願い、溢すは


 しんしんと雪が降るのは稀なことではない。寧ろ、例年より降る回数が減っていると、誰かが言っていた。
 ほう、と吐息を洩らし、屋敷の中を歩くノーチェは、自室から出てきたであろう終焉を見つけて足早に駆け寄る。普段から服を着込んでいるが、この冬になってからよりいっそう寒さから逃れようとしているように見える。屋敷の中だというのにも拘わらず、男は黒い手袋をして、はあ、と手に息を吹き掛けていた。
 相も変わらず男は寒さにはめっぽう弱いらしい。
 ノーチェはここぞとばかりに終焉に近寄り、両腕を男の体に回してぎゅっと抱きつく。普段なら決して取らないような行動ではあるが、いかんせん彼は男に対しての好意を自覚してしまったのだ。いくら「らしくない」と言われようが何だろうが、終焉に近寄れるのなら理由などいらなかった。
 終焉の体に抱きつくが、人間特有の温かさは少しも返ってこない。それでも彼は不満を抱くことはなかった。何せ、突拍子もないノーチェの行動に戸惑い始める終焉が見られるからだ。

「な…………なん、どうした……?」

 ぐっと体を強張らせ、終焉は抱きついてきたノーチェの肩に手を置く。引き離すわけではないが、頭を撫でるわけでもないようだ。
 男は肩に手を置いたまま微動だにせず、ノーチェが動き出すのを待つ。離してもいいのか悪いのかが分からないようだ。試しにノーチェが顔を上げてみれば、男はほんのり困ったように表情を歪めている。嫌悪ではない――対処に困ったようで、ノーチェから視線を離したところを見ると、恥ずかしさを覚えているようだ。
 終焉の問いにノーチェは「何でもない」と呟きつつ、終焉から手を離す。男はほっと一息吐いて胸を撫で下ろした。いくら「愛している」としても、実際に行動に出られたら終焉ですらも戸惑うのだ。
 終焉と一定の距離を置き、様子を窺えば男は一呼吸置いてからノーチェに向き直る。
 感情など初めから持ち合わせていないかのような瞳は相変わらず突き刺すような視線をしていて、初対面であれば震え上がってしまうほど冷めている。かくいうノーチェでさえも、初めて目にした頃は威圧的に見えていたものだが――、今となってはいやに綺麗な瞳をしていると実感するのだ。
 この瞳は嫌いではない。自分に興味がないわけではないが、ただ見守るだけで留めている目がやたらと心地好く感じられるのだった。
 悪くはない。――威圧感も最早感じない彼は、終焉の視線にほっと胸を撫で下ろして「今日は何するの」と言った。男はノーチェの質問に瞬きをして、ああ、と呟くと、エントランスへと目を配らせる。

「今日はな…………正直私は街へ行きたくはない」
「…………?」

 そのまま男はやけに嫌そうに目を閉じたあと、口許を軽く隠した。
 ノーチェが熱を出して倒れてから早くも数日が経っている。その間に彼は終焉に近付いてはくっついて過ごすようになり、夜には容赦なく男のベッドに入り込む生活を送るようになった。初めこそ――今でも男は戸惑い、夜には驚いて肩を震わせることすらもあるが、漸く慣れてきたように彼を受け入れるようになったのだ。
 その間のノーチェは特別街の情報を得ることはなく、ただこの人と過ごせればいいなどと思っていた。それ故に彼は、終焉がなぜ街へ行きたくないのかを知りたがった。
 彼は何気なく「どうして」と終焉に問う。終焉は気まずそうな、バツが悪そうな顔をしているが、話したくないわけではないようだ。重々しく口を開き、ほんのり忌々しげにエントランスを見つめるものだから、ノーチェは息を呑む。

「……今日は聖夜祭だから」

 ぽつりと呟いた男の言葉に、ノーチェは聖夜祭、と口を洩らした。

 ――聖夜祭。
 夏祭りや花祭りと同等――もしくはそれ以上の賑わいを見せる冬の祭り。聖なる夜に街を彩るイルミネーションを眺め、家庭ではケーキなどを頬張るひとつの行事だ。その本質は教会≠フ創設者であると言われる聖母の生誕を祝う、大きな誕生祭なのだという。
 彼女は誰よりも他人に優しく、平等に接し、他人の幸せを願った。――そういった傾向から、聖夜祭では様々な形で人の幸せを見ることができるのだ。
 そして、厄介なことに、教会≠フ人間達が一番動き回る活発な一日になるのだという。

「――ていうわけで、エンディアは街に来たがらないのよ」
「…………ふぅん」

 屋敷から離れ、街の中を闊歩するノーチェとリーリエは雑談を交わした。彼の手元にあるのは手のひらサイズの一枚の紙切れ。そこに書かれているのは、小麦粉やたまご、砂糖などの材料の名前だ。酷く達筆な字で書かれているそれを、ノーチェは不満げに携える。
 ――好きなものをひとつ、買うといい。
 そう言って送り出した終焉の顔は少しも変わることもなく、淡々としていた。傍らに立つリーリエだけは満面の笑みで、酒が買えることを喜んでいる素振りを見せていたのだ。
 ――本音を言うならば、来たくはなかった。
 祭り当日というだけあって、人の波は普段の街よりも多く、密度が高い。すれ違い様に肩がぶつからないように避けて、店を目指すのも多少の疲労感さえ覚えてしまう。終焉はそれを難なくこなすものだから、やはり胸に抱くのは尊敬の念ばかりだ。
 いくら終焉の背を追って振る舞ってみようが、到底男に追い付くはずもない。あまりにも遠く、手を伸ばしたところで届きそうにもないが、隣に並ぼうとする意思は止められなかった。すんでのところで避けて、流れるように足を踏み出す――ただそれだけのことをするのは、終焉に追い付けた気持ちになって、ほんの少しだけ嬉しく思えた。
 ――だが、その終焉は今はいないのだ。

「…………あの人と来たかったな」

 ぽつりと呟かれた本音に、リーリエが聞き耳を立てる。ノーチェの代わりに店に乗り込み、終焉に頼まれた材料を買い出してきたリーリエが爛々と瞳を輝かせていた。人混みを避けるどころか立ち向かう女の姿勢は、誰よりも強く逞しい。その逞しさにまるで人の方が避けているようにも見えた。
 嫌なタイミングで戻ってきたものだと彼は眉を潜ませる。ぐっと近付いた小綺麗な顔から、ノーチェは顔を逸らす。酷く面倒なことになりそうな気がして、話を聞きたくはなかった。

「あんた、今面白そうなこと言ったわね〜」
「………………面倒くさい……」

 ――だが、それを聞き逃すリーリエではない。
 ノーチェの意思とは裏腹に、問答無用で言葉を切り込んで口許で弧を描く。寒さか興奮か、ほんのり赤く染まった頬に楽しげな色が浮かぶものだから、ノーチェは堪らず耳を塞いでやろうかと考えた。
 ノーチェの心情の変化にリーリエは興味を抱いたらしい。「いい傾向ね」だなんて言うものの、その目は彼をからかうための視線が隠れているようだ。

「…………うるさいな」

 からかいを避けるためにリーリエを一蹴し、ノーチェは女の手から袋を奪い取る。人混みを避けるようにはなれたが、首輪がついている以上人の目は避けられない。一般人からすれば彼はやはり奴隷の一人でしかないのだ。
 普段なら視線の誘導をする終焉がいるのだが、今日は聖夜祭というだけで街に来ることを避けている。辺りには確かに教会≠フ人間達がよく見受けられるものの、その他に家族だとか、男女の組み合わせだとかが非常に多く見受けられるのだ。
 どうせならこの流れに興じて仲を深められれば良かったのだが――、生憎相手は酒豪且つ豪快な女であるリーリエだ。彼はリーリエとの仲を深める気など露ほどもなく、ただの荷物持ちとして同行している。周りの空気にあてられる、など、ありもしない現象だ。
 荷物を奪い取りながらノーチェは頬を膨らませてやる。自分はリーリエの言動によって不機嫌なのだと、目に分かる変化を見せつけるためだ。それによって女はくつくつと笑ったあと、緩く笑いながら「悪かったわよ」と言った。

「ちょっと嬉しかったの。少しは変わるかと思って」

 そう言ってリーリエは前を向いて上機嫌に歩き出す。相変わらず自分を貫き通しているからか、黒いドレスをまとう女に近寄ろうとする住人は全くいない。それどころか自分から避けるような素振りを見せて、極力関わらないようにしているようだ。
 「黒」は嫌われた色――それがよく分かる嫌な現象だった。

「あら、やっぱり教会は華やかね」
「…………」

 思うままに歩き、街を堪能していると、ひときわ華やかな建物が視界に映る。街中を彩るガーランドなどはない。ただ、この季節にはいやに珍しい赤いバラが近辺を彩っていて、街中とは変わらないような雰囲気の売店が小さく構えている。
 静まり返った教会とは裏腹に、売店には何人かの住人がこぞってこう言っていた。

「お誕生日おめでとうございます」

 大きな声で天真爛漫に言うものだから、教会≠フ人間が誕生日を迎えているものだと彼は思う。それが一体どこの誰なのか――何の気なしにぼんやりとその人だかりを見つめていると、リーリエに小さく手を引かれた。
 そんなもの気にしなくていいの。
 ――そう言って足早に教会≠ゥら離れる女の顔付きは、普段通りの笑顔ではあったが、不思議と嫌悪が見え隠れしている。顔は笑っているが、目は少しも笑っていない。長い睫毛からちらりと覗く赤い瞳は、教会≠見つめているが、どこか睨んでいるようにも見えた。
 ――触れた方がいい話なのか、それとも触れてはいけないのか。彼は分からないままリーリエに手を引かれ、教会≠後にする。冷えきった街の中では白い呼気がどこにでも現れた。何気なく空を仰ぐが、ほんのり雲がかかるような薄暗い雲が見えているだけで、あまり雪が降るような天気ではない。
 何か、特別な日になりそうな気がしていたのだが、気のせいだったようだ。
 ノーチェはリーリエに手を引かれるがまま歩き、沈黙に耐えかねた結果、「誰か誕生日なの」と小さく呟いた。あまりにも賑わう所為で、彼の呟きはか細く、ろくに聞こえてもいないだろう。ほんの数秒返事を待ってはみたものの、揺れる金の髪に振り向く気配がないと思うや否や、彼は口を閉ざす。
 返答はない――そう思って、ぼうっと屋敷へ想いを馳せようとしていた。

「…………私の友達がね」

 ぽつりと呟かれたリーリエの言葉を広いながら、ノーチェは瞬きをひとつ。こんな賑わった街の中で聞こえたのかと思いつつ、誕生日、と繰り返すと「そうよ」と女は言った。

「マリアっていうんだけどね。あの子も、見た目にそぐわず割とお酒がいける人よ」

 振り向きながらにっと笑い、手を軽く扇ぐ仕草を取るリーリエにノーチェは目を丸くした。自他共に認める酒豪であるリーリエにこんなことを言わせるなんて、どんな人なんだろう、と思った矢先――ふと名前に聞き覚えがあるような気がして、首をノーチェは傾げる。
 マリア、マリア。何となく小さく呟いていると、その違和感が漸く拭えたかのようにふと、そのその姿を思い出した。
 泉の水のように透き通る氷の色をした長い髪。教会≠ノ勤めているであろうシスターのような格好をしていた、彼にとって小柄な女性。柔らかな微笑みと口調から、まるで母のような印象を抱く女だ。
 彼はそれに気が付くと、あの人か、と小さく口を洩らす。あの人が創設者なんだ、と小さく呟いて振り返ってから教会があるであろう場所を見た。リーリエが連れ出すようにノーチェの手を引いたお陰か、教会はすっかり遠く、面影が残る程度だ。

 誕生日だというのなら、どうしてそれらしい姿が見えないのだろうか。

 ――ほんの少しの疑問を胸に、「早く帰りましょ」と呟くリーリエに振り返る。どうやらあまり触れてほしくない話題であるかのように、会話を切ってしまうものだから、ノーチェもまた深く探ることをやめた。
 彼はただ荷物持ちとしてリーリエに同行しているのだ。女が帰ろうと言うのなら、ノーチェはそれに従うだけだった。
 ――ふと、何の気なしにノーチェは手元にある袋を覗き見る。そこには終焉のメモに従って買われたであろう素材達と、一際存在感を放つワインボトルが一本。煌々と輝いているようにさえ見えるそれに、一体いつ買ったのかとそれを睨んでいると、「あっ」と弾かれたような声が聞こえた。
 その声に彼は顔を向けると、目の前にいるリーリエが、振り返ってノーチェを見ているのだ。
 その表情は――――確かに、悪戯が見付かった子供のような顔をしていた。

「アンタ、これ」
「いいじゃない! 好きなもの買ってもいいって言ってたんだから! それにこういう日にはワインでしょ」

 にっ、と笑ってノーチェに有無を言わさず、リーリエは踵を返して鼻歌交じりに歩く。酒を調達できたのが余程嬉しかったのか、ヒールを履いているというのにも拘わらず軽快な足取りで歩くものだから、感心すら芽生えてしまう。
 ほんの少し、教会≠避けているように見えるのは、あながち間違いではないのだろう。離れれば離れるほど、リーリエは持ち前の明るさを取り戻していった。
 特別触れることでもない。ほんの少しだけ詳細が気になったような気がしたが、ノーチェは口を閉ざしたままリーリエのあとを歩く。
 ――だが、ノーチェの気遣いなど露知れず。リーリエはぽつりぽつりとマリアの話をし始めた。
 好きなもの、嫌いなもの。どのような性格か、どのような生活を送っていたのか。教会≠設立した理由が「身寄りのない子供たちのためのもの」であることを語り、ほんのり嫌そうに街の景色を眺める。
 どうやら今の教会≠ヘ以前とは全く違うもののようで、「本当にうんざりね」と呟いてから小さな溜め息を吐いた。

「辛気臭くなっちゃったわね」

 気分を切り替えるよう、リーリエは表情を明るめてノーチェに微笑んだ。それが普段の陽気なものとはうってかわって、僅かに陰のある笑みを浮かべるものだから、彼は数回瞬きをする。
 まるで気分の晴れないこの空模様と同じで、何かが喉元に突っかかるような違和感を覚えていた。
 元気がないということは何かあったに違いない。――じっと人の顔色を窺う機会が多かったノーチェは、リーリエのその変化に仮説を立てていく。見当たらない理由は、この街にいないのか。それとも、何らかの原因で外に出られないのか。

 もしくは――そもそも存在していないのか。

「…………いい。早く帰ろう」

 ほう、と吐息を吐きながらノーチェは袋を担ぎ直す。こういう気分のときはあの人の手料理を食べたら元気になる、だなんて呟けば、リーリエはそうよね、と言った。
 初めは降りそうにもなかった雪が降りそうな気がして、ノーチェは腕を擦りながらリーリエと共に帰路に就くのだった。

◇◆◇

 雪を彷彿とさせてくるような白いクリーム。赤く熟れた甘酸っぱいイチゴに、ふんわりと柔らかなスポンジ生地。チョコレートで覆われた甘いケーキと共に現れたそれに、彼は「今日は腕を揮ったなあ」なんて考える。二種類のケーキをどちらも食べろと言わんばかりの登場に、ノーチェは首を傾げた。
 どちらを食べよう。――そう思うと共に、周りの家庭と何ら変わりのない時間を過ごしていることに気が付く。あくまで自分は奴隷だと言い聞かせるようにしているにも拘わらず、ただの一般人となんら変わりのない生活を送っているのだ。
 リーリエのケーキに対する歓声。いやに鬱陶しげに顔を顰めるものの、「美味しい」と感想を聞く度に、ほんの少しだけ柔和な表情を浮かべたように見せる終焉。パチパチと音を立てて炎を揺らす暖炉の温かさ。温かな湯船に、明るい照明――どれをとっても今の彼には場違いそのものだ。

 本当にこの場所にいてもいいのだろうか――何度もそう思うことが多々ある。

 小皿に取り分けられたケーキを選び、銀のフォークで口の中へ運ぶ。砂糖や生クリームの甘さが口いっぱいに広がったと思えば、赤く熟れたイチゴの甘酸っぱさに体を震わせる。
 甘いだけではないこの緩急がまた癖になる。
 軽く咀嚼を繰り返し、用意されたミルクティーを飲む。甘いもののあとのほろ苦いミルクティーは口の中を洗い流してくれる。そうして再びケーキを口にすれば、また新しい気持ちで甘さを堪能できるのだ。
 終焉は相変わらず甘いもののあとに甘いもの――自分に用意したココアを飲み下す。四六時中甘いものを口にして胸焼けがしないのかと、多少なりとも疑問に思うことはあるが、その素振りを男は少しだって見せることもなかった。
 対してリーリエは少しの甘みもないブラックコーヒーを堪能していて、ほんの少しだけ終焉の反感を買っていた。
 しかし、男も分かっているはずなのだ。コーヒーを勧める前のリーリエは、いつも通りワインのボトルを取り出しそれを飲もうとしていたのだ。ただでさえ買い物付き合いの褒美として招待した夕食にも飲んでいたというのに、これ以上の飲酒は人体にもあまりよくないということで必死の説得を試みた。
 結果、女は普段から口にしているコーヒーで妥協したのだ。

 ――――この光景は、まるでひとつの家庭のようだった。

 ぼんやりとそう考えながらリーリエが去ったあとの屋敷内でノーチェは暖炉を見つめる。ある一定の時間が経てばフッ、と掻き消すように炎が消えるよう魔法がかけられたそれは、未だにパチパチと音を立てていた。
 時刻はもうまもなく十一時に差し掛かろうとしている。程好い眠気と、温かさと、疲労に包まれて彼は小さく欠伸を洩らした。
 自分が奴隷のくせに、だの何だのを思っている時間が単純に無駄な時間になり得るのだと気が付くのに、時間が掛かりすぎてしまった。今日の温もりを痛感して、ノーチェは少しだけ卑屈になるのをやめようと考える。
 ――だが、やはり存在を主張し続ける首輪は、彼の思考を後ろ向きなものに変えるにはうってつけだった。
 そっと指先で鉄製のそれに触れて、炎を見つめながらぼんやりと考え込む。何度も思った同じようなこと。この首輪がない状態で――、奴隷ではない状態で終焉に会えていたら、何かが変わっていたのだろうか、と。
 自分ではない自分を求められていると感じているからこそ、彼は奴隷として確立してしまった自分が許せなかった。
 ――しかし、後悔しても何も始まらないということを理解している。
 終焉は夜中にのんびり風呂を堪能するため、ノーチェは終焉を待ちながら考え事に没頭できるのだ。後悔するよりも、今はどう過ごすのが得策かを考えるのが優先だ。

 この街の特性からか、近頃商人≠フ姿を見かけなくなった。
 ルフランは森に囲まれた場所にあり、街は教会≠ェ支配している。
 このことから商人£Bの存在は、あまり意味がない可能性があるのだ。
 街の穢れを彼らは許さない。この街があってこそ、教会≠ヘ輝きを放つ。
 ただか奴隷を集めるために街を荒らす商人≠スちを、教会≠ェ許すはずもないのだ。

 ――だが、彼らが街を出たという可能性は低い。
 以前ノーチェが商人£Bに捕まった際、彼らは困惑した様子で言っていたのだ。まるで恐ろしいものを見たような形相で、「森から出られない」と言っていたのを彼は今でも覚えている。
 つまり、彼らはまだこの場所に滞在しているはずだ。
 しかし、商人£Bの姿をめっきり見かけなくなったのもまた事実。以前ならば街の中で定期的に見かけていたり、不意にこの屋敷に訪れることも数回あった。
 本来ならばそうそう見つかるものでもない、と終焉が頭を悩ませていた記憶が新しい。今では特に気にすることもなくなってはいるが、男も男で所在地が明確になってしまっていることは弱点になり得るのだ。

 商人≠ノ狙われ続ける奴隷と、教会≠ノ狙われる終焉。

 改めて考え直すと、やけに複雑な場所に放り込まれてしまったと思う。
 パチ、と火の粉が飛ぶのを視界の端に入れながら、ノーチェは何の気なしに廊下の方へと顔を向けた。燃える木の匂いとは別に、華やかで甘く、特徴的な香りが漂ってきたからだ。彼はその廊下をじっと見つめていると、廊下を頼りない足取りで歩く男の姿を見た。

「……寝るの」

 ――そう、小さく問いかけを投げてみれば、終焉は眠そうな顔でノーチェを見たあと、「ああ」と言う。
 普段の様子なら決して見られることのない表情に、僅かに表情筋が緩みながら彼は席を立った。終焉は一足先に部屋に戻るよう彼に背を向けていて、既に歩き始めている。
 待って、と声も掛けず、ノーチェは男の背を追った。客間を出て数分後、小さく聞こえていた火が燃える音は綺麗さっぱり聞こえなくなるものだから、毎回消える原理が知りたいとそれとなく思う。
 そんな疑問を置き去りにして、終焉が自室の扉を開けるのを彼は見た。男の動きにはまるで無駄な動作がひとつもない。料理や、掃除と同じように、眠るためにただ一直線に部屋へと向かうのだ。
 まるで、巣の位置を頭の中に刻み付けている動物のように。寄り道をすることもなく部屋の中へと入ってしまった。
 ――そんな終焉の部屋を、ノーチェは躊躇うこともなく開けてから、部屋の中へと足を踏み入れる。
 扉を閉めて中を見れば、終焉は一足早く布団の中へと潜り込んでいて。何気なく近付いて顔を見やれば、暖かな布団に満足している子供のような雰囲気を醸し出していた。

 案外可愛い一面がある。

 そう思いながら彼は布団をめくり、何の違和感もなく終焉の布団に入り込む。風呂上がりの温もりを携えた男の体は、湯たんぽのように温かかった。
 寝込んで以来、一人で眠ることすらもままならない彼は、追い出されるまで終焉の傍らで安眠を貪るようになった。程好い薄暗さと、誰か知っている人がいる、という感覚は彼に安心感を抱かせるには十分だ。誰も叩き起こすことはなく、予告なく暴力を振るわれることなどまずない。
 それがどんなに幸せなことなのか――ノーチェは痛感するのだ。
 彼は相変わらず人肌を感じるように、顔を終焉へと寄せて深く息を吸った。眠ろうとする意識が働いて行う深呼吸は、気持ちと気分を変えるにはうってつけなのだ。
 追い出されるまでと思っているものの、終焉がノーチェを追い出す兆しは全く見られない。その事実に喜びすらも感じていると――、ふと、男が目を開いた。

 珍しい、と思った。終焉は一度目を閉じると、滅多なことが起こらない限りは素直に眠りに就くタイプだ。多少意識が浮上したとしても、一言二言溢す程度で、すぐに意識を手放すほど寝付きがいい。

 そんな男がゆっくりと目を開いて、ノーチェを見ていた。
 さすがに追い出されるようになるのだろうか。――そう身構えていると、終焉が小さく唇を開く。

「…………なにか、欲しいものはあるか……?」
「…………?」
「……世間では、今日はなにか、欲しいものを与えるんだそうだ」

 聖夜祭はとある偉人の誕生を祝う前夜祭のようなものである。その前夜に子供達に贈り物を用意して、翌日目を覚ました子供達の歓声を聞く習慣があるようだ。
 実際の由縁などノーチェも、終焉も知っているわけではないが、リーリエ曰く「そういうもの」だという。
 例年通りであるならば、終焉は一人きりでこの屋敷に身を寄せているはずだった。誰もいない部屋の中。人気のない敷地内。灯るはずのない暖炉――そう語る男の言葉を聞く度に、ノーチェはもやもやと、胸の奥に黒い何かを抱える気持ちになる。

 例年――何年も、何年もこの人は一人きりでいたのだ。ノーチェが奴隷になる前も、この男は一人なのだと。何とも言えないほど寂しく、悲しく、虚しさばかりが募るのだ。

 ――だから男は、彼に対して何も用意していないということに対して、申し訳なさを覚えているようだ。折角一緒に過ごしてくれているのに、と溜め息がちに洩らすものだから、ノーチェはじっと考え込む。
 終焉はゆっくりと瞬きをしたあと、再び「欲しいものはあるか」と呟いた。終焉ならばノーチェが何を欲しがっても、何を犠牲にしてでも手に入れて来るのだろう。

 ――たとえば、奴隷ではない状況を望めば、どんな手を使ってでも首輪を取ろうとするのだろう。

 しかし、彼はそれを望むつもりはなかった。

「……いらない」
「…………そうか」

 首を小さく横に振って、ノーチェは終焉の申し出を断る。その様子を見かねた終焉は、多少残念そうに返事をしたが、現状を踏まえた上でノーチェの返答に納得したように微笑む。ほんのり優しく、柔和なそれに彼の胸の奥が温まるような気がした。
 綺麗な顔だ。本当に綺麗で、まるで男とは思えないほどの顔立ちだ。人付き合いが多ければ何人もの女が虜になっただろうし、終焉が女であればたくさんの男達が言い寄ってきただろう。
 ――そう、思わざるを得ない端正な顔立ちだった。
 だからだろうか。ほんのり芽生えた好意と、妙な執着に彼の口が突き動かされる。

「…………アンタがいい」

 ぽつりと呟いたノーチェの言葉に、終焉が口許の緩みを解く。

「…………アンタがいれば、それでいい……アンタと一緒にいたい……」

 しっかりと眠たげな男に届いているのだろうか。
 ――そんな不安から、ノーチェは再度同じ言葉をはっきりと口にした。まるで一世一代の告白のように思った言葉を並べ立てて、終焉の様子を窺う。
 思いの外男は眠気に襲われている所為か、大きな変化こそは見受けられなかった。代わりに、茫然とノーチェを眺め、言葉を失ったように唇を僅かに開けている。聞こえていないわけではなさそうだが――、返事には困っているように見えた。
 引かれてしまっただろうか。
 ――そんな懸念を抱くと、不思議と胸の奥がドクドクと低く鳴っている気がした。居心地が悪く、あまりにも気分が悪くなりそうで。彼は堪らず先程の言葉を否定したくなったが、自分の気持ちをなかったことにするつもりもなかった。

 ただ、無言の時間がひたすらに苦痛であったのは確かだ。

 あまりのもどかしさにノーチェが遂に顔を逸らしてから数秒。終焉の手が微かに動き、ノーチェの体に片腕が覆い被さる。
 何かと思いノーチェはその手の行方を目で追っていたが、不意に頭上から「寒い」という唸るような呟きが降り注いだ。

「もう少し、寄って……雪が……ふって……」

 男の呟きに彼は自分の頬に伝う空気が、先程よりもいっそう冷たくなったのを痛感した。鋭い針で刺されたかのような冷たさに思わず終焉へとすり寄るが、男からの返答はもうない。
 代わりに途切れた言葉のあとに聞こえてくるのは、規則正しい寝息だけだった。

「…………寝てら」

 ほんの少しだけ焦らされたような感覚に陥ったが、直後ノーチェも大きな欠伸を溢してから、体を震わせて終焉の服を掴む。
 風呂上がりの男の体は温かく、柔らかで落ち着く甘い香りがした。密着した状態のくせに全く鼓動が聞こえない点を除くと、やはり男は生きているのだと実感する。

 ――生きているのだ。彼が漸く好きだと自覚し始めた家主は、紛れもなく息もしているのだ。違うことなど何もない。万物が終焉を嫌おうが、自分だけが終焉の良さを実感していればいいのだ。
 ――そうして、同じように愛せれば、きっと、報われるはずだ。

 ゆっくりと目を閉じて、終焉の寝息に合わせるようにノーチェもゆっくりと呼吸を繰り返す。やがて薄れ始める意識に、何故だか途端に不安が押し寄せてしまった。

 ――この人と一緒にいられるのはあとどれくらいなんだろう。


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