無表情を取り戻し、何気なく終焉の傍へと近付いた。
 「どっか行くの」そう呟けばノーチェの頭を男は撫で、「ちょっとな」と口を洩らす。頭を撫でられる理由は恐らくない筈だ。ノーチェは乱れた髪をパッと払ってやると、「髪、切ろうか?」と終焉が問い掛ける。首を傾げ、ノーチェの意志を尊重するかのような態度だ。
 ノーチェは首元に回り込む髪を一房つまみ上げ、じっとりそれを見つめる。ここ最近――終焉が居座る屋敷に来てからそこそこ手入れが行き届くようになったようで、以前のような毛先のパサつきなど全くなかった。首元にかかるのは妙にくすぐったく思えるのだが、今となっては特に気にならないというのが本音だ。

「……今はまだ、この方が見えないから……」

 くっと毛先を引っ張って、ノーチェは今も尚外れる兆しを見せない首輪にそっとかぶせる。心なしか、髪の毛のお陰で多少認識はしにくくなったような気がした。「ノーチェがそう言うのなら」終焉はどこか不服そうに呟いたが、ノーチェの意志が優先だと言うようにふ、と肩を落とした。
 彼は男の考えなど一向に理解できなかったが、髪の毛を切るのも悪くなさそうだな、と毛先を指先で弄ぶ。すると、終焉はエントランスの扉に手をかけて、「すぐ戻るから」と言った。

「もし…………もし来客があれば相手してやってくれ」

 出ていく間際に落とされた言葉に、ノーチェは軽く首を傾げてみせる。
 滅多に人は来ないと言っておきながら客人を相手にしろというのだ。扉が閉まる前に見ていた、長い髪を靡かせるその姿は嘘を吐いているようには見えなかった。しかし、鈍色の雲に覆われた曇天の下を歩こうとしていたためか、いやに気だるそうに見えたのは気のせいだっただろうか。
 ばたん。重い扉が閉まる音が静かな部屋に響く。ノーチェは終焉が出ていった方をじっと見つめていて、やることも与えられなかったと気が付くと、何気なく客間へと向かった。
 そこは相変わらず大きな窓が印象的で、ノーチェは赤いソファーへ腰掛けると空を仰ぐように反り返る。太陽も見せない、雨が降りそうな重い空は酷く眠気を誘ってくるようだった。うつらうつらと船を漕ぎ、目を閉じて呼吸を繰り返せば知らない間に眠ってしまっているのではないかと思うほど。
 しかし、晴れ渡った空に比べればいくらかは心地が良かった。
 ノーチェは茫然としながら空をじっと見つめていた。特に意味のない時間を過ごすように、足を放り投げて力を抜いて空を見ていた。家主がいては決して見せることのないだらけた姿だ。
 ――今日はあとどれくらいで帰ってくるだろう。
 気の抜けた姿など見せるわけにはいかない。だが、こうして脱力するのも悪くないと思えるのだ。恐らくノーチェは自分でも気が付かない間に、終焉に対して気を張っているのだろう。何をすべきか、何をしないでおくべきか、次はどう動くのか――顔色を窺う日々が常に癖になっているのだから。
 視界の端に映る紫陽花の葉がさわさわと揺れ動いている。窓を閉めきっている所為か、どれほどの風が吹いているのかも予想できなかった。今夜辺り雨が降るのではないか――そう、考えを張り巡らせることしかできやしない。

「……ティーカップと、ポットと……ヤカンに紅茶…………」

 こんな天気で誰が来るのだろうか。――そう思いながらもノーチェは先日教わった紅茶の淹れ方を口にする。沸騰したお湯でポットを温める、注ぐときは勢いよく。数分蒸らした後にカップへ注げば美味しい紅茶が飲めるらしい。実際のところ自分でそれが淹れられるのかは定かではないが、終焉が言うには来客があるのだ。覚えておいて損はないだろう。
 しかし、酷く湿った雲が一面を覆い尽くしている。よく見れば向こうの雲はどす黒く、今にも雨を呼び起こしそうなものだ。こんな状況で一体誰が街から離れているという屋敷へ赴くのだろうか――。
 トントン。
 ――そう形容できるような軽いノックが響いた。部屋のそれとは違い、多少くぐもって聞こえるのは扉の大きさが違うからだろう。
 客など来る筈がない。そう思っていたノーチェはそのノック音に反射的に起き上がり、酷く重い腰を上げる。――まさか本当に来るとは思っていなかったのだ。ぺたぺたと素足で絨毯を踏み締め、西洋の文化とは多少異なった、靴が並ぶエントランスへ降りる。ひやりとした感覚が足の裏を伝ったが、ノーチェにはそんな感覚はどうでも良かった。
 彼は奴隷という身だ。念のため警戒しながらきぃ、と扉を開ける。隙間から外を覗き見るように恐る恐るといった様子で、ゆっくりと押し開けた。
 ――瞬間、空いた隙間から見慣れない足が差し込まれる。

「――よお、坊っちゃん」

 そう声を弾ませるように言ったのは、赤髪と顔の傷が強く印象に残る男――“教会”の人間、ヴェルダリアだった。
 これはまずい。
 誰かがそう言ったわけではない。だが、終焉とヴェルダリアがやけに互いを嫌い合うような素振りをしていたことを彼は知っている。更に言えばヴェルダリアは“教会”の人間だ。詳しいことは分からないが、終焉は“教会”を嫌っているような態度を持っている。
 ――いや、終焉ではなく、“教会”が終焉を忌み嫌っているのだろう。何せ“終焉の者”と男を称しているほどだ。理由など知りはしないが、生に希望を見出だせないノーチェでさえ、何となくそれは分かることだった。
 咄嗟に扉を閉めるべきか、ヴェルダリアを突き放すべきか彼は判断に迷った。扉は閉められないよう、足を入れられ、体ごと扉との隙間に入れられている。閉めるのは困難に思えるが、ノーチェほどの力を持っていれば何とかなるのかもしれない。――しかし、万が一それで扉が壊れてしまっては元も子もないだろう。だが、ヴェルダリアは易々とノーチェに突き飛ばされるような人間には見えなかった。
 ノーチェが判断に困っていると、不意にヴェルダリアがぐっと手を伸ばしてくる。首ではなく頭に。一瞬でもそれが奴隷商人の手に見えてしまって、体が殴られるのを身構えるように固まった気がした。

「何身構えてんだっつの」
「っ!」

 くしゃり、音を立てながらノーチェは頭を撫でられる。反射的に目を閉じたノーチェにそれはただの驚愕でしかなくて、瞬きを二、三繰り返し目を丸くした。ヴェルダリアは「結構いい髪の毛してんなぁ」と感心するようにノーチェの頭を乱暴に撫で回す。
 まるで小動物を相手にしているかのようなその撫で方に、嫌気が差したノーチェは手を払うと、髪を直しながら「……何」と呟いた。撫で方はやはり終焉の方が優しさが滲み出ているような気がする、と頭の片隅に思いながら。
 ヴェルダリアはノーチェの言葉に瞬きをしてから「ああそうだ」と思い出すように口を開く。――何をしだすのかは分からない。ノーチェは目の前にいる男の行動に目を光らせながらじっと行動を見ていた。彼も彼でヴェルダリアのことが好きではない。一つでも怪しい行動を取れば終焉にそれを告げる心持ちでいたのだ。
 ――だが、ヴェルダリアが口にしたのは彼らへの悪意ではなかった。

「謝罪しに来たんだよ。祭りのときは“教会”の言いつけの下、誰も問題を起こせねぇ筈なんだけどなぁ……よりによってお前を連れてきたド畜生がお前に手ぇ上げたから。いくら余所者とはいえ、今ここにいる以上、お前も街の住人だぜ?」

 「“教会”がずぼらなのがバレちまったなぁ」ヴェルダリアは相変わらず終焉とは真逆の、にやにやとした表情を浮かべたままノーチェに話し掛ける。それが妙に神経を逆撫でてくるような気がして、胸の奥がざわざわと騒いでいる感覚に陥ってしまう。
 ああ、気分が悪い。そう心中で呟くが、ヴェルダリアはノーチェに何かをしたわけではない。むやみやたらに感情を押し付けるわけにはいかないだろう。
 「別に……」ノーチェは気にしていないという意志を伝えた。殴られるのは日常的だったのだ、今更気にされても意味がないだろう。――それに、彼は早く押し開けた扉を閉めたかった。
 終焉のいう来客がヴェルダリアだということはまずない筈だ。何せ、男はヴェルダリアを毛嫌いしているのだから、絶対に招くということは有り得ない。「蛆虫」や「化け物」と互いを罵り合う者同士が家に訪ねることがあってもいいのだろうか。
 ――いや、ない。あってはならないことだ。嫌い合う人間が家に訪ねるなど、考えられる可能性はただ一つ。弱みを握り、相手を確実に潰すための戦略に過ぎない。
 その可能性がある以上、ノーチェは手早くヴェルダリアを突き放したかった。この手の問題はさっさと家主に相談した方が良いに決まっている。――だからこそ、ノーチェは目こそ合わせなかったものの、小さく「帰れよ」と呟きを洩らした。

「…………なぁんか、お前勘違いしてねぇか?」
「…………は……?」

 軽く俯いていたノーチェの顔を覗き込むよう、ヴェルダリアは自身の視線を低くする。狼狽えるような目付き、どこか辿々しい口調、どれをとっても奴隷として自分を圧し殺してきた特徴のあるものだ。それを持つノーチェにヴェルダリアが徐に「俺、今日シラフで来てんだぜ。“教会”は全くもって関係ねぇよ」と口の端を上げる。
 悔しいほどに似合うあくどい笑みだ。それに圧倒されるよう、ノーチェは扉の取っ手をぐっと握り締めた。人を馬鹿にするような嫌らしい目付きがじっとノーチェを見つめる。よく見ればヴェルダリアの格好は“教会”が着ていたそれらしいものではなく、以前祭りのときに見かけたものと同じだった。
 もしや、本当に何もしないのではないだろうか――そう考えを改めようとしたのも束の間、ヴェルダリアがにやりと笑う。

「――自分一人じゃ何もできねぇ可哀想な坊っちゃんに会ってやろうと思ってなぁ!」

 それは明らかにノーチェを馬鹿にしている発言だった。
 当たりだ。今のノーチェは自分一人では何もできない、ただの使い捨ての道具となっている。生きるのも誰かに縋って、死ぬのにも誰かに縋らなくてはならない。ただの木偶の坊と化したノーチェに、ヴェルダリアの言葉が突き刺さる――。
 しかし、彼は傷付くよりも先に、何故だか苛立ちを覚えた。

「……帰れ」

 アンタのこと、大嫌いだ。――考えるよりも先に出てきた言葉は最早憎悪に等しかった。忘れていた筈の懐かしい怒りの感情に、取っ手を握る手に更に力がこもる。目付きはどこか鋭く、今にも喉元に食らい付きそうなほどだった。
 ヴェルダリアはそれに意表を突かれたかのように瞬きを繰り返していたが、一度満足げに笑うと「そうだなぁ」と呟く。そして、そのまま徐に踵を返し、長い赤髪を揺らしながらノーチェに向かって手を振る。

「冗談はこれくらいにしといてやるよ。またなぁ」

 ひらひらと手を振る様は好青年のものに等しいというのに、垣間見る性格の悪さがそれを良しとしなかった。ノーチェは独り言のように「二度と来んな」と呟いて扉をそっと閉める。ぎぃ、と微かに軋んで閉まる扉の向こうでノーチェはほう、と息を吐いた。
 酷い疲労感を覚えたような気がする。眉間にシワを寄せていたのか、違和感が残っていて、何気なくノーチェは額に触れようと取っ手を掴んでいた手を離した。
 ――パラッ
 そう音を立てて床に落ちたそれを見かねて、彼は血の気が引くような感覚を覚えてしまった。
 いくら首輪があったとしても、忘れていた感情を思い出せば不思議と枷が外れるようだった。ひび割れ、欠片を落とした取っ手にノーチェは何も言わずそれを拾い、客間へと戻る。アンティーク調の深い茶色のテーブルに欠片を置いて、彼は赤いソファーへと座り込んだ。

「…………あー……」

 どうしたものか。そう言いたげな声を、彼は天を仰ぎ両手で顔を覆いながら洩らした。ノーチェ自身こんなことで力がこもるなど思ってもいなかったのだ。もう一度同じ程度の力を込めてしまえば壊れてしまいそうなあの取っ手を、終焉にどう説明しようか。――そう必死に考える。

 男はこの屋敷を自分の家だと思ってもいいと言った。しかし、この屋敷はあくまで終焉のものではなく、借りているものだという。その持ち主がいつ帰ってきてもいいように、終焉は手入れを欠かさないのだろう。
 だが、ノーチェはそれを無下にするように傷を入れてしまった。重苦しい、黒だか茶色だかの区別がつかない扉についている金の取っ手。よく見れば小さな皹がしっかりと刻まれている。接着でどうこうできる問題ではない――これこそまさに起こってほしくなかった出来事だ。
 ――しかし、ノーチェはハッとした。これで終焉が激昂してくれれば死ねるのではないか、と。
 この屋敷の持ち主は終焉ではない。だからこそ、男は手入れを欠かさず綺麗なものを保ったままにしている。被害が及ばないよう、何らかしらの手を使って寂れた廃館のように見せることもあるが、結果的に中身は綺麗なままだ。
 それを傷付けたのだ。殴られる覚悟以上のことはしてもいいのではないだろうか――。
 そう思ったところで彼は漸く気が付く。自分は終焉に「死にたい」と意思表示したことがあるのかどうかを。恐らく男は見た目で判断して、ノーチェが死にたがっていることくらいは知っているだろう。だからこそ、出会った頃に「死ぬようなことはするなよ」と言ったに違いない。
 生憎ノーチェには自殺するような気は一切起きない。――しかし、死にたいという気持ちは誰にも負けないつもりだ。たとえそれが終焉相手でも、負けていない心持ちだった。
 死んでしまえば、こんな腐った世界から解放されるのだから――。

「…………?」

 ――不意にノーチェの耳に何かが聞こえた。
 ノーチェはちらりと音の鳴った方を見やる。木の板が手で鳴らされる音――つまるところ、ノック音が再び聞こえた気がしたのだ。小さく、それも控えめで、先程ヴェルダリアが鳴らしたものとは大違いの落ち着いたものだった。
 だからだろう。彼は微かにしか鳴らなかったその音が気のせいだと思い、首を傾げる。待っている間にもう一度鳴らされるかと思っていたのだ。だが、それはノーチェが身構えている間に鳴らされることもなく、ただ静かな時間が流れていった。
 紛れもなく気のせいなのだろう。――ノーチェは周りに撒き散らした意識をかき集め、再び天を仰ぐよう、ソファーへと反り返った。
 すると――コンコン、と確かなノック音が再び鳴った。その音はしっかりとノーチェの耳に届き、彼は咄嗟に体を起き上がらせる。立ち上がり、終焉の言った来客が来たのかと扉の取っ手に手を伸ばした。

 ――本当に終焉の言う「来客」が来たのだろうか。

 そんな疑問が頭を掠め、彼は伸ばしていた手をピタリと止める。何せ先程は終焉が嫌っているであろうヴェルダリアがやって来たのだ。招かれざる客というものが、突拍子もなくこの屋敷を訪ねてくる可能性だってある。それこそヴェルダリアのように敵視すべき人間か、全くもって検討違いの、例えば鳥――啄木鳥のようなものがノックをしたと思ってもいい。多少、現実的すぎても、非現実的すぎても構わない。それほどの警戒をすべきだとノーチェは思う。
 今この屋敷に終焉は居ない。たとえ死にたがっているノーチェだとしても、留守を任されている以上、優先すべきことは屋敷を守ること。先刻のように気兼ねなく開けてしまえば後悔するだろう――。
 無視をしようかと思った。終焉は相手にしろと言っていたが、扉を開けた先に居るのが善人だとは限らない。開ける前に判断しようにも、覗き穴の類いは何故か見当たらない。相手を確認する術がない以上、招くわけにはいかないだろう。
 例えば、向こうに居るのがノーチェを探している奴隷商人ならば、元も子もないのだから。

 ――しかし、そんな彼の意志を叩き潰すように扉の向こうに居るであろう来客は大きな声を上げた。

「ちょっとぉ! 私がわざわざ来てあげたのにノック一回で出ないなんて、あんたどこまで非常識になったの!?」

 紛れもない、相手は終焉の言った来客だろう。
 扉を力任せに殴るよう大きく鳴ったノック音にノーチェは反射的に肩を震わせた。向こうから聞こえてくる声は低いものではない。女特有の高い声だ。終焉に女の知り合いがいるとは思えなかったが、その口振りからして、終焉とは仲が良いのだろう。
 ノーチェは向こうの相手に圧倒されながらも恐る恐る扉を開いた。取っ手が取れないよう、最小限の力で、だ。――すると、扉の向こうの女は目映い金の髪を揺らし、「……あらら?」と間抜けな声を上げた。

◇◆◇

 足早に駆け抜ける街中は相変わらず賑やかだった。ぶつからないよう、最小限の動作を加えながら早く離れようと終焉は目を細める。
 ――眩しい。この街並みは酷く眩しい。できることならば、一歩でも足を踏み入れたくないものだ。
 しかし、終焉の求めるものは街中によく存在するもの。嫌でも渋々足を踏み入れなければ手に入らないものなのだ。だから男はコートのフードを目深にかぶり、何も視界に入れないよう、何にも認識されないよう、気配を消しながら歩いた。
 ――そこで聞いた話に、男は小さく舌打ちを洩らしたのだ。

◇◆◇

 屋敷の中に招いていいものなのか、ノーチェはとっさの判断ができずにいると、女がじっとノーチェを見つめてくる。物珍しいのか、真っ直ぐな瞳――と言っても片目は髪で隠れているが――で彼を見つめ、にっこりと笑った。

「少年も来てたのね」

 ――ああ、まただ。
 彼は人知れずそう思った。それは数回味わったことのある違和感だったからだ。
 こちらは相手のことを全く知らないのに、相手はこちらを知っているような口振り。懐かしさを含んだ妙な接し方。その表情は馴れ馴れしく、まるで以前よく関わっていた、と思わせるようなものだ。
 彼は例によって例の如く女のことは知らなかった。長く靡く金の髪も、露わになっている赤い瞳も、体のラインを強調させるような黒いドレスも、見た目にそぐわないにんまりとした笑い方も、何一つ憶えていない。だからこそ、彼は訝しげな目で、睨み付けるような気持ちで女を見た。
 女は特別何かを企んでいるようではなかった。どこか偉そうな態度はその見た目によく似合っていて、ほんの少し圧倒されるような感覚を体が覚える。ぐっと一歩、女が近付いたのに、彼はそっと一歩だけ足を引いた。

「……誰だ」

 このまま何も言わないのもどうかと思い、ノーチェは徐に口を開く。――すると、女は瞬きを数回繰り返した後、何かを納得するように「そうね」と頷いて、勢いよく胸元に手を当てる。

「私の名前はリーリエ、リーリエ・ヴィレッダよ。気軽に『おばさん』か名前、『魔女』でも文句は言わないわ! さっきはごめんねー、少年があんまりに私の知ってる人とよく似てて!」

 リーリエと名乗った女は自分よりも少し高いノーチェの頭を豪快に撫でた。わしゃわしゃ、とまるで先刻のヴェルダリアのようにだ。――だが、相手は女だからだろうか。先刻よりの不快感など微塵も感じず、ノーチェは呆れにも似た気持ちでそれを受け入れる。
 この街の人間は人の頭を撫で回すのが好きなのだろうか。終焉に始まり、ヴェルダリア、出会ったばかりのリーリエまでノーチェの頭を撫でてきた。それはまるで恒例だと言わんばかりのもので、ノーチェは多少、鬱陶しいと思いながらも何も言わずにいる。
 その目付きがどこか嫌そうに見えたのか――リーリエはノーチェの頭を一頻り撫で回したと思えば、崩れた髪を手櫛で整え始めた。「あんまりに気持ち良さそうな髪の毛だったから、つい……」そう呟く声色は、女のそれというには少し大人すぎていた。
 例えるなら、「母親」が一番相応しいだろうか。

「――……」

 どこか寂しげなその声色に、ノーチェは何かを言おうと唇を開いた。――が、それよりも早くリーリエが口を挟む。

「そういや彼は居ないの? ちゃんと待ってなさいよって言ったんだけど」

 リーリエはノーチェの髪型を整え終わると、両手を腰に当てて頬を膨らませた。どうやら女は終焉と会う約束を交わしていたようで、終焉ではなくノーチェが出てきたことに軽く腹を立てているようだ。
 ノーチェはそんなリーリエを軽く宥めながら「すぐ戻るって言ってたけど」と呟く。行き先は分からないが、行ける場所といえば彼は街中しか分からない。「多分、街……?」そう呟けば、リーリエは口許に手を宛がって、ふぅん、と洩らす。

「熱心ねぇ、随分と」

 まるで、何かを知っているような口振りに、ノーチェは首を傾げながら「何か知ってんの」と言った。

「そうねぇー……まぁ、少なくとも今は少年よりは仲が良いからねぇ」
「………………」

 悪気はない筈だ。更に言えば、何の意図もなく紡いだ言葉である筈だ。――しかし、胸に刺さるようなその言葉に妙な不快感が誘われてしまう。

 「今は」と女は言った。「少なくとも今は」と。――では、以前はどうだったのだろうか。
 今でなくとも、頭に引っ掛かるような点はいくつもあった。終焉のノーチェを知っているかのような言動も、ヴェルダリアの「覚えていないのか」という言葉も、以前から胸に突っ掛かって離れてくれなかったのだ。
 それに触れなかったのは、あくまで今では理解したところで何もできないからだ。仮に会っていたとすれば、それは奴隷に至る前の、遠い昔のことだろう。今のノーチェには以前の自分の性格など全く思い出せないものだが、今のように後ろ向きではなかったような気がするのだ。
 恐らく、前を向いていて、何にでも興味を示すような人間だったに違いない。喜怒哀楽もはっきりとしていて、嫌なものは嫌だと、はっきり口にできていたのかもしれない。
 奴隷になんてなるような人間ではなかったと――そうであってほしいと、思ってしまう。

「勘違いしないでねん。今よく話す相手が私ってだけで、その比較対象を少年にしただけだから」

 彼の頭の中を覗き見たのか、リーリエはにこりと笑いながらノーチェに話し掛けた。「そんな顔すると、格好いい顔が台無しよ〜」と頬に人差し指を刺され、ノーチェは微かに目を丸くする。
 「格好いい」などという言葉を誰かに投げ掛けられたことはあっただろうか。――いや、奴隷になって以来初めて言われたに等しい。
 彼は自分がどんな表情をしていたのかを気にする前に、刺された頬にゆっくりと手を当てる。男が使っている入浴剤のお陰だろうか――、肌は滑らかで滞りなく指が滑っていった。「女の私が羨む肌のきめ細かさ……」リーリエは軽く目を細めて、じっくりと彼を見つめる。
 実際ノーチェが浮かべていたのは、何の変哲もない無表情そのもの。ただ、思考に陥っているのだけはよく分かったのだ。一点を見つめ、話し掛けるリーリエの言葉ひとつにも反応を示さない。そこで女は徐に頬をつついたのだ。
 褒められることに慣れていないノーチェは、頬に手を当てたまま徐に目を逸らす。不快な気分にはならなかった。どこか母親を彷彿とさせてくる女に、どう対処すればいいのか分からなかったのだ。
 もどかしく、名前のつけようのない感情に、ノーチェは茫然としていると、ある独特な香りが鼻を突いた。

「あーあ、やぁだ。降ってきちゃったじゃないの〜、んもぅ!」

 ポツポツと音を立てて降り注ぎ始めた雨は屋根を叩き、こつこつと音を立てて弾む。それにリーリエは機嫌を損ねたようで、艶やかな唇を尖らせながら何やら唸り声を上げている。地面に目を配らせると、若草や花に雨粒が当たり、弾んでは土に染みている様子が見て取れた。

「…………帰っちゃおうかしらね」

 ぽつり、呟かれたその言葉にノーチェは耳を傾ける。
 来客の相手をしてほしい――終焉がそう言ったのだから、男はリーリエに何かしらの用があるのは間違いないだろう。口振りからしてかなり親しげな様子だ。このまま帰らせてしまっては、男の頼み事を聞き入れたことにはならないだろう。
 ――ふと思い出したのは、男の怠そうな背中だった。
 ここはひとつ、終焉の頼み事を聞くのがいいのかもしれない。――たとえそうでなくとも、彼はいやに世話になっているのだ。聞き入れないわけにもいかないだろう。
 そして、今のノーチェの性格上、頼み事を聞くのに多少の抵抗があった。――今一度、それを「命令」と認識するのが適切なのかもしれない。

「……なあ」
「んー?」
「……多分、帰られると困る、と思う。だから……入っていいんじゃないの……」

 ノーチェはゆっくりと扉を大きく開けた。雨と共に多少冷たくなった風が扉を越えて中に入ってくる。素足には少し冷たい――未だに足を守るものを履き慣れないノーチェは、温かかった筈の足先を小さく擦る。
 そんなノーチェの様子にリーリエは驚いたように目を丸くしていた。ノーチェはその類いの表情を見るのは久し振りで、彼も同様驚くように動きを止める。自分の行動が正解か不正解かを考えるより先に過るのは、久し振りに表情が動くところを見た、という小さな感想だった。

「あら、あらあらあら、いいの〜!?」

 リーリエは口許に右手を当てて、空いている左手を上下に動かしてノーチェを見上げた。若い見た目にそぐわない淑女のような行動に彼が呆気に取られていると、「お邪魔しようかしらね〜」と頭を下げる。置き去りだった反応を彼は咄嗟に拾い上げ、「ん」と招き入れると、今まで気にならなかったそれが気になった。

「……荷物、持つけど」

 肩に提げている袋を女は持参していて、見た限りでは軽いものではないと分かった。伸びきった持ち手は今にも千切れてしまいそうなほどに見える。それほどの重量を持つものを、重そうに肩から提げる女の体を彼は気遣ってやった。何せリーリエは終焉の客人なのだ。何かあってはいけないだろう。
 ――しかし、そんな思いとは裏腹にリーリエは「大丈夫大丈夫!」と笑って、その中身を見せてきた。

「私の為の、私のお酒なのよ〜!!」

 その中にはどこから調達したのかも分からない立派な一升瓶と、ワインがごろりと転がっている。一升瓶には力強く「大吟醸」と書かれていて、――ああ、こういう(ひと)なんだな、と彼はどこか虚しい気持ちになった。
 リーリエを招いたノーチェは念のため「ここで飲むなよ……」と独り言のように洩らしてみせると、女は驚いたように彼に向かって振り返りながら「えっ」と言った。袋に詰めた酒の類いを両手でぎゅうっと抱き締めて、目を泳がせながら「そ、そんなことしないわよ〜」と呟く。
 靴を脱ぐときも片時も手を離さなかった辺り、女は酒をこよなく愛しているのだろう。――ノーチェは無表情のまま、気持ちだけ呆れるような目を向けてやった。本当にこれが終焉の客でいいのかどうか、迷ってしまったのだ。その合間にもリーリエは居場所が無さげにうろうろと目の届く辺りを歩いていて、あっと彼は口を開く。

「多分……そこで待ってればいい……と、思う…………」
「あらそう? じゃあお邪魔するわ〜!」

 おしとやか、とは無縁そうな女の振る舞いが、どこか彼の懐かしさを刺激していた。
 リーリエはノーチェに指し示された客間へと向かった。赤黒い絨毯を踏み、赤色に染まる座り心地のいいソファーに体を沈める。その心地好さに思わず声が洩れたのだろう――「おお……」と感嘆の息を吐くように呟かれたそれに、ノーチェは人知れず頷く。
 何せ、そのソファーが持つ魅力は計り知れないのだ。体全体を包み込み、眠気を誘うようなその心地好さは、座った者にしか分からない。それを何気なく気に入ってしまっているノーチェは、その気持ちが分かると言わんばかりに頷いたのだ。
 ――思えばまともな客人の対応をするのは、これが初めてだった。命じられた以上、彼にはそれを全うする義務があるが、その方法が分からない。ソファーに身を委ね、体を伸ばす女の相手など、決まっているようなものなのだが――、何度も言うとおり相手は終焉の客だ。そんなものを望むようには見えなかった。

「――ねえ、あんた、お茶とか淹れられる?」

 不意に口を開いたのは訪ねてきた側のリーリエだ。女は気を遣うように話し掛けてきたのだろう。広がる気まずい空気には耐えられないと言いたげに、リーリエはノーチェを見る。
 淹れたことはないけれど見たことある。彼は大人しくそう言うと、リーリエは「淹れたことないのね」と多少肩を落とすように微笑んだ。期待はしていなかったが、いざそう言われると困る、と言いたげな表情だ。その顔に、ノーチェは何故だか無性に腹が立った。
 ――いや、理由は明確だった。女が来る前に来た、ヴェルダリアが大きな原因だろう。「自分一人じゃ何もできねぇ可哀想な坊っちゃん」――そんな嘲笑うような声が頭の中に木霊する。まるで何人ものヴェルダリアがいるかのように、ただずっと同じ言葉だけが繰り返され続けていた。

「仕方ないし、危ないから私と一緒に……」
「できる」

 妥協案を提示するようにリーリエが席を立とうと腰を上げたと同時、ノーチェが咄嗟に口を開く。え、と女が彼を見上げると、彼は無表情の中にどこか苛立ちを湛えていて、「一人でもできるから」とだけ言った。

「ちょっと淹れてくる」
「ちょちょちょ……!」

 半ばやけくそになっているであろうノーチェはムッとした顔をして、背を翻した。リーリエの焦る表情を後目に、あと男の顔を少しでも捻り上げるよう、多少のことなら自分一人でできることを示してやりたかった。その上、終焉はノーチェに好きにしてもいいと言っているのだ。危ないことはないだろう。
 そんな思いを胸に、彼は焦る女を置き去りにしてキッチンへと消えていった。「……あんたに何かあったら私が怒られんのよ……」そう悲しげな言葉が無情にも客間に響いただけだった。

◇◆◇

 雨足が酷くなった。いずれ降るだろうと思っていたそれは、時間が経つ毎に強さを増している。肩や頭を叩き付けるその粒は冷たく、よりいっそう男の機嫌を悪くしていった。流石の雨には街中も静まり返って、見当たるのは黒い服を纏った終焉ただ一人だ。
 男は曇天を見上げていると、無意識のまま眉を顰め、小さく口を開く。「雨は嫌いだ」と。
 いやに重くなったコートのフードを外し、濡れた手袋をはめたまま、濡れて鬱陶しい前髪を掻き上げる。心なしか酷く怒りに満ちているような瞳がやけに印象的だった。

「……面倒だな」

 終焉はそう呟くと、足早に屋敷へと歩を進め始めた。


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