花形の洋菓子


 何をするわけでもなく天井を眺めていた。腹の中に異物を失った所為だろう。無情にもくぅ、と小さな音が広い屋敷に響いた気がした。
 それでもノーチェは茫然と天井を眺めていて、ぷらぷらと足を前後に揺らしている。赤いソファーに長い時間、腰掛けていても不思議と体が痛むことはなかった。
 いくら天井を眺めても変化がないのは無気力でも十分解っていた。しかし、彼は終焉に何かを命令された訳ではない。勧められた屋敷内の散策を終えて、その後をどうするべきなのか、全く考えられないのだ。
 ――しかし、何もしないというのは、長年染み付いた奴隷という感覚が許してはくれなかった。
 ふと、足の低いテーブルの上に視線を配らせる。偶然見付けた丁度良い小振りのサイズの、布の上に置かれた破片の数々。――それは、終焉の部屋と思われる一室に落ちて割れていた花瓶の残骸だ。
 後片付けというものが体に染み付いている以上、彼はそれを見逃すことが出来なかったのだ。
 カチカチと時計が針を刻む音がどこからか聞こえてくる。遠くで鐘の音が鳴り響いていたのは、もう随分と前の話だった。日の高さからすれば昼などとうに過ぎている。
 ――しかし、終焉が帰ってくる様子は全くない。無断で部屋に入ったことがバレてしまえば、殴られるのだろうか――そう思えば、男が帰ってくることは何よりも恐ろしいものに思えた。
 腹が小さく鳴ったのは、恐らく朝から物を入れてしまったからだろう。忘れていた空腹を思い出したように、再びくるくると鳴った。だが、ノーチェはそれに「お腹空いた」などと言うこともなく、何気なく自身の手のひらを見つめる。
 ――それは、一度だけに留まらず数回に渡って傷付いたであろう、頼りない手のひらだった。

「……やっぱ…………素手じゃ駄目だったか……」

 そう言ってノーチェは再び破片を見やる。当然、彼の手のひらが数回に渡って傷付いているのは、目の前にある花瓶の残骸が原因だ。
 彼はそそくさと手近にあった布を手に取って、破片をせっせと拾い上げていた。落としたままでは破片を踏みかねない、そうすれば怪我をすること間違いないのだから、咄嗟の行動なのだろう。
 ――ただ単純に、何もしなければ理不尽に怒られるのが嫌だったと言えば、それまでになるのだが。
 時折手を滑らせては針を刺すような痛みが手のひらに迸る。小さな傷口からゆっくりと血が溢れてくるのは、いやに気味が悪かった。「いてぇ」と呟いて傷口を舐めるものの、小さな傷から出てくる血は留まることを知らないようだった。
 ――それでも彼は残骸を拾い集めることを止めようとはしなかった。部屋を綺麗にするのはまたひとつの役目だから、と止めることが出来なかったのだ。終焉はきっと何を言うこともなく朝のような無表情を貫くだろう。――いや、「完璧」に見える男だからこそ、些細な変化に煩いのかも知れない。
 そうしてそそくさと部屋を後にしたノーチェだが、手中に収まった花瓶の残骸をどこで処理するべきか分からない。不用意に他のものと同じように処分してしまえば、環境の面からしてもかなり悪いものだろう。
 しかし、一度手を出してしまったものだ。見過ごしてしまおうにも、見過ごしてしまえば何を言われるかも分からない。
 そうやって広間のソファーにそっと凭れ掛かって、出ていった終焉を待つ間の時間は不思議と流れるのが早く、気が付けば時計の針は午後二時に差し掛かろうとしているのだ。朝起きたのは何時だったか。彼は時間の概念すら忘れてしまったのか、ただ茫然としたまま、瞬きを数回繰り返していた――。
 ――不意にぎぃ、と扉が鈍く軋み開く音がした。ノーチェはどこに飛ばしていたのかも分からない意識をハッと取り戻すと、音がした方へと顔を向ける。夜を彷彿とさせる瞳が映し出したのは紛れもない屋敷の主人――終焉だった。

「おかえり…………なさい」

 何故だか咄嗟に出た言葉がそれだった。ノーチェはパッと口許を手で押さえるものの、時既に遅し――男を出迎えた言葉は終焉の耳に届いていて、終焉が無表情でノーチェを眺めている。
 温かい日差しが降り注ぐ中、飽きもせずしっかりと着付けた黒いコートは健在で、何も寄せ付けないような風格さえ見せている。
 紙袋を片手に終焉は茫然とノーチェを凝視していた。
 まるでノーチェに言われた言葉が理解出来なかった子供のように、黙ったまま数回瞬きを繰り返す。何か失礼なことを言っただろうか――そもそも会って間もない男に「おかえり」などと言われるのは可笑しいだろう。
 ノーチェは咄嗟に――それも口癖のように――謝罪の言葉を口にしようとした。頼りない唇が静かに開かれる。
 ――だが、それよりも早く口を開いた終焉の「分からない」という言葉に、思わず口を閉ざしてしまう。

「……?」
「……その言葉に、何と返すのが適切なのか、私には分からない」

 言葉の端に滲み出る、今まで孤独に過ごしていたという事実。
 終焉はノーチェを屋敷に招くまでたった一人で過ごしていた。料理をするのも自分のため。掃除をするのも自分のため。外に出て気を紛らせるのも自分のため。――そんな男に「おかえり」と出迎えた人間が、今まで一人でも居なかったのが見て取れる。
 家に帰れば「ただいま」と言うのが当たり前だった。「ただいま」と言えば家族が「おかえり」と言う。そうすれば身内の安全を確認すると同時に、胸の奥に温かさを宿すことが出来るのだ。
 終焉はそれを味わったことがないのだろう。ノーチェでさえ気にも留めず、口癖のように言葉を呟いたのが理解出来なかった。奴隷としての扱いをされていない事実が彼をそうさせたのか、――実際のところは分からない。
 ただ「何となく」で、ノーチェは申し訳なさそうに――しかし無表情で――「すまない」と呟く終焉に、「ただいまって」と口を洩らす。

「ただいまって……言ったけど……俺ん、とこ……」

 語尾がかなり小さく消え入るようだった。自分は一体何を言っているのだろうか、と言いたげにぐっと口を噤み、膝の上に置いている手を思わず握り締める。見ず知らずと言っても良い筈の男を迎え入れる言葉など必要なかった。ただ、自分がある程度平穏に暮らせれば良かった。
 それなのに余計なことをした――赤いソファーに座りながらそっとノーチェは顔を俯かせる。終焉は未だ声を掛けられ、立ち止まったままノーチェを茫然と見つめている。それが、ノーチェには微かにストレスになって、鳩尾の奥が刺されるようにキリキリと痛んだ。

「……ただいま」

 静寂を打ち破るようにぽつりと呟いたのは終焉だった。
 ふとノーチェが顔を上げて終焉の顔色を窺うと、相も変わらず濃淡のない、素性も知れない無表情のままであったが、どこか俯くように目を伏せている。どこか遠くを見つめるような瞳を一度閉ざすと、男は静かに「……悪くない」と呟いて、漸く踵を返す。
 終焉が目指すのはやはり自分の部屋のようで、広間を覗いていた終焉は階段の向こう側に姿を消してしまう。
 ――妙に緊張した。そう呟いてノーチェはソファーに凭れると、視界に入る花瓶の残骸を見て「あ」と口を溢す。
 終焉の部屋に入って集めてしまった割れた花瓶。どう処理すべきか訊くために男を茫然と待っていたにも関わらず、問う前に部屋に戻られてしまった。
 また戻って来るのだろうか――そう思いつつ再び足をぷらぷらと揺らしていると、部屋の奥から先程とは違った足音が響いてきた。どこか焦るような、しかし全く焦りを感じさせないような――そんなもの。何だろうとノーチェが音のする方へと目を向けると、そこには部屋に戻った筈の終焉が紙袋を持ったまま、こちらを見つめていた。

「あの」
「私の部屋に入ったのか?」

 これは丁度良いと咄嗟に口を開いたノーチェだが、それを遮るように終焉の言葉は紡がれる。それはやはり焦っているような声色だった。
 ――表情はないどころか、どこかこちらを睨んでいるようで。ノーチェは思わずぴくりと肩を震わせる。
 やはり男の部屋に入ったのはまずかったのだろう。獲物を捕らえるようにじっとこちらを見つめる瞳は、ノーチェを責めているようで、謝るべきかと彼は考える。――だが、そうしたところで意味があるのかと言えば、意味なんてないのだろう。
 そんなところで突っ立っていないで、いっそのこと殺せば良いのに。そんな思いからか、不意にノーチェは終焉から目を逸らして、何も言わずに一息吐いた。
 この様子を見れば男は流石に激怒して手を上げるかも知れない。先程「ただいま」と言った面影など残すことなく、周りの人間と同様、汚いものを見るような目で見下すだろう。
 彼は知っている。所詮身分の高い存在など、いとも簡単に手のひらを返すことを。結局は自分優先なのだと。
 ――勿論、奴隷の立場であるノーチェも人間だからこそ、自分を優先してしまうこともある。だからこそ、終焉が激怒して自分を殺すことに責任など求めようとは思わない――。
 ――不意に、ばさばさと沢山の荷物が音を立てて床に倒れるような音がした。それに合わせて驚く反応をするよりも早く、終焉がノーチェの手を掴み上げて、やけに悔しげに眉を寄せている。それに少なからず驚いたであろうノーチェは、瞬きを二、三回繰り返して、茫然と終焉の顔を見上げていた。

「血の匂いがした。素手で触ったのか……ああ、ほら…………血が出ているじゃないか……」

 「花瓶などどうでも良かったのに」そう言って終焉は一度手を離すと、急くように階段の脇にあるであろう扉を開ける。あの場所はそう、ノーチェが入らなかった扉だ。
 本当に物置にでもなっていたのか、少し距離の開いたノーチェの耳に届く、物が漁られる音。何をしているのだろう、と思うと同時に再び現れた終焉の手には、小さな箱が収まっていた。
 所謂絆創膏というやつだろう。終焉はノーチェを目にすると、ハッとしたように一度動きを止めて踵を返してしまう。何をしているのかと思えば、戻ってきた終焉の手には新しい道具が幾つか取り揃えられている。よく見ればそれは、消毒液と綿だろうか。
 一瞬でも「こんなところにも綺麗好きが出てくるのか」と思ったノーチェだが、何を気にすることもなく隣に座る終焉を見て、単純に心配してくれるのだと確信する。
 終焉は慣れたように綿に消毒液を染み込ませると、ノーチェの手を取り、痛々しく真新しい傷口に綿を押し当てる。時間が経ってしまっていたからだろうか。その傷口から赤く、深みのある血が溢れることはなかったが、消毒というだけあってやはり痛みが生じる。
 慣れない手当てに、つんと鼻を突く強い香りは微かにノーチェの感覚を揺さぶっていて、思わず「こんなの必要ない」と口を洩らしてしまった。

「駄目。貴方はそこまで頑丈ではなさそうだから、手当てくらいしておかないと」

 傷口に何が入るか分からない。そう言って終焉はそっと絆創膏を指に付けると、何故か安心したようにほう、と息を洩らす。――冗談か本気か分からないが、いくら「愛している」とはいえ、ここまで心配する必要はない筈だ。
 咄嗟にノーチェは掴まれていた手を自らの方へ引き戻したが、それに驚く様子もなく、終焉は立ち上がってノーチェの目の前に立ち塞がる。
 ――まるで壁際にでも追いやられているような気分だった。ノーチェを見下ろしている双方色違いの瞳は宛ら狼のようで、鋭い眼光が酷く特徴的だった。蛇に睨まれた蛙というのはこの事を言うのだろう――ノーチェは終焉を見上げているが、体が全く動かない。手指がぴくりとも動かない。瞬きは一度も落ちやしない。生唾をごくりと飲み込む音がやけに大きく聞こえた気がした。
 唐突に終焉が体を落とした。ノーチェは金縛りから解き放たれたように体を震わせる。目を落とせば、終焉はノーチェの足を手に取っていて、「ああ……やっぱり」と嫌そうに眉を顰めている。

「素足だからな、まさかとは思ったのだ。痛みに慣れてしまったのか……? 全く……」

 つい、と終焉の手袋が素足をなぞる。男の見る先には傷痕の残る踵がひとつ。それも慣れた様子で手当てを始める終焉だが、ノーチェはただ茫然としているだけだった。終焉が屋敷に戻る前に踏んでしまったのが原因だと分かっている。分かっているのだが――痛みに疎くなってしまっていることに気が付いたのは、今だった。
 ぺたり。――足の痛みを感じるのは鈍かったが、終焉が絆創膏を貼ったのは分かる辺り、全ての感覚が鈍くなっているわけではないのだろう。

「…………もう少し自分を大切にしてくれ」

 一連の動作を終えた終焉は道具を手にしながら立ち上がると、ノーチェの頭に手を置いて撫でる。父親のような優しげな手付きにノーチェは呆気に取られていたが、「……別に必要ない」と言葉を紡ぐ。
 何気なく指に巻かれた絆創膏を見つめながら、どこか邪魔そうに指の腹で絆創膏を撫でる。
 ほんの少し動きが鈍くなったところを除けば、多少の違和感がある程度だろう。徐に手を離した終焉は「そういうことを言うな」と呟いたかと思えば、床に散らばった紙袋に手を伸ばす。
 足の低いテーブルの上に消毒液や絆創膏などの道具を置いて、袋の口からはみ出ている黒地の布を袋に押し戻そうとして――ふと、ノーチェを見やった。

「ふむ……丁度良いな」

 そう言って終焉はノーチェの名前を呼んだ。

◇◆◇

 黒地の服を着て、首元は開けたままノーチェはソファーに座ったまま理解出来ないと言いたげに瞬きをする。
 先程まで着ていた終焉の物と思われる服を片手に持ち、終焉はノーチェを見ながら満足げに――しかし無表情で――頷く。「やはり黒がよく似合う」と言ってしっかりと上下を確認した後、「何か不具合はあるか?」と問う。
 やはりノーチェは理解出来なかった。まさか男が本当に衣服を買ってくるとは思わなかったのだ。襟を立たせた黒い衣服は、彼が元々着ていた服とどこか似ていて、馴染みがあると言えるだろう。暗い紺色に限りなく近い黒のスラックスは少し長く、床に裾が着いてしまっていて、「裾上げが必要だな」と終焉は言う。
 首輪が邪魔をして首元が閉められない、というよりは、首輪を考慮して首元を開けているような状態だった。街に出て人目に晒されれば勿論好奇な目で見られることだろう。

「……本当に買ってきたのかよ…………」

 どこか呆れるような気持ちで呟きを洩らしたが、それは終焉には届かなかったようで、何か言ったかと男は首を傾げる。さらりと女のように柔らかな髪が垂れていった。恐らくそれは見る者が見れば綺麗だと思えたのだろう。
 しかし、ノーチェは終焉の問いに「別に」と答えただけで、感性を揺さぶられたと言うような言葉は紡がない。ただ本当に衣服を用意するとは思わなかったと言いたげに項垂れて、疲れてしまったようにソファーの背凭れに身を預けていた。

「具合が良いようで良かった。まあ、いくつか用意したから、日によって変えてくれ。靴下もあるぞ。足のサイズが分からなかったからな、靴は買ってこれなかった」

 「この服は洗ってこよう」ぱたぱたと終焉は服を持ちながらどこかへと向かっていった。恐らく男は洗濯機にでも服を入れるのだろう。そして庭で干して、綺麗に畳んでタンスにしまうに違いない。
 真新しい服にノーチェは慣れないのか、じっと見つめては指で摘まんで何気なく服を伸ばす。洗剤や柔軟剤の香りなどするわけがなく、微かに鼻を刺激する新しい香りが特徴的だった。

 黒がよく似合うと言っていた終焉は、確かに確信を得ているような口振りだった。それも男がノーチェのことを知っているからなのだろう。背丈も好みもしっかりと把握していて、服のサイズもほぼピッタリと来たものだ。怪我の手当てどころか、衣食住全てを用意されてしまっている。
 これでは本当に奴隷ではないようだった。
 するり。小さな力を加えれば折れそうなほど、細く頼りない指が喉元の首輪に触れる。冷たくはないが、その存在感は真夏に氷を口にした時と同じくらいだろう。
 ――こんなものが無ければ自由で居られたのに、と耳鳴りのように言葉が頭に鳴り響いていた。
 新品の香りは鼻を擽って、違和感だけを覚えてしまう。すん、ともう一度匂いを嗅ぐと、慣れ難い布の香りが不快感を揺さぶってくる。極めつけは着慣れない所為だろうか――布の柔らかさと着心地が、衣服ではない何かを彷彿とさせてくる。
 例えるならそれは、幼い子供がかくれんぼの際に使った厚手のカーテンのような堅苦しさで、新品の香りは「お前を認めていない」と言われているような気分だった。
 この服なんて、もっと他の奴に買えば良かったのに。
 ――何気なく呟いた一言に混ざるのは、落胆にも似た重苦しい感情。喜びではなく、不快感とでも言えばしっくりくるのだろうか――。
 落ち着きを取り戻したように足音もなく壁の向こうから終焉が顔を覗かせた。「気に入らなかったか」と、淡々とした声色でノーチェに語り掛ける。

「結局、貴方の好みに合わせていないからな。気に入らないのも無理はない」

 そう言って暑苦しいコートを脱ぐと、終焉は再び自室に戻るため、踵を返してノーチェに背を向ける。
 怒らせてしまっただろうか。
 ――そう思う反面、次第に学習したノーチェはあの程度で終焉が怒るとは思えなかった。感情が失われていると言えば確かにそう思えるのだが、先程の手当ての時に見た悔しげな表情を見るに、男は本当に感情が死んでいるわけではなさそうだ。
 言うならば、ノーチェの些細な言動に不満を抱くものの、怒りを露わにする事はないのだろう。
 単なるベストかと思えば、燕尾服のように背の裾が長い服を靡かせて終焉は去っていった。不満げでも不機嫌でもない後ろ姿を目で追って座り込むノーチェは、くぅ、と小さく鳴る腹に手を添える。食べ物を口にしてからというものの、体が調子を取り戻したかように空腹を訴えてくるのだ。
 ――腹減った。
 小さく呟いてみたが、以前の明るさなどまるで思い出せず、芽生えることのない食欲にそうっと目を伏せる。恐らく終焉は今夜もしっかりと夕食を用意するだろう――それをノーチェはどう断ってやろうか考えていた。
 折角死ぬために着々と用意が出来ていたのだ。それを、たった数回の食事だけで崩されてしまい、迷惑であることこの上ない。人間の生きるという本能は簡単に芽生えてしまうのだから、正直に言えば服よりも遥かに不愉快だろう。
 死ぬのならそれ相応の身なりで、――死ぬ勇気もないノーチェがぼうっとしたまま思考を巡らせていると、自室に戻った筈の終焉がふと姿を現していた。
 何か用があるのだろうか――ノーチェの居る広間には目もくれず、長い髪を靡かせてどこかへと向かって歩く。その表情はどこか嬉しそうにも見えて――。
 一息吐きながら「まあ良いや」とノーチェは足を投げ出した。

「……ノーチェ」

 表情が嬉しそうだったというのはほんの一瞬の出来事だったのか、ノーチェの勘違いだったようだ。
 再び壁の向こうから顔を覗かせて声を掛ける終焉の表情は、心などあるとは思わせないような無表情そのもので、冷めきった顔付きそのものだった。――そんな男が「あまり期待はしていないのだが」 と言葉を紡ぐ。

「何か食べるか?」

 顔色を窺うように瞬きを数回繰り返した後、終焉は片手に携えている赤い林檎をちらりと左右に振った。どうやら何か作ろうとしているようで、断ろうと唇を微かに開いたノーチェは、くぅ、と鳴る腹に再び手を当てた。

◇◆◇

 厚さは二ミリから三ミリと言ったところだろうか――薄切りにされた林檎だったものがまな板の上に並べられていた。
 それを耐熱性のボウルに入れて、グラニュー糖とメープルシロップを加える。林檎全体にシロップが絡むまで混ぜたらバターを乗せてレンジで加熱。その合間にパイのシートを六等分に切り分け、加熱が終わったら冷ましている間にパイシートを麺棒で伸ばす。
 伸ばしたシートの上に冷めた薄切りの林檎を三分の一程度重ねるように乗せて、マフィンの型にバターを塗った後、林檎を乗せたシートを丁寧に巻きながら中に入れ、予め余熱しておいたオーブンで十五分程度焼き上げる。
 焼き上がればそのまま出来上がりでも良いのだが、林檎に染み込ませていたシロップを表面に塗れば、艶が出て更に美味しくなるそう――。
 ――その一連の流れをノーチェは道具が揃ったキッチンで見せ付けられていた。エプロンを着けた終焉は長い黒髪を束ねると、慣れた手付きで調理に取り掛かる。男の手にかかればノーチェが持つと危なげな調理器具も、本来の姿を取り戻すように扱われていった。
 林檎を切る動作も、シロップに漬け込む作業も、焼き上げる工程も何もかも、やけに手慣れていて格の違いをまざまざと見せ付けられる。黒い爪が目立つ色白い素手も、終焉が作業している間は特に気にならなかった。
 芳ばしい香りが鼻を擽る。昼食を逃している所為だろうか、ノーチェの腹が何度も小さく音を鳴らしているが、ノーチェは依然「食欲」そのものが認識出来ない。今までの暮らしというのは随分と体に染み付いているようで、欲求が無いと言うに等しいほどだ。
 そんなノーチェを気にかけているのだろう――幾つかの作業を終えた終焉はノーチェに振り返るや否や、「退屈じゃないか」と呟く。

「別に、無理してここに来る必要はなかっただろう。部屋にでも居れば持っていくつもりだったのに」

 当たり前のように濡れた手をタオルで拭いて、終焉は首を傾げながらノーチェに問う。
 長い黒髪が結われている、というだけで男の印象はすぐに変わった。エプロンを着けるために脱いだ黒衣の印象が大きかったのだろう。男のシャツとベスト姿は何よりも新鮮で、纏めた黒い髪が軽く靡く度に女のような印象を与えてくる。
 その姿は恐らく、老若男女問わず好かれただろう――勿論、終焉がその姿を他の者に見せればの話である。

「……別に……やることないし……」

 せめて後片付けくらいは出来るだろうし。
 そんな言葉を呑み込んで、喉の奥へと押し戻したノーチェは茫然と終焉を眺めていたが、自分の出る幕などないことは十分理解していた。
 男は手際が良い――良すぎるほどだ。何かをした後は次の工程に移りながら片付けを進めてしまう。まな板は水洗いをしたら立て掛けて、包丁は洗ったらタオルで拭いてすぐにしまう。包み紙やゴミの類いは近くにあるゴミ箱に捨ててしまって、手を出す暇など欠片も残されていない。
 それでもせめて物の位置くらいなら覚えられるだろう。終焉が居ない間に見回って酷く嫌に思っていたキッチンは、今は何故か受け入れられているような気がして、不快ではない。万が一、何か言われたらすぐにでも動けるよう、気を配らなければならない。未だ殴られないとはいえ、生き物などいつ逆上するか分からないものだ。

「そうか。生憎だが作業は終わってしまったよ。見ていて楽しいとは思えないが、折角出来たものだ。食べてもらわねばならない」
「あっ……」

 ――するり。
 出来上がった薔薇のような見た目のアップルパイが載った皿を片手に、終焉はノーチェの体を抱えるように引き寄せた。出来立ての甘い香りは不思議と心を擽っているようだったが、また食べなきゃならないのか、とノーチェが唇を尖らせる。
 特別気持ちが悪くなるというわけではないが、どこか食事という行為が億劫になっているのだろう。引き摺られながらも「要らない」なんて小さく呟いてみれば、傍らで「駄目」という言葉がすぐに返ってきた。
 我が子を諭すような声色に、むぅ、と何気なく唸ると、ノーチェは引かれた椅子に腰を落とす。――気が付けばリビングに着ていて、隣には終焉がアップルパイに手を伸ばしていた。
 焼き立て特有の軽い、サクサクとした食感が終焉の気分を良くしたのだろう。無表情ながらもどこか柔らかな雰囲気を纏ったまま男は「甘いものは良いな」と呟いて、ノーチェを横目で見る。食べないのか、と言いたげな瞳に体が射抜かれた気がして、ノーチェが体を強張らせていると――。

「美味しいぞ」

 と、有無も言わさずに手に取ったアップルパイを口に放り込んだ。

「んむ……」

 思わずそれを噛むと、芳ばしい香りと共に甘い風味が口いっぱいに広がる。噛めば噛む程林檎の甘酸っぱさが溢れてくるが、同時にシロップの甘味がそれを打ち消すようで、口に残るのは焼き立ての香りと、甘い食感だけ。
 落とさないよう口に放られたアップルパイを手で受け止めるノーチェの腹が、再三くぅ、と鳴る。もう聞き飽きたと言わんばかりに微かに眉を顰めると、それを見下ろしていた終焉が「腹は空いているのか」と呟く。

「…………別に……そこまで食べたいと思ってないけど…………」

 食い意地の張った汚い奴隷だと思われないよう、咄嗟に口を突いて出た言葉だった。
 確かに食感はない。しかし、体がそれを求めている。自分の欲が鈍っているのか定かではないが、嘘は言っていないつもりだった。

「それでも私は嬉しいと思っているよ」

 冷めた金と赤の瞳、口の端すらも上がらない動かない表情。――それのどこが嬉しいんだ、と疑わざるを得ない状況で、ノーチェは与えられた洋菓子をちまちまと食べ進める。
 不思議と、男の手料理を口にした後は食べられるのだ。いつの日かのように進んで食べ進めるような真似は出来ないが、ちまちまと口の中に入れることは出来る。時折果汁が染み出たような甘い香りに胸を満たしては、どこか懐かしい感覚に酔いしれて、ほう、と息を吐く。

「………………美味い」

 今朝方言われたように、ノーチェは砕けた言葉を小さく口から溢した。
 ――ただ少し、終焉の者のペースに呑まれただけとも言えるだろうが――無意識のうちに、吐息と共に吐き出された言葉だった。
 それにノーチェが気が付いたとき、終焉は驚いたように――それでも表情は変わらないが――目を微かに見開いていて、「そうか」と呟いて不意にノーチェから視線を逸らしたかと思えば、顔を背けてしまう。
 一瞬でも怒らせてしまったのかと、彼は微かに手指を動かした。
 ――だが、それが一種の照れ隠しだと、終焉が本当に嬉しいと思っているのだと気が付くのに時間は掛からなかった。

「…………好きなだけ食べると良い」

 そう言って口許を隠しながら眉間に皺を寄せる男はどこか愛らしく、今までの印象を砕くのには丁度良いものだ。
 ――ああ、この人もこんな表情が出来るのか、と納得するように瞬きをした瞬間には、終焉の表情は元に戻っていて。一心不乱に自分の作ったアップルパイを頬張っている。
 ――甘くて、芳ばしく、胸を満たす奇妙な洋菓子。
 昼食を逃したノーチェにそれは大きなものに思え、止まってしまっていた食べる動作を繰り返せば、隣で男は嬉しそうに次を進める。
 何故か薔薇の形が妙に愛しくて――食欲が無いと言いつつも、ノーチェはその差し出された次を手に取った。


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