目まぐるしい世界に響く鐘の音


 足を踏み入れた先ははっきりと言えば場違いだと言いたくなるような場所だった。
 石畳を踏み鳴らし軽く引かれるように先導に出る男の後ろを歩くノーチェは、そのあまりの人の多さに目眩さえも覚えてしまった。前後左右のどこを見ても人、人、人。時折前後から人がぶつかってきては体勢を崩しかけてしまい、摘まむだけだった筈の袖はいつの間にか強く握り締めている。
 溢れんばかりの人の多さに、予想外と言わんばかりに目を回すノーチェ。その様子を見かねた終焉は慣れた足取りでノーチェを引きながら人を避けるが、ほんの少し道を外れ、裏通りへと入る。引かれるままにノーチェはそこへついていくと、表よりも遥かに人の少なさが見てとれた。

「この行事は案外人気だからな」
「聞いてない」

 口許に手を当てながら終焉はノーチェを眺める。余裕だと言いたげに二本の足でしっかりと立っている終焉とは異なり、ノーチェの微かに息を切らしながら小さく俯いている。フードや髪の隙間から覗き見える白い顔は、心なしか青く見えた。
 もしや彼にとってこれはよくないものではないのか、と終焉は何気なくノーチェの頭に手を置く。「平気か?」と訊いて、その様子をじっと窺った。あまりの人の多さに彼は酔っているようだ。咄嗟に道を外れたものの、祭りに身を投じることが滅多にない終焉はこうなることは予想していなかったようで、困ったように眉尻を小さく下げる。
 なんてことはない。ただ人の多さに目が持っていかれるだけ。動くものをどうしても視界に入れたがる人間の目が、彼の脳に刺激を与えたにすぎない。景色を見渡すように人に目を奪われていたノーチェは、一度大きく息を吐くと、その後にゆっくりと息を吸う。自分の体調を落ち着かせるように数回深呼吸を繰り返して、落ちていた顔を上げる。
 ふと見えたのは終焉のやけに心配そうな表情で、ノーチェは反射的に「大丈夫」と呟くと、いやに安心するようにほっと胸を撫で下ろす。
 「愛している」などという言葉もこう見れば伊達ではないのだと思わされるようだった。
 終焉はノーチェの言葉を聞くと「早めに終わらせよう」と言って、表通りに戻ろうと手を差し出す。その表情は今までに見たものとまるで変わらない、ただの無表情がそこにあった。

「何なら手を繋ごうか?」
「……冗談……」

 ――しかもその表情で冗談など言うものだから、彼にはそれが本気かどうかも分からない。
 ノーチェは街に足を踏み入れたときと同じよう、終焉の袖を掴んだ。あまりの人の多さに観念して、「摘まむ」のではなく、「握り締める」形にしたのは彼なりの妥協のつもりだった。いくら優しくされようとも、信用などしてはいけないのだ、と言い聞かせるつもりで。

「――……冗談を言える仲だったと、自負していたのだがな……」

 ――不意に終焉がそんなことを呟いた。運良く聞き入れてしまったノーチェは、その顔を見て小さく首を傾げるも、男は何も言わず表通りへと顔を向ける。腰まである長い髪が太陽の下では艶やかに煌めいている。邪魔だと言われれば邪魔だと思えそうな長さだ。――これは、長い間伸ばし続けていなければ到底届きそうにもない長さだろう。
 それこそ生まれてから一度も髪を切らないままでいない限り、だ。
 表通りに戻るとやはり人の波が酷く、簡単に押し流されてしまいそうなほどに溢れ返っている。心なしか、先程よりも人が増したように思え、ノーチェは怪訝そうな顔を一つ。流されないよう、終焉の袖を掴む。
 長い黒髪を目で追うのもよし、黒い背中だけを見つめるもよし。――しかし、やはり人間は周りのものに目を配らせてしまうようで、ノーチェは通り過ぎていく相手をじっと見てしまった。
 そうして分かるのは街が賑やかであるという事実と、――髪色があまりにも明るいことくらい。すれ違う人々は大抵が金髪だったり、見慣れない水色だったり、くすんだ緑色だったりして、世界が目まぐるしく回っているようだった。祭りということもあってか、甘い香りが混ざっていて、時折それが誰かから漂っているのかと思ってしまうほどだ。
 ――気になるのがそれだけなのなら、目を惹くほど彼らには見入ってはいないだろう。引かれながらも周囲から終焉へと目を移したノーチェは、朧気ながらも確信を抱いてみせる。
 無彩色の髪色が全くもって居ない。――正確に言えば、黒髪を持つ人物が目の前の男以外に居ないということだ。
 すれ違う中で数人見かけた親近感の湧く白髪の持ち主は、肌の色が異様に白く、日の光から目を守るよう、目を隠す道具を持っていた。街の外ではよく見かけていた筈だが、ルフランでは稀に見る存在。一般的にいう先天性白皮症――所謂アルビノ、というものだ。
 赤い瞳は日の光に弱く、白い肌でさえも焼けるように痛むだろう。日の下に晒されたその白い髪はノーチェと似ているようで、似ていないもの。彼はその髪色に一度目を奪われたが、微かに見えた赤い瞳を見て、ふと目を逸らす。自分とは全くもって違う瞳が、自分とは違う人種なのだと囁いているようだった。
 しかし、黒髪といえば目の前の男以外には一度もすれ違うことがなかった。金や茶色に染まる髪の中に、いっそう際立って見えるその髪色は最早異端にも見える。本来すれ違う立場からすれば、それに目を奪われてしまうものだというのに、人で溢れ返る中、誰一人として終焉の異質さには気が付かない。
 ――まるで、世界に置いていかれているような気がした。思わずノーチェは「なあ」と口を開いたが、歩き進める度に賑やかさを増していく街に、男の耳には届かないだろう、とすぐに俯いてしまう。

「……呼んだか」

 すると、突然終焉が袖を握られた手を引きながらノーチェに話しかけた。
 屋敷の中に居るよりもどこか冷めた赤と金の瞳がいやに綺麗だった。聞こえる筈もないと思っていたノーチェは、それに呆気に取られながら「なんでもない……」と小さく口を洩らす。それに終焉は軽く首を傾げ、「そうか」と呟いた後に前を向いた。
 距離が空いていると言えば空いていた。何せ、後ろを歩くには男の歩幅も考えて歩かなければならないのだから。いくら言葉を終焉に向けて発したとしても、周りの騒がしさに比べれば蚊が鳴くようなもの。本来なら聞き逃しても構わない筈だった。
 それを、終焉は聞き入れてしまった。あまりにも――あまりにも人間の範疇を越えた聴覚だ、と思わざるを得なかった。

「……ん。この辺りでいいか……」

 そう言って終焉が足を止めた場所は、賑やかというよりは騒がしいという言葉が似合うような場所で、いくつもの建物が並んでは人で溢れているように見えた。終焉が求める靴がこの場所に売っているのかと訊いてしまいたい衝動に駆られたが、それよりも早く行動に移した終焉は迷いもなくその扉を開ける。
 ノーチェはローブのフードを目深にかぶっていて、正直端から見れば不審者にも思われることだろう。――しかし、足を踏み入れ、終焉の後をついていく間に何人かにすれ違ったが、誰も訝しげな目でこちらを見る様子はなかった。
 もっと言えば、誰もこちらを目に留めようとは思っていないように見えた。
 彼は並んでいる靴を眺めながら思案を繰り返しているであろう終焉に「……なあ」と声をかける。それに終焉はノーチェを見ることなく「どうした」と呟けば、徐に靴を一足手に取り出した。

「……何か、何ていうか……誰もこっちを見てない気がすんのは、気のせい……?」

 そう口を洩らすと同時、ノーチェは近くの椅子へと座らされる。

「――流石だな、ニュクスの遣いは。まあ、面倒事を避けるための何かをしていると思ってくれ」

 唐突に呟かれた言葉にノーチェは胸元が騒ぐような気持ちに陥った。言ってもいないことを何故男が知っているのか、それが気になった。――しかし、終焉が妙にノーチェについて知っていて、尚且つ以前に会っていた口振りをするものだから、「この人はこういうものだ」と自分を落ち着かせることができた。
 ほう、と溜め息を吐いて、胸元に手を添える。よく知りもしない相手に素性を知られているのはやけに緊張するものだった。どくどくと鳴る心臓が手のひらに伝わってきていて、とても気分が悪くなるものだ。早く落ち着けと言わんばかりに強く目を瞑ると、ぱちん、と小さな音が鳴る。

「…………何してんの」
「ぴったりじゃないか」

 見れば終焉が朝と同じよう、恭しく跪いてノーチェに靴を履かせている。先程の終焉が愛用している靴とは違い、黒い靴だった。ブーツだと言われればそうだと言えそうな長さのそれは、妙に懐かしいような気がしてならない。
 本当なら受け取りたくないと目を終焉に向けると、終焉はいつの間にか店員の元で何かを話している。恐らく終焉は、この靴を問答無用でノーチェに買い与えるつもりだろう。――足早にノーチェに駆け寄ってタグを切る店員の様子を見れば、事情を知らなくとも手探りで分かるものだった。
 「別に気にしないのに」何気なく独り言を呟けば、それは男に聞こえてしまっていたようで、勢いよく頭を撫でられたかと思えば、終焉は「そう言わずに」とノーチェを制す。
 用がなくなればノーチェに袖を掴ませて、終焉は足早に店を後にした。居心地が悪いと言いたげなその様子にノーチェは首を傾げるが、彼とて察しが悪いわけではない。一つの場所に留まりさえすれば、男の言う教会≠ニいうものが男を見付けかねないからだ。
 「この街は教会≠ノ支配されている」――そんな言葉が彼の脳裏を掠める。それは、終焉にとってどのような意味を示しているのかも、この街にとってどんな意味を孕んでいるのかも分からないまま、彼はひたすら終焉の後を追った。
 早めに終わらせようと言ったにも拘わらず、終焉の足は屋敷からは遠退いているようで、比例するように人が溢れていった。「次はどこに行くんだ」と口を開きかけたが、人がぶつかる衝撃に耐えられず、ノーチェはつい袖から手を離してしまう――。
 靴が真新しくなった所為だろうか。足は縺れ、ノーチェは石畳に手をついてしまった。

「悪い! 大丈夫か!?」

 そう声をかけてきたのはぶつかってしまった相手だろう。ノーチェは顔を上げると、短い茶髪に新緑の瞳を持った優しげな男と目が合う。隣には金色の髪を緩く巻いた綺麗な女が心配そうな表情でこちらを見ていることから、彼らは親密な仲なのだと窺える。
 暫くの間に事態が呑み込めずノーチェはその顔を茫然と眺めていたが、それを相手はどう捉えたのか、「立てないのか?」と眉尻を下げながらノーチェに手を差し出した薬指に銀の指輪が煌めいた左手が、彼の前に差し出される。

「ごめんな、立てないなら病院に――」

 優しげな声色が途切れると、その男は数回瞬きを繰り返していた。
 何かと思い、ノーチェはその顔を見ていたが、その目が自分の首元へと向けられていることに漸く気付く。鉄か何かで作られたであろう、魔法が施された特殊な首輪だ。ここでも奴隷を売ることがあるほどなのだから、住人もそれなりに彼らについて知っているのかもしれない。
 そして、この街では奴隷を攫うという出来事が起こったのだ。商人の人間も、重要な商品をそう易々と逃すだけの木偶の坊ではないだろう。今頃は街中に情報を広めているのかもしれない――。

「あ、あんた……その」

 背筋が凍るような感覚を覚えていると、突然ノーチェの視界が暗転した。目を塞がれた、と分かったのは顔に当たる布の感触からだ。一瞬だけ身構えるように息を呑んだが、警戒など必要ないのだと気が付いたのは、低い声が落ちてきた辺りからだった。

「――すまない。私の連れが迷惑を掛けてしまったな」
「……え?」

 目を隠していた手は思ったよりも早く離れ、何気なく目線を石畳に落としていたノーチェはふと目を疑う。終焉が何かを小さく呟いたと思えば、足元の影が屋敷を出たときと同様、揺らいでいた。――正確に言えば、ノーチェのものと思われる影の背後にある影が、恐ろしいもののように蠢いていたのだ。
 地を這う蛇か、地面に張り巡らされているであろう木の根か――そのどれにも当てはまらないそれは、瞬きをするとあっという間に元の形へと戻る。ハッと意識を取り戻す頃には声の主は「悪かった」と言って、何事もなかったかのように仲睦まじく立ち去っていった。

「……すまない。もう少し注意を払うべきだった」

 申し訳なさそうな声が落ちてくると、ノーチェは手を引かれ勢いよく立ち上がらされる。周りの人間の足元しか見えなかった視界いっぱいに映り込んだ終焉の顔が、何の感情もなくただじっとノーチェを見つめている。
 思わずノーチェは「いや……気にしなくても」と口を洩らしたが、男はやけに自分に厳しいようで、小さく左右に首を振って「もう少し気を付ける」とだけ呟いた。
 気を付けるくらいなら外に出さなければいいのではないか。
 ――なんてことを思いながら再び終焉の袖を掴んだノーチェに、男は「小腹が空いていないか?」と問いかけた。

◇◆◇

 朝よりも随分と日が高く昇り、空の青さが増してきた昼時の頃。ノーチェは終焉に手渡されたクレープを受け取る。黄色の薄い生地に、花や春に因んだように桜色に彩られたホイップクリームが特徴的な洋菓子。イチゴやバナナを挟んでチョコレートソースをかけ、軽く巻いただけのそれを、不思議そうに見つめる。
 噴水広場の人の多さは異常だった。流石広場というだけあるのだろう。飾りつけは道中のそれとは比べ物にならないほど、華やかで豪華にも見える。家の窓から窓へと繋がれた三角旗は数を増やしていて、ところどころに小さな花束が飾られている。――それでも、市場の方よりも遥かに見渡しやすいと思えるのは、広場にいるのが子供達が多いから、という点にあるだろう。
 祭り事限定なのだろうか――熊ともウサギともつかない着ぐるみを着た誰かが、風船を片手に子供達に接している。その隣では長い風船を巧みに操り、捻り、動物のようなものを作り上げる者がいる。その隣では子供達が紙吹雪のようなものを舞い上げては楽しそうに笑っていた。
 それをノーチェは桜色のクレープを片手に不思議そうに見つめる。子供達の間を縫って辿り着いたベンチに座って、辺りの景色を見渡してみる。どこもかしこも祭り騒ぎで、この間の奴隷強奪の騒ぎなどまるで嘘のようだ。隣を見遣れば終焉がクレープに齧りついていて、これまた珍しいものを見せられているな、という感覚に陥る。
 思えばノーチェは終焉が何かを口にしているところを一度も見たことがない。基本的に男は観察するようにノーチェの食事を見ているだけで、食べようとは一切しないのだ。もしや口にしていないのではないか、――などと思ったが、目の前の光景を見れば食べないことはないのだろう。恐らく、終焉はノーチェの見ていない間に食事を済ませているのだ。

「…………ん」

 人の食事を見るのがやけに珍しく思え、終焉じっと見つめていたノーチェは、目を向けられて初めて自分が終焉を見つめていることに気が付かされる。単に食事に珍しさを覚えたと言えば覚えたのだが、もう一つ彼の目を惹くのがその行動だ。
 全身を黒で彩ったと言える無愛想な男が、甘いものを――それも随分と可愛らしい桜色のものを食べていると、多少の意外性があるものだ。ノーチェはそれにも気を取られ、自分のことも後回しにじぃっと終焉を見つめている。

「……甘いものは苦手だったか……?」

 ――不意に終焉がクレープに口をつけるのを止め、微かに不安そうにノーチェに問い掛けた。それまで齧りついていたクレープはノーチェの手の中にあるものと同じで、彼はそのクレープを見ると「……あまいもの」と口にする。

「そう言えば貴方はここに来て自分から甘いものも食べていなかったな。……好みが変わったか?」

 見つめているものは男曰く「甘いもの」だそうで、今までそれを全く意識していなかったノーチェは漸くそれを認識する。食べ過ぎれば胸焼けが起こりそうなそれは、子供達に好かれそうな味をしている。いつの日かの日常ではそれを進んで口にしていたような気がするが、今となってはまるで高価なものに思えるほど、縁遠いものになってしまっていた。
 そう言えばこれが甘いものだったんだっけ、とノーチェはそれを一口。味気のない生地の中に包まれたクリームと果物が程好く甘味を掻き立てる。――しかし、どうだろう。ノーチェはその桜色のクレープを口にしたが、どうにも物足りないような気がして、咀嚼が疎かになる。
 季節限定だと思われるそれは美味しいかと訊かれれば、確かに美味しいと言えるほどの甘さを持っているのだが、何かが足りないような気がしてならないのだ。
 そして、そんなノーチェの考えを見透かすように隣から「物足りんな」と終焉が呟く。

「やはりどれもこれも私が作った方が美味い」

 ――なんて呟いていて、ノーチェは「そうだろうな」と何気なく思う。何せ料理も菓子作りも妙に上手いときたものだ。自ら進んで、というわけではないが、数回口にしただけのノーチェでもそれはよく分かる。だからこそノーチェは「そう言うなら作ればいいのに」と溢した。すると、終焉は「その手があったか」とやけに真剣な顔付きで口許に手を添える。
 しかし、男は時折食べるらしい市販のものも好きなのか、「また今度だな」とだけ言ってノーチェを待つように深くベンチに座り直した。気が付けば終焉のクレープはもぬけの殻で、もそもそと食べ進めるノーチェは急かされているような気分に陥ってしまう。

「ああ、急がなくていい」

 そんな考えを見透かすように終焉が口を開いた。騒がしくも眩しい街並みを見て「面白いな」とだけ口にする。どうやら男は祭りの参加自体が初めてにも等しいようで、時折辺りを見渡してはぼうっと見入る様子が窺えた。
 辺りは甘い香りで満ちている。それは洋菓子ばかりではなく、誰も彼もが持ち合わせた花の所為だろう。一輪の場合もあれば、花束を抱えている住人も見かける。流石は花祭りと言ったところか。――ノーチェもクレープを口にしながら辺りを見つめていたが、然程興味が湧かない。
 花祭りだというくせに花はもらえなければ、花への興味も全くない。恐らく終焉はこの華やかさをノーチェに見せてやりたかったのだろうが、生憎今のノーチェには景色や場所程度で心が動かされる、といった感動を覚えることができない。
 それよりも彼は今目の前のクレープに熱中していて、周りなど見渡す余裕もないのだ。
 もそもそとノーチェは太陽に晒されているクレープを食べ進める。先程よりも遥かに見た目が小さくなりつつあるが、終焉ほどの食の進め方は見せられないだろう。お陰で持ち手の部分は随分と温かくなってしまった気がしてならない。恐らく、手持ちの方へと向かえば向かうほど味が落ちていってしまっているだろう。
 ああ、勿体ないことをしたな。――なんて思いつつ溢れ落ちそうなイチゴを一つ。仄かな甘酸っぱさが口いっぱいに広がって、口内を刺すような刺激に思わずノーチェはきゅっと目を瞑った。クリームのお陰でいくらかは緩和されたそれに、溜め息を溢すと、終焉が「ノーチェ」と彼の名を呼ぶ。

「…………」

 それにノーチェは何も答えず目を向けた。食事が遅いと文句を言われるのかと思ったのだ。

「少し気になるものがあるので向かいたいのだが、貴方も行くか?」

 ――しかし、ノーチェの考えとは裏腹に、終焉はどこか子供のような瞳を持ちながら向こうを指差して誘いにきただけだった。
 何があるのかとちらりと見やると、その先には多少の行列ができた屋台のようなものだった。やたらとファンシーな飾りつけで、売っているものは見慣れないアメのようなもの。ノーチェにはそれが何なのかは分からないが、終焉が気になると言うほどだ。魅力のある何かであることは間違いないのだろう。
 行くかと誘われたノーチェは手元のクレープを一瞥し、首を左右に振る。クレープが食べかけなので集中したいだの、足が縺れやすくなっているので休みたいだの、何かしらの理由を取って付けようとした。
 だが、ノーチェが首を左右に振ったのを見て、終焉は「そうか」とだけ呟き、勢いよく立ち上がる。今の今まで無表情を飾っているとは思えない好奇心の塊にも見えた。心なしか、男の周りには柔らかな空気というよりは、キラキラとした何かがふわふわとまとわりついているようにも見え、ノーチェはクレープを咥えたまま茫然と見やる。

「じゃあ少し離れるからな。祝い事であり人目が多い。恐らく何もないと信じたいが、多少の警戒はしていてくれるか? 万が一何かあったら私に――」
「いいから……気になるんだろ……」
「…………行ってくる」

 男の口調は出会ってから一番の饒舌に思えた。
 咄嗟にノーチェは終焉の言葉を押し退けるよう、口を挟み、早く行けと言わんばかりにじっとりとした目付きで終焉を見上げる。誰よりも背が高いくせに誰よりも子供染みた人だと思った。
 そんなノーチェの様子を見かねた終焉は一度動きを止めると、会話を止められたことにふて腐れたのか、軽く唇を尖らせてむぅ、と声を上げた。そして、「行ってくる」と言ってどこか名残惜しそうにしながらも、ノーチェを背に悠々とした足取りでそれへと向かう。
 噴水の向こうに行った先、並んでいるものは何なのだろうか。
 小さく開いた口で食べ進めるクレープはもう随分と温まってしまっていて、美味しいというにはかなり物足りないものになっていた。味気のない柔らかな生地が少しずつ飽きてきてしまい、どうしたものかとそれを見つめる。
 季節限定だと思われるそれを食べようにも、どうも口が動かなくなりつつある。しかし、捨てようにもあまりにも勿体ない。
 背を丸めながらぷらぷらと足を動かしていたノーチェは、ほう、と息を吐くと徐にベンチから立ち上がる。正直薦められたものではないが、終焉に押し付けてしまうのが一番のような気がした。
 顔を上げてよく見れば、噴水の向こうにある列の中に一際異質なものがあった。女や子供が多い場所に、誰よりも背が高く、何ものにも染まらない黒を纏った長髪の男が腕を組んで大人しく並んでいるのだ。

「…………うわ……」

 その異様な光景にノーチェは思わず声を上げて立ち止まる。流石の彼もフードをかぶったままあの列へ声をかけるのは躊躇いを覚えたようだ。そうすれば、自然と人の目が集まることに間違いない。終焉の言う教会≠焉Aノーチェを追っているであろう商人≠熹゙らを見付けてしまう可能性が格段に上がるだろう。
 人目が多い中での面倒事は極力避けたいような気がした。――ノーチェは立ち尽くすのもどうかと思い、先程まで座っていたベンチへと踵を返す。
 ――同時に街に響き渡る大きな鐘の音が鳴った。

「――……!」

 彼が見たのは、鐘の音と共に空高く立ち上る噴水と、金切り声にも似た大きな歓声だけだった――。

◇◆◇

 一時間毎に街の時計塔が鳴り響く仕組みのあるルフランでは、祭り事になれば鐘の音と同時に噴水が大きく立ち上るのが特徴的だ。花祭りであれば、花弁に見立てた紙吹雪が水と共に舞い、やけに綺麗な光景を生み出してくれる。心地好く晴れた今日という日も、それはそれは美しかっただろう。
 わあ、と大きな歓声が沸き上がる最中、終焉は「どうぞ」と手渡されたそれを確かに受け取る。一本の棒切れに丁寧に、且つ細部まで繊細に作られた見事な水飴は、太陽に晒されるとまるで黄金のように煌めいた。
 花祭りにちなんでか、花の形を模したそれを、二本受け取った終焉は無表情ながらも満足げに胸を張る。徐に顔を近付けてすん、と香りを嗅ぐと、食欲をそそるような甘い匂いがした。
 随分と手の込んだ細工だな、と終焉は片方を空に掲げてみせる。何度見ても飽きることのなさそうな眩しい煌めきに、思わず感嘆の息を洩らした。私でも作れるものだろうか、と何気なく口を溢す。衝動的に二本買ってしまったそれを一口――舌を伝う甘味にほう、と満足げに息を吐きながら、「ノーチェは受け取ってくれるだろうか」と残した水飴を見つめる。

「クレープでさえ進んで食べているようではなかったからな……」

 悩むように独り言を溢しながら終焉は石畳を歩き、噴水の向こうへと向かおうとした。道中子供達が勢いよく噴水へと駆け出す列へ鉢合わせ、「よくはしゃげるな」とそれを見ながら走り去っていくのを見守る。
 甘い香りが誘うこの街に身を投じたのはいつの話だったか。思い返すのが難しいなと言うほど、終焉は何かを隠しているようだった。それも甘い香りに乗せて口の中へ運び、終焉は形のいい水飴を堪能する。
 男は今、目先のことで手一杯なのだ。古い記憶に縋るほど落ちぶれてはいないつもりだった。

「……ん」

 ――甘味に気を取られ、異変に気が付いたのは噴水の向こうへと回ったときだった。ベンチに座っている筈のノーチェがどこを見渡しても見当たらなかった。いやに大人しい彼のことだから、用を足しにでも行ったのかも知れない――なんて、終焉は思う筈もなく、軽く目を細めながら水飴を食む。
 ふと足元を見れば、彼のものであろう食べかけの桜色のクレープが、見るも無惨な形で石畳の上に落ちていた。――それは、ベンチよりも一、二歩離れた箇所にあって、終焉は冷めた瞳でそれを見ていた。
 そして、水飴を咥えていた口に無意識で力を込める――。

「…………身の程知らずが……」

 ぱきん、と割れるような小さな音と共に、水飴の欠片がパラパラと落ちていった。


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