陽気と袖口


 暖かな春の陽気は周りの人間の気持ちを解すように、当たり前のように心地が良かった。雲がないとは言い切れないが、天気の良い青い空。鳥達が一斉に空を飛び交う様は感動すらも覚えるほど。花の香りに誘われるよう、徐に足を外に踏み出せば、蝶が一羽、目の前をひらりと飛んでいった。
 身なりを整えたノーチェは落ち着いた気持ちで青空を見つめていると、「気分は良いか?」と声を掛けられる。ふと振り返れば、ノーチェの目の前に白が一面に広がっていて――。

「うわ……」

 反射的に身を縮めたノーチェに、終焉は「そう怯えなくて平気だ」と声を掛ける。咄嗟に閉じていた目を恐る恐る開くと、目の前には終焉の顔が随分と近くにあって、熱心に何かをしているようだった。その目線を追えば、先には白い布と黒い手袋をつけた終焉の手がある。ぱちん、と音を鳴らし終わると、「よし」と言って男はノーチェから身を離した。
 見ればノーチェは自分自身が服の上からローブを着せられたことに気が付いた。白くて、留め具のついたローブはフードもついていて、終焉はそれを手に取るとノーチェにぐっと被せる。体重が突然傾いて、踏ん張れなかった彼は一度体勢を崩したが、すぐに何事もなかったかのようにゆっくりと顔を上げた。

「ふむ……まあ、違和感しかないが……首元は隠れているし、問題はないか」

 一度見定めるように頭の先から足の先まで見つめた終焉は、ノーチェの顔を見て小さく頷く。違和感を覚えているのはこちらも同じだ、とノーチェは自分の身なりを確認するよう腕を上げて見たが、自分が一体どんな姿なのかは想像もつかない。――ただ、違和感のある足を見て、上目で終焉をちらりと見やる。
 履き慣れてもいなければ見慣れてもいない青い靴。銀や灰色に染まったラインと靴底が特徴的で、側面には青く輝く宝石のようなものがつけられている。――これは、終焉が常に履いている愛用の靴だった。

 始まりはそう、朝から終焉が「外に出よう」と言ったのが始まりだった。突然のことにノーチェは寝癖を直して、身なりを整えて、終焉の目の前でちまちまと朝食を頬張り、「美味いか?」と聞かれれば小さくとも頷いてみせた。相変わらず終焉は何故か味の心配をしていて、ノーチェが頷くのを見るや否やほっと胸を撫で下ろすように、深く息を吐くのだ。
 朝食は要望通りいくらか量が減っていた。尚且つ口に含みやすい軽さを兼ね備えたそれに、ノーチェはある種の感動すら覚える。
 普通、奴隷が口答えしようものなら理不尽にも似た暴力が飛んでくる。それは、自分が反省の意を示すまで、ではなく、あくまで主人が満足するまでだ。そうなるくらいなら口を出さなければ良いだけのこと。どれだけ理不尽な目に遭おうとも、ノーチェは口答えすることなく――しかし、目的のために多少の反抗を示しながら――ただじっと耐えていた。
 それがどうだろう。終焉はやはり「買ったのではなく攫った」と言うほど、徹底してノーチェへの対等な関係を求めた。理不尽な暴力など男は見せる素振りもない。それどころか衣服の次は靴を新調すると言うのだ。
 それには気を遣わなくて良いと言っているにも拘わらず、男は子供宛らの頑固さを兼ね備えているようで、一度言ったら他の意見は聞き入れてくれないよう。靴を買うと決めればそれ以外は目に入らないらしい。
 ノーチェはそれに呆れにも似た感情を覚え、小さな溜め息を吐きながらどう断ってやろうかと考える。奪われ続けてきた分、与えられることに慣れていないと言えばそうなるのだろう。終焉の意志は固く、何を言っても跳ね返されてしまいかねない。
 そうならないよう、ノーチェが咄嗟に思い付いた言葉は――。

「……俺、靴ないなら普通、外に出られないだろ……」

 ――なんていう当たり前のことだった。
 男は真面目すぎるが故に目の前の当たり前のことが見えていないように思えた。それを裏付けるように終焉は一度茫然とノーチェの足元を見た後、瞬きを二、三繰り返し、口許に手を添える。「うぅん」と悩む素振りを見せ、「それもそうだな……」とノーチェに背を向ける。
 そして、徐に背を向けたかと思えば、ノーチェを置き去りに広間から出ていってしまった。
 ――正直な話、ノーチェは秘かに「勝った」と思った。心の中で小さなガッツポーズをして、ソファーに腰掛けたまま軽く足をばたつかせる。着替えるという手間がかかったものだが、これで余計な気遣いなどされないだろう、という妙な達成感によく似た感情が胸に募る。
 これもある種の抵抗なのではないだろうか。繰り返せばいずれこの腐った世の中から解放される日も近いのではないだろうか。――不思議と、そんな考えだけが頭を掠めていった。
 だが、現実とは無情にも彼に生きるための暮らしを与えたがるようで、不意にやって来た終焉の手には靴が一足――見たこともない、黒い、ヒールが高めのエンジニアブーツと呼ばれるものだった。

「良かった。一足だけ余っていたよ」
「………………そう……」

 胸をほっと撫で下ろす終焉とは裏腹に、ノーチェはまた異物感のような気遣いを味わってしまうのだろうと思え、言葉に陰が隠る。外に出れば首元にある鉄製の堅苦しい首輪が酷く目立ち、再び好奇な目を向けられるのだろう。服で隠されたとはいえ、傷痕も酷く、見るに堪えない。
 ――奴隷として買われていた頃と比べればどちらが良いかなど、答えようがない。所詮どちらも同じような目に遭わされて来たのだから、どちらが良いかなど決めようにもない。
 そう思えば服を与えられた分、好奇な目も少しは楽になるのではないか――?
 ノーチェが呆れるように茫然としている最中、終焉は何かを察するように「嫌なのか?」と首を傾げる。嫌と訊かれれば嫌と答えたくなるのだが、生憎ノーチェは今それを素直に答えられる自信はない。
 徐に「別に」と呟いて軽く俯けば、いくらか声のトーンが落ちた終焉の声が降り注ぐ。

「……嫌なら悪いな……見せたい景色もいくらかあるのだ」

 それは、妙に泣きそうな声色で――、咄嗟に顔を上げたノーチェの目に映ったのは、靴を手に持ちながら「だがこれは駄目だよな……」と一人呟いている終焉だ。声色などこれっぽっちも変化がないと言いたげな無表情で、口をへの字に曲げたまま靴を置くと、「仕方ないな」と口を洩らす。
 一瞬でも終焉一人が外に出るのかと思った自分が居た。――しかし、終焉の行動を見てノーチェはその考えが間違いであるのと同時、この攫い手がどこまでも強情であることを思い知らされる。
 男は持ってきたヒールが高いエンジニアブーツを床に下ろすや否や、徐に自分の裾を捲り、露わになった宝石よりも上のラインを手でなぞる。どうやらそこに留め具があるようで、小さく弾くようなぱちん、という音が鳴ったと思えば、終焉はそれを片足ずつ脱いでいく。
 何をしているのかと問おうかと思ったが、嫌でもノーチェにはその行動の意味が分かってしまって、ぐっと体を硬くする。それが終焉には抵抗があるように思えたのだろう――自分の脱いだ靴を見て、ハッとしたように「あ」と呟くと、それらを持ち、「消臭してくる」と言い捨てて再び扉の向こうへ行ってしまった。
 再び取り残されたノーチェは遂に「そういうことじゃねぇんだよ……」と口を洩らした。――途端、終焉がふらりと姿を現し、広間へと足を踏み入れる。運が良いのか悪いのか――ノーチェの呟きは聞こえなかったようで、「少しはマシだと思うのだが」と呟いてはノーチェの足元にそれを置く。

「少しばかり大きいかも知れないが、まあ、新調するまで我慢してくれ」

 恭しく跪いてこちらを見上げる様はまるで騎士か何かかのように思えたが、今のノーチェにはそれが例えようのない別の何かに見えた。直接言わずとも察せるよう、端々に染み付いている拒否権を感じさせない言葉に、ノーチェは小さく項垂れて――「分かった」と折れた。

 終焉の言った通り確かに靴は多少大きく、更に言えば歩きにくいの一言に尽きる。――しかし、白いローブを被せてきた終焉の足元を見る度に口を噤んでしまった。今まで低い靴を履いていた男が、今日になって突然ヒールの高い靴を履き始めたのだ。その歩きにくさと言えば諮り知れたものではないだろう。下手をすれば踏み外して足を捻る可能性すらあるかも知れない。
 その点を考慮すれば、今の状況は少なからず良い方だと思えるだろう。――最も彼にとって最善の方法は素足なのだが、いかんせん目の前の男がそれを許すようには思えない。
 試しに屋敷から出て数歩歩いたが、足の周りの隙間が空いているのが妙に気に食わない。脱げるようには思えないが、「履かされている」感覚が異物として認識されてしまう。今すぐにでも脱ぎ捨ててしまいたいものだが、今に至るまで靴を履いていたと思えば、元に戻っただけなのだと無理にでも思うことが出来た。
 石畳のない道が出来た土の上を終焉が慣れた様子で歩いて、ふと屋敷を見上げたまま立ち止まる。軽く足先で土の上を数回叩いたかと思えば、下げていた腕をゆっくりと上げ、人差し指で屋敷を指す。――その見慣れない行動にノーチェは凝視していると、不意に男の足元の影が揺らいだ気がした。

「…………?」

 目が疲れたのだろうか。
 そう思い、徐に目を擦るが、先程のように終焉の足元の影を見ても一向に揺らぐ気配がない。風が吹く度に若葉や木々、花達がさわさわと音を立てて揺れ動くように、風に煽られて終焉のコートがふわふわと動いているだけだった。――恐らくそれを見間違えたのだろう。
 足元と目の慣れない感覚に、ノーチェは徐にふう、と溜め息を吐くと、終焉はくるりと身を翻す。黒を強調する艶やかな髪が、今日はよりいっそう艶めかしく見えた。風が吹く度にそれもまたさらさらと絹糸のように靡いている。きっと、女だったら誰も彼もが魅了されたに違いない。
 そう思えるほど、日に照らされた男の存在は浮かされていた。背景のように馴染む訳ではない。ただ、普段目立たないそれが、日の下に晒されると途端に存在を主張しているように思えたのだ。初めてだと言える感覚――というよりはどこか懐かしい気がして、ノーチェは思わず首を傾げた。

「行こうか」

 静かに紡がれた言葉にノーチェが何のことだと言わんばかりに茫然としていると、終焉は真横を通り過ぎて彼の元から距離を取る。思わず「待てよ」と言いかけた唇を閉じてその背を目で追うと、終焉は足を止めて「おいで」と言わんばかりに手を差し出している。
 心地の良い晴天だと言うのにも拘わらず、終焉の手にはしっかりと黒い手袋がはめられていて、やはり見ていると熱を呼び覚まされそうな感覚に陥った。その差し出された手を取るかどうか、一瞬の思考に頭を悩ますが、良い大人が、手を繋いで歩くなど端から見れば滑稽極まりない。
 思わずノーチェはその手から目を逸らし、そそくさと終焉の元へ駆け寄る。慣れない靴に足が縺れかけたが、何とか持ち直した。髪の隙間から差し込んでくる日の光が目に痛い。――つい顔をしかめると、終焉は差し出していた手をノーチェの頭に手を伸ばして、「もっと目深に」とフードごとノーチェの頭を撫でる。

「それと、街に行くのにはぐれたら困る。手じゃなくて良いからどこかをしっかりと握ってくれないか?」

 そう言って終焉はパッと両手を軽く広げ、好きなところを掴めと提示し始める。
 黒い髪に黒い服――それもロングコートときたものだ。暑苦しいそれにノーチェは思わず目眩を覚えた気がしたが、頭を振ってじぃっと終焉を眺める。白いラインが特徴的な黒いコートは男にとっても少しばかり大きいようで、どこかゆとりがあるように見えた。袖の辺りをよく見ればシャツの袖がちらりと覗いていて、丈は合っているのだろう、と考えさせられる。長い裾から覗く足元の服でさえ黒く――まるで、その色こそが男そのものだと言わんばかりに主張され続けた。
 裾を摘まもうにもノーチェの背丈からすれば少し低すぎる。だが、胴体の周りを摘まむのもどこか気が引ける。

「…………」

 結局ノーチェが選んだのは、上げられていた黒地に白のラインが施された手元の裾だった。人差し指と親指で先を摘まんで、手を握るよりは遥かにマシだろう、と暗示をかける。――そう、マシだ。男二人が仲良く手を握るより――。

「――まあ、街に着くまで不必要なのだがな」
「……」

 不意に溢れた終焉の言葉にノーチェが睨む気持ちでじっと見つめた。終焉の表情は一切変わらないのだが、不服そうに離されたノーチェの指先を見るや否や拗ねるように「何だ」と言う。別にそのまま持っていても構わないのに、と。
 それにノーチェが呆れを表立たせるようにはあ、と溜め息を吐いてから「普通、男二人がそんなことしてたら気持ち悪いだろ」と口を溢す。小さく、しかしはっきりとした言葉で。それに終焉は瞬きをして――。

「私は貴方を愛しているのでそんなことは思わない」

 ――と言った。
 くるり。終焉がノーチェに背を向けて歩き出そうと足を踏み出す。そこで、ノーチェは思い出したようにハッとした。――そうだ、自分はこの男に何故か愛されているのだ、と。理由も教えられず、形も確証もない奇妙な愛情を向けられているのだと。
 それでいて男は彼に向かって「殺してくれ」と頼むものだから、ますます分からなくなるものだ。
 見つめる先でヒールが土を抉るように踏み締めていく。置いていくぞと言わんばかりの足取りで、ノーチェは本当に立ち止まっていてやろうかと考えたが、「早く」と終焉が振り返って呟いた。

「…………俺、本当に」

 要らないんだけど。そう言ってやるつもりで口を開けば――終焉は軽く瞼を落としたかと思うと、じっとりという表現が似合うかのような目付きでノーチェを見つめていた。赤と金の異なる瞳が言葉を制すように微動だにしない。
 それに何を言っても聞いてくれない、と折れたのだろう。――ノーチェは重い足を持ち上げて、ゆっくりと足を踏み出した。

◇◆◇

 歩いてたった数分の距離で不意に終焉がノーチェを見やる。何かを言いたげに一度瞬きをして、歩く速度を微かに緩めてみせた。――そこで、ノーチェは終焉と歩く速度が違うのだと思い知らされる。振り返れば屋敷は目に見える距離だと言うのに、終焉とノーチェの間には肩幅程度の距離が開いていた。――且つ、ノーチェは妙に息苦しく、肩で呼吸を繰り返している。
 それが、ノーチェが奴隷になって変わってしまったものの一つのように思えた。ただ普通に歩くだけで足が重く、呼吸が難しい――体力が落ちてしまったのだと十分すぎるほどに理解してしまった。更に言えば履いている靴は自分に合ったものではない。この妙な違和感が疲労を呼び起こす一つの要因でもあるのだろう。
 ノーチェは終焉が急いているように見えて、咄嗟に足を速める。――すると、男は「急がなくてもいい」と言って再び向こうを向いてしまう。

「私が歩幅を合わせるから。疲れたら遠慮なく言ってくれ」

 そう言って再び歩き出した終焉の歩く速度はゆったりとしたものに変わっていた。これなら確かに追い付ける、とノーチェも歩きやすい速度に変えて、ほう、と息を吐く。終焉は何をしようにも自分ではなくノーチェを一番に考えているようで、ちらりと見上げたその横顔は何よりも凛としているように見えた。

「……なあ………………あの」
「『なあ』で十分だ。何だ?」

 歩くだけの沈黙が辛い、と言わんばかりにノーチェは咄嗟に口を開く。時折吹いてくる風が見慣れない花を連れてやってくる所為か、ほんの少し鬱陶しく思えた。訂正しようと後に続いた言葉を打ちのめされ、ノーチェは終焉が答える気でいるのを認識する。

「……初めて来たとき、屋敷……って言うのか? 中、結構廃れてるように見えたっていうか……何て言うか…………」

 綺麗ではなかった、と言いかけて、どこまでが失礼に値するのか未だ掴めないノーチェはそっと口を閉ざす。
 彼の言いたいことは確かに伝わった、初め屋敷を訪れたノーチェの目にはそれが廃墟にも似た何かに見えたのだ。お世辞にも綺麗とは言えないが、汚いとも決めつけがたい微妙なライン。下手をすれば獣以外の何かが陰から出てくるのではないか、と思わせてくるほどの暗さだった。
 しかし、一夜を過ごせばそこは何の変哲もない、独りで住むにはあまりにも広すぎる小綺麗な屋敷だった。――いや、綺麗すぎた。部屋の隅々にまで至る完璧な掃除、植物の葉っぱ一枚にまで拘る手入れ、料理にまで滲み出る器用さ――どれをとっても廃れていた筈の景色など生み出すようには見えない。
 ――だが、その質問でさえも予想の範囲内だと言いたげに終焉はノーチェを見ることもなく、「そのことか」と口を溢す。

「先程出ていくときに見ただろう? あれだよ。他者から見るあの住み処は、霊でも出てくる廃墟に見えておいた方がこちらとしても都合がいいのだ」

 それがノーチェの問い掛けに対する明確な答えかどうかは、問い掛けた本人にも理解しがたかった。ただ、「そういうもの」という認識をしてしまう方が楽なように思え、「そういうもんなのか」と小さく口を洩らす。不思議とその呟きは終焉に届いてしまっているようで、くすりと笑い混じりに「そういうものなのだ」と男は言った。まるで、理解しなくても問題はない、と言いたげなその様子にノーチェは瞬きをしてから「ふーん」と呟く。
 ぽつぽつと微かに拓いた土の上を踏み締めていると、小さな丘を目の前にした。そこには街には似合うとも言いがたい大きく立派な木が悠然と佇んでいる。枝のいくつもの淡い桃色の花を咲かせていて――、その風貌は何よりも儚く思えた。
 ――いやに立派な桜の木だった。
 晴れた春の日に聳え立つその桜の木は何を見た後でも感嘆の息を洩らしてしまうほど、神々しくも儚い。木洩れ日が時折花の隙間から溢れ落ち、さわさわと音を立てて風に揺られる度に心地のいい感覚に襲われる。
 思わずノーチェはほう、と忘れていた呼吸を繰り返すと、全身の血液が身体中を巡る感覚に陥った。胸をいっぱいに満たす満足感のようなもの――これが感動であると懐かしく思う前に振り返り、ノーチェを見て口許だけ微かに笑う終焉と目が合った。
 何度も思う感覚に違和感もなくそれを受け入れる。女のように艶やかな黒い髪、やけに白い肌――黒を纏ったその姿に桜の淡い色がよく似合うような気がして、遂に言葉を忘れる。
 花弁がはらはらと舞い落ちる中でその黒い色は何よりも際立って見える。――否、黒い色に桜の淡い色が際立たされているように見え、その桜に攫われてしまうのではないか、と思えたのだ。

「――疲れたか?」

 考えに浸っていると、ふと、終焉がノーチェに語りかける。屋敷からそう離れていないが、足は痛むのか、と。それにノーチェは首を左右に振って、「疲れたわけじゃない」と言う。ただ、外をまともに歩くのが懐かしいのだと。
 「そうか」終焉はそう溢すと、ノーチェの傍に近寄って桜の向こうを指し示す。目指す街はもう少し先にあるのだと言って、やはりノーチェの頭を撫でる。

「…………何で今日、外に連れ出したんだ……?」

 風に揺られるまま、ノーチェは不意に終焉に問いかけると、その自分より幾分か高い背を見上げる。奴隷として生きている所為か、妙に背が丸まってしまっているようで、その数十センチ高い背丈も見上げるのがやけに億劫だった。
 理由は多少分かっている。靴を新調するためだ。いくら衣服を与えられたとしても靴がなければ足が常に傷付いてしまい、まともに歩くこともできなくなってしまう。そういった要因を一つでも無くすために終焉はわざわざ連れ出したのだ。
 ――だが、ノーチェを連れ出さずとも衣服を買い与えた終焉のことだ。足の大きささえ伝えておけば、外に連れ出す必要もなかったのではないか――。

「……むぅ……仕方がないな……」

 そう呟きながら終焉はノーチェの手を引き、ゆったりとした足取りで桜の木を後にする。はらはらと落ちる桜の花弁を背に、若草や土を踏み締めながら終焉はぽつりぽつりと呟きを洩らす。

「今日は祭りなのだ」
「…………祭り……?」

 手を引かれなければ歩かないと思われているのか、終焉はノーチェの腕を放す様子もなくただ前を見据えたまま歩いていく。

 花祭り――恋人、親友、知人、家族に感謝の意を込めて各々選んだ花を渡すための祭り。元はといえば素直に感謝を伝えられなかったとある当主が提案し、自ら祭りに参加したとされている。それが時を越えて世代を超えて、今の今まで伝わってきたとされているのだ。
 花の種類に規定はない。余程の恨みが込められたものでない限り、自由に選んでもいいと言われている。――中には花に疎く、参加の意識もない人間が多数居るが、街で配る花を押し付けられたが最後、最も感謝している人間に手渡さなければならない日とも言われているという。
 その光景はまるで春の訪れを祝うかのような華やかな景色で、誰も彼もがその雰囲気に呑まれてしまうと囁かれている――。

 そんな祭りを歩きながら伝える終焉は表情ひとつ変わることなく、淡々とした口調のままだった。それが妙に退屈そうな表情に見えて、手を引かれたまま歩くノーチェは「そう」とだけ呟いて、くっと手を引く。「別に引っ張らなくても歩けるから」――そう意志を込めた動きだった、
 そのノーチェの行動に気が付いた終焉は、ふと振り返って彼の顔を見る。無表情ながらもどこか鬱陶しげな目で終焉を見上げていて、微かに口をへの字に曲げている。いい加減離してくれと言わんばかりの表情に終焉はどこか渋り、むぅ、と口を洩らしたが――やがて惜しむようにゆっくりと手を離した。
 漸く手を引かれることから解放されたノーチェはほっと息を吐く。どのような意図があるのかは分からないが、靴を買うついでに終焉はノーチェと共に祭りに身を投じるというのだ。街がどの程度の広さか、どの程度の人口密度か、足を踏み入れて間もなく自分の身に起きた出来事を思い返しながら、多少の警戒はしなければならないと口を固く結ぶ。
 ――いや、首輪がある以上逃れられない運命なのではないか――?
 不意に喉元で息が詰まるような感覚に呑まれ、ノーチェは無意識に与えられた服の裾を握り締める。春の空は彼の心とは裏腹に燦々と照る太陽が眩しく、程好く散らばった白い雲も、その隙間から覗き見える青い空も何もかもいやに綺麗だった。
 一言で言い表すなら、やけに憎たらしかった。
 何も知らないでのうのうと青空の下で生きている人間、奴隷を買って蔑み、いたぶる人間、丁度いい人間を奴隷にする商人、そして腐ったこの世の中を見逃し続けている世界――その何もかもがやたらと憎かった。
 重くなる足を引きずるように歩いていると、終焉がこちらを見て何かを見つめているように見えた。その時間はたった数秒だというのに、体感時間は優に数十分を超えているように思えた。
 ノーチェは終焉がたった今振り返ったものだと思い、「ちゃんと歩いてる」と口を洩らせば、終焉は軽く首を左右に振って、何かを否定する。

「……随分と考え込んでいたようだな」
「………………」

 視線が痛い。穴が空くのではないかと思うほどじぃっとこちらを見つめる鋭い瞳が、棘のように体に刺さっている気がする。それをも感じさせず、ノーチェは「別に」と軽く俯くと、終焉は追及することもなく、「そうか」とだけ呟いて徐に腕を差し出す。
 再び手を繋ぐのだと言われているようで、咄嗟に「歩ける」と言ったが、終焉は一度首を傾げたあと、気が付いたかのように「ああ」と口を開いて自分の袖を指で摘まんだ。

「袖を摘まんでおくのだろう? 善くも悪くもここの人間は多いからな」

 もう間もなく着いてしまうよ。終焉はノーチェに手を差し出しながら徐に振り返ってしまった。その向こうは確かに見慣れない街並みに妙な飾りつけがよく目立つ。いつ膨らませたのかも分からない風船に、いつ飾り付けたのかも分からない三角旗がところどころ建物に掛かっている。
 遠巻きに見ても分かるその賑やかな光景はあまりにも慣れがたく、差し出されたその手の袖をゆっくりと摘まむと、妙な緊張感が胸にのし掛かるのがよく分かった。むず痒く、胸元を押さえつけたくなるほど、動悸が激しいと感じる。思わず不快なものを見るようにノーチェは眉を微かに顰めたが、理由は明白だった。
 ちらりと目で終焉を見上げる。男はこちら側の意図などまるで分からないと言いたげにノーチェを見つめたまま動くことはなく、まるでノーチェの答えを待っているように見える。
 妙な緊張感の原因は――この男が奴隷として買っていないからだ。
 奴隷として買われていればろくな衣食住は与えられない他、まともな外出さえもろくにできなかった筈だ。痛めつけられるか、こき使われるか、それこそ玩具のように弄ばれるかのいずれか。殴られないことなどまずなかっただろう。清潔も保てず、満腹感も得られず、生まれてきたことに後悔さえ覚えてしまうほどだ。
 ――それがどうだろう。目の前の男はまず弄ぶことはない。あくまでノーチェのために金を使い、ノーチェのために料理を振る舞い、景色を見せたいがために外に連れ出し始めるのだ。挙げ句にその場所は人が溢れ、祭りのために華やかな場所へと変貌しているという。
 今更ながら蔑まれることに恐怖など抱いてはいない。――しかし、今の自分からはかけ離れていた眩しく、小綺麗な場所に赴くなど、気持ちがついていかなかった。胸に募る緊張感と、ある種の抵抗があるのは今の自分が行くには到底縁のない場所だと思っているからだろう。

「……!?」

 ――不意にノーチェの視界に自分とは真逆の色をした黒い髪がいっぱいに広がった。同じ洗髪剤を使っているというのに漂ってくるその香りはまるで知らず、初めて感じるもののように思える。
 突然の出来事にノーチェは思わずぐっと体を仰け反らすと、終焉はノーチェが驚いたことに気が付いたようで、「すまん」と言いながら何事もなかったように距離を保つ。

「びっ……くりした…………」

 妙な緊張感を張り巡らせている最中に起こった出来事なのだから、それに対する反応もどこか過剰だった。反射的に胸元に手を当てて脈を測ると、どくどくと動く速い鼓動が手のひらに伝わってくる。
 顔が近かったというよりは、首元に顔を埋められている感覚がした。咄嗟に首にも手を当てたが、当たるのは冷たくヒヤリとした感触だけ。一体何をしていたのだと問いたくなったが、終焉は「早く行こう」とまるで子供のように急いてくるので、どこか気が削がれてしまった。――代わりに大きな溜め息をひとつ。はあ、と吐きながら摘まむ指に力を込める。

「――ああ、あと、そう警戒しなくていい」

 何もかもを見透かしたような発言に、ノーチェの手指がぴくりと動く。

「まだ貴方にとっていいことを教えてやろう。――この街は教会≠ノ支配されているのだ」

 ――そう言って、二人は土から石畳へと歩く場所を変えた。


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