夜桜と二つの満月


「……そういや花の形した野菜があったんだけど」
「……恥ずかしい話、帰れば貴方が居るということに舞い上がってしまっているのだ」

 梟が鳴くすっかり夜も更けた頃、終焉とノーチェは他愛ない会話を交えながらゆったりとした足取りで土の上を歩いていた。夜は肌寒く、街から多少離れている屋敷への道のりは全くと言ってもいいほど灯りがない。夜空を見上げればそれなりの星空が堪能できるだろうが、灯りのない道で足元の注意は怠れないものだ。
 だが、二人に関してはこれといった危険はないだろう。特にノーチェはその名に愛されているかのように、夜目が利く。何ものの介入も許さない闇でなければ、彼の目は防ぎようもないだろう。終焉もまた夜目が利くようで、足元に転がっていた石を意味もなく軽く蹴った。
 先程の食事に文句をつけるわけではないが、発見を終焉に呟くと、終焉は軽く顔を覆いながらどこか恥ずかしげに理由を話す。ゆっくりと手を下ろしたその先にある表情は無表情以外の何ものでもないのだが、男曰く舞い上がっているのだそうだ。
 人が居るだけで心持ちが変わるのか――ノーチェにはそれがよく分からない。いくら終焉の表情を見たところでそれが伝わるものでもないのだから、彼はそっと目線を戻した。
 長い沈黙になりそうな道を二人で歩くのは多少の気まずさが芽生える。ノーチェは「どこ行くの」と何気なく終焉に問えば、終焉は「すぐそこだよ」とだけ呟いていた。足取りは相変わらずゆっくりとしている。どちらかが遅くしているのではなく、どちらも同じような速度で歩いている結果だ。
 夜の外はいやに心地好く、夜風は肌寒さをもたらそうとも気持ちが安定するような感覚があった。昼と夜、どちらが好きかと問われれば、間違いなく「夜」と答えてしまうような気持ちだ。更に言えば、夜はいっそう人が少なくなる時間帯でもある。それが胸を軽くする要因にもなっているのだろう。

「……今日はやけに付き合ってくれるな」

 夜の散歩を断られるかと思っていたらしい終焉が、ポツリと独り言のように呟いた。ちらりとノーチェが横目で見やるが、男は依然目の前を見据えていて、ノーチェの表情を見ている節はない。何かしらを悩んでいるような振る舞いを取っていたと思っていたのだが――気のせいだったのか、とノーチェも前を見る。
 「何となく、そういう気分だっただけ」理由もなく呟いてやれば、終焉は軽く目を閉じた後、「そうか」と言って笑ったような気がした。――気がした、というのは男の表情の変化がかなり些細なもので、ただの見間違えなのではないかと思ってしまうほどだったからだ。口許が上がっていても見逃してしまいそうな変化だった。
 この人は案外笑うんだな、なんてノーチェは思う。声色はこれっぽっちも変わらないのだから、なおのこと不思議なものだ。「笑いたければ笑えばいいのに」と、彼は自分の口許を指で軽く上げる。かくいうノーチェも、終焉と同じように全く表情が出ないのだが。

「ん、どうした。笑いたいのか?」
「…………別に」

 ――なんて会話をしている間に、終焉は目的の場所に着いたようで前ではなく、空を仰ぐよう上を見上げた。それに倣い、ノーチェも空を見上げてやる。すると、目の前に現れたのは月明かりに照らされた淡い桜の木だった。
 それは昼に見たものと一風変わっていて、儚さよりも妖艶な雰囲気をその身に纏っているように見える。ハラハラと軽く落ちる花弁は、放ってしまえば夜の薄暗さに呑み込まれていってしまうように思え、見失ってしまうその様子に微かな虚しささえも覚えてしまう。
 わざわざこの為だけに外へ誘い出したのだろうか――ノーチェはその疑問をぶつけると、終焉は「そうだ」と比較的柔らかな口振りで、それに近寄る。
 外に居るというのに、終焉は普段のコートを纏ってはいなかった。代わりに現れる白いラインが施されたベスト姿は、執事か何かのように見えるほど。それを思わせないのが男の長い黒髪だろう。腰よりも長く伸びたその髪はただの気紛れか、それとも何らかの意味を含んでいるのか――花が落ちてくると同じように風に揺られている。
 男の桜を眺める表情は、今日一番でかなりの変化を見せていた。
 柔らかな表情――それは微笑みではなく、どこか憂いを帯びたような寂しげな顔。まるで桜に何かを拐われてしまったと言わんばかりの、泣き出しそうな表情だった。ゆっくりと枝に伸ばされたその手も、手袋ではなく素手であるということが、尚更終焉の寂しげな雰囲気を醸し出している。
 ノーチェは特別何かを思うことはないのだが、何気なく終焉の傍に寄ってそれをじっと眺めた。桃色の花弁は夜の中では紫がかっているように見え、夜の世界でもよく映えている。月明かりが更に拍車をかけているようで、花弁の一つ一つがやけに儚く思えた。
 時間帯によってここまで違うのか、と彼は吐息を洩らす。感嘆の息にも似たそれだ。腐ったようなこの世の中でも、いっそう深く美しく世界を彩るものが未だに存在しているのが、多少気持ちを楽にしてくれるようだった。
 これであんな奴らが居なければよかったのに――なんて、言葉にならない悪態を吐いた。――すると、突然終焉がノーチェの名前を呼ぶ。「ノーチェ」と、まるで猫か何かに語りかけるような口調で、彼は呼ばれるがままにその顔を見やった。

「花祭りだというのに花が貰えなかったから、これで勘弁してくれ」

 そう言って終焉が何かを頭に乗せたような気がした。意図が読めず、ノーチェは違和感の残る頭に手を伸ばすと、柔らかな肌触りが手のひらを、指を掠める。それを手に取ってみれば桜が手のひらに収まった。
 花祭りは日頃の感謝を伝える日だったか――ノーチェは何かしらの感謝をされるような記憶はないと言うように、訝しげに終焉の顔をじっと見つめる。男の瞳は憂いた様子もなく、恥ずかしげも見当たらない。ただノーチェの表情を――彼の瞳を見て、ふ、と微笑む。

「今夜は月が綺麗だな。目の色が片方お揃いだ」

 空に浮かぶ月ではなくノーチェを見て終焉は口を開く。そう呟かれて、ノーチェは終焉がやけに目を合わせてくることの意味を漸く知った。「あ」と言葉を洩らし、指先を目元に当てる。
 ニュクスの遣いと呼ばれるノーチェの瞳は紫の中に月を模した金色のそれが存在している。それは、空に浮かぶ月の満ち欠けに連動していて、新月になれば一面が夜を模した紫に、満月になれば月を象徴する金の色に変わる仕組みの不思議な瞳だ。
 そして、今夜は満月。ノーチェの瞳は終焉の片目と同じよう、透き通るほどに美しい金の色に染まっていた。

「……通りで……」

 「通りでやけに行動してしまう一日だと思った」そう言いたげにノーチェは小さな溜め息を吐く。
 月の満ち欠けで変わる彼の瞳――、それに伴って所持者の性格が微かに変わる。満月であれば活発になり行動に起こしやすく、新月であれば通常よりも独占欲が増す。三日月や半月も多少なりとも彼に影響を与えた筈ではあるが、いかんせんノーチェは奴隷という立場になってから自分のことなど気にも留められなかった。
 恐らく何度も同じように目の色が変わった筈だ。それに触れられなかったのは、単純に力目当てのものなのか、それとも恐れていたものなのかは定かではない。運が良く伸ばしたままでいた白髪が彼の目元を隠してくれていたのかもしれない。
 そんな中で終焉はやけに愛しげに、慈しむようにノーチェの瞳を見つめていた。月が綺麗だと言ったその言葉に特別な意味は孕まれているのだろうが――、あくまで男が見ているのは月ではなく、ノーチェの瞳というところ。彼は何気なしに「月を見ればいいのに」と呟いてみれば、終焉はそれもそうだな、と空を仰ぐ。
 煌々と輝く満月の周りには星屑が散りばめられていた。恐らく、あの中にいくつかの星座が存在するに違いないのだが、特に星に詳しいわけでもない彼らはただ茫然と眺めているだけ。
 ノーチェは与えられた桜を指先でくるくると回す。会ったばかりの人間に何を感謝するというのかは分からないが、ノーチェが屋敷に居るだけで心が弾むらしい終焉のことだ。その点に関して感謝でも述べられているのだろう。
 ――そう思えば与えられてばかりの彼も何かをするべきだと思った。足元に転がっている桜の花を一つ、指で摘まんでぼうっと空を、桜を仰ぐ終焉の肩に乗せる。男は彼の行動に気が付いたのだろう、「どうした?」と言ってノーチェの顔を見た。

「……そう言えばあの並んでたやつ、何だったんだ?」
「――ああ、あれば花の形をした、甘い水飴だったよ」

 貴方が居なかったので渡せなかったのが残念だ――終焉はそう言って苦笑を洩らした。「食わされないでよかった」とノーチェが心中で思ったことなど、男は気が付きもしないだろう。――軽く身を翻し、「帰ろうか」と終焉が小さく呟いた。

◇◆◇

 ――あまりにも暗い。視界が宛にならない。手に当たる冷たい感触は、土の上ではないということだけを確かに伝えている。ならば、この体に伝う寒さは一体何なのだろうか。
 一つ一つ丁寧に、コツコツと音が近付いてくる。それは、恐らく目の前で止まったのだろう――不意に現れた小さな火に、男がびくりと肩を震わせる。

「――本当……厄介だね、お前という生き物は。約束ひとつも守れないのかい」

 冷めた声色で呟くのは初老とも言えなければ青年とも言い難い、低い声音だった。その言葉を紡ぐ唇から冷えた空気が吐き出されているような錯覚が、男に襲い掛かる。どこか暗い見慣れない場所に――それこそ冷蔵庫にでも押し入れられてしまったかのように、震えと寒さが止まらなかった。
 「まあいい」声の主はそれだけ一言呟くと、怯える男の顔を鷲掴みにする。
 そして――。

「こんな記憶、無くしてしまえばこちらのものさ」

 そう言って、藤紫の瞳が妖しく揺らめいた。


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