素肌に滲む青、乳白色に染まる水面


 夕暮れに鳴く鳥が声を上げている哀愁漂う時間に、彼らは屋敷で妙な言い争いをしていた。

「……っいいから……! このくらいは自分でできるから……!」
「怪我人は大人しく従うべきだ……っ」

 ギリギリと音を立てているかのような攻防戦が繰り広げられている。暑苦しいコートを脱いだ終焉はノーチェの服のボタンに手を掛けていて、ノーチェは脱衣を手伝われまいと必死の抵抗を見せる。終焉の手を引き剥がすかのように、彼はその手を開こうとかろうじて残っている力を振り絞り続けた。

 時間をかけて裏道を通り、屋敷へと帰りついた終焉は手始めにノーチェの手当てをしようと道具を携えた。動くのに邪魔なコートは赤いソファーへ投げ捨て、手を洗いに行かせたノーチェの戻りを待つ。道中ノーチェが足元をふらつかせていたものだから、終焉は思わず彼を抱き抱えてしまった。
 その所為だろう――手洗いから戻ってきたノーチェの表情がどこかふて腐れるようなものになっている。眉を顰め、口を閉ざし、しぶしぶといった様子で終焉の元へ近付いた。「随分とふて腐れているな」と終焉が言おうとも、ノーチェはそれに答えることはなく、赤いソファーへと腰を掛ける。
 彼に残る多少のプライドがよしとしなかったのだろう。まだふて腐れるだけで済んでいるのは、ろくに人目につかなかったからだろうか。
 終焉はノーチェにこちらを向くように声を掛ける。まずはよく目立つ顔から手当てをするようで、いくつかの道具を出して終焉はノーチェへと向き直った。ノーチェは従うように終焉に顔を向けているが――その表情は無愛想で不機嫌そのもの。冷めた無表情の終焉は、心中でくつくつと笑いながら「そんな顔をするな」と言う。

「仕方がないだろう。あのまま歩いてしまえば貴方が倒れてしまったかもしれないのだ」

 そう言って口許の傷口に消毒を染み込ませた綿を軽く当てる。じわりと焼けるように襲う痛み――反射的にノーチェは目を閉じて、体を強張らせる。綿には止まりかけていた赤い血がじわりと染み込んでいて、心なしか手当てをする終焉の動きがぎこちない。
 ノーチェの具合を考慮してのぎこちなさなのだろうか。――痛みに慣れ始めたノーチェはゆっくりと目を開ける。同時に綿が離れていくのを見て、彼は軽く唇を尖らせながら「そうじゃない」と呟く。

「もっと他に運び方があった筈だろ……なのに、何で女みたいにお姫様抱っこなんてしたんだよ……」

 ――どうやら彼が気にしているのは「運ばれた」ことよりも、「運び方」に文句があったようだ。ノーチェはじろりと終焉を睨むように見つめると、終焉は手当て道具を持ちながらきょとんとした表情を浮かべる。まるで、それが当然だと言わんばかりの態度に、ノーチェは言い表しようのない混乱を覚える。
 終焉は一言だけ呟いた。「その方が顔が見えるから」と。顔が見えて、且つ安定を求めた結果の行動だと。
 それにノーチェは混乱した後、終焉がこういう人なのだと無理矢理自分を落ち着かせるに至った。そうでなければ何もかも納得いきそうになかったからだ。ただでさえ男は怪我の手当てをしてくれている。これ以上の迷惑など、かけるべきではないだろう――。
 ふと、ピリピリとフィルムを剥がす音が鳴る。見れば、終焉が手のひらサイズの白い湿布を手にノーチェの顔を見つめている。そして、フィルムを剥がした常温の湿布を、ノーチェの青い頬にゆっくりと貼った。――くさい、とノーチェは小さく口を洩らす。
 彼の端正な顔立ちは、ところどころ傷を背負ってしまっていて、見るだけでも痛々しさが身に染み渡るほど。それは、微かに触れてみれば傷を負う本人が一瞬だけ顔を顰めてしまうほどなのだから、余程のことなのだろう。ノーチェ本人はそれほど気に留めていないようだが――、終焉はそうは思わなかった。

「次は殺しておくから」

 そう口を洩らしたのは、他でもない終焉だった。貼られた湿布の上から頬を触られているノーチェは、その言葉に茫然として微かに目を丸くする。何せ、終焉の表情が言葉と一致していないからだ。怒りを露わにしながら口にするなら理解できるというのに、終焉はただどこか物寂しげな表情を浮かべたままだった。
 思わず「物騒……」と呟いたノーチェには、誰かを殺すなどという想像が一切できやしない。ましてや生きている人間に刃を突き立て、肉を裂くなど、想像しただけで血の気が引くものだ。
 この人は暮らしどころか生き方さえも自分とは真逆なのだろう――ノーチェは自分にはできないことをやってのける終焉をじっと見つめる。ノーチェに対する接し方からすれば、人殺しなど行うには見えなかったが、街で出会ったヴェルダリアへの接し方を見ればそうでもないのかもしれない。
 ――そう思えば、この屋敷に独りで住んでいる理由が何となく分かった気がした。それが正しいものか、確証は得られないのだが、やはり彼は「そういうものなのだ」と思うことにしているのだ。

「…………もう平気」

 ゆっくりと自分に痛みが走らないよう、ノーチェは添えられていた手を剥がす。終焉は「そうか」とだけ呟いて大人しく手を下ろす。――何か言われるかと思っていたノーチェだが、その終焉のおとなしさを見て妙な安心感を覚えた。
 ――だが、終焉はその程度で終わるような男ではなかった。
 ノーチェは手当てが一段落したものだと思い、何気なく席を立とうと重い腰を上げる。二人きりの雰囲気は妙に耐え難いものがあった。やることが与えられないのならば、せめて与えられている部屋に引きこもるべきだろう――そう思い、座り心地のいいソファーから徐に立ち上がったのだ。

「…………?」

 立ち上がる際に使った手を引いたのは他でもない終焉だった。男はいやに澄んだ瞳でノーチェを見つめていて、まるで、今から告白でもするのではないか、という錯覚を与えるほど。初対面にして「愛している」と告白を受けたノーチェでさえ、その真っ直ぐな視線が堪らなく嫌に思えた。
 そうして暫くの沈黙が続いた後、終焉はゆっくりと唇を開いたと思えば――。

「脱げ」

 ――と、そう一言だけ言葉を置いた。
 一瞬だけ、ノーチェは目の前の男が何を言っているのか理解できなくて茫然とする。彼自身、見目の良さゆえに半ば無理矢理体を求められたことも、強いられたこともあった。その経験がまともな思考を忘れさせたのだろう。「……は?」とノーチェが思わず呟いた言葉に、終焉は首を傾げる。
 頭の片隅では分かっている筈だ。終焉は体を求めてくるような性格ではないと。――しかし、何の脈絡もなく「脱げ」と言われて、ノーチェも「はい分かりました」と易々脱ぐような人間ではないつもりだ。自発的にそれを促す程度なら、理由がはっきりしない限り彼は脱ごうともしないだろう。
 ノーチェは終焉が何を理由に脱げと言っているのか、じっと言葉の続きを待っていた。首を傾げ、真面目な表情――もとい、無表情を飾ったその顔を、多少の瞬きを繰り返しながら見つめていた。
 それを男は脱げないものだと解釈したのだろう。終焉はノーチェの手を引きながら徐に立ち上がると、ボタンが留まっている箇所へと手を伸ばす――。

「……いや…………いやいや……」

 突然の終焉の行動に、ノーチェは軽く首を左右に振りながらボタンを外そうとする手を掴む。まるで介護されているかのような状況に、かろうじて残る抵抗が唸りを上げる。
 ――思えば終焉に鎖を切られて以来、無くしたと思っていた欲が少しずつ思い出せているような気がした。その点において――いや、家に置いてくれていることや、対等な人間として接してくれていることについて、諸々と感謝をするべきなのだろう。
 しかし、それには限度というものがあって、ノーチェにも許せるものと許せないものがある。例えば、このように世話を焼かれすぎることが、成人男性として許すことができないのだろう。
 そんなノーチェを前に、終焉はただ無表情のまま「そう抵抗するな」と手に力を込める。
 男曰く、怪我をしているのだから世話を焼かれるべきらしいのだ。屋敷まで歩いている間にも足が縺れ、ノーチェは躓くことが多かった。彼は「平気」としか言わなかったが、それを見て歩く終焉の心持ちは落ち着いたものではなかっただろう。
 それが今になって全面的に現れているものだから、若干の悪意さえ感じられるほどだ。ノーチェは必死の抵抗を見せているためか、終焉は力を込めることも許されていないようで、両者共にその場に踏ん張っている様子もよく分かった。

 ――そして、話は冒頭へと戻る。
 ノーチェは自分でできると言って脱がそうとする終焉の手を掴んでいるが、終焉は大人しくしろと言って服に手をかけている。ノーチェが十分な抵抗を見せていられる以上、彼の言うように致命的な怪我は請け負っていないのだろう。
 しかし、妙な責任を感じているからか――終焉はその手を一向に退かそうとはしなかった。まるで、怪我を負ったのは自分が傍にいなかった所為だと言いたげに。

「――……はあ」

 すると、突然終焉が参ったと言わんばかりに溜め息を吐き、手を離す。惜しみなく、呆気なく。それに、抵抗していたノーチェは一度重心を前に倒しかけて、咄嗟に足を踏み出して体勢を持ち直した。
 そして「どういう風の吹き回しだ」と言うようにちらりと終焉を見やると、男は呆れるような顔付きで――且つ無表情のまま、ただノーチェを見つめている。その呆れるような表情はまるで、時間が勿体ないと言い表しているようだった。
 ただでさえ終焉は一人で身の回りのことを成し遂げようとしているのだ。特にこれからは風呂や夕飯が待ち構えている。恐らく、終焉は夕食作りに精力を尽くしたいのだろう。「時間が勿体ないからな」と口を洩らす様は、先程の攻防戦に疲労さえも覚えているようだ。
 ――勝った。
 無意識にそう勝敗を決め付けたが、ノーチェは一つ一つ丁寧にボタンを外していく。本当ならば逃げてやってもよかったのだが、目の前の男がそれを許すようには思えなかった。そんなことをしてしまえば次こそは無理矢理にでも服を剥がされかねない。
 そう思ったノーチェは必要最低限と思われる露出をする。服のボタンは外した。しかし、殴られた箇所以外は見せる必要もないだろう、と腹部のみ服を捲り上げて終焉に見せてやる。
 ――それに、男は納得していたようだった。
 彼の体は酷く傷だらけだ。それでも終焉の第一声は「肉付きが悪いな」の一言で、ノーチェは軽く首を傾げる。体つきは確かによくはなかったが、それよりも目を惹くのは鳩尾付近にある青い痣と、いくつかの傷痕の筈だ。殴られたときの古い痕は多少肌に残ってしまっていたが、切り傷に比べれば何てことはなかった。
 だというのにも拘わらず、終焉は単純にノーチェが痩せていると呟いた。まるで異なる着眼点にノーチェは「変なやつ」と口を洩らす。

「変で結構。一応軟膏でも塗っておくか」

 そう言って終焉が取り出したのはチューブタイプの塗り薬だった。手で口を捻り、慣れた手付きで指の腹に白い塗り薬を載せる。その色が相まって終焉の黒い爪がよりいっそう際立った。終焉が普段から手袋をしているのは爪を隠すためだろうか――ノーチェが茫然と思考を巡らせている間に、終焉は患部へと指を滑らす――。

「……?」

 それに気が付いたとき、奇妙だと言わざるを得なかった。先程湿布を貼られたときには対して気にも留めていなかったが、ノーチェはそれが分かると途端に気になって仕方がない。
 黒い爪を持ったその手がいやに冷たかったのだ。通常人間ならば血液が流れている以上、体が温まる筈だというのに、男の手はよく冷えていて水のように冷たい――いや、まるで氷のようにヒヤリとしていた。その手は絶え間なく塗り込むようにノーチェの腹を撫でているが、何故だか体温が奪われる一方で、終焉の指など温まる兆しもない。
 そんな不可思議な現象に意識を奪われていたとき、ノーチェはふと裏通りでの出来事を思い出す。――赤髪の男、ヴェルダリアが挑発的に呟いたあの一言を。

 「化け物風情が」――そう言われてしまえば胸を刺されてしまうような一言が終焉に投げられた。直後の終焉は顔色一つ変えず、寧ろ怒りに満ちていたような表情ばかりを湛えていて、言葉など気にしている様子もなかった。
 いくら奴隷であるとはいえ、ノーチェでさえも「奴隷風情」以上の言葉など投げられた記憶もない。――けれど、それ以上のものを槍のように投げられてしまえば、思うところはあるだろう。
 男が投げられた言葉の理由はこの手にあるのだろうか。氷のように冷たく、まるで死人を彷彿とさせる手が、ノーチェを慈しむように懸命に薬を塗り込んでいく。一向に温まらず、それどころか多少の寒さまでもをノーチェは覚え始めてきた。冷え性という程度の言葉には収まらないほどの、可笑しな冷たさだった。
 終焉はその理由を知っているのだろう。自分が「化け物風情」だと言われる理由を理解しているのだろう。男はノーチェのことを十分すぎるほどに知っているようだが、やはりノーチェは終焉のことを何一つ知りやしない。
 あまりにも一方的なその状況に、ノーチェは重々しく唇を開いた。

「……匂いを辿ったって何」

 化け物と言われる直接的な理由は訊く気にはならなかった。咄嗟に思い出したのは、終焉が彼を追った際に辿ったらしい、匂いというもの。ノーチェにはこれといって終焉の匂いなど分かる気にもならないが、ボディーソープや洗髪剤などの香りは気にすれば分かる程度だ。
 ――それでも人混みの中を辿るほどの嗅覚など、彼は持ち合わせてはいない。更に言うならば、街中は花や洋菓子の類いで甘い香りに満ちていたのだ。人一人の特徴的な香りなど辿ってこられるものなのだろうか。
 終焉のあの口振りは、自らを人間以外のものだと例えているようだった。嗅覚の鋭い獣のような印象を強く受けるほど。
 ――そう、例えるならば、男に似合うものは狼だろうか――。

「……簡単な話だ。アレが私に向かって言っていただろう、『化け物風情が』と」
「………………」
「そういうことだよ」

 つぃ、と腹部を撫でていた指が躊躇なく離れていった。少しも温まらなかった手が、塗り薬の蓋を閉める。きゅっと小さな音を立てて閉まったそれを、終焉は躊躇いもなく救急箱へと入れた。
 その流れる動作を見つめていたノーチェは、ゆっくりと服を戻し、丁寧にボタンを閉めていく。男が自身を卑下するように化け物だと言った理由を考えてみたが、それらしい理由はまるで見当たらなかった。何せ、終焉の見た目は誰がどう見ても人間らしいそれで、ただ人並み外れた嗅覚を持ち合わせている程度だとしか思えないのだ。
 パタン、と救急箱の蓋を閉じる音が鳴る。終焉は徐に立ち上がると、「買い出しに行くか」と言った。街に赴いたはいいものの、食材らしい食材は一つも買ってはいなかったのだ。これではまともな食事の準備すらできないのだろう。
 ノーチェはそんな終焉の様子をじっと見つめていた。力仕事なら得意な分、彼は荷物持ちくらいならできるだろう、という視線を投げかける。その瞳には何の感情も込められてはいないが、昨日彼は言ったのだ。――どんな待遇を受けていても、自分は奴隷なのだと。
 その視線に気が付いたのだろう――、終焉はノーチェの特徴的な目をじっと見つめ返す。「怪我人なのだから安静にしていろ」と言い張るように、冷めた目を向けているつもりだった。
 ――しかし、その程度で引き下がるノーチェではない。
 彼は何も言わず負けじとその目を見つめ返すだけだった。怪我人だろうが何だろうが、今まで受けてきたのだから何も問題はない、と言いたげだ。目は口ほどにものを言う、というように、両者の視線はどれもこれもやたらと意味を含んでいる。

「…………はあ……」

 ――数分の沈黙の末、その空気を引き裂いたのは終焉の重い溜め息だった。

◇◆◇

 食器がぶつかり合う音がいやに響く部屋で、ノーチェはパンを一口。真っ白なシチューにつけてはちまちまとそれを食べ進める。具がいくつも入ったシチューには、固さが特徴的のフランスパンがよく合った。それをナイフで切り分けて丁寧にバスケットに盛り付けた辺り、終焉は見目にもよく気遣っているようだ。

 数分続いた沈黙の後、終焉はノーチェを屋敷に残したまま買い出しに行ってしまった。――勿論、ただ彼を置き去りにしたのではなく、やるべきことを残してからだ。

「じゃあ……風呂で……」

 そう呟いた終焉は表情はどこか遠慮しているように見えた。恐らく性格上、誰かに何かを頼むといったことは苦手なのだろう。微かに目を逸らしながらノーチェに呟くその様子はどことなく可愛らしさを持っているように見えた――が、ノーチェも気が気でなかった。
 彼は知っている。終焉の手間も惜しまないような、掃除の行き届いたやけに綺麗な浴室を。タイルの隙間から、戸の角まで、隅から隅まで掃除が行き届いてしまっている浴室を。その場所に足を踏み入れ、手を出すなど奴隷である自分が許されるだろうか――。

「……ただ沸かすだけなので……」

 ノーチェを見かねてハッとした様子の終焉は、咄嗟に言葉を続けた。恐らく本人は気が付いていていないだろうが、ノーチェの表情はどこか怯えるような――それでいて圧倒されるような小動物のそれによく似ていたのだ。終焉は何か恐れられるようなことはしていない筈だと首を傾げながらも、彼に説明をする。
 終焉とてそこまで時間をかけるつもりはないのだろう。沸かすだけのことをしたのなら、その後は自由に過ごしていて構わないと言った。沸かした風呂に入るもよし、自室にて茫然とした時間を過ごすのもよし、回り足りない場所があるのならば歩き回るのもよし、――ただし無理はしない範囲で、というのが男の指示だ。
 それにノーチェはほっと胸を撫で下ろした。余計な手を加えるよりも、言われたことを淡々とこなせるだけの作業に安心感を覚えたのだ。――直後、自分は死にたがっているのだから反抗すれば良いのでは、と首を傾げたのは言うまでもない。
 終焉は唐突に「シチューが食べたい」などと言うと、やはりノーチェの頭を撫でてエントランスの扉に手をかける。

「すぐ戻る」

 そう言って出ていった終焉に、こくこくと首を縦に振りながらノーチェは見送った。じくじくと痛む頬に何気なく手を添えながら、頼まれた浴室へ向かうと、やはり使用感のない綺麗な空間が広がっている。隅から隅まで換気が行き渡り、到底カビなどの発生を許さないと言っているようだ。
 ノーチェはそれに相変わらず圧倒されながらも、浴槽の栓を閉め、ちらと横目でパネルを見る。街から多少離れているというのに、随分といい設備を持っているようで、ボタンを押して時間が経てば自動的に風呂が沸く仕組みになっている。
 これでは抗議した意味がないじゃないか。――そう思いつつ手探りでそれを押していけば、一呼吸おいて多少の音を立てながらお湯が勢いよく飛び出している。後は時間が経てば沸いてしまうだろう。

「…………やることねぇじゃん」

 なんてことを呟きながら、ノーチェは浴槽の蓋を閉める。――見れば見るほど違和感のある、黒い浴槽を横目に、彼は戸を閉め、そっと浴室を後にした。
 やることもなく、何気なく階段を上り、与えられた部屋へ赴く。重苦しい黒光りする扉を開けて、見た先にあるのは多少慌てて用意してしまって、まともに片付いていない一室。布団は捲られ、部屋着は床に落ちている。
 改めてその状況を見ると、ノーチェは言い様のない呆れを覚えた。これが成人した男の有様なのかと、溜め息を吐く。恐らくこれだから終焉に子供のような扱いを繰り返されるのだろう。たとえ愛されているとしても、子供扱いなど御免だった。
 ノーチェは頭の片隅にある記憶を頼りにパタパタと部屋着を折り畳んでいく。慣れない手付きだからだろうか――、妙に歪なそれにあまり納得しなかったが、仕方がないと言って妥協を見せる。その後に立ち上がって寝具へと向き合うと、柔らかく軽い布団を丁寧に畳み始める。
 所謂羽毛布団、というやつだろう。羽のようにとはいかないが、毛布よりも軽くふわふわとした印象が強く、畳んだそれに一度だけダイブを決める。ぼふん、と大きな音が鳴った気がした。久し振りの寝具はいつまでも新鮮で、一人で正気を取り戻せば「何をやってるんだ……」と呟きを洩らす。
 そうして分かったのは、この屋敷の大抵のものが高いだろう、ということだ。起き上がり座り込むノーチェがいるこの寝具一つとしても、弾力は心地好く、枕は低反発のもの。それが恐らく各部屋に用意されているのだろうから、相当な資産を持っているのだろう。

「……あの人何なんだ…………?」

 単調な思考でものを言うなら相当な資産家だ。――しかし、その程度だけでは済まないだろう。憶測で物事を決めるのはどうかと思うが、ノーチェは終焉をただの資産家で終わらせるつもりはない。
 第一「終焉の者(あんな名前)」なんて、誰が好き好んで名乗るだろうか――。
 ぎっ、と音を立てて軋む寝具を後目にノーチェは部屋を後にする。多少のねだりが許されるのなら、備え付けてある本棚にいくつかの本でもねだるのがいいだろう。そうすればいい暇潰しになる筈だ。
 彼は階段を下りた後、流れるように終焉の部屋へと足を運んだ。どうせ暇を潰すなら確実に本のある家主の部屋で本でも嗜もうという魂胆だ。ノーチェは部屋の扉を開けると、相変わらず手入れの行き届いた部屋を目にする。――しかし、他の部屋とは異なって人間味のある多少なりとも使用感が現れている部屋だ。
 その部屋に足を踏み入れ、軽く本棚を物色する。ノーチェが知る言葉から、全く読めない言語まで丁寧に取り揃えてあった。どこか並びが変わっているような気がしたが、ノーチェは気にせず適当な本を手に取る。そして、ほんの少し芽生えた好奇心に負けて、部屋の主の物と思われる椅子へと腰掛けた。
 キャスターなどの付いたものではないが、それの座り心地はかなり上々。抱き留めるかのようなクッション性と、寄り掛かり甲斐のある背凭れはかなり癖になりそうなものだった。思わず「おお……」と声を洩らし、数分その機能性を堪能した後、ノーチェは手に取った本をパラパラと捲る。
 それは――黒い背表紙の見慣れない話だった。

『――いくつかの事象を招いた後、その結末は必ずと言ってもいいほど、同じものへ辿り着く。それを呼び起こすのは他でもない黒い獣――六本の尾を持ち、耐え難い空腹をその身に抱え、自らの食欲を満たすためだけに世界を喰らい続けるという。
 確証も得られないお伽噺にも似た、架空の話だと思われているのだから、幻想物語か何かかと思える。――しかし、ルフランにある教会の面々はそれを信じているようで、軽蔑の意を込めて獣に名前をつけたそうだ。だからだろうか、黒い獣をこの街が好いていないのは。
 ――尚、この街にはやけに多くの言い伝えが蔓延っている。一つのものを信じるのは懸命とは言えないだろう。かくいう私は、その話を信じてその名前を口にすることは止めた。この本を読んでいる読者にも、警告の意を込めて文末に書き記しておくので、名前を聞いたとしても言ってはいけないと思うといい。

 彼のものの名は――』

 ――ピピッ
 不意に微かに聞こえたのは無機質な音だった。ノーチェは本に向けていた意識を取り戻し、咄嗟にその本を閉じて棚に戻す。あの音は恐らく風呂を沸かす際に使った機械の音だろう。自動というものはいやに便利で、自分が何をしていたのかをいとも容易く忘れさせてしまう。
 ノーチェは軽く小走りをして浴室へ向かうと、機械というものは便利なもので、必要以上のお湯を張らないよう自動的に止まっていた。ノーチェは先程の音を聞いたことはなかったが、恐らく彼の部屋が二階にあることから、音がそこまで届かなかったのだろう。
 閉めていた蓋を開くと、透明なお湯が湯気を立ち上らせながら顔を覗かせる。黒の浴槽にそれはあまりにも見にくく、軽く唇を尖らせて「むぅ」と誰かのように唸ると、ふと思い出した。

「……どこにあるんだ……?」

 浴室を出て脱衣所へ――ノーチェは辺りを見渡してその行方を捜す。
 棚には丁寧に折り畳まれた柔らかく肌触りのいいバスタオルと、かごが少し。あまり気に留めなかったが、近くには洗濯機が鎮座している。洗濯物が出てくる風呂場に洗濯機が存在しているのは随分と移動が楽になるな、と人知れず思った。
 そうして漸く見つけた探しものは、柔軟剤の隣に当然の如く居座っている。ノーチェはそれを手に取ると、何気なく振るった。――かなりの量が入っているであろう入浴剤が、音を立てて入れ物の中を縦横に駆け巡る。
 これで間違いはないのだろう。ラベルを見るが、当然それは間違えようのない入浴剤だ。白い入れ物に際立たせるよう、桃色に彩られた蓋を回し開けると、甘い香りのする白い粉末が凝縮されている。中に入っていた匙で掬うと、丁度いい量が収まった。
 「これだろうなぁ」彼は入浴剤を片手に浴室へ戻る。未だにほうほうと湯気を立たせるその湯船にふ、と入浴剤を入れて、全体に行き渡るよう混ぜてやれば見慣れそうな白い湯船が完成した。

「……確かにこれなら、よく見えるな……」

 先程までに認識しにくかったお湯と浴槽の境界線がくっきりと浮かび上がった。もしかしてこの為にあるのではないか、と思えるほどだ。
 ――すると、丁度よく扉の開く音が鳴る。帰ってきたのかと、彼は手を拭いてからエントランスへと向かう。そこにはビニール袋を片手に靴を脱ぎかけている終焉が居た。男はノーチェに気が付くと、甘い香りがしたのだろうか――「本当に沸かしたのか」と小さく口を洩らす。
 まるで予想外だと言いたげな発言にノーチェは何かを言ってやろうと思ったが、徐に口を止めると、そのまま「……おかえり」とだけ呟く。

「……ん」

 あくまで慣れていないと言いたげに遠慮がちに、終焉は「ん」とだけ洩らす。彼はそんな終焉に近付いて何気なく荷物を持ってやろうと手を伸ばすと、「ああ、いい」と然り気無く躱された。

「私はこのまま準備をしてくるよ。貴方は風呂に入るといい」
「……? こういうのって家主が先じゃ……?」

 かわされたことにノーチェは一瞬でも小馬鹿にされたような気がしてならなかったが、続けられた終焉の言葉に呆気に取られる。彼は終焉が先に入るものだと信じて疑わなかったのだ。スキムミルクの入浴剤を率先して入れたのも、それが大きな要因だろう。
 ――しかし、男はノーチェの言葉に一呼吸おいてから呟くように言った。

「……私は入浴時間が長いのだ。許されるならば二時間以上は浸かりたい。――だから、先に入っておいで」

 ――そうして彼は入浴の後、平然と用意された食事を口にしているのだ。

 終焉は相変わらずノーチェの目の前で彼の食事をじっと見つめているだけ。時折「どうだ」と訊いてくれば、ノーチェはそれにただ頷いてみせるだけで、まるで会話が成立しているとは思えない。――だが、終焉はそれに十分満足しているようで、ほう、と吐息を洩らしてはノーチェを見つめた。
 味付けを心配するわりには随分と拘りが散りばめられているな、と彼は思う。
 銀色のスプーンでそれを掬い取った。それは、丁寧に花の形に仕上げられた橙色のニンジンだ。恐らくノーチェが風呂に入っている間に仕上げたのだろう。細かく、そして繊細なそれは余程の時間を持て余していなければ到底出会えることのないものだ。
 時間にも余裕そうだな――ノーチェは掬い上げたそれを口に含む。すると、それを終焉が興味深そうに見つめている。――いや、彼の目をじぃっと飽きることなく見つめている。
 終焉は相変わらず食事には手をつけようとしなかった。「……アンタは食わないの……」と訊けば、男は「そのうち」とだけ呟いてくる。
 思い返してみれば手作りのラスクや、アップルパイ、売られているクレープなどを口にしているのに、終焉はまともな食事だけには手をつけない。何かの理由があるのかと思うが、それらしい理由など聞いたことも、それらしい行動も見たことがない。目の前の男はただ、ノーチェの食事だけを丹念に眺めているだけだった。

「……変なやつ……」

 スプーンを口に咥えて目を合わせないようノーチェが呟くと、終焉は「そうだな」と言った。その口振りは間違っていないと言っているようにも思えた。何かしらのものを言いそうな終焉が黙っているのは妙に不謹慎で、何か粗相をしてしまったのかと思考を巡らせる。
 特に望んだわけではないが、もしかすると屋敷を追い出されてしまうほどの事をしてしまったのではないか。終焉はただ黙りながらじっと見つめて、どう追い出してやろうかとそれなりの思考を巡らせているのかもしれない。
 どうせ追い出されるなら、また奴隷として捕まる前に殺してもらいたい。
 ――なんて食事をする手が疎かになる中、終焉が微かに唸ってから顔色を窺うように「終わったら夜風に当たりに行かないか」とノーチェに言った。


前項 - 次項
(14/83)

しおりを挟む
- ナノ -