胸に潜むざわめきは


「――何を考えていやがるんだ」

 ぽつりと呟かれた不満げな声。低く、唸るようなそれに、モーゼはにこりと薄ら笑いを浮かべながら声の主であるヴェルダリアに顔を向ける。モーゼは教会の長椅子に腰掛けて、机に肘を突いたまま手を組んでいた。ヴェルダリアの問いにすぐ答えることはなく、数秒ゆっくりと天井やステンドグラスを仰ぎ見たあと、「別に?」と彼は言う。

「私はね、ヴェルダリア。ただ、邪魔なものを排除したいだけなのさ」

 利益は全て自分のものにしたいものだろう。
 そう言って手をほどき、薄く目を開く。ほんのり紫がかる瞳と、まるで別人のように輝く博愛の白が、ヴェルダリアの顔を捉える。よくよく見るとその白にはうっすらと、氷の色が滲んでいた。
 近頃モーゼの動きは誰が見ても不思議なほど穏やかで、攻撃的になる様子は何ひとつありはしない。元よりそういった一面しか見せていないということはもちろんのこと、裏の顔を知るヴェルダリアにとっても、今の彼はいやに大人しかった。
 ――とはいえ、何もしていないわけではない。モーゼは不意に姿を眩ませては、教会£Bにいる人間の頭の中きおくをいじり、ふらりと外に顔を出すようになっている。
 日常に支障を来さない程度にいじくられた記憶の中には、彼らにとって敵対すべき終焉の者≠ノ関するものが残らなくなった。
 これが一体何を意味するのかというと――。

「…………ああ、そうか。欲しいものを見付けたのか。お気楽な脳みそしてんな」

 くっ、と嫌悪を含めた笑みを溢し、ヴェルダリアはモーゼを睨むように見つめた。彼に嫌われていることを知っているモーゼは、ヴェルダリアの視線ににこりと笑みを返した。ヴェルダリアとは違い、嫌悪は感じられないものの、裏の顔を隠しているかのような妙な笑みだ。
 相変わらずのそれに、ヴェルダリアは笑みを消した。こういった表情を浮かべるときは大抵何かしらを考えている証拠だからだ。ほんの記憶の片隅にある表情も、手を出される直前に見たものと全く同じだった。彼にとって都合がいいように動けるよう、何らかの細工を施そうとしているのだ。
 それにヴェルダリアは警戒心を奮い起たせ、モーゼとの距離を測る。距離を詰められれば近距離に慣れているはずの彼でさえ、不意を突かれてしまうのだ。見た目にそぐわない魔力の気配は、ヴェルダリアの不意を突くにはもってこいのもの。常に視界に入れなければ、いつ背後を取られるかも分からない――。

「――まあまあ、そう警戒しないでくれるかい。君にはもう手を出そうとはしないよ。協力してくれなくなったら困るからね」

 ――そう警戒を露わにしているヴェルダリアを宥めるよう、モーゼは両手を上げて敵意がないことを示した。ほんのり眉尻を下げて困ったように言うものだから、それが嘘ではないことは確かなのだ。
 彼は恐らく理解している。欲しいものを得るために、ヴェルダリアの力が必要なのだと。
 モーゼがヴェルダリアに手を出したのはあくまで「自分の都合のいいように扱うため」を目的としていて、特別な悪意を持っていたわけではない。彼が彼女を手中に収めたのも、ヴェルダリアをいいように扱うためだった。

「…………どのみち、目的が終わればお前とは関わることもなくなるだろうよ」

 ほんのり嫌味たらしく呟けば、モーゼはにこりと微笑んで「そうだね」と言うのだった。

◇◆◇

 ――近頃のノーチェは特に終焉の行動が気になるようになった。特に月が昇る夜が更けた時間は、男の動きが何よりも気になる。本人は特に気を遣ってノーチェを起こさないようにと心掛けているのか、足音もしなければ気配が顕著に表れているわけでもない。
 しかし、彼は殺人鬼を親に持つ一人の人間だ。一時期は両親と同じような道を辿るように気配や、息遣いに気を配っていたときもある。いかんなく発揮されるそれは、夜な夜な終焉が屋敷から出ていくことも十分に気付かせてくれていた。
 ――一体何があるんだろう。
 普段なら特別気にもならないはずの男の行動が、その日はいやに気になるようになった。何を考えて料理に臨んでいるのか、何を考えて掃除をしているのか。何を思って空を眺めて嫌そうに顔をしかめるのか。何を思って、夜遅くにノーチェを置いて屋敷から出ていくのか。
 彼はそれがやけに気になって、チリチリと首が痛む感覚に襲われ続ける。好奇心は行動力を高めるもの。それが、首輪に施された制約に触れているようで、意欲を損なわせようと定期的に痛みを与えてくる。
 ――謂わば躾と同じ現象だ。何らかの理由により、「良くない」ものと認識された場合は、言動を制限させ、かつ「してはいけないこと」を体に叩き込むために痛みを発生させてくる。無論、彼の首輪もそういった効果を発生させているはずなのだが――、どうにもノーチェの興味は尽きそうになかった。
 「好き」というものは不思議なものだ。今までなら痛みが発生した時点で惜し気もなくやめていたものを、今では諦めることもなく求め続けてしまう。一生こうして終焉に飼い慣らされるのも悪くはないと思いながら、男の隣に並んで歩きたいと思ってしまうことをやめられないのだ。

 ――この衝動は一体、何なのだろうか。

「…………少年。ちょっと」

 ――不意に声が掛けられたことに気が付き、ノーチェはふと瞬きをした。視線を終焉から移し、飽きもせず屋敷に訪れるリーリエへ。女は赤い瞳を瞬かせつつ、ほんのり気まずそうに笑いながら彼を見て「見すぎよ」と呟いた。

「…………何のこと」

 女の言葉にノーチェはとぼけたように答える。実際彼は何のことを示されているかも分からず、リーリエの言葉に思い当たる節がなかった。見すぎ、と言われて何を目線で追っていたのか、ほんのり頭を悩ませる。
 何か、指摘されるようなことをしていたのだろうか――そう思っていると、頭を小突く感覚がノーチェを襲った。コツン、と軽い音が鳴って、ふとそれに意識を向けると大皿を携えた終焉が興味深そうにノーチェを見つめていた。

「あまりいじめないでくれないか」
「あら、いじめてるつもりなんてないわよ」

 困ったように溜め息を吐き、終焉はテーブルに皿を乗せる。香ばしい香りにごくりと生唾を飲み込むと、リーリエが歓声を上げた。皿の上に置かれているのは、彩り豊かな出来立てのクッキーの数々だ、
 渦を巻くような線を描き、中心にはジャムがあしらわれたものや、ココアとプレーンのマーブル。風味を変えるために味も変え、色味も変わったものもいくつか用意されている。小腹が空いたノーチェにとってもそれは魅力的なものだった。

「……いじめられた」
「…………だそうだ」
「ま! 冗談が好きね〜」 

 終焉は普段の椅子に座り、リーリエは我先にとクッキーに手を出す。仄かに温かく、ざらりとした触感に女は笑みを溢した。甘いものが好きだと言いたげな様子だ。
 それに――彼は多少なりとも不快感を覚えてしまった。
 普段と何ら変わりのない光景だ。家主よりも先に客人が差し出されたものに手を出し、美味しい美味しいと言って味を堪能する。用意された紅茶の香りもそこそこに、ぐっと温かなそれを飲んで満足げに笑うのだ。
 ――それも普段と同じ光景だというのに、どうにもこの日の彼はやけに他人の行動が気になってしまった。

 ――どうして。どうしてこの人が、一番になるんだろう。

 胸の奥に黒いもやがかかるかのように、蟠りが詰まる。どうしてどうしてと疑問に思う気持ちが抑えられなかった。じりじりと首を焼かれようが何だろうが、彼の中にある「欲」は留まることを知らない――。

「――ノーチェ」
「……っ!」

 ――ふと声を掛けられ、ノーチェは肩を震わせながら声のした方へと顔を向ける。騒音の中でも酷く通るような低い声だ。彼が気が付かないことなどなく、咄嗟に向けた先には男が不思議そうにノーチェの顔を見つめている。
 そうして、どうかしたのか、と問われるものだから、彼は瞬きを数回繰り返した。

「…………? どうもしてない……」

 呼び掛けた割には何の用事もないのだと、不思議そうに首を傾げながらノーチェは終焉に応える。一体何のために呼んだのかと疑問に思いながら出来立てであろうクッキーに手を伸ばし、口許へと運ぶ。さく、と軽やかな音を立てて口の中で綻ぶ食感は、相変わらずの完成度で舌鼓を打った。
 ――美味しい。本当に。
 ――そう、自然と思考が働くのも抑えられない。食べ物の良し悪しなど、奴隷になってからは気にすることもできなかったが、今となっては話は別だ。何が美味しくて何が美味しくないのか、舌が肥えたような自覚をしていながらも、彼はそれをちまちまと食べ進める。
 先程までの不快感などすっかり忘れてしまい、彼は紅茶を軽く飲んだ。ほうほうと沸き立つ湯気に気圧されながらも、喉を通る熱に苦い顔をする。
 ――そして漸く自分の隣へと視線を向けるのだ。

「…………どうしたの」

 視線の先には先程までの意気揚々とクッキーを頬張っていたはずのリーリエが、苦笑いを浮かべながら鎮座していた。妙に居心地の悪そうな顔付きに食欲など消えてしまったようで、紅茶やクッキーにも手をつけるような兆しを見せなかった。
 一体何があったのだろうかと、彼は終焉に聞かれたのと同じようにリーリエへと問い掛ける。あるかとは思わないが、終焉が作ったものが口に合わなかったのかと、ノーチェは数回クッキーを頬張る。
 しかし、味付けも味わいも、普段とは格別異なることもなく、相変わらず美味しいと舌鼓を打つほどだ。
 そんなものが目の前に広げられているというのに、何故リーリエは手をつけなくなってしまったのだろうか――。
 ――そう思っていると、リーリエがいやに不機嫌そうな顔をして「……あんたがそれ、言う?」と呟いた。

「…………いや、やっぱりいいわ……ね、私も食べていいかしら……」

 ほんのり不満そうに唇を開いていたが、落胆や諦めの念を交えてリーリエはノーチェに問い掛けた。まるで言うだけ無駄だと言いたげな様子に、ノーチェもほんのり不満を抱いたが、余計な感情に割く時間は無駄だと思うや否や、リーリエの問い掛けに頷きで応える。
 クッキーを作ったのは自分ではなく、終焉であるということを念頭に置いたまま、好きに食べたらいいと呟いた。
 この間食はノーチェだけの為に作られたものではないのだ。特にこういった甘いものは、終焉が「甘いものが好きだから」といった理由だけで用意されることが多い。その理由の中に、ノーチェがそっと加えられただけのこと。
 場合によっては客人をもてなすための意味合いも兼ねているのだ。
 ――ノーチェの頷きに、リーリエは恐る恐る手を伸ばしてポリ、と小さく齧った。まるで萎縮した小動物か何かのような態度に、彼は首を傾げて「変なの、」と小さく呟きを洩らしたのだった。

◇◆◇

 間食から凡そ数時間後。何を思ったのか、終焉がリーリエも交えてノーチェを連れながら街を訪れる。すっかり真冬になった街は春ほどの活気もなく、子供や大人達は温かな格好で買い物に勤しんでいる。今日はお鍋にしようか、なんて言葉が聞こえてきて、ほんのり恋しさが増した。
 終焉の後を歩くノーチェの後ろを、リーリエがこそこそと付いて回る。その姿は怯えている――のではなく、ただ単純に寒さに震えているようだ。
 それもそのはず。女は普段と変わらず黒いドレス姿のまま。足元はスリットが入っていて健康的な黄色の肌がちらちらと覗いている。その様子に流石のノーチェでさえも寒さを覚えてしまって、ほんの少しだけ同情が湧いた。
 街の中を歩きながら彼は「他に服ないの?」と口を洩らす。その問い掛けに、リーリエが「あー……」と煮え切らない言葉を唇から溢した。暗に持っていないことを指し示しているようだ。

「……全く、愚かなやつめ」

 そう、口を挟んできた終焉は、街中で見つけた衣類を適度に選んでいて、頭を悩ませる。やはり不思議なことに、終焉は他の誰にも気が付かれていないようで、黒い服を全身にまとっていたとしてもまるで他人の目に留まることがなかった。それどころか無意識にその場を避けているように、他人が終焉の周りに寄ってこないのだ。
 この奇っ怪な現象を目の当たりにする度に、彼は不思議だな、と何度も思った。ノーチェのことは誰もが視線を送る上に、リーリエのことは訝しげな目を向けている。あたかも黒服を嫌悪しているかのような視線に、ノーチェは少しばかり嫌気が差した。

 ――早く帰りたい。

 そう思う気持ちがふつふつと湧いてくる。終焉はリーリエの黒いドレスに似合うものを探しているのか、頻りに女物のコートを漁っていった。まるでノーチェのことを気に留めている様子もないような態度に、不快感すら湧いているのは確かだ。
 ――確かにノーチェは終焉に付いて回るだけの人間ではあるが、ここまで視線すらも送られないとなると話は別だ。
 何となく存在感を意識させたくて、彼は終焉のコートを軽く握った。寒さに晒すのも嫌で素肌を隠していたが、手を隠したままでは服を握るのもままならない。
 ――くんっ、と軽くそれを引くと、終焉の腕が僅かに動いた気がした。

「――どうした」

 数時間前にも聞いた言葉を再び聞いて、ノーチェはそうっと終焉の顔を見上げた。
 彼と男の身長差は十数センチであり、見上げれば自ずと視線が上目になる。その視線の先にはある終焉の顔が不機嫌ではないことを祈りながらそっと見上げると――、至極不思議そうな表情をした――とはいえ、ほんのり眉が上がっている程度の――終焉がノーチェを見下ろしていた。赤と金の瞳が、寸分の違いもなくノーチェだけを見つめている。
 それに満足して、ノーチェは軽く首を横に振り、「何でもない」と言った。良さそうな服を見繕えたのかどうかを聞いてやろうと思っていたが、終焉がノーチェに視線を向けたのに満足してしまったのか、彼は何を言うこともなくその手を離した。
 彼の隣ではリーリエが寒さに体を震わせていて、どうにも見ていて滑稽だ。

「他に服はないの」

 そう訊くと、女は「こういうの以外はあんまり目に入らないのよ」と震えながら呟く。肩や足が露出している分、寒さが堪えるのだろう。せめて露出を控えたようなドレスにすればよかったんじゃないの、とノーチェが呟いてみれば、リーリエは「確かに」と言っていた。
 服選びは存外時間がかかるものではなく、気が付けばその場を離れていた終焉が二人の元に戻ってくるや否や、手元には黒い――よく見れば黒に近い濃紺のコートが携えられている。
 それをリーリエに放り投げ、終焉は呆れたような口振りで「着ていろ」と言った。

「あら!? 本当にいいの!?」
「…………何で俺を見るの……?」

 放り投げられた濃紺のコートを抱え、リーリエは終焉ではなくノーチェを見ながら声を上げた。あまりの声量に周りの他人がこちらに視線を向けるのではないかと、咄嗟に辺りに視線を向けたが――、やはりその場にはいないかのように誰も彼らを見ることはしなかった。
 相変わらず不思議な現象だ。まるで、道端に生えている雑草にでもなったかのような気分だ。
 リーリエは「じゃあ着ちゃうわね」と言いながらコートの袖に腕を通す。フェイクファーをふんだんに使った、あたかも毛皮のコートのようなそれに、女は満足げに笑った。寒さから身を守る温かさと、柔らかな触り心地にとても満足したようだ。
 ほんの少し、オーバーサイズなのか、出しきれていない手が腕を擦る。ドレスの上にコートを着るだけでこんなにも雰囲気が変わるものなのかと、彼は感心してしまった。
 温かいわ〜と宣う女を他所に、終焉は店を後にするものだから、ノーチェと思わず男の後を追い始める。彼も彼で終焉には数えきれないほどのものをもらってきたが、やはり今まで「自分だけ」だった特別な対応が他の人間にも振る舞われると、胸の奥が焼けるような印象を受けた。ずるい、などと思い始める自分自身に、ノーチェは嫌気が差す。
 ――しかし、感情はいつまでも留まることを知らなかった。

「置いていかないでって」

 そう言いながらちょこちょこと二人の後を追ってきたリーリエがピタリと足を止める。まるで少女のような満面の笑みを浮かべていたが、ほんのり冷や汗をかくと同時にゆっくりと目を逸らした。
 終焉の陰に隠れる形でリーリエを見つめるノーチェの瞳が、酷く強く、睨んでいたからだった。

◇◆◇

 ――むに、とノーチェは自分の頬をつねって筋肉をほぐすように軽く回す。風呂上がりですっかり温まった彼の体は、冬の気候に負けることもなく眠気を湛えていた。――いや、実際は寒さに負けているからこそ、眠気に襲われているのではないかと思うほどだ。
 ――しかし、彼は寝具の上に腰を掛けていようが何だろうが、眠気に身を委ねるわけにはいかなかった。暗く心地のいい静寂が広がっているが、彼はただ一人で眠ることなどできやしない。自分のものではない部屋の主が姿を見せない以上、ノーチェには横になる資格もないのだ。
 そして、肝心の部屋の主はノーチェと入れ違いで風呂に向かった。普段からノーチェに先を譲り、自分はゆっくり入るからと言って、彼が出てくるや否や入れ違いになるのだ。

 ――そう、入れ違いで風呂に向かった、はずだった。

 ぼんやりと寝具の端に腰を掛け、ぼんやりと天井を仰ぐノーチェの耳に小さな音が届く。パタン、と極力音を立てないように閉められた扉のような音だ。生憎この屋敷にはノーチェ以外には終焉しかいない。その音は、男が風呂に向かわずにこっそりと外に出ていった音だった。
 そして、それをノーチェは知っていた。
 彼は寝具から足を下ろし、部屋の扉を開ける。しん、と静まり返った夜の屋敷は、まさに冬の中に佇み静寂で押し潰されそうなほど。あまりの静けさに一抹の不安さえも胸に抱えながら彼はエントランスへと向かう。
 案の定エントランスにあるはずの男の靴はない。用心を怠らないように掛けられた扉の鍵も、しっかりと閉められている。やはり男は夜な夜などこかへと赴き、知らない間に帰ってきているのだ。

 ――その事実を突き止めたいと思うのも、一種の衝動だろう。

 彼は素足のまま扉の鍵を開け、勢いのままに外へと飛び出す。体を温めるためのものをひとつも羽織っていない所為か、冷たい風が肌を撫でて思わず身震いをした。
 しかし、この程度で諦めるわけにはいかないのだ。
 じりじりと焼けるような痛みもおざなりに、ノーチェは歩を進める。今更素足で外を歩くなど気にも留めていない。終焉は物音や気配に敏感だからこそ、音を立てるものをひとつでも減らしたかったのだ。
 そろ、と歩いているとノーチェは不思議なことに気が付いた。宛もなくさ迷うつもりではあったが、何やら歩く先に終焉が歩いた跡のようなものが残されているのだ。それは、目に見えるものではなく感覚的に気付かされるもの――。
 今も記憶に新しい――。終焉が「死」を迎える度にまるで理性を失くしたように笑うあのときのように、何やら得体の知れないものが残されているのだ。
 これは、魔力か何かだろうか。点々と一定の距離を保ちながら並ぶそれに、ノーチェは跡を辿った。

 寒空の下、夜道を歩いて漸く背筋がゾッとするほどの寒さに危機感を覚えた頃、ノーチェは見慣れない景色に囲まれていた。薄暗い街灯、荒れた庭。まるで人の手入れがない状況に、本当に同じ街なのかを疑いながらある建物に足を踏み入れる。
 いやに仄暗い雰囲気のそれは、見た目こそは普通の一軒家であろうものの筈なのに、ひと度中に入れば荒れた家具が視界に映る。人は住んでいるが、ほんのり埃が舞うそれに、気付かれない程度の咳を溢してそろそろと歩を進めた。
 終焉の軌跡を辿った結果、いくつかの家が建ち並ぶ妙な場所に辿り着いた。同じ街であるはずなのに、雰囲気や景色が一変して今にも何かに襲われるのではないかと、不安に駆られるほどの暗さに彼は背後を振り返る。――もちろん何も見当たらず、彼は一人でほっと胸を撫で下ろした。
 真新しい軌跡の跡を辿れば、見知らぬ建物に入っていった形跡があった。それに倣うよう彼も足を踏み入れて、辺りを見渡しながら中を物色する。不気味なほどに静かな空間に、胸騒ぎさえも覚えて彼は眉間にシワを寄せた。
 人が暮らしている形跡があるのに、人の気配が少しも感じられない。ほんの少しの寝息や、寝返りを打つときでさえ、存在感を主張するはずなのだ。

 ――何かがおかしい。

「…………」

 胸に宿る焦燥感を抑えつつ、ノーチェはふと耳に届いた妙な声を頼りに歩を進める。まるで何かに怯えるような声が一瞬だけ、それも小さく聞こえたような気がしたのだ。軽く廊下を歩き、閉ざされた部屋の扉にひとつひとつ意識を向けて、彼はその声を探し当てようと試みる。
 そこに恐らくいるはずなのだ。彼が探している男は。こんなにも殺伐とした街の中で、姿を眩ませるなど、何かがあるに違いない。
 ――そう思いながらノーチェはそうっと歩いて、扉に手を添えていた。来た道が分からなくなるのを防ぐため、左手を壁やら扉やらに滑らせているのだ。
 特に迷路で使われるであろう技法に、ノーチェは今しがた気が付いたかのように自分の左手を見やる。無意識であったその向こう、扉の方から僅かに嗅ぎ慣れない、鉄の香りがした。
 ――人の気配や声はない。しかし、真新しく刻まれたかのような鮮血の香りが鼻をくすぐるのだ。

 ――そうっと彼は扉に手を突いてからゆっくりと扉を押し開ける。扉が軋まないよう細心の注意を払いながら、空いた隙間からこっそりと部屋の中を覗けば、暗い部屋の中で蠢く影が体を強く締め付けていた。
 ぐち、とほんのり小さな奇妙な音が鳴った。彼の瞳は暗闇の中にいるそれをじっと捉える。――そこにいたのは紛れもない終焉の者だった。

 ――終焉の者が、見ず知らずの人間の頭を鷲掴みにして酷くあくどい笑みを浮かべているのだ。

 まさに悪役の言葉が似合うであろう出で立ちに彼は目を奪われる。闇に溶けるような黒い服。足元で蠢く影が、見知らぬ人間の足元を少しずつ呑み込む度に、骨が折れるような鈍い音が鳴る。悲鳴すら上がらないのは、最早痛みで意識を失っているのか――、或いはもう、事切れているのだろう。手指のひとつも動かないが、反射的に小さく動いている様は確かに脊髄反射そのものだ。
 噎せ返るほどの真新しい血液の香りは、ノーチェの肺を蝕んだ。酷く淀んだ空気に思わず息を止めかけたが、そもそも初めから呼吸すらもままならなかったのだと気付くのに数秒を要した。
 ――体が動かなかった。まるで足元が床に縫い付けられたかのように、足の裏がぴったりと床について離れないのだ。扉を開けるのに添えた手すらも離れることはなく、彼の視線は男に釘付けのまま。少しずつ闇へと消えていく人間を見つめる度に、疑問に思っていたことが少しずつ鮮明になっていく。

 ――これは「食事」だ。終焉が取れる唯一のものだ。

 骨の軋む音。影が、闇が蠢く度に男が何かを嚥下するような仕草を見せる。あたかも口に含んだものを胃の方へと流し込むその動作に、彼は瞬きすらも忘れてしまった。
 ――以前から何度か目にしていた光景を、遂にまっすぐに見ることができたような気がした。足元から呑まれる人間は、最早上半身すらも闇の中へと呑まれ始めている。どういった理屈でそうなっているのかは分からないが――、影から覗くはずの足は少しも見えないことから、既に失われているのだと理解した。
 世の中には魔法などといった、ひと口で説明し難いものが多数存在しているのだ。彼は目の前の惨状を説明することはできないが、あの蠢く影のような闇が、男の胃に直結しているのだと分かったのだ。
 ――そうでなければ終焉が手放した頭が音もなく消える現象も、いやに満足げに一息吐く男の様子も、納得できない。小さく呟かれた「不味い」の言葉に確信さえも抱く。

 時折行われるあの現象は男の食事行為だった。
 ――その事実が彼にほんの少しの羨望を抱かせる。
 大したことではない。彼の中にぽつんと浮かんだひとつの考えは、終焉にしかなし得ないこと。すっかり用を済ませたかのようにすらりと背筋を伸ばし、どこかをぼうっと見つめている。

 ――そんな男に喰われて、一生を終えられることができたなら、なんて幸せ者だろう。

 ゆっくりと脈打つ鼓動がいやに大きく感じられる錯覚を覚えながら、ノーチェは視線を終焉から外す。気が付かれる前にこの家から抜け出して、屋敷に帰らなければならないからだ。
 いくら男が、見知らぬ人間で食事を済ませて腹を満たしていることに不満を覚えていようとも、素知らぬ振りをしていなければならないのだ。
 ぐるぐると胸の奥を掻き回してくる不満が、嫉妬だと知りもしないまま、彼はそっと扉を閉めようとした。
 閉じられる寸前の隙間から覗く青い瞳に気が付かないまま、ノーチェは小さく溜め息を洩らしかける――。

 ――ばたん、と不意に大きな音が鳴り響いて、ノーチェは肩を震わせた。

「――あ、え」

 気が付かれてしまうと咄嗟に顔を上げて、彼は手元の扉に添えている手を見やる。普段と変わらず、成人男性とは思えないほどの不健康な白い手が扉に添えられていた。
 先程と違う点は、陶器のように白い手が、ノーチェの手よりも上の位置に置かれていたからだ。
 薄暗い部屋の中だが、闇のように深い黒い爪が、誰のものなのかをしっかりと主張してくる。驚いた拍子に数秒その手を眺めてしまっていると、その手のひらがくっと彼の顔へと向き直って、勢いよく口許を押さえた。
 そうして漸く、自身の背に一際存在感を増した男が立っていることに気が付くのだ。

「――ぅ、」

 力加減はいくらかされているはずだ。そうでなければ呻く声を上げることも、身動ぎをすることも許されていない。冬の寒さに負けず劣らずの冷たい手は発言を許さないまま、彼の背にいる男は小さく呟いた。

「――何故ここにいる」

 恐ろしいほど低く冷たい声がノーチェに降り注ぐ。男と出会い、今の今まで一度も向けられたことのない冷めきった声だ。まるで彼を人とも思っていないかのような感情の無さに、ノーチェはぐっと息を呑む。
 怒らせたのだろうかと彼は頭を働かせた。後をついてきたことや、非道な様子を見たことよりも遥かに、終焉の機嫌を損ねてしまったことに対しての焦りが募る。このまま見限られてしまったらどうしようかと、背筋が凍る感覚に陥ってしまった。
 不思議と終焉自身から血生臭さは少しも感じられない。あたかも自分は家の中を散策していただけと言わんばかりの様子に、その異常性を目の当たりにする。
 この人と自分は全く別の生き物であるという主張が、目の前で広がっているようだった。

「こそこそと後をついてくるネズミがいると思えば…………そうか、見たのか」

 つ、とノーチェの口許を押さえていた終焉の指先が、彼の頬を撫でるように下がっていく。輪郭をなぞり楽しむような素振りに彼は小さく息を呑んだ。何を吟味しているのか、言葉の続きを待ちながら彼は動かない体に意識を向ける。
 今この場で喰われたとしても何の文句もない。男の一部になれるならそれもいいと思うほど、気持ちは落ち着いている。不思議と動かない体の末端に集中してみれば、奇妙な拘束によって動きが制限されているのだと気付かされる。恐らくそれは、男の意志に従う黒い影に過ぎない。

 そこまでして逃がしたくないのか。それとも、逃げると思われているのか。

 何にせよノーチェは終焉の言葉を待っていたのだ。
 ――そしてそれは、唐突に訪れる。

「――……私が、恐ろしいか」

 不意に溢れ落ちた男の声に、ノーチェは目を丸くした。先程の冷たい声色など見る影もなく、普段と何ら変わりのない冷静な声が降り注いできたのだ。よくよく聞けばそれには多少なりとも寂しさのようなものが隠れている気がして、彼は僅かに唇をへの字に曲げる。恐ろしいものを目の当たりにすれば、当たり前ように逃げてしまうのだと思われているのだ。
 ――心外だ。終焉が人ならざるものであることは重々承知している。恐れを抱いたとするのなら、蘇生した際に何らかの言い訳を取り繕って男の元を離れていただろう。もしくは街やどこかで誰かの反感を買い、奴隷へと戻っていたはずだ。

 それをしなかったのはあくまでノーチェは奴隷に戻るのが嫌であり、終焉の元にいるのが居心地がいいと思っているからだ。

 ノーチェが一人不機嫌になっている間、終焉は何を思ったのか、頬を滑らせていた手をそっと離した。まるで逃げてもいいと言わんばかりの仕草にノーチェは瞬きをする。気が付けば足元にまとわりついていた影でさえも鳴りを潜め、背筋を走っていた悪寒は消えてしまった。
 男は何も言わないが、ノーチェもまた何も言うことはない。信用されていないことに不満を抱いて言葉を失っているのだ。どれほど長く付き合っていようとも、簡単に崩れる関係だと思われていることが、酷く不愉快だった。
 ――それでも彼は離れた終焉の手を取って、きゅっと握り締める。
 男の手指が小さく動いたような気がした。

「……早く帰ろ……アンタがいなきゃ、寝れないから」

 自分は恐ろしいと思っていない。加えて、男の傍を離れるつもりもない。
 ――そんな気持ちを込めながらふて腐れた子供のように呟けば、一呼吸置いてから終焉が消え入りそうな声で「……ああ」と呟いたのだった。


前項 -
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