早朝の地下集会


 早朝――まだ日が昇る前の寒さを感じる時間帯。鳥達が細々と目を覚ます中、街中のとある地下室で奇妙な集会が開かれていた。
 階段を下りた先、扉を開いて中に入れば長いテーブルと、いくつかの椅子がある。仄暗い地下室を照らすように取り付けられた蝋燭の火は赤く、部屋全体を照らすのにはあまりにも小さすぎる。それを囲むように座る人間はこちらをじっと見ていて、薄気味悪いことこの上ない。
 小さく舌打ちを溢して「こっち見るんじゃねえよ」と低く声を洩らす赤髪の男――ヴェルダリアは視線を寄越す教会$l間に睨みを利かせる。獣のように鋭さを増した眼光に制圧されるように、誰も彼もがヴェルダリアから目を逸らすと、彼は勝ち誇ったかのように「ふん」と鼻で笑う。
 滲み出る力の差に長いテーブルの向こう――ヴェルダリアから見て直線上に位置する席に、その男は居る。ぼんやりとした蝋燭の火に照らされた薄紫の毛髪、ちらりと薄目から覗く紫と白のオッドアイ――モーゼが手を組んだまま、くすりと笑う。

「座らないのかい」

 モーゼはヴェルダリアの威圧など恐れていないと言いたげに柔らかく口を開いた。それは、彼の怒りを宥めるようにふんわりとした口調で、――しかし、ヴェルダリアはモーゼ自身に腹が立つと言わんばかりに、よりいっそう眉間にシワを寄せてぐっと睨む。
 「座らねぇよ」――なんて口にすることはなかったが、彼の意を察したようにモーゼは微かに顔を俯かせ、「始めようか?」と呟く。その一言で凍てついていた場の空気が張りつめたように、ピリピリと肌を突くものに変わる。ぞくりと肌を滑る悪寒がいやに不快だった。
 地下室にも届く筈の小さな鳥の声が聞こえない時間。振り子時計の針が動く音だけが静かに響く空間に、ほう、と男の息を吐く音が聞こえてくる。手を組み直し、足を組んで、モーゼは「始めようか」そう再び呟いて胡散臭い笑みを浮かべる。

「まず、君達にはお礼を言わなきゃね。――有難う。君達のお陰で、昨日の出来事が全て無かったことになったよ」

 ふらふらと揺らめく炎の向こうでモーゼは微笑んで、教会≠フ人間にさらりと礼を述べる。それに彼らは何かを言うことはなかったが、頷くこともなく、ただ黙ってモーゼの言葉を聞いていた。

 昨日の出来事――それは紛れもなく、教会¥I焉の者が対峙して、街が損傷したという事。一人の奴隷を攫い、教会≠ニ商人≠フ反感を買い、一部の人間が扱う魔法で街の一部が破損したという出来事だ。数多の人間が目撃して、軽症を負った人物も少なからず居ただろう。
 そんな住民を避難させた日の夜の十二時、――終焉が教会≠撒いた後、屋敷へと帰り世話を焼いていた頃にそれは実行された。
 教会≠フ人間を集め、壊れた建物の修復と、目撃者の記憶を余すことなく掻き消すための魔法の発動。規模が大きければ大きいほど、そのための人数と時間はより多くが必要となる。そのためにモーゼは善良である人間が眠りに就いたであろう夜中を狙い、教会≠フ人間の協力を仰ぎ、何もないただの平和な街へと元に戻したのだ。
 物理的に修復するというよりは、時間を戻したと言った方が近いであろうその現象にモーゼは小さく微笑んで、「これで街が平和に戻った」と呟く。これで住民が平穏に暮らせる、と――。

「胡散臭ぇ」
「何か言ったかい」

 初老じみた妙な微笑みに吐き気を催したかのように、ヴェルダリアがぽつりと呟いた。冷たい壁に寄り掛かり、腕を組んでモーゼを睨む様は味方と言うよりは、敵同士と言う方がよく似合うだろう。
 ――しかし、モーゼは持ち前の懐の深さを見せるようにそれを咎めることはなければ、ヴェルダリアに良い印象を抱かない自身の部下を宥める姿を見せる。一口で言えば彼は優遇されていると言えるのだ。
 だが、勿論それをよく思わないのが数多く居る。顔を見せているモーゼの部下は、ヴェルダリアのことをよく思っていないのが大半だ。総司令官とも言えるモーゼに歯向かい、敬意も示さず、従う気もない彼を見て、忠誠を誓う彼らはモーゼの――ヴェルダリアに対する対応を良く思ってはいない。罪を償わせるような罰を与えてもいいとさえ思っているほどだ。
 しかし、彼らはそれを口に出すことはおろか、モーゼにも伝えることはない。理由は簡単――単純にヴェルダリアの力が強いからだ。終焉殺しの名は伊達ではなく、あの男に匹敵する力を持っているのだと、存分に思い知らされるからだ。

「ほら、君達。そう睨んではいけないよ」

 ふとモーゼが小さく語りかける。彼らはヴェルダリアの、モーゼに対する言動に睨みを利かせていると知るや否やハッとして、咄嗟にモーゼへと向き直る。相も変わらずモーゼはやんわりと胡散臭い笑みを浮かべたまま手を組んでいて、「ヴェルダリアも素直じゃないんだよ」なんて言葉を紡ぐ。
 蝋燭に灯された炎が仄かに揺れる――そして、「君達も解っているだろうけど」と唇を開く。

「昨日我々が倒すべき存在が姿を現したのは覚えているね?」

 ゆっくりと組んでいた手をほどき、モーゼは軽く手のひらを合わせる。彼らはそれに頷いて、ヴェルダリアは興味がないと言いたげに目を閉じたまま、嫌々耳を傾けている。

「あの男こそが世界を脅かす終焉の者=Bその名の通り、あれは世界を終焉へと導く者とされている――ここまでは君達もよく解っているよね。対処法は知っている筈。そこで、問題は次だ。――何故あれが、奴隷を拉致したのか、ということ」

 今まで息を潜めていたとされる終焉が突如姿を現した。それも、人目も憚らず白昼堂々奴隷を一人抱えて、だ。
 その事実は彼ら教会≠ノとって大きな衝撃であるようで、地下室の謎めいたこの集会も、昨日の出来事が原因だろう。教会≠ノ伝わる本の一節に刻まれた「世界を終焉へと導く者」――これは教会≠ノ携わる全ての者達が知っていると言っても過言ではない。何せ、教会≠ヘそのために生まれたのだから。
 教会=\―もとい、イグレシアとも呼ばれる集団。彼らはとある書物の名のもとに形成された魔力を持つ進行深い聖職者達だ。人々の手助けをするのも、街の問題を解決するのも。正しい道へ導くのも大抵は彼らが担ってくれる。勿論、神への祈りを欠かすこともない、清く正しい者だ。
 ――表向きは。
 ルフランの住人は彼らがただの聖職者だと思い込んでいる。しかし、彼らはただの聖職者で終わる存在ではない。「世界を終焉へと導く者」――それに対を成す「終焉を打ち消す者達」であり、彼らにとって終焉の者は「絶対的に殺すべき対象」であるのだ。

 ――そもそも事の始まりは教会≠フ創設者が地下深くに眠る、とある書物の存在を発見したことから始まる。
 黒い背表紙に白い文字で書かれた一冊の本――興味本位からそれを開けば、呼吸を繰り返しているかのように、つらつらと文字列が増えていくのだ。行きすぎた先の頁に何かが記されている訳ではなく、ただ淡々と長い文章を刻んでいく。
 好奇心からそれを読み進めると、ある法則性に気が付いた。――それは、経過は違えど、全て結末は同じ――この世界は滅んでいる、という記述が残されていることだ。
 複数にわたる経過、若しくは可能性を葉と捉えるならば、結末は花と言ったところだろうか。幾つもの記述はまるで若芽を伸ばして背を高くする茎や葉のようで、ある一点の結末は例えるのなら蕾といったところだろう。そして、時期を迎えると美しく花開くように、眠るように世界が滅びているというのだ。
 然るべき事態なのだろう。一見きらびやかで色鮮やかな世界であるが、蓋を開ければ隠していた汚れが一斉に目立つ。それらを洗い流すべく、終焉の者はこの地へ生まれ落ちたのだろう。
 ――創設者はそれを知ると、元にあった場所へと黒い本を戻した。現在進行形で内容を濃くしている書物だ。ただ終焉への道筋を記しているだけでなく、本来ならば有り得ない筈の事まで記されている。それが世間へと知れ渡れば争いが起きかねない。平和な世界を望むからこそ、取った行動だった。
 ――それを許さない者が居たのだ。
 純粋に人助けを目的とした教会≠ヘ、その日を境に役目を変えたと言っても過言ではないだろう。そして、季節が移り変わる中、転機は漸く訪れたという。

「世界を滅ぼすためだけに存在している者が、何故、奴隷を攫うのか。人質か、人肌恋しさ故か、はたまた別の理由か」

 これは一体何なのだろうね、とモーゼは首を傾げてみせた。いくつかの理由を挙げては納得がいかないと言わんばかりにそれらを叩き潰す。終焉の者≠ェ人肌恋しさ故に人を攫うなどという候補は真っ先に消えた。生まれも育ちも知らない男が、人に愛を求めるなどと間違っている、と言い表したいかのように。
 そのまま彼らはちらほらといくつかの意見を述べてみた。奴隷を利用してみたかった、単純にじっくりと殺してみたかった、など。どれもこれも信憑性に欠けるようで、痺れを切らしたようにヴェルダリアが「下らねぇ」と言葉を洩らしてしまう。

「こんな下らねぇことで呼ぶんなら俺帰っても良いよなぁ?」
「貴様……先程から失礼だと思わないのか!?」

 ふんぞり返って誰も彼もを見下すような仕草に、遂に教会≠フ一人が椅子を弾いて立ち上がる。弾かれた椅子はけたたましい音を立てて床へと倒れていった。傍らにいた教会≠フ人間達は肩を震わせたが、モーゼとヴェルダリアは予想の範囲内だと言いたげに平然としていて、青年の怒号に怯む様子はない。寧ろその逆――眉尻を下げて煽るように嗤うと、ヴェルダリアは唇を開いて言い放つ。

「そういうことはエンディアに手を出せるようになってから言おうなぁ?――坊っちゃん」

 明らかな悪意が込められたであろう「坊っちゃん」の言葉に青年の何かが切れた。
 常に懐に携えているという手のひらサイズの古書を広げると、空気が一変する。春の早朝の寒さではなく、凍てつくような冬の寒気が襲ってくるような感覚――「相手してやっても良いんだぜ」とヴェルダリアが担いでいる大剣に手を掛けると、ざわめきがよりいっそう深くなる。
 それをモーゼは依然胡散臭い笑みを浮かべていて――。

「――教会内でそれ禁止だと言った筈だが」

 ――と呟きながら手をほどき、するりと指を踊らせる。すると、凍てついていた空気が一瞬にして消え去ってしまった。代わりにモーゼの低い声がよく響く。
 衝動に駆られた青年はハッとした様子でモーゼを見れば、男は微笑んだまま、冷めた目で青年をじっと見つめていた。生意気な態度こそ取っているが、ヴェルダリアは一度も自分から手をあげようとはしていないのだ。今回の一件はそう――モーゼの為を思い、衝動的に手をあげかけた彼が原因だと言いたいようだ。
 その視線に押し負けたのか、青年は開いていた口を小さく動かし何かを呟こうとしたが、耐えられなくなったと言わんばかりに目を逸らし、小さく後退りをする。そして、倒した椅子を立て直したかと思えば徐に席に着いた。
 「そう、よろしい」モーゼが子供を褒めるように呟いた言葉と、「張り合いがない」とヴェルダリアが溢した言葉が折り重なる。――だが、ヴェルダリアは大剣に掛けていた手をポケットの中へとしまった。
 まるで、躾がなっていると言えるような様子にモーゼは静かに笑い――そして、徐に手元にある蝋燭にふっと息を吹き掛け、火を消してしまう。それに従うよう周りも同じように吹き消すと、どこからともなく鳥の囀りが聞こえてきたような気がした。

「話を変えよう。――君達、今日は何の日か解っているね?」

 薄暗い地下室の中で返事をする教会≠フ者達。その行動の後にモーゼは懐に手を入れたと思えば、徐に取り出したのは一輪の花だった。

「今日は季節のイベント、花祭りだよ。日頃感謝を伝えられない若者のために始まった行事だ。家族、恋人、知人、親戚……好きな者に好きなように渡すと良い」

 花を口許に宛がい、あざとく首を傾げながら男はにこりと微笑む。
 「知っているとは思うけど、行事の最中は何に対しても手をあげてはいけないよ。――たとえ、相手が倒すべき者でも」釘を打つようにそう呟いて、モーゼは徐に立ち上がったかと思うと手を叩き、「解散」の一言を言い放つ。
 すると、それに従うように周りは一斉に席を立ち、出入り口へと向かった。付近で寄り掛かっていたヴェルダリアは肩が当たらないよう然り気無く避けて、先程の青年が横を通り過ぎると同時に、強い舌打ちを放つ。
 一見ヴェルダリアの一方的な苛立ちにも見えるが、一人にしては音が大きく聞こえた。――勿論、モーゼの為を思った青年もまた、ヴェルダリアに対して苛立ちを覚え、舌打ちを放ったのだ。
 その光景を目にして、モーゼは肩を震わせてくつくつと笑う。何が面白いのかと言わんばかりに彼は深く息を吐くと、「俺も戻る」も言って背を翻す――。

「ああ、待ちなさい。お前にはまだ話すことがある」

 不意に届く低い声にヴェルダリアはふと足を止める。何かと振り返って見れば、男は「こちらへ」と言って誰かを手招いたようだ。漸く暗さにも慣れてきた瞳に映る一つの面影。恐れるように妙に不安そうな足取りに彼は小さな苛立ちを覚えると、それの顔が視認出来るところでピタリと足音が止まった。
 若草よりも鈍く、暗いローブを纏っているであろうそれに、ヴェルダリアは「ああ、お前か」と呟く。出入り口から差し込む小さな光が、馬の形をした留め具を主張するかのように反射した。
 そこに居たのは――商人≠フ人間だった。
 手に包帯を巻いて大袈裟な見た目をするその男は、昨日ヴェルダリアが手を踏み躙った例の男だ。それはヴェルダリアを見るや否やぐっと身を縮めて、微かにモーゼの背に隠れるよう、数歩後ろへと下がる。どうやら恐怖心を植え付けられた所為でヴェルダリアに対して良い印象を抱いていないようだ。
 彼はそれに虫を見るような目を向けながら、「話すことって?」と唇を尖らせる。「内容によっては許さない」――そんな口振りであった。なぁに、そう重い話ではないよ、とモーゼは徐に顔を上げて笑う。

「この度、我々教会≠ヘ商人≠ニ手を組むことになった。どうやら彼らにとって攫われた奴隷は、それはそれは価値があるようでね。我々の目的――終焉の者≠殺すことと、利害が一致してしまったのだよ」

 何食わぬ顔で言葉を紡ぐモーゼに、へえ、とヴェルダリアが後ろに顔を向ける。本当はお前とは手を取り合いたくない――そんな感情が商人≠ゥら見て取れる。「そんなものこちらから願い下げだ」と思わず言葉が出そうになったが――それをヴェルダリアは呑み込むと、「せいぜい邪魔にならなきゃ良いけどなぁ」と嗤う。
 あくまで終焉を殺せるのはヴェルダリアだけ。
 気が付けば「終焉殺し」の異名さえ与えられていた彼は、何故周りが終焉を殺せるに至らないのか考えていた。恐らく基本的な戦闘技術が周りより遥かに上だからだ、と気が付くのに然程時間は掛からなかった。教会≠フ人間達は剣などの道具や、体を使った物理的攻撃ではなく、魔法を使った攻撃が中心だからだろう。
 終焉はその異質な存在から勿論物理的にも人を上回っていたが、魔力の貯蓄は他の何にも負けることはなく、その威力は絶大なものだという。その方が世界を終わらせるのにうってつけで、いくらか手間が省けるからだ。
 そんな化け物にただの人間の魔法が通用するのか。
 ――結論から言えば、手のひらの上で転がされるだけで、足元にも及ばない。所詮あの男にとって人間など取るに足らない存在なのだ。
 そこで抜擢されたのが外でもない彼、ヴェルダリアだった。彼は確かに魔力を持っているが、誰よりも接近戦に長けていて、遠距離派である終焉の懐に入れば傷をつけることも容易いほど。そうさせないよう、相手もまた気を遣い、自分へと近付かせないようにする様子が見て取れる。
 その隙を突いて懐に入ってしまえば、ヴェルダリアは異名の通り、終焉を殺すことが出来るのだ。
 唯一終焉の懐に入れるからだろう――その足手まといにならなけりゃ良いけどな、そう笑ったヴェルダリアの表情は相手を見下しているようで。まるで、いつの日にか邪魔をされることが分かっているような口振りだった。
 その言葉に商人≠ェぐっと歯を食い縛る。「どうしてこんな奴に従わなければいけないんだ」と言いたげにじろりと睨んでいて、恰も数十年に亘ってヴェルダリアを憎んでいるようにも見える。
 因縁の再会を果たしたかのような光景にモーゼがくつくつと笑い、その間に水を差すように「話は以上だから、貴方は先に行っても良いよ」と商人≠ノ呟く。すると、商人≠ヘ意表を突かれたように肩を震わせて、「こんな場所に居たくない」と言わんばかりにそそくさとヴェルダリアの傍らにある出入り口へ駆けていった。

「…………モーゼさんよぉ……もう良いだろ?」

 俺も早く戻りたいんだけど。薄暗い地下室の寒さが少しずつ和らいでいく、早朝を過ぎた時間。鬱陶しいと言いたげな様子でヴェルダリアが眉を寄せながらモーゼに語り掛ける。こんなことをしている暇はないのだ、と。
 それにモーゼは答えることなく――ぽつりと小さく呟く。

「ヴェルダリア、君は……一体どこまで何を知っているんだい?」

 核心を突いてくるであろうそのはっきりとした口調に、ヴェルダリアはふと呆れていた表情を戻し、いくらか背の低いその顔を見る。
 青年よりもいくらか大人で、しかし初老と言うにもどこか幼さを帯びた、まるで時が止まっているかのような謎めいた男。――その表情は相変わらず薄っぺらい笑みだけを浮かべていて、それ以外の表情は知らないのかと訊きたくなるほどだ。
 その男が、じっと怪しい瞳でヴェルダリアの顔を覗いている。まるで、真実を見定めようとする目付きだった。
 あまりにも鬱陶しい視線にヴェルダリアは「何が言いたい?」と訊けば、モーゼはゆっくりと人差し指をヴェルダリアの胸元に突き付ける。

「簡単さ。君はあまりにも終焉の者≠ノついてよく知っているものだから、一体『何』で、どこから来たのか気になるっていうものが人間の性だろう?――思えば、君だけがあれに匹敵する、というのが面白い話だ」

 ぱきぱきと小さな音がヴェルダリアの耳に届く。その音の正体はモーゼの指先――モーゼが最も得意とする氷の魔法がヴェルダリアを脅す。胸元が微かに冷気を帯びていく感覚が襲うが、ヴェルダリアは依然モーゼを見つめたまま微動だにしなかった。
 それに毒気を抜かれたのだろう。モーゼは「少しくらい慌ててくれても良いじゃないか」と不貞腐れるように手を下ろす。これっぽっちの恐怖などまるで感じていない様子のヴェルダリアは一度瞬きをすると、「俺は炎専門だからな」と手のひらで胸元を撫でる。――すると、微かに凍っていた衣服がじわりと溶け、そのまま乾燥するほど熱せられた。
 ああ、そうだった。モーゼは軽い足取りで身を翻す。「それで、実際のところはどうなんだい」と呟きながら。

「……まあ、他よりも当然知ってることは多いだろうなあ。……で? あんたが訊きたいことはそれだけか?」

 挑発的な口調がモーゼの耳を撫でる。

「――いいや。実際のところまだある。ヴェルダリア、君は本当に彼の者を殺せているのかい?」

 どうにもそんな単純に思えないんだ、とモーゼは腕を組んだ。薄暗い地下室で悩む男と、今にも帰りたいと呟く男が二人揃っている。ヴェルダリアは微かに疑問を抱いたように片眉を上げると、「何だ、まだ読みきれてないのか」と口を洩らす。

「ああ……何故か多数の言語が混ざっていてね。読むのに少し苦労してるんだよ」

 ふぅ、とわざとらしくモーゼは溜め息を吐いた。すると、ヴェルダリアは宥めるように男に一言。

「しっかり読み進めてみろよ。そこに、あんたの欲しいもんがあるんだから」

 ――と、まるでモーゼのことを知っているという口振りで言った。
 すると、モーゼは薄っぺらい笑みを一瞬固めたと思えば、直後に宛ら玩具を見付けたときの子供のような笑みを浮かべ、「それは良いことを聞いた!」と両手を合わせる。
 ぱん、と心地の良い音が鳴った。ヴェルダリアは奇妙なものを見るような目付きでモーゼを横目に見たと思えば、するりと踵を返し背を向いて、「俺は戻るぜ」と軽く手を振る。――と思えば、ふと振り返ってモーゼの顔を見て、「そう言えば」と唇を開いた。

「あんた、その花やる相手居んの?」

 それに、モーゼは両の腕を開き、声高らかにこう言った。

「勿論! 教会≠フ創設者、偉大なる聖母(マリア・グランテ)にさ!」

◇◆◇

 早朝も過ぎた心地の良い日差しが降り注ぐ朝の八時半。ノーチェは重い瞼を開けて、目を擦りながら徐に体を起こす。閉め切った窓の向こう、小鳥が枝葉に止まり小さく鳴き声を上げている。ノーチェは体を起こしたまま、うつらうつらと船を漕ぐ。いくら起きようと思っても体は春の陽気に負けてしまいそうで、彼はそのまま体を前へと倒してしまう。
 ぼふん、と柔らかな感触。温かく、寝心地が良い。――夢ではなかった、と常々思いながら落ちていく瞼にひたすら逆らった。布団から出て立ち上がってしまえば目は覚めるのだろう。――しかし、体は重く、未だ眠気を訴えてくる。何も考えられず、ぼうっと頭に霞がかかる感覚をじわりと味わいながら、ノーチェはゆっくりと目を閉じ――。
 ――コンコン。
 不意に軽快に鳴るノックの音が耳に届き、ノーチェは意識を取り戻すようにハッと目を覚ます。――いけない、眠気に負けていた。そう言いたげに重い体を起こしながら目を擦り、音が鳴った方へと視線を投げる。
 重苦しい黒よりの茶色い扉が、呼び掛けるように再び一度だけ鳴らされた。コン、とまるで「入るぞ」と言いたげなノック音だ。それにノーチェは一度だけ船を漕ぐと、「ぁい……」と生返事をした。

「……起きたばかりだったか?」
「…………へいき……」

 扉の奥から姿を現したのは紛れもない黒衣の男、終焉だ。暖かな陽気だと言うにも拘わらず、黒いコートまでしっかりと着込んでいて、見ているこちらが暑いと言いたくなるほどだ。
 それを気に留めることなく、ノーチェは未だ船を漕いだまま体を前後左右に揺らしていて、茫然としている。――そんなノーチェに終焉は「よく眠れているようで何よりだ」と口を溢しながら部屋に足を踏み入れる。男が向かう先に、カーテンが締め切られた窓があった。
 室内に居るとしても滅多に外すことのない黒い手袋をはめた両手が徐にカーテンを掴む。そして、勢いよくそれを開くと、閉じていた窓を開ける。

「………………眩しい…………」

 運悪くノーチェの目に光が差したのだろう。驚くように顔を俯かせ、キンと響く微かな痛みを誤魔化そうと両目を擦る。目尻には涙が溜まり、一気に目が覚めた感覚に陥った。――最も、痛みと引き換えに眠気を覚ますくらいなら、眠い方が良かったと思うのだが。
 ノーチェの呟きを聞いたのだろう。終焉は微かに振り返ると「悪いな」と薄手のカーテンを閉めながら謝罪を口にする。昼夜問わずの相変わらずの無表情では謝罪の意など伝わりはしないのだが、ノーチェは軽く左右に首を振ると「起きた」と唇を開いた。

「Guten Morgen」

 不意に紡がれた聞き慣れない言語に、ノーチェが首を傾ける。

「ぐーて……?」
「おはよう、だ」

 終焉がやけに流暢に話すその言語が慣れ親しんだフランス語ではないことは十分に分かっていた。「おはよう」と意訳をもらったノーチェは朝であることを思い出し、小さく頷きながら「ん……」と口を洩らす。

「朝食は軽めにしておいた。食えるか?」
「……ん」
「ああ、それと、貴方が着ていたものは繕っておいたから」
「……ん」
「…………寝惚けているのか……?」

 突然ぐっと終焉がノーチェの顔を覗き込んだ。端正な顔が目の前に映し出される。光に当てればガラス玉のように透き通るのではないかと思わせる赤と金のオッドアイ、いやに焼けていない女のような白い肌。覗き込みながら首を傾げる所為で頬から垂れる赤の混じる黒い髪は、一本一本が糸のように柔らかく、滑らかで酷く見入るものだった。
 ノーチェはその顔を見て、漸く目が覚めた。自分は男の問いに、一体どう答えていたのかを必死に思い出そうとする。顔を覗き込まれるまでまるで記憶にないのは、恐らくかなり寝惚けていたからだろう。
 咄嗟にノーチェは「あの、」と口をどもらせる。「あの、寝惚けてたみたいで」と、目を泳がせながら冷や汗のようなものを浮かべて。
 ――いくら死にたいとはいえ、殴られることに体は恐怖を覚えてしまっているようで、まともに思考が働かなかった。
 ふと、終焉がノーチェの頬に手を伸ばしたのに気が付いたのは、ノーチェが力強く布団を握り締めていると気が付いたときだった。ざらりとした布の感触が頬に伝い、布越しからでも伝わる冷気のようなものが冷静を呼び起こしてくるような気がする。
 奴隷になってから妙なものが染み付いたと嫌に思うノーチェに、男は形の良い唇をゆっくりと開いて言った。

「私が貴方に命令すれば、貴方は対等に、気さくに接してくれるようになるのか……?」

 ――なんて、どこか悲しげな表情で。
 それに思わずノーチェはどうにかして宥める言葉を探そうと頭を捻った。理由はない。あるとするならば、何故かそうしなければならないような気がしたからだ。
 だからノーチェはそれらしい言葉をいくつも探したが、どれも単調で、まるで終焉に響いてはくれないだろう。男が自分に対等に接してくれるように願うのが分からないのと同じように、慰める言葉を探す意味など、まるで分からなかった。

「――冗談だ。命令など下してしまえば、そこから対等ではなくなるからな」

 そう言って終焉はノーチェの頬から手を離し、何気なく頭を撫でる。ふわりとした髪の感触がノーチェにも伝わって、随分と髪の質が変わりかけているな、と不思議にも思った。
 全くもって掴み所のない男だ。先程の言葉が冗談だと言われなければ、ノーチェは終焉が本当に命令をすると思っただろう。表情が変わらないというのは酷く厄介で、日常的に持ち込まれてしまえば暮らしにくくなるだろう。
 表情が出なくなった、とどこか理解しているノーチェはふと自分の頬をつねる。冗談を言おうとは思わないが、置いてもらえている以上、終焉と居て暮らしにくい状況を作らないようにしなければならない。

「そうだ、ノーチェ。朝食を済ませたら外に出よう」
「――え?」

 不意に呟かれた終焉の言葉にノーチェは驚いたように声を上げる。奴隷を買わず攫ったからこそ、彼は終焉が外に出ようと提案してくるとは思わなかったのだ。ノーチェは時間こそは把握していなかったが、攫われたときの人の騒ぎは昼のそれのものだろう。
 撫でるために置いていた終焉の手を目で追いながら、ノーチェは「外に出ても平気なのか……?」と言葉を洩らした。人の目を懸念して発せられた言葉だ。――それに終焉は「問題ない」と言葉を置いて、扉の方へと歩みを進める。

「新しい衣服はしまってあるから好きなものを着て、それで下に降りてきてくれ」

 ああ、靴も新調しなければな。
 ――茫然とするノーチェに、終焉は惜しげもなく扉の向こうへと消えていった。


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