受け入れる



 何もない暗闇の中に居た。光の届かない場所で、自分さえもまるで見えない場所だ。一歩足を踏み出す動作を取ってみる。しかし、その動作さえも闇に吸い込まれてしまったかのように、その行動という概念が頭の中からすっぽりと抜け落ちる。今、何をしたんだろうか――そう微かに首を傾げてみるも、それすらも消え失せてしまう。
 何をしても意味を成さない空間だった。どこまでもどこまでも暗く暗く、前を向いている筈なのに何も見えない。上も下も右も左も――いつしか自分自身も無くしてしまいそうな程だった。取り敢えず「座り込む」という動作を取る事は避けていた。ただ立ち尽くして、茫然と前を見据える気持ちだ。考え事をする事を避けなければいけない気がしたが、如何せん、人間なのだ。電気が走るように一瞬でも考え事をしてしまった時だ。

 ――嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ
 ――こわい、こわいよパパママ、
 ――死ねば良いのよ。死ねば。貴方なんて
 ――きらい

 そんな罵声と、暴力と、嘆きの声が次々と頭に響く。体の冷える感覚と、時間の進みに疑問が募る。一秒が長い、一分が長い――まるで長い間そこに居るかのような孤独感。人も居ない、温もりもない。在るのはひたすら拒絶するだけの声と、気が狂いそうになる程の長い時間だった。
 これは変になりそうだ、と小さくほくそ笑んだ。恐らく微かに笑った筈だ。何も感じられなくなってしまっているけれど、そこに在るのは確かだ。だから、そう――感覚がまだある間にふと両手を広げる。

「そこに居るんだろ?」

 確信を得ているかのようにポツリと呟いた。それは響くようで、響かずにすぐに消えてしまう。本当に届いたのか、聞こえているのか、定かではない。しかし、それの事だ。声が聞こえた事くらいは理解してくれているだろう。運が良ければこちらを見ているかも知れない。
 見えているかどうかも分からないが、「こんなものずっと抱えてんだな」と苦笑を洩らす。相も変わらず絶えず響く声も迫り来る寒さも、未体験だった。加えて責めるような感情が伝わってきて、これ以上は人間では気を狂わせてしまいそうで。胸を刺す拒絶が脳裏にこびり付く。
 その中で薄れる感覚を保ちながら「何してんだよ」と言葉を紡ぐ。

「来いよ。俺はお前を拒絶しない。受け入れてやるから、なあ、ベル」

 そう、呟いた時だった。見えなかった暗闇が形を成すように晴れ、腕の中に彼が居たのは。背中に手を回して強く服を握り締める様子はまるで子供のようで、背に手回し返してやれば、小さく、小さく「……有難う」と、啜り泣くような――。


 目を覚ませば温もりがあった。光を徹底的に遮断する部屋に加え、目の前には人影がある。夢を見ていたような気がしたが、どうでも良い気がした。ノーチェの耳に届く微かな嗚咽に背を撫でてやりながら、「大丈夫か」と彼は問う。縋るような手に力が籠もった。

「おはよう、ベル。相変わらず俺はここに居るから安心しろ」


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