不安の中で見えた気持ち


 夢だ。これは明らかに夢なのだ。何せ彼は、自分が「眠ってしまった」という認識と、「嫌なものを見ている」という意識がはっきりとできているからだ。夢にしては珍しく夢だと分かるタイプの、嫌な夢だった。
 望んでもいない理不尽な暴力が振った。抵抗ができないことをいいことに、顔だの腹だのを殴ってくる人間が純粋に嫌いだった。俺はあんた達のサンドバッグじゃない、なんて何度思ったことだろう。ストレスの捌け口にされるなど、彼は嫌で仕方がなかった。
 殴る蹴るの暴力は相手が気が済むまで止まらないものだから、彼は余計なことを考えることをやめた。考えるだけの思考と、意識が無駄だと分かるや否や、無駄な労力だと思って諦めを抱くことにしたのだ。そうすれば何も感じずに済むから。飽きた頃に収まるそれに、 いちいち感情をすり減らすことなどしたくもないのだ。
 ――だが、彼を襲うのは暴力だけではない。
 理不尽に振るわれる暴力に対してならいくらでも我慢ができた。殺して欲しいなどと思っていながらも、特別な一族である彼は決して死ぬことはない。殺してしまえば捕まえた意味がないと、奴らが言うからだ。
 だからこそ彼は暴力に対しては耐えることができたが、性的な暴力に対しては到底慣れることがなかった。
 同意などあるはずもない。抵抗ができない彼は、それから逃げることも許されない。いくら嫌だと声を上げようが、喧しいと言われ口を塞がれてしまう。そうして抵抗する術を失い、彼を欲の捌け口にしようとする酔狂な男達にすっかり囲まれてしまったのだ。
 痛みと共に溢れ落ちる涙も、プライドも、誰にも知られることはない。貞操を失い、胸に募るのは悔しさばかり。暴力とは異なり飽きが来ない所為か、何日にも亘って続くそれに、彼は着々と死を望むようになった。

 死ねばこんな目に遭わなくて済む。商人£Bからすれば重宝する生き物であるノーチェの死は、多大なる損害へと繋がる。自らの命でこいつらに報復ができるのであれば、なおのこと彼は死にたがるようになった。

 ――それと同時に、胸の奥底で誰かの助けを待っているのも確かだったのだ。

 彼に死ぬための勇気などありはしない。そんな勇気と抵抗があれば、とうの昔に命を絶ち、この世とは別れを告げている。たとえ父や母、友人達が悲しみに明け暮れてしまおうがなんだろうが、嫌だと思っている現状から逃げられるのであれば、手段は問わなかった。
 だが、それすらも「抵抗」と見なされ、途端に意欲を失ってしまう。下から突き上げる圧迫感と、酷い苦味に身体中を蝕まれ、ただただ都合よく犯されるだけの人形と化してしまう。彼、ノーチェ自身に人権などあるはずもなく、奴隷として好きなように扱われるだけの人生だった。

 こんな状況下で生きる楽しみも、助けも望めるはずもない。何度嫌だと思っていても、やめてくれるだけの良心すらも持ち合わせていない奴らにとって、彼は格好の餌食だ。
 だから彼はプライドを投げ捨てて、ありもしない助けに何度も縋った。

 もうこんな目に遭うのは嫌だ。これなら殴られていた方が百倍マシだ。汚い、気持ちが悪い、苦い、臭い。生きているだけでこんな目に遭うくらいなら早く死んだ方がマシだ。
 死んで、来世なんてものは存在しなくてもいい。同じようなことになるくらいなら、生まれ変わりたくもない。死んだその先に何かがあろうがなかろうが、今となってはどうだっていい。
 ――それでも今は、今だけは。

 ――――誰か、助けて。

「――――ッ!」

 息が止まっていたと錯覚をするほど、ノーチェは勢いよく目を覚ました後に浅い呼吸を繰り返す。心臓が今まで感じたことのないほどに速く脈打ち、意識は朦朧とするばかり。頭に酸素が回っていないのだと気が付いているものの、悪夢に対する彼の体は正常には戻らない。
 嫌だ嫌だとノーチェは小さく唸り声を上げた。嗚咽のようなそれは、決して誰かに届くわけでもなく、目の前にある布地に吸い込まれて消えるのだ。

 ――布地?

 ――そうしてふと、彼は目の前にあるのが虚空ではないことに違和感を覚えた。
 恐る恐る顔を上げ、ぼうっとそれを見やると、黒い塊が僅かに動く。ノーチェの目は夜目が利く。ただの虚空であれば部屋の壁でも見られるはずだが、目の前にあるそれは黒い色の、衣服だ。少しだけ顔を上げた先にあるのは白い、日焼けのない滑らかな首筋があった。
 そして、その上から低く、落ち着いた声が降り注ぐのだ。

「………………起こしたか……」

 落ち着いた、と表現するにはあまりにも静かで、どこか頼りない。眠たげな声は彼の頭上から降ってくるものだから、ノーチェはただ疑問を抱えたまま「え、と」と口を溢す。
 よく見れば彼の体を抱えるよう、終焉の腕が回されていた。

「……寝かしたはいいが…………私が眠れなくて。ノーチェも魘されているし、考えた結果がこれだ……許してくれ」

 終焉は頼りない言葉でノーチェに告げると、徐に体を起こし始める。それに倣うようノーチェもゆっくりと体を起こすと、体の異変に目を丸くした。気怠さと、熱、そして寒気のない快適な感覚は、まるで初めての経験のようだった。
 これが薬の効果か。――そう思うや否や、ノーチェの体を終焉が柔く抱き留める。彼はそれに驚き、体を強張らせて息を呑んだ。
 緊張とほんの少しの恐怖。悪夢の影響か、終焉がノーチェに手を出すことなどないというにも拘わらず、彼はその後に何が来るのかとつい身構えてしまった。飛び跳ねるような心臓の音がまるで耳元で鳴り続けているよう。煩くて、吐き気すらも覚えてしまう。
 それでも彼は男を突き放すこともなく、黙ってそれを受け入れていた。驚いて身動きの取れないノーチェを宥めるよう、終焉が頭を撫でて背中を軽く叩いていたからだ。

「怖い夢でも見たか」

 まるでこちらを見透かしているような言葉に、ノーチェはうっ、と声を上げた。終焉が見たノーチェがどれほど魘されていたのか、彼自身が知ることはない。
 だが、男が黙ってノーチェを抱き寄せ、彼を子供のようにあやす素振りを見ると、相当魘されていたのだろう。言及こそはしないが、男からはそれとなく知りたいと思う気持ちが伝わるような気がした。
 怖い夢――そう言われて、彼はぼうっと男の手の動きを感じる。眠気を掻き立てるような一定のリズムで撫でたり、叩いたりするものだから、呼吸が整い始めた。
 身動ぎすらもできなかった強張っていた体が、次第にほぐれるように力が抜けていく。そうしているうちに、何やら目頭が熱くなって、彼は徐に終焉の服をぐっと握り締めた。

「…………早く死にたい……」

 ぽつりと呟いた言葉に、男が「それは無理だ」と告げる。

「……私に貴方は殺せない……私は、貴方を見殺しにはしない……分かってくれ」

 愛しているんだ。
 随分と久し振りに聞いたと、彼は思った。元より終焉は常日頃からノーチェに愛を告げるような男ではなかったが、今に至るまで「愛している」と告げたことは殆どない。まるで彼にそう告げることを控えているかのようだ。
 ノーチェは終焉の腕の中でぼんやりと男の愛を受け取った。やけに耳触りのいい、温かい言葉だ。奴隷として首輪をあてがわれてから一度だって聞くことのなかったそれを、見目のいい男に言われるなど誰が思おうか。
 彼は「分かってる」と小さく呟きながら僅かに顔を男の肩に埋める。普段なら冷たく、まるで氷のように思える終焉の体だが、今はいやに温もりがあった。そうして体や、髪の毛から微かに甘い香りが漂ってくる。この屋敷に来てから幾度となく感じてきた洗髪剤や、入浴剤の香りだと知ると、男の体が温かいことが納得できた。

「…………俺だって、奴隷になんてなりたくなかった」
「…………ああ」

 漂う香りと温もりに絆されるように何気なく弱音を吐くと、男はよりいっそう抱き留める腕に力を込める。彼はそれ以上何かを言うことはなかったが、終焉からは離れる様子を見せない。ほんの少し気持ちが落ち着くまで宥めてくる手を味わおうと、黙って受け入れているのだ。
 それを知ってか知らずか。男は離すこともなければ、撫でる手をやめるわけでもない。ただノーチェが満足するまで一定のリズムを刻み続け、気紛れに――且つ眠たげに、ふと言葉を呟く。

「――状況が改善されたら、皆殺しにしてしまおうか」

 ――それが終焉にとって「冗談」であるはずがないと、ノーチェは薄々気が付いていた。

「……殺して、もう誰も貴方に手を出せないように、仕向けてしまおうか」

 ゆっくりと撫でて言葉を紡ぐ様は、まるで彼の体に終焉の言葉を染み込ませるようだった。
 状況が改善されたら。それは、ノーチェの首輪が外れ、奴隷から解放されたら、ということになるだろう。現状ノーチェ自身は首輪が外れたことや、外れる可能性など少しも考えたことはないが、どうにも終焉は先にある可能性の話を持ち掛けてくることがある。
 まるでそうなることが決まっていると言いたげな口振りに、彼は思わず「いいなぁ」と呟いた。

「…………もう、こんなんならないよう、皆いなくなればいいのになあ……」

 終焉はあくまでノーチェが奴隷から解放されると思っているが、ノーチェは自分が奴隷から解放されるなどと思ってはいない。結局最後までいいように扱われ、惨めに野垂れ死ぬのだと思い描いているのだ。
 だからこそ彼は自分の願望を含めるように小さく呟いてみせた。少しも温かくない男の体に縋っているはずだが、ほんのり温もりを感じる錯覚さえも覚えてしまう。これは終焉なりの優しさだろうか――男は何も言わず、ただ頭を撫でるだけだ。
 夜がすっかり更けている所為か、外から音など聞こえてくるはずもない。それどころか不思議と音が消えていく錯覚さえもある。冬特有の静けさと寒さがノーチェの背中を這ってきた。彼の熱が治りかけている証拠だろう。
 ほんのり眠気を感じてきたが、ノーチェは眠ることに抵抗を覚えている。目を閉じ、意識を失ってから再び望みもしない夢を見せられてしまうとなると、彼もろくに眠れやしないのだ。
 ――しかし、欲求には抗えず、彼は「んー……」と小さく唸り声を上げた。終焉が僅かに動き、ノーチェの顔を窺った様子が分かる。密着していたであろう体が少しだけ離れるものだから、彼は重い瞼を開いた。

「…………寝よう」

 ノーチェを言い聞かせるよう、ぽつりと呟いた終焉は、彼よりも遥かに眠そうに見える。普段なら凛々しく開いた切れの長い瞳が、今ではすっかり蕩けたように緩く、眉尻が下がっている。終焉も眠いはずなのだ。
 だが、眠いはずの彼は渋ったまま、男へ返事をすることもない。ただそうっと視線を逸らし、眉間にシワを寄せて口を噤んだままだった。特別「寝たくない」や「眠くない」などの言葉を洩らすことはない。
 その様子を見かねて終焉はじっとノーチェを見つめたあと、仕方がなさそうに一度だけ目を閉じ、彼の体に回した手をくっと引き寄せ、掛け布団と共に寝具へと倒れ込む。ギッ、とほんの少しだけ軋んだ音が鳴った。
 何の一言もなく男と共に倒れ込んだノーチェは、ほんのり目を丸くして「あの、」と口を溢す。腕の中で見上げた終焉は目を閉じて、彼の体をゆっくりと叩いた。その手の力があまりにも弱く、間隔も広いことから酷い眠気に見舞われているのだと、彼は思う。
 その中で男は「……寝てくれ」と小さく言う。

「……怖い夢を見たのなら、今日だけ添い寝をしよう。少しなら気晴らしでも、なるだろう」

 特別だ。
 ――そう言って終焉はノーチェの体を抱き寄せたまま、深い呼吸を繰り返し始める。抱き寄せられ体に密着する形になった彼は、男の胸や腹がゆっくりと息を繰り返しているのを感じた。眠りに落ちている人間特有の息遣いだ。
 ただこの人が眠りたかっただけなのではないかと、頭の片隅で思う。しかし、ノーチェもまた眠気に襲われているのもまた事実だ。終焉の呼吸が、抱き寄せる腕がやたらと心地好く、瞼が落ちる。

 ――また、嫌な夢を見るのではないだろうか。そんな不安がよぎる。

 だが、そんな不安とは裏腹に意識はどんどん遠く――、彼は意識の手綱を手放してしまった。

 ――そうして夢を見た。相も変わらず嫌な夢を見た。人権も、何もない非道な扱いを受ける夢だ。生きていて報われることなど何ひとつないのだと、思わされる夢だった。
 ――しかし、唐突に目の前が暗くなり、辺り一帯は一面の闇に包まれてしまう。
 彼は瞬きを数回繰り返し、横たわっていた体を僅かに起こした。どこを見ても何もありはしない。何の音も聞こえず、生き物の息遣いもない。試しに手を伸ばして見るものの、何も触れることがなかった。
 ここまで何も見えないのは初めてのことだった。ニュクスの遣い≠ヘその名の通り、夜の女神の遣いだ。夜の世界で目が利かないなど、ただの笑い事でしかないが――、夜と闇では意味合いが異なる。少しの光も通さない一面の闇は、彼の視界を奪ってしまった。
 ――だが、それでも不安は少しも感じられなかった。妙な安心感と心地好さに、彼は伸ばしている手を泳がせてみる。何も当たらないはずなのに、不意に彼の手のひらに柔らかな毛並みが当たった。息遣いは聞こえないが、息をしているかのようにそれはゆっくりと呼吸を繰り返している。
 ノーチェは驚きを覚えたが、何もないよりはマシだとそれに近付き、寄り添った。独りでいる不安を獣のような何かがゆっくりと溶かしていくような感覚がした。虐げられることも、侮辱されることも、軽蔑されることもない時間はいつぶりだろうかと、頭の片隅で考える。
 何ものにも関与されない平穏に彼は安心して、それにぐっとしがみついていた。

◇◆◇

 リーリエからの薬は驚くほど効果が出た。
 明朝、目を覚ましたノーチェは部屋の薄暗さに目を丸くしたが、昨夜自分がどこにいたのかを思い出して納得をする。ゆるりと体を起こして、ぼんやりと部屋の中を見つめていると、隣にあるはずの姿がないことに気が付いた。
 すっかり藻抜けの殻になった隣に、彼はムッと眉を顰める。どうせならしっかり治ったことを確認してから出てほしいものだと、何故か思ってしまった。
 昨日までの体の重さや気怠さは嘘のようで、体を起こしたノーチェは寝具から這い出て床に足を着く。あまりの体の軽さに、今までの不調すらも治ってしまったのではないかと思いながら背を伸ばし、彼は終焉の部屋を出た。
 廊下に出ると肌を刺すような冷たい空気が伝わる。何度目かの寒気を感じ、彼は腕を抱えた。そんな中でほんのり芳しい香りが漂ってくるものだから、ノーチェの腹は数年振りに空腹を感じるかのように、くぅ、と鳴る。
 腹が減っているときほど、終焉が作る食事はいやに美味い。
 ――そのことを知っている彼は、ほんの少し胸を高鳴らせながらリビングの扉を開けた。

「…………少年!?」

 扉を開けた矢先、驚きのあまり目を丸くしていたのはリーリエだった。小麦畑のように煌めく髪を緩くまとめ、ナイフとフォークを携えている。テーブルに置かれたフレンチトーストはまさに出来立てのようだ。ほうほうと沸き立つ湯気に彼は、いいな、なんて思いながら女に近付いた。
 リーリエはナイフとフォークを投げ出し、勢いのままノーチェの肩を掴む。カラン、と食器がテーブルに叩き付けられた音がした。「ちょっとあんた大丈夫なの!?」そう言って肩を揺さぶってくるリーリエに、ノーチェは顔を顰める。

「一時はどうなるかと思ったのよ! あんたがいなくなったら、もう……」

 まるで泣き出しそうな声色にノーチェは責め立てることもできず、体を揺さぶられながら「そんなに酷かったんだ」と小さく呟く。朝食もそっちのけ、自分を心配してくれる女に程好く感謝を覚えながら、キッチンに続く扉をぼうっと見つめた。
 これだけ騒いでいても、キッチンにいるであろう終焉は少しも顔を見せることはない。それほどまでに忙しいのかと、彼は頭を悩ませていると――ふと、目の前に黒い蝶がひらりと舞った。

「――う、!?」

 ――直後、ノーチェの目の前に五匹はいるであろう蝶が目映い光と共に飛び交う。それはリーリエから発せられていると知るや否や、彼は「何してんの」と小さく呟いた。
 黒く、影のような蝶ではあるが、ただの影のように黒いだけではない。白抜きされたような模様はほんのり光を放っているようにさえ見える。
 その蝶がノーチェの肩や、頭に足をついてみせるものだから、ほんの少しだけ鬱陶しいという感情が芽生えた。

「――……体を軽く診させてもらったわ。うん、もう何の問題もない。何の悪影響もないわ」

 本当によかった。
 ――そう言ってリーリエはノーチェの肩から手を離し、出来立てのフレンチトーストへと向き直る。気が付けば黒い蝶はすっかり跡形もなく消えてしまっていて、見る影もない。あの光景はリーリエの魔力が引き起こしたものであると、彼は納得して腕をさする。
 体に異常はない。何の悪影響もない。――その事実が、ノーチェの安心感を引き立たせる。この事実を知れば終焉は喜んでくれるのだろうか――。

「さ、少年も隣座って! 待っていればエンディアが朝ごはんをくれるわよ〜」
「…………ん」

 促されるままノーチェはリーリエの隣にある椅子を引いた。客間とは違った座り心地の椅子に腰掛けて、軽く足を揺らす。キッチンの扉の向こうからやたらと心地のいい音が鳴っていた。
 男は甘いもの以外を口にすることはない。――そのことから、今手掛けているものはリーリエのものか、ノーチェのために用意されるものだろう。
 先日までは何も口にできなかったということもあり、ノーチェは終焉が来るのを今か今かと待っていた。隣ではリーリエはこれ見よがしに、やけに美味そうに食べるものだから、腹の虫が治まることを知らない。くぅくぅと鳴る腹に手を当てて、「まだかな」なんて呟く始末だ。
 ――そうしてノーチェが待ちぼうけて凡そ数分。不意に扉が開き、片手――というよりは最早片腕――に皿を器用に載せた終焉が、キッチンの向こうからやって来る。ほんのり甘さを含んだ柔らかな香りが彼の鼻をくすぐった。それを期に、腹の虫がなおのこと主張し始めるものだから、恥ずかしささえも覚えてしまう。
 しかし、そんなことを気にすることもなく、終焉はノーチェの目の前に一皿置いた。まるで初めから彼がそこに居座るのが分かっていたかのように。
 何の気なしにノーチェは終焉を見やると、ほんのり伏せられた男の目と目があった。普段と何の代わりもない、澄んでいるようで仄暗い瞳だ。顔も綺麗だが、目も綺麗だと思うや否や、すっと終焉の目が逸らされる。
 ――避けられたのかと一瞬だけ傷付いたような気がした。
 けれど、男のその仕草が、ただの照れ隠しであることを知っている彼は、僅かに頭を悩ませる。何か気に留めることがあったのだろうかと、小首を傾げた。

「あ! 何であんた達二人ともホットケーキなの!? 私も食べたい!」
「久し振りに私も口にしたくなったからだ。子供のような駄々をこねないでもらえるか」

 ノーチェの悩みを他所に、リーリエは彼らの手元のそれを見ると声を上げた。女特有のキンキンと鳴り響くような声は、病み上がりのノーチェにとってはいやに頭に響くものだ。堪らず顔を顰めると、それに気が付いたであろう終焉が、リーリエに向かって睨みを利かせる。
 女が声を上げるもの無理はない。ノーチェの向かい側に座っている終焉や、ノーチェの手元に置かれた出来立てのホットケーキには、メイプルシロップがふんだんに使われている。真っ白な粉砂糖がほんのりまぶされ、皿の上にも雪化粧が施されているのを見ると、なおのこと食欲が掻き立てられるのだ。
 いいな、などと宣うリーリエを横目に、彼はほんの少しの優越感に浸った。いくら首輪があしらわれた奴隷でも、今だけは一人の人間と同じように振る舞えるような気がして、「いいだろ」なんて呟く。そのまま用意されたナイフで軽くケーキを切り分け、一口サイズになったそれを、フォークで口に運んだ。
 甘く、綻ぶような柔らかさに舌鼓を打つ。隣で「私だけ除け者にするなんて」と愚痴を溢すリーリエも、フレンチトーストを口に運んでいた。

「美味いか」

 相変わらず口癖のように味を訊いてくる終焉に、ノーチェは首を縦に振る。その隣でリーリエも「美味しいわ〜!」と声を上げるものだから、男は満足げに口許だけで小さく微笑んだのだった。

 ――そんな調子で一日を越えたノーチェは、夜を迎えてから漸く自室へと向かった。たった一晩離れていただけだというのに、まるで数日ぶりであるかのような感覚にほう、と吐息を吐く。終焉の手によって整えられたであろう部屋は、まるで初めて部屋を与えられたときのように綺麗だった。
 換気のために空けられた窓を閉め、カーテンで外と中を遮断させる。あれだけ休んでいたというのに、あくびが口から溢れた。まともな休息を求めているのだろう。
 彼は質素な部屋の中を歩き、丁寧に整えられた寝具へと腰掛ける。男の部屋にあるものと何ら変わりのない質感に、どの家具も同じものなのだと納得してから、布団をかぶる。冬になってから厚手になった布団にほっと一息。顔まで埋めて、ノーチェは眠気が来るのを今か今かと待ちわびた。

「………………?」

 数秒、数分。時計はないはずなのに、秒針が時を刻むような音がなっている錯覚を覚える。眠いはずなのに全く眠気がやってこない。それどころか、時が経つにつれて目が冴えるばかりだ。
 ――それと同時に、胸の奥がざわつくような感覚を覚え、ノーチェはくしゃりと顔を歪める。息を吸っているはずなのに止まっているかのように息苦しく、何もないはずなのに何かが迫っているような気がしてならない。ぐるぐる、ぐるぐると視界が回り始めるような感覚は、ノーチェの中にある小さな恐怖心を煽った。

 ――何だろう、この不安は。

 堪らずノーチェは布団から這い出て、咄嗟に部屋を出る。目の前に広がる廊下を歩き、あてもなくそっと階段を下りた。赤黒い絨毯がノーチェの素足を包む。トントン、と降りて、あてもなくエントランス前を右往左往して、落ち着きのない自分をどうしたらいいのか分からなくなった。
 暗い。夜だから当たり前のことではあるが、その暗さがどうにもノーチェから落ち着きを奪っている。日中では確かに賑やかだった時間があった所為か、静まり返った屋敷の中は彼の不安を執拗に掻き立てた。

「…………っ……」

 言葉は出ない。胸の奥に広がり続ける蟠りとざわめきに、吐き気すら覚えてしまう。冬の所為も相まってか、全身から血の気が引くような気がしてならなかった。ここには自分一人しかいない――そんな錯覚が、ノーチェの恐怖心をより大きくするのだ。

 ――だが、分かっている。屋敷に一人しかいないなんてこと、あるはずがない。

 ノーチェは迷った末にエントランス付近で彷徨くことをやめ、終焉の部屋へと足を向ける。部屋に近付くにつれて華やかな香りが強くなるが、それは終焉が風呂を終えたということの裏付けだ。ほんのり高鳴る鼓動の理由を考えながら彼は扉に手をかけ、男を刺激しないようにそっと開けた。
 部屋の中は相変わらず薄暗い。ノーチェに与えられた部屋など非にならないほど、どんよりとしていて息が詰まるほど。

 しかし、今の彼にとってその暗さが何よりも心地好く、安心感を抱かせるのだ。

 部屋に押し入り、扉を閉めてからノーチェは寝具へと近付いていく。そこには案の定終焉が布団をかぶって小さな寝息を立てていた。ノーチェが眠れないことを知らないまま眠るその姿は、遊び疲れて眠ってしまった子供のようにすら思えてしまう。
 試しにノーチェは終焉の体を揺さぶり、起こそうと試みた。恥ずかしい話ではあるが、どうにも一人で寝ようとすると恐ろしさが勝ってしまう。眠気が来るまでの話し相手になってほしい気持ちだった。
 ――けれど、いくら体を揺さぶろうが男は目を覚ます兆しを見せなかった。いつの日か聞かされた「死んでいる」などという言葉が脳裏をよぎり、まさかと胸の奥が騒いだような気がしたが、男がほんのり嫌そうな声を上げてほっと息を吐く。
 死んでいない。死んでいるわけがない。――憑き物が落ちたかのように胸を撫で下ろしたが、ノーチェの悩みが解決することはなかった。

 眠れる気がしない。眠れるとは思えない。万が一意識を失って、また嫌な夢を見てしまえば、どんな目に遭わされるかも分からない。

 彼は懸命に終焉を起こそうとした。「起きてくんないの」なんて声を掛けてみるものの、男は唸るだけで目を覚ますことはなかった。
 そうこうしている間に寒さが足元から広がって、遂にノーチェは体を震わせる。布団の中に潜りたいが、夢を見たくはない。先日まで見ていたものを見たくはない。――そう、思っていた。
 思って、はたと止まる。
 自分の体験をなぞるような、あんな夢を見たあとはどんな方法で眠ったのかを、記憶の底から引きずり出した。
 賛同も、合意もなかったが、確かに終焉の腕の中で眠ったあとは嫌なものを見ることはなかった。人の気配も景色もない黒い空間ばかりが広がっていたが、その空間は男の部屋といやに似ているような気がして、ほんの少しだけ安堵の息を吐く。行動に出ようか思い悩むが、行動に移せないのは欠片だけ残ったノーチェのプライドが、邪魔をするからだ。

 いい大人が何を血迷って添い寝を求めているのだろうか。
 けれど、あれこれ考えても現状はよくなりはしないのだ。

 悩みに悩み、頭を捻らせた結果――ノーチェは終焉の布団をめくり、隙間から体を入れる。普段なら生きているとは思えないほど冷たい体をしている男だが、潜り込んだ布団の中はやけに温かかった。
 風呂で得た温もりが布団の中に広がっているのだろうか――。そう思うと、深く眠る理由がよく分かるような気がした。
 ノーチェが恥を凌ぎ男の布団に潜るものの、終焉は目を覚まさなかった。酷く心地好さそうな寝顔をしているものだから、それを眺める彼もまた、眠気を誘われてしまう。
 くぁ、とあくびを溢して何気なく顔を男の体に寄せると、終焉が「ぅ、」と声を上げた。

 ――起きたかな。

 そう思ってちらりと横目で顔を見る。すると、終焉は薄目を開けて、ぼんやりとした目付きのままノーチェを見つめるものだから、彼はいたたまれなくなった。
 文句のひとつでも言われればすぐに立ち去る予定だった。驚き、「何でこんなところに」なんて言われれば、恥ずかしいものの踏ん切りはつくはずだ。そのあといくら眠れなかろうが、男には何ら関係がないのだから。
 ノーチェは終焉の言葉を待ち、口を開かずにじっとその目を見ていた。普段とは異なり、鋭さも威圧もないそれは、不思議そうにノーチェを見つめている。現状を理解しようとしているのかは定かではないが、追及はいつまで経っても行われなかった。
 その代わりに――男の手が、ノーチェの頭に置かれるのだ。

「――……可愛いやつだな……」

 そう、ぽつりと呟かれた言葉に、彼は確かに恥ずかしさを抱き直した。通常であれば今すぐにでも抜け出し、自室にこもるほどの羞恥だ。今まで何でもないような顔をしていたくせに、今になって甘えてしまうなど、彼のプライドが一切許してはくれないのだ。
 ――だが、緩やかに、頭を撫でてくる男の手に、どうしようもない安心感を抱くのもまた事実。決して拒むことのないそれに、甘え直すようにすり寄ってみれば、終焉は眠そうに軽く頭を叩く。
 そして小さく「おやすみ」なんて言うものだから、彼はうつらうつらと船を漕ぐ。

 男はノーチェに手を出すことはない。間違った行動を取ることはない。決して自分を売ることもしない。
 その確信と、安心は眠気に襲われつつあるノーチェの口から、確かに言葉を紡がせたのだ。

「………………好き、だなぁ……」

 ――誰も彼の言葉を聞き入れてはいない。冬の中で呟かれたそれは、数秒が経つ頃にはすっかり静けさに呑まれて消えてしまった。
 だが、それでいい。
 無意識のうちに呟いていたらしい言葉を自覚し、ノーチェはゆっくりと目を閉じた。暗闇で漂う仄かな桃の香りに、彼の恐怖心はすっかり鳴りを潜め、安心して眠りに就くのだった。


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