光明の裏、交差する敵意


 ――何が起こっているのか判断に時間が掛かった。
 かろうじて見える景色には人の目など映らない。ただ走るように過ぎていく建物がぎりぎり視認できる程度で、人など自分に襲いくる波に抵抗するので精一杯だ。口許に手を当てられているらしい――ノーチェは息ができないと分かるや否や、動く手でそれを外そうと手をかけた。
 すると、それに従ってやるように手が離される。――いや、投げ飛ばされたのだ。体を強く石畳に叩きつけられ、全身を襲う鈍い痛みに彼は小さく呻き声を上げる。息はできない。あれだけ求めた酸素がそこら中にあるというのに、動悸と共に脈打つ痛みが呼吸の邪魔をする。
 ああ、痛い。――そんなことを思うよりも早く視界に映る手のひらを見て、彼は「あ、」と吐息にも似た声を洩らした。
 手の中に納めていた筈の、終焉がわざわざ買ってきたクレープがどこにも無いのだ。恐らく、こうなると共に地面へと落としてしまったのだろう。美味しかったのだろうが、生憎ノーチェは「美味い」の判断基準を忘れかけている。それが本当に美味しかったのかは定かではないのだが、勿体ない、と頭の片隅で思う。
 食事を摂るところを見せなかった終焉がぺろりと平らげてしまったのだ。食べきるのがよかったのだろうが、終焉にあげる方が、地面に落としてしまうよりはマシだった筈だ。勿体ないことをした。これだから食べる気がないのだ。

 茫然と思考に落ちるノーチェを他所に、それが「くそっ」と悪態を吐く。
 住人に紛れて気が付かなかったその深い緑のローブ。しっかりと付けられている馬の形を模した金の留め具。極めつけは手を負傷してしまっているかのような謎の包帯――それは、ノーチェを連れてルフランにやって来た商人≠サのものだった。
 男はノーチェを見下ろして肩で息をする。漸く呼吸が整い、痛みが無くなってきたノーチェはちらりとその顔を見やると、目が合った男が虫を見るような目付きで睨んで――半ば衝動的に彼の腹を蹴る。

「――……っ」

 随分と人気のない場所に連れてこられてしまったようだ。辺りは建物や壁ばかりで、人の声が随分と遠くから聞こえてくる。この状態では誰がどこに行ってしまったのかも、誰も気が付かないだろう。――だからこそ、暴力や麻薬など、人の目についてはいけないことが行いやすいのかもしれない。
 突然溝尾を蹴られたノーチェは、痛みに声を上げることはなかったものの、咄嗟に口許を押さえる。先程と同じように脈打つ度に襲いくる鈍痛が、先程まで口にしていたものを競り上げてきてしまっているようで――。

「うっ……ぇ……っ」

 びちゃびちゃと水音と共に何とも言えない色のそれが口から吐き出される。思わず「汚い」という言葉が脳裏を掠め、鼻を突くつんとした匂いを遮るよう徐に口を拭う。彼の視界の端では「汚い」だの「手がかかる」だの男が呟いていて、もう一度理不尽な暴力が振るわれても可笑しくはなかった。
 しかし、男にとって嘔吐は都合が悪いのだろう。悪態を吐きながらも暴力が再び飛んでくるわけではなく、何かを気にするようにちらちらと辺りを見渡している。男の見る方には人だかりができていて、誰もこちらを気に留める様子もなさそうだった。
 ノーチェは吐き出してしまったそれを見て、より食事という概念が遠く思えてしまう。食べてもどうせ戻してしまうのだから、あまりにも勿体ないと。口許を拭って――それが終焉が買い与えてくれたものだと気が付いたとき、やってしまった、と妙な寒気を覚えた。
 わざわざ買ってもらい、それを着させてもらえているのだ。今は当分あの屋敷を離れることはなさそうだが、今後離れたことを考えると、この衣服は終焉が何かしらに使い回すかもしれない。それで、口許を拭ってしまうなどよくないことをしてしまったのではないだろうか――。

「奴隷の分際で随分と可愛がってもらってるみたいじゃねえか……この服は新品かぁ!?」
「……っ」

 その服の襟をぐいと掴み上げ、男がぐっと顔を近付けてくる。小汚い唾が顔に当たって、思わず顔を顰めると、その表情が気に食わなかったのだろう――、男が一度眉間にシワを寄せ、ノーチェの頬を強く殴る。利き手であろうその手は包帯にくるまれている所為か、以前に殴られたときよりも遥かに軽い気がした。
 殴られたことは特に変わらない。普段から理不尽な暴力を受けていたのだ。口の端を切ることも当たり前で、ノーチェの口から赤い血がゆっくりと滴り落ちる。反射的に口許を袖で拭おうとしたが――、ふと服を思い返して手を下ろす。
 一度に留まらず、男は鬱憤を晴らすかのようにノーチェを二、三立て続けに蹴り上げる。顔だけでなく、腹部も、感情の全てをぶつけるかのように。
 それにノーチェは抵抗こそはしなかったが、呻き声を上げなければ泣くこともなく、ただ黙ってそれを受け入れ続けた。まるで糸が切れた操り人形のように両手をだらんと下ろし、虚ろな瞳でぼうっと辺りを見る。
 ――やがて、男の暴力が収まると、ノーチェは壁に寄り掛かったまま地面を眺め、口に手を当てる。歯は折れていない。恐らく喋るのにも支障はなければ、食事をするのにも支障はないだろう。口許を拭うのに手のひらを使った所為か、ぬるぬると生温い液体が手のひらに広がってしまって、心地が悪い。
 そんな彼の反応が気に食わないのか、男は何度か舌打ちをすると、再び何かを警戒するように向こうに目を向ける。路地の向こうは相変わらず賑やかで、更には盛大な祝いごとが行われているのだろう――「きゃーっ」と子供達のはしゃぐ声が小さく耳に聞こえる。

「祭りだか何だか知らねえが、折角見つけた獲物をまた逃がすわけねぇだろ……」

 その口振りからして、男は随分と前からノーチェの姿を見つけていたのだろう。――しかし、人の多さと、一時も離れずに傍に居た終焉の存在があって、今まで手が出せなかったようだ。
 ――そう言えば終焉はどうしたのだろう。
 不意に思い出したのは、黒い服を纏う男の存在だった。終焉は絶えずノーチェの傍に居て、それなりに彼のことを気にしていた筈だ。何に対して大丈夫だと言ったのかは分からないが、ノーチェを見失ったことに多少の心配はしているのかもしれない。
 ――何せ、小さな傷でも比較的大袈裟な反応を示したのだ。殴られ、血を流すノーチェを見た途端、一体どんな反応を示すのだろう。

 いくら見ても空は青く、眩しい光は絶えず世界に降り注いでいる。きらきらと反射する窓の光はノーチェの目を焼いてくるようで、徐に上げかけていた顔を地面に落とす。
 突然姿を消してしまったのだ。多少の時間が経っているとしても、終焉がノーチェを見つけられるような気がしない。きっと、いつもの奴隷生活に戻るのだろう。
 何気なく鎖の切れた首輪にそっと手を当ててみた。何も変わらないが、鎖があるかないかで多少の変化は見られたような気がする。楽な時間は案外簡単に失われてしまうようだ。あの屋敷での待遇の良さは最早夢のようだった。できることなら、奴隷になる前に会えたらどんな気持ちだったのだろう――。

「ああ……クソッ……どいつもこいつも紛れてわけが分からねえ……!」

 ふと、ノーチェは男の声に耳を向けた。じくじくと痛む頬に気が向いてしまいがちだが、男が何をしているのか、多少の興味を持ちたくなった。
 恐らくこの商人≠フ男は終焉を認識している。この間に起こった奴隷拉致事件で建物の崩壊と、戦闘が勃発したほどだ。ノーチェはそのときの光景など見ていられなかったが、男は終焉を見たに違いないのだ。
 ――だからこそ、彼は思う。「この男は一体誰を探しているのか」と。

 終焉の姿は誰がどう見ても殆ど黒に彩られている。髪も、服も、手袋も。それは一目見ればかなり目を惹いて、忘れようにも忘れられないような外見であるだろう。更に言えば終焉の容姿は男の中では随分と綺麗な顔立ちをしていて、目元の縦に刻まれた傷痕さえなければ完璧だと言えるほど。極めつけは、ガラス玉のように――時には獣のように鋭く光る赤と金のオッドアイが特徴的だ。
 多少の時間を共に過ごしてきたノーチェでもそれだけの情報はしっかりと頭に入れている。それどころか、靴の色は群青に近い色合いの、宝石が施されたものだという認識も十分にしている。
 ――だが、目の前の男はどうだろう。聞き耳を立ててみれば「あの男」だの、「長髪野郎」だの、一見終焉のことを指しているような口振りをしているが――まるで、一番の特徴を挙げていない。
 例えばノーチェが終焉のことを指し示すとするならば、こう言うだろう。――「黒い髪の男」だと。――「黒い髪の、黒い服を纏った長身の男」だと。
 しかし、男はまるでその特徴を挙げようとはしなかった。聞く限りでは、「顔に傷のある男」としか言わず、男が何を警戒しているのか全く分からない。
 果たして男は、一体何に怯えているのだろうか――。

「――よお、ドブネズミ」
「ひっ――!?」

 不意に聞こえてきたのは、終焉の声――などではなく、低くこもるような男の声。終焉の声色は低くもどこか透き通るようで、淡々とした低い声だ。こんなにも人を馬鹿にした声色ではなかっただろう。
 その声はノーチェの頭上からしているようで、彼はそっと俯かせていた顔を上げる。寄り掛かっているのはレンガ造りの風貌のある壁だ。立ち上がったとしても、その上面に立つにはまだ身長が足りないであろう、なかなかの高さのもの。そこから声がするということは、理由はどうあれ声の主は壁の上に立っているようだ。
 そうして見上げた先に居たのは、燃えるように赤い髪を持った一人の男だった。
 燃えるように赤い髪、顔に大きな傷のあるところが誰よりも特徴的だと言えるだろう。軍服を模したような動きやすそうな服は男によく似合っていて、金の瞳は終焉に似ても似つかない印象を受ける。
 そして、その男は自分の真下に居るノーチェを獣のような目付きで――いや、蛇のようにじっとりと絡みつくような鋭い目で眺めて、よりいっそう深く怪しく笑った。

「……?」

 ――ぞくり。
 背筋を走る悪寒にノーチェは思わず肩を擦る。――とはいえ、特別寒くはない。どこか日が傾いてきた印象を受けるその世界でも、これといって寒いという感覚を得たことは未だにない。
 それでも、今回ばかりは寒気にも似た妙な感覚を得ていた。
 ――しかし、目の前のそれを目にすれば自分の感覚など気のせいだと思ってしまう。
 「ひぃ」と声を上げたのは、先程までノーチェで憂さ晴らしをするよう殴り続けていた商人≠フ男だ。それは、突如現れた赤髪の男を見るや否や、反射的に肩を竦め、咄嗟に距離を空ける。
 まるで、怪鳥に狙われてしまった小動物のようにみっともなく震えていて――、先程までノーチェを殴っていた威勢などどこにも見当たらなかった。
 赤髪の男は塀から降りるとゆっくりとノーチェではなく、商人≠フ男へと近付いていく。一歩一歩、丁寧に、ゆっくりと、獲物を追い詰めるように――。端から見ていればそれは酷く滑稽に思えたが、暴力を振るわれた後だからだろうか――ノーチェはそれにすらも興味が示せないと言いたげに茫然としていた。

「いーいこと教えてやるよぉ、おっさん」
「っ!」

 赤髪の男が背負っていた妙な十字架が音を立てて引き抜かれる。真っ白な白銀の刀身を露わにしたそれは、鞘に収めると持ち主ほどの大きさを持った一つの十字架になる仕組みのようだ。
 その刃先を冷や汗が滴る首元に手早く添えてやると、商人≠ェカチカチと歯を震わせて鳴らす。もう一歩強い恐怖心を与えれば失禁してしまうのではないかと思うほど、滑稽だった。「そう怖がんなよ」赤髪の男が宥めるように言葉を紡ぐが、それは、相手にとって「愉快だ」と言わんばかりの声色だった。

「行事の際に力を主張するような行為は禁ずる。――そんな決まりがあるんだ。事の発端は教会≠フ創設者のありがたーい意向。教会≠ヘ今もそれを守りながら、街の支配者となっている――」

 この街に来たばかりである商人≠ノ事情を説明するような口調は、どこか嘲笑っているようで、不愉快であることこの上ない。赤髪の男は一度言葉を切ると、にこりと好青年のような微笑みを浮かべる――。

「理不尽な暴力を振るっていた人間はなぁ……教会≠ェ罰していいっていう決まりなんだよぉ!!」

 ――そう強く言葉を放つと同時に彼はその大剣を大きく振り上げると、商人*レ掛けて一直線に剣を振り下ろす。
 言うなればそれは、理不尽、というよりは行きすぎた処罰だろうか。目の前で妙な光景を見せられているノーチェは、現状に置いていかれながらも、何故今日という日が大丈夫であるのかを理解する。
 全てはこの行事のお陰なのだろう。この街は教会≠ノ支配されていて、その教会≠ヘある決まりを守って生きているのだ。
 「行事の際に力を主張するような行為は禁ずる」――それは、恐らくノーチェのような生活を強いられている者にとっては嬉しい規則のようなもの。明るい活発な表では祭りを楽しんでいるというのに、裏では暴力が振るわれていることに嘆いた教会≠フ創設者がその決まりを広め、争いが起こらないように仕向けたという――。
 それは、たとえ他所から来たノーチェでも対象であるようで、今、目の前で処罰が行われようとしているのだ。――首を撥ね飛ばさんばかりの、理不尽で一方的すぎる行きすぎた処罰が。
 この賑やかな街でも平然と人が殺されるのだろう。綺麗な街では、見えないところでの残虐な行いも容赦のないものなのかもしれない。それもまた、勿体ないと思う反面――ノーチェはただそれが羨ましく思えた。
 ――しかし、その大きく振るわれた大剣は、商人≠フ目の前でピタリと止まる。

「う……うわああああ!!」

 それは逃げることを許していたのだろう。商人≠ヘみっともなく、そして呆気なくノーチェを置き去りにして背を向けると、声を上げながら一目散に逃げていった。
 また逃がすわけないと言ったのはどこの誰だったのかと、ノーチェはその背を無言で見送る。視界の端で赤髪の男がくつくつと笑い、「だっせぇ」と逃げていった男を嘲笑う。

「斬ったら俺も対象になるだろっつーの」

 そう言いながら赤髪の男は大剣を慣れた手つきで鞘に収める。やけに手入れの行き届いたそれが、鞘に収まると、やはり男の身長ほどはあるであろう大きな十字架へと変貌した。
 それは随分と物珍しい形状に思えた。様々な地を転々としていたノーチェには、鞘に収めてその形状に変化する大剣などろくに見たことがない。せいぜい装飾として壁やそこかしこに飾られた、然り気無い大きさのものだけだ。背負うほどの十字架など、教会以外のどこで見掛けることがあるだろう。
 ――なんて茫然と考えていたノーチェに向き直り、赤髪の男が目を向ける。彼はやはり誰も彼もを嘲笑っているかのような瞳をしていて、ノーチェは表情の一つも変えることはなかったが、不思議とそれが嫌に思えた。
 どこか蛇を彷彿とさせるねっとりと絡み付くような目線。それは、ノーチェの何かを探っているように思え、ノーチェは微かに顔を俯かせる。――何故だか目を合わせてはいけないような気がした。
 そして、男が不意に溢す言葉に夜色の瞳を揺らす。

「――お前、何で生きてんの?」

 じわりと胸に募るのは、息が詰まるような蟠りだけ。何故生きているのか、の言葉を投げ掛けられたこれが初めてではない。恐らく、奴隷になってから似たような言葉を幾度となく投げられた筈だ。その度に「そんなことは知らない」と、「自分だって早く死にたい」という思考を巡らせていた筈だった。
 それなのに何故、目の前にいる男の言葉はこんなにも胸に突き刺さるのだろうか。

「お前だけは絶対に来ることがないと思ってたし、その筈だったんだよ。そうしたら元も子もねえからなぁ」

 咄嗟に俯かせていた顔を覗き込むように男の声が近くなった気がした。ノーチェは思わず顔を背ける――が、背けた先に男が居て、悪戯っぽい笑みを浮かべたままノーチェを笑う。その顔は、ノーチェが今まで見てきた中で何よりも悪意が込められている気がした。
 「何か言えよ」と男が言う。軽く唇を尖らせ、まるで「つまらない」と言いたげだ。咄嗟に、終焉に言い張ったときと同じように「気持ち悪い」と口から溢れそうだった言葉を呑み込み、ノーチェが唇を動かす。「分からない」と。

「あ……アンタが、何言ってんのか、よく分からない……」

 喋れば切れた端がやけに痛んだ。恐らく、動かした拍子に傷口が開いたか、歯に当たったのだろう。――だが、目の前の謎めいた男よりも気にするべきものが、他にあるだろうか。
 ノーチェにとって何度目になるかも分からない長い時間が流れているような気がした。しかし、実際は十分や二十分――またはそれ以下の時間しか経っていない。その筈なのに、ノーチェは今の時間がゆっくりと、からかうように進んでいる気がしてならなかった。
 目が怖い、というよりは、嘲笑い探り、馬鹿にしてやろうという瞳が酷く薄気味悪かったと言えるだろう。――気が付けばノーチェは時間が経つことや、目の前の男が立ち去ることよりも、終焉が自分を見付けてくれることを願った。そうすればこの目がどこかへ消えてくれる気がしたのだ。

「……お前……記憶がないのか……?」
「…………え?」

 ――それはきっと、突然のことだっただろう。
 不意に飛んできた何かに赤髪の男が素早く反応して、ノーチェから体を遠ざける。空を裂く音の後に聞こえたのは壁に当たり、聞こえるのは重い何かが当たる鈍い音と、カエルが潰れたときのような酷い呻き声。ノーチェは驚きながらも目の前を飛んできたそれを見やると、先程逃げた筈の商人≠ェ気を失っていた。

「職務怠慢か? 成る程、貴様という愚かな人間は、随分と偉くなったものだな。……なあ、ヴェルダリア」

 そんな声と共に聞こえるのは石畳を踏み締める、ヒールの音だ。靴を新しく買い、ノーチェは履き替えたというのに、未だに履き続けているエンジニアブーツの音。目の前の男と距離が離れた他に、ノーチェは数日聞いてきたその声にほう、と安堵を覚えたが――それも一瞬。一歩一歩近付いてくる音と共に迫る寒気に、再び腕を擦る。
 ノーチェから距離を空けた男――ヴェルダリアは嫌味たらしくそれを睨むよう目を向ける。
 そこに居たのは、ノーチェとはぐれてしまった筈の終焉だ。相変わらずの無表情で、且つ威圧的な態度は最早癖の一種なのだろう。――しかし、先程ノーチェと居た頃と決定的に違う箇所を上げるとするならば、輝かしい瞳だろうか。
 路地裏に入る一本道をゆっくりと歩き進める終焉の瞳は、これまでに見たことがないような鋭さを持っていた。ヴェルダリアの目付きが蛇だと例えるならば、終焉の目付きは狼そのものだろうか。怒りに燃えていて、相手を跪かせようとするような、妙な力を感じる。
 ノーチェは徐に終焉の顔をちらりと見やるが、終焉は構っている暇はないと言いたげにヴェルダリアへと視線を向けたままだった。

「そうかっかすんじゃねえよ。俺はほら、ちゃんと助けに入ったんだぜ? なあ、坊っちゃん」

 ひやりと冷たい空気を裂いたのはヴェルダリアの言葉で、その矛先を向けられたノーチェは思わず肩を震わせた。何せ、今まで嘲笑を含む視線を送ってきた男がこちらへ話しかけるなど、思いもよらなかったのだ。
 何故か親しげに「坊っちゃん」と呼んでくるヴェルダリアの目は先程までとはうってかわって、好青年を彷彿とさせる親しげなものへと変わっていた。それにノーチェは、怪訝そうに眉を顰めるが、助けに入られたことに間違いはないのだろう――「……まあ」と小さく頷くと、終焉の目の色が変わる。

「ほらなぁ? 俺は職務を全うしてる。適当なことをほざいてんじゃねえぞ」

 ノーチェから再び終焉へと視線を戻したヴェルダリアは、敵意を剥き出しにした。端から見るノーチェとしては、この空間は耐え難く、何よりも居心地の悪いものだ。この二人は仲が悪いのだろうか――終焉の目付きを見る限り、彼はそれを肯定せざるを得なかった。
 「なら何故それを逃がすような真似をする」と終焉が低い声で呟く。それに、ヴェルダリアは「その方が面白いから」と笑いを浮かべる。――その様子を見ていて、ノーチェは今から戦争でも起こるのではないか、という錯覚に陥った。

「匂いを辿ればこんな下賎な人間が怯えた様子で出てきてしまったよ。――陰でこんなことを行わせるなど、落ちぶれたものじゃないか。やはり貴様はその程度でしかなかったということだな」
「おいおい、それじゃ俺が低俗底辺野郎だって言いたいみたいじゃねえかぁ……?――商人%ニ自の勝手な行動だ。教会≠フ人間はしっかりと守るべきものは守ってる。そこら辺の雑魚と一緒にすんじゃねえよ、化け物風情が」

 コツン――終焉の足音が止まった。ノーチェは座り込みながら二人の顔を見上げるが、それは「最悪」の文字が似合ってしまうほど、空気を悪くさせるものに見える。一方はただ無表情で、もう一方は相手を挑発させるような笑みばかりを浮かべているのだから、奇妙であることこの上ない。
 思わずノーチェは自分に被害が及ばないよう、体を縮める。――すると突然、雰囲気を一変させるような歓声が響き渡る。何かと思えば表通りではショーが始まっているようで、向こうでは着ぐるみが何とも言えないほどアクロバティックに忙しなく動いている。
 その迫る雰囲気に気持ちが削がれたのだろう――ヴェルダリアが「はあ」と溜め息を吐くと、気を失っている男の首の根を掴み、足を踏み出して終焉の横を通り過ぎる。

「せいぜい足掻くんだな」

 ――なんて言葉と男への小言を洩らしながら表通りへと歩いていった。その背中をまじまじと見ると、赤い髪には橙色のメッシュが混じっている。それは、太陽の下に晒されなければ気が付かなかったであろう。
 ノーチェは漸く重い空気から解き放たれたようにほう、と息を吐いた。すると、終焉が小さく舌打ちを鳴らす。チッ、と怒りが含まれたものだ。その原因が自分にあるのではないかとノーチェが終焉を見上げると、ノーチェへと顔を向けた終焉と目が合った。暗く、されど怒りによって熱を帯びたような恐ろしい瞳だ。

「……あの、俺……甘いもん、落としちゃって」

 このまま黙るのも気が引けたノーチェが咄嗟に口を開く。切れた唇が痛みを訴えたが、いやに恐ろしく思える雰囲気を壊すためならば、痛みさえも感じられないほど。会話の内容がクレープについてであることが更に終焉を怒らせるかと思えたが、今のノーチェにはそれ以外の言葉が出なかった。
 ――しかし、終焉は閉じた唇を開くことなく、ゆっくりとノーチェへ手を伸ばす。上から向かってくる手のひらが先程の男のそれと酷似しているようにも見えた。そんな筈はない――朧気な気持ちを胸に、ノーチェはそれに向かおうとするものの、殴られた体が平常心を取り戻してはくれない。
 半ば反射的に目を閉じた彼に手を伸ばした終焉は――、そのままほんのりと青く染まる頬へと手を当てた。

「……吐いたのか」

 口許は拭ったが、地面に落ちて乾きかけているそれを見て終焉はそう呟いたのだろう。「……ごめんなさい」と無意識に言葉を紡いでいたノーチェだが、終焉に訂正を求められるかと思い、咄嗟にハッとする。――だが、返ってくるのは訂正を求める言葉ではなかった。

「……悪かった。私の、気配りができていなかった。こうなるくらいなら、さっさと帰るべきだったな」

 終焉の表情は普段よりも悲しそうに見えて、ノーチェは茫然とする。それを何と捉えたのか定かではないが、終焉は徐にノーチェを引き寄せたかと思うと、胸元と両腕に納め、手袋をはめた手でぽんと頭を撫でる。
 「痛かっただろう」――そう、終焉が呟いた。その声色は、まるでノーチェと同じように暴力を振るわれた後の、泣きそうな人の声色だった。確かに痛みはあるが、こんなものは日常的だったのだ。今更泣きわめくなどという、子供じみたことをするノーチェではない。
 だからこそ、彼は「別に」と言おうと口を開いた。刃物で刺されるかのような鋭い痛みが口許に走るが、どうということはない。「別に、気にしない」そう言おうとして――。

「……来ないかと思った」

 全く別の言葉を紡いでいたと気が付いたときには、全てが遅かった。
 ノーチェは終焉に抱き寄せられたままぼうっと耳を澄ます。落ち着いているように見えて、ほんの少し呼吸が速い。ノーチェの言葉に応えるように呟かれた「これでも焦っていたんだ」という言葉は、恐らく本当なのだろう。
 焦ることで周りが見えなくなるタイプだというように、終焉はハッとした後ノーチェを離し、「悪かった」と頬に手を添える。青痣のできたその顔は見ていて痛々しかった。終焉は自分を責めるように「もっと早く来ていればよかった」と呟きを溢す。

「もっと早く来ていればあんな……――あんな蛆虫と会わせなかったのに」

 それに、ノーチェはぽかんと口を開ける。それを言うならば、「傷など負わせなかったのに」の間違いではないだろうか、と。
 その様子を見て言葉の間違いに気が付いたのか、終焉は「ああ違う」と首を横に振る。

「傷を負わせなかったのに、と言いたかった。つい本音が――ああ、違う、ノーチェの身を案じたのも本心だ。ただ、同時にアレにも会わせたくなかったという気持ちがな……」
「……何となく分かったから平気」

 終焉は必死に言葉を探していたが、次々と言葉が溢れてしまって収拾がつかなくなりそうだった。ノーチェはそれを見て察したのだろう――、終焉に声をかけて自分は大丈夫だと言う。
 よく見れば終焉の手元には靴を買ったときにもらった袋があった。その中身は恐らく、終焉の愛用している靴が入っているのだろう。それに履き替えれば移動も楽だった筈なのに、それをしないほど慌てていたのかもしれない。――そもそも、こんな無表情を飾った顔が焦りに染まるなど、想像もつかないのだけれど。
 そう、終焉の慌てているらしい様子を見て、ノーチェはふと思い出す。買い与えられた黒い服を汚してしまった旨を話し、口癖のように染み付いた謝罪の言葉を伝える。――すると、終焉は軽く首を傾げ「謝る必要があるのか?」と言った。

「えっと……」
「それは貴方に買い与えた服だ。どれだけ汚そうとも謝る必要などないだろう? 汚れたら洗えばいいのだから」

 終焉が放った言葉は紛れもない正論だった。思わずノーチェは何も言い返すこともできず、ぐっと言葉を呑み込む。しかし、ふと思い出したことを言葉にして指摘をしてみせた。

「……あの、多分まだ血、出てると思うんだけど」

 「汚れるから」そう言って終焉の手を退かそうとすると、「私は気にしていないから」と言って制止を食らう。
 ああ言えばこう言う、厄介な人だと彼は思った。結局は自分の意見などまるで聞いてくれやしない。――ただ、今までのものに比べると、随分と柔らかな厄介さを兼ね備えているようだった。
 ノーチェは終焉の返しに納得がいかないと言うように、ぷぅ、と頬を膨らましてみせる。普段なら行動に出せば殴られてしまうような、やけに子供じみた行動だ。――しかし、終焉はそれを見て「随分と可愛らしいことをしてくれるな」と、漸く笑った。
 ――笑ったと言うよりは柔らかく微笑んだ、と言うのが適切だろう。柔らかく微笑んだその様は、いやに綺麗で拍子抜けしてしまうほど。思わず「こんな表情もできるのか」と瞬きを繰り返していたノーチェだが、針を刺し続けるような鋭い痛みが唐突に走り、咄嗟に頬を膨らませる行為を止める。
 再び傷口が開いてしまったようで、口の中には苦い錆びた鉄の味がした。

「帰って手当てをしようか」

 そう言って終焉がノーチェを抱き抱えようとして――咄嗟に断るノーチェの意志を尊重し、手を引いて立ち上がらせる。

「……?」

 不意に感じた奇妙な違和感にノーチェは茫然としたが、終焉の「どうした」という問いには答えられる自信がなかった。
 「なんでもない」そう呟いて何気なく終焉が手を引いて歩くのを受け入れてやると、終焉は「そうか」と言ってノーチェの頭を撫でる。

「……撫でんの好きだな」

 思わず口をついて出た言葉にノーチェはハッとしたが、「丁度いいからな」と目の前の男は何食わぬ顔で手を離した。

「……できるだけ人目を避けようか」

 そう言って裏の通りを歩き始める終焉に倣い、ノーチェはその背を追う形で同じように歩き始める。――ふと振り返って違和感と対面しようとした。自分は確かに嘔吐してしまった筈なのだが――、そこにはただ、何もない石畳が広がっているだけだった。
 気が付けば空の向こうは薄く橙に染まりつつある。春といえど、まだ日は長く昇らないらしい。この街は行事になると一日中賑やからしく、どこで耳を澄ましてもただ歓声が聞こえるだけ。終焉の後を追うノーチェは再びその長い黒髪をじっと見つめる。
 歩く度に機嫌良く揺れるその様子は、まるで尻尾のようだ、と思ってしまった。


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