調教



 言葉とは不思議な力を持つ。彼自身にそういった力は存在しないが、世の中には言葉に力を持つ人間も存在しているようだ。それは、ただ使用者の言葉を耳にするだけで、すっかり体を支配されてしまうらしい。

 ――例えば、そう。今の彼のように。

 ぱらぱらと視界の端に映る自身の黒い髪にひとつ、溜め息を吐く。ほう、と口から溢れ出た重苦しいそれに、付き添いと称して連れ回されていたアウディンが「ぅ、」と声を上げたのが聞こえた。普段陽気な表情を浮かべる彼の顔には、一筋の汗が伝う。緊張から強張った体はゆっくり、ゆっくりと後退を選んだ。
 反面、男を襲ったそれは片手に愛刀を携えながら男を見下ろし続ける。黒い強膜に一面金に染まった瞳。どうにも虫の居所が悪いのか、酷く不機嫌そうな顔をして、首にあるそれに手をかける。
 鬱陶しい、ただそう言って白と黒を強調とした首輪を男の方へと投げ捨てた。とさ、と軽い音を立てて地面に投げ捨てられたそれが、男の視界へ映る。人が折角用意した首輪を、こんなにも容易く投げ捨てられるのかと、クレーベルトは思った。その始終を見ているアウディンはと言えば、ちらちらと彼と、クレーベルトを交互に見やって。口を出すことを躊躇っているようだ。
 彼はそんなアウディンを見ると、「何か変かよ」と平然と問う。まるで、目の前にいる男のことだけを忘れてしまったかのような――否、男にだけ酷い反抗心を抱いているかのような態度に、アウディンは「えっ、と」と言い淀む。

 無理もない。彼は、ノーチェは気が付かないのだ。足元を這う異様な寒さに。

 ――数日前、ノーチェが消息を絶った。契約を辿り、存在を確認するに安否は約束されているが、数日間自分の元に帰ってこないとなると、流石の男ですらも心配をしてしまう。何せ男にとって彼は部下で、主人で、最愛で、恋人だ。ひとつの連絡も寄越さないままでいるとなると、上手く手綱を握れていない自分が不甲斐なく思えて仕方がないのだ。
 そんな彼を探すため、クレーベルトは彼の知人を訪ねた。師、友人、知人――その中で何気なく選んだのは、偶然にも出会ったアウディンだ。彼は恋人であるペインの元へと訪ねようとしていたらしいが、その手を引き、半ば強制的にノーチェを探すことに協力させた。
 他意はない。ただ、募る寂しさを会話で紛らせようと思ってのことだ。その証拠に、男は居心地が悪そうに隣を歩くアウディンとぽつりぽつりと会話を交わした。たった一言、二言。それだけのやり取りではあるが、男の気分が紛れ始めたのは事実。時には顔見知りと会話をするのも悪くないと、比較的穏やかに口を溢したとき、アウディンは訝しげな顔をしてクレーベルトを見ていた。
 彼は未だ、ノーチェのようにクレーベルトの表情の変化を掴めているわけではない。比較的口調は穏やかと言えど、男の表情はまるで張り付いたような無表情があるだけだ。片目は眼帯に隠されていて、口許は弧を描きもせず、声色に抑揚などありはしない。これで一体、どう判断すれば気分が良さそうだと思えるのか。
 ――その視線に気が付いたクレーベルトは、アウディンを一瞥する。それに彼は両手を振って「何でもない」と言うものだから、男も対して気には留めなかった。
 向かう先は人里離れた森の中。こんなところにノーチェがいるのかと思えるほど深く、少しずつ日が陰る。しかし、契約を辿っているクレーベルトはあてもなくさ迷い歩いているわけではないのだ。いくら道行く先に人の気配がなかろうとも、ここにいるという印が、訴えかけてくるのだ。

 ――そうしてその感覚は見事に的中する。

「――ボス!」
「――っ!」

 がさり、木の葉が擦れる小さな音が耳に届いた。――正しく言えば、その音が鳴るまで接近に気が付かなかった。まるで空から獲物を狙う一羽の鳥のように、不意に現れたその切っ先にクレーベルトは反応が遅れる。
 半透明の薄紫色をした刀身が男の顔を目掛けて飛んできた。クレーベルトは咄嗟に身を逸らしたが、刃先は男の頬を掠める。片目を狙うかのようなそれに反応が遅れたためか、ヘアゴムと髪がひと房切れ、眼帯の紐までもを巻き込み頬に傷がつく。

 突如襲った痛みに男は堪らず顔を俯かせた。狙った獲物を仕留め損ない、酷く機嫌が悪そうなそれが、ノーチェだと分かり、くらりと視界が歪んだのが、つい先程の出来事である。

「ノーチェ、お前どうかしたのか?」

 そんなやつじゃなかったろ?
 ――アウディンはいくらか彼を宥めるような口振りでノーチェとの会話を試みた。これは、別の世界から戻ってきた頃よりももっと深い――、まるで出会った頃のような殺伐とした雰囲気だ。どの程度の言葉がノーチェに刺さるのか分かりやしないが、神経を逆撫でするよりはマシだろうと、緩く微笑む。肉弾戦よりは頭脳戦に持ち込む方が彼は得意なのだ。
 しかし、アウディンの言葉にノーチェは眉を顰め「どうもしてねえよ」と言った。父親から受け継いだというガンブレードの切っ先は相変わらず俯き、微動だにしないクレーベルトに向けられている。それを見て、ただ酷く鬱陶しそうに言うのだ。

「ただ気に食わねぇだけだ。何で俺が、人間の形をした化け物に飼い慣らされなきゃならねぇんだ? そう考えたら、すげぇ腹が立って」

 殺してやらなきゃ気が済まない。
 そう言って強い悪意を込めた瞳を向けているものだから、「おい」と彼は咄嗟に口を挟む。
 何せノーチェはこんなことを言う人間ではなかったのだ。
 確かに愛だの恋だのを知る前のノーチェは、特に殺伐としていた頃はこんなことを言いそうではあった。いや、愛だの恋だのを知ってからもそういった一面は覗かせていた。自分が最も愛した存在を貶され、罵られた際は見境もなく手を掛けて回るほどだ。
 恋人を化け物などと宣う人間を決して許さず、いやに愛情深い一面があったはずだった。
 ――それが、今、自身の恋人に向けて「化け物」などと宣っているなど、誰が信じられようか。
 ノーチェの視線には愛情などといった感情は少しも込められていなかった。彼の目に込められているのは一際大きな憎悪と、嫌悪感ばかりだ。彼の殺意がチリチリと肌を刺すような痛みとなって押し寄せてくる。それは、傍らにいるアウディンでさえ気が付くものだから、真正面から食らっているクレーベルトの感覚は計り知れないだろう。

 彼が、ノーチェが正気でないことは、アウディンですらも分かっていた。大切に、大切に、していた首輪を惜し気もなく投げ捨てるほどだ。この異常性は、ノーチェの知人が見れば明らかだ。そして、それを男も痛感しているはずだった。
 しかし、――しかし何故、男は一向に顔を上げないのか。足元を這いずり回る凍えるような寒さは、少しずつ時間を重ねる度に深くなっていく。足元から凍りつくのではないかと錯覚する寒さに、アウディンは再度後退を選ぶと、漸く男の顔が、手がぴくりと動いた。

 ヘアゴムが切れた所為か、黒くたなびく長い髪が男の雰囲気をなおのこと引き立たせる。ねっとりと、足元から何かが這う恐ろしさを得て、アウディンは息を潜めた。何故だか息を殺さなければならないような気がしたのだ。
 ノーチェはそれに気が付いているのか、いないのか。不機嫌そうな顔をしたままクレーベルトをじっと見ていた。その手は強く、愛刀を握り締める。

 ――愚かだと、口を溢した。愚かだ。あまりにも、滑稽で馬鹿馬鹿しい。
 ゆっくりと男は立ち上がり、ひとつ吐息を吐く。その息と共に吐かれた言葉はあまりにも重く、暗く。恐ろしいほど威圧感を湛えている。

「俺は、少々甘やかしすぎたようだ」

 ぽつり、呟かれた言葉にアウディンはゾッと背筋が凍る。つい先程まで対話をしていた男の声色が全く違うことに、嫌でも気が付いてしまう。声の温度、高さ、込められた気持ち――それらを全て闇に溶かし、怒りだけを湛えたその言葉に「本当に感情があったんだ」と。
 何気なくそう思っていた矢先に、クレーベルトが漸く顔を上げたのだ。
 白く焼けてもいない顔に一筋の傷が刻まれている。それを、男は指先でゆっくりとなぞると、なぞった端から静かに傷が塞がった。クレーベルト独特の治療法にアウディンは唖然とし、ノーチェは舌打ちをひとつ。こんなものでは息の根を止めることなどできやしないと知っていて、小さく身構える。
 そんな彼らに男はひとつ、「臭いな」と呟いた。

「はあ?」

 堪らず、と言った様子でノーチェが疑問を口にする。その瞬間、彼の足元の影が僅かに蠢いた。
 ぴくりと彼の本能が囁き、ノーチェは咄嗟に体を捻る。すると、ノーチェのいた場所を目掛け体を刺すように鋭利な針が地面から生えるのだ。刺されればひと溜まりもないそれは、躊躇うこともなく彼の胴体を狙っていたように思う。

 ああ、そうだ。厄介だ。――ノーチェは近距離戦を得意とし、クレーベルトは遠距離戦を得意とする。この事実を再認識すると、彼は三度みたび男を強く睨んだ。その視界の端にこっそりと知人がいるが、今のノーチェには大して重要ではない。
 まずは目の前の獲物を仕留めなければならないのだ。
 ――でも、何のために?

「匂う、匂うぞ。貴様、俺に黙って何の匂いをつけてきた」
「何を言って、」

 ずきり、痛む頭を左右に振ってから、ノーチェはクレーベルトに向き合う。漸く露わになった男の双眸は怒りを湛え、ギラギラと輝いているようにすら見える。透き通る金の瞳、相対する仄暗い赤黒く輝く瞳。どちらも獣のように鋭く、瞳孔がほんのり開かれている。

「――ああ、どれもこれも俺が甘やかしからだ。飼い慣らされるのは嫌がるだろうと、与えられた手綱を手放していたからだ」

 チリチリ、なんてものではない。男が唇を開き、言葉を紡ぐ度に全身を刺されているかのような錯覚を、アウディンは味わっている。今までにここまでの明確な殺意を、怒りを向けられたことのない彼は「当の本人でなくてよかった」と、傍観者の支点から安堵の息を吐いた。
 男の目の前にいるのが友人だとはいえ、我が身が可愛くて仕方がないのだ。

 そうしてまるで譫言うわごとのようにぽつりぽつりと言葉を紡ぐクレーベルトは、ひとつ、息を吐いた。心身を落ち着かせるような、深い深呼吸だ。ほう、と先程まで溢れ落ちていた感情の欠片もなく。何の変哲もないそれは、男の気持ちを一瞬だけ、落ち着かせた。
 不意にずるりと影からひとつの椅子が生み出される。どこまでも黒く、本当に椅子であるかと疑いたくなるほどの黒いシルエットに、クレーベルトは腰を下ろした。無機質な造形物の創造は男の得意分野だ。ノーチェを狙ったあの針もまた、クレーベルトの意思によって生まれたものだ。
 それはまるで玉座だ。腰を下ろしたクレーベルトは流れるように長い足を組み、肘置きに肘をつき、頬杖を突いた。長い黒髪が風に吹かれて小さく靡く。それに合わせて「俺の視界に入らない位置まで離れていろ」と、アウディンに向かって呟いた。

「これから行うは調教だ。無関係なお前を巻き込まない自信などない」

 ず、と重くのし掛かる重圧を、アウディンは感じていた。こちらを少しも見ていない筈なのに、言葉を向けられただけでこんなにも体が重い。そんなことを言われなくとも、こちらから願い下げだと言わんばかりに彼は「ボスのご意向に従いますよ」と言って、木陰に身を潜める。
 どこまでも男に対する反抗心が抵抗を生んでいるのか、ノーチェは身構えたまま何でもなさそうに歯を食い縛っていた。

 造形の椅子に腰掛け、足を組む様はまさに王者の風貌。自分は一歩もここから動かないという強い意思を感じる他に、圧倒的な力の差をまざまざと見せつけられる。この状況をノーチェはよく知っているが、実際に自分がやられるとなると、非常に煽られていると理解する。
 「お前ごときがこの俺に傷ひとつ与えられるのか」と、言われているようで。彼は強く男を睨んだあと、空気を払うように愛刀を横降りした。
 そんな彼の心情など露知らず。クレーベルトは空いている片手をゆっくりと前に出したあと、指先でノーチェを招く。誰が見ても立派な挑発のあと、男は僅かに目を細めて「来い」と言った。

「ここは今から俺の領域≠セ。この領域なかで、貴様を骨の髄まで調教してやる」

 俺は従順な犬が好きなんだ。
 ――その言葉のあとにノーチェは訳も分からず、ガンブレードを構えた。

◇◆◇

 結果など始めから分かっているのだ。特に今のクレーベルトは、まるで全盛期を彷彿とさせる立ち振る舞いをしている。あの頃の男は酷く傲慢で、強く、誰も寄せ付けない一頭の獣のようだった。仲間という関係を築き上げたお陰で、その一面は全くと言ってもいいほど見かけなくなっていたのだが――、実際に見せ付けられると息を呑むものがある。
 特にアウディンは、当初の「ボス」としてのクレーベルトを見ることは少なかったのだ。ボスとしてはいやに優しく、仲間想いである一面しか見てこなかった。
 だから――、一方的にノーチェを蹂躙する様を見かけてぐっ、と息を殺していた。

「――げほ、」

 ごぼ、と音を立ててノーチェの口から出てきた赤い液体に、少なくともアウディンは険しい顔をしていただろう。ノーチェ本人も嫌そうに眉を顰めながら口許を拭い、ふうふうと息を切らせている。小さく震える手はそのまま自身の胴体へと延び、血にまみれた肌を撫でる。ぬるりとした感覚、鋭い痛みのあとに少しずつ、傷が塞がっていく気味の悪さが宿る。
 容赦など男には存在しなかった。強い抵抗と反発を持って対面していたはずのノーチェは、雰囲気が一変したクレーベルトに対して無意識に体が強張ってしまう。血が通っているはずなのに、どうしてか足先まで上手く力が伝わらなかった。それどころか妙に、従ってしまう体が酷く鬱陶しく、苛立ちが募る。

 ――男はただひたすらに全てを奪い続けた。
 ひと度ノーチェがクレーベルトに睨みを利かせれば、男は小さく目を細めて「その目は禁止だ」と言い、彼の体を貫く。突如として足元から現れた影の針はノーチェの脇腹に刺さり、初めこそはノーチェもアウディンも目を丸くしたのだ。
 何せクレーベルトは身内だけは決して傷つけることはなかったから。特にノーチェに関しては、ボスとしての役割を終えた今でも傷つけることはなかったからだ。
 それが――惜し気もなく、躊躇いもなく傷を負わせるものだから、なおのこと驚きを隠せずにいた。
 出血を促すように引き抜かれたその影に、ノーチェは目を丸くしたまま足元に力を込める。倒れまいと踏み留まり、致命傷であるはずの傷が塞がるのを待った。いくら記憶に異常が起こっているとしても、自分の体がどれほど通常から外れているか、覚えているようだ。
 ふう、とノーチェが一息吐く頃、彼の傷口は跡形もなく綺麗に塞がっていた。

 剥奪されたのは何も目付きだけではない。ノーチェ特有の血液を使った魔法ですら、男の手によって無効化されてしまった。
 初めから距離を詰められるはずもなく、遠距離を余儀なくされているノーチェにはガンブレードを振るう余地などは存在しなかった。ならばどうするべきかなど、決められているようなもの。
 露出している腕を自らの意思で傷付け、溢れる血液を凝固させたのち、槍だの弾丸を模したものだのに形を変えたあと、男に向かって投げつける。――けれどそれも男の影に阻まれてしまうのだ。
 ずるりと蠢く影から勢いよく飛び出したのは、獣の形を模したであろう大きな口だった。鋭い歯がギラギラと輝いているような錯覚すら見えるそれが、ノーチェの血液に向かって大きく口を開く。そのまま真正面から思い切りそれを噛み砕き、咀嚼をするのだ。
 バキン、と酷く固いものが壊れる音はあまりにも無惨で。やるせなくて。影に戻るそれを見届けたあと、クレーベルトは小さく嚥下した。

 ――分かっているのだ。初めから。記憶の奥底、体の全てが。反抗は無意味だと。

 ごくりと喉を鳴らす。無表情だった顔に笑みが浮かぶ。ほんのり恍惚そうな表情になったそれに、「喰われた」ことを彼は理解する。
 やむなく近距離に持ち込もうかと決意をして、ぐっと足に力を込めたあと、男は「ああ、」と吐息交じりのそれを溢す。

「手が滑った」
「な、っ……!」

 半ば反射的に足を引き、ノーチェは体勢を崩してしまう。その拍子によろけてしまい、再び鋭い針が彼の胴体を貫いた。
 手を滑らせた・・・・・・クレーベルトは、ノーチェの足元を喰らい、体勢を崩した彼の体をまたいたぶる。決して休ませることのないように、立て続けに襲うそれに勝ち目などあるのかどうかを、ノーチェは遂に考えた。
 考えるだけ無駄だと分かっていながら。
 ずくずくと、体内から焼かれるような痛みが胴体と、足元から広がってくる。血を流しすぎたのか、はたまた別の理由か。傷の治りが次第に遅くなり、ノーチェが血を流し続ける時間が長くなっていく。それに比例するように、足元の妙な影は次第に広がってくるのだ。
 血を流すと全てが足元に溢れ落ちる。それを、影を伝ってクレーベルトが補食を繰り返す。その結果として、彼は失い続けるが、クレーベルトはただ魔力を補い続けるという循環が生まれているのだ。

 ――そうして出来上がる一方的な蹂躙に、傍観しているアウディンはただ安心し続ける。想像もしたくはないが万が一、自分があの立場にいたらどうなっていたのだろうかと。友人を目の前にしてこんなことを考えたくもないのだが、あそこにいるのが自分ではなくて良かったと、思ってしまうのだった。

 日中に外に出たはずなのに、日が傾いてきた森の中は薄暗くなるほど夜を迎えようとしている。光の届かない闇の中、月が浮かぶ夜の時間。――それは、双方どちらにとっても有利な時間帯のはずではあるが、現状有利な立場にいるのはクレーベルトだ。
 傷を負い続けるノーチェの顔色は少しずつ悪くなる一方で。それでもクレーベルトの躾は留まることを知らなかった。ぎり、と歯を食い縛るノーチェを、態度が良くないという理由だけで背中から胸を突き刺す。ギリギリ心臓を貫かないように計算されたそれに、彼は顔を顰めていた。

 ――いつしか抵抗の意思は鳴りを潜め、ノーチェの目は睨みがあるものの、どこか弱々しくなっているように見える。目頭はほんのり白みがかっていて、ニュクスの遣いとしての特長である黒い強膜は彼の不調を訴えていた。血を流しすぎたことによる貧血が起こっているが、それでも男の手は止まることはない。
 痛みと、貧血で意識が朦朧としていることをノーチェは分かっている。そして、頭の奥底が妙に霞がかり、靄がかかったような錯覚が少しずつ晴れていくのも分かっている。何故自分はあれに反抗しているのかと、ふつふつと疑問が湧いて出てくるがどうしても愛刀を握る手は離せなかった。
 ちらりと何気なく視線を男から友人へ。投げ掛けてみれば一度だけ視線が交わり、そのまま静かに逸らされる。自分はこの件に関して一切無関係であると暗に示されていて、堪らず苦笑を洩らしたくなった。

 ――もう、勝ち目のないそれに挑む気はない。

 そう思っていても、何故か体は動き愛刀を握る手に力がこもる――。

「――おい」

 そうして不意に、クレーベルトの低い声が降ってきたことにノーチェは息を止めた。
 一体いつの間に目の前に現れたのかと、酷い緊張と寒気が全身を襲う。意図的に止めたわけではない息を何とか繰り返したが、どくどくと胸の奥底からやってくる鼓動が酷く耳障りだった。
 以前からよくあった。神出鬼没だと言っても過言ではない。知らず知らずの間に突然目の前に男が現れることが。人の目を気にしなくとも、気にしなきゃならないときも、恰も初めからそこにいたかのように。何もない場所から現れるそれが、今でも見られるのはあまりにも心臓に悪かった。
 ノーチェの頭上から降り注いだ声は常に低く、怒りに満ちていたように思う。その証拠にゆるゆると視線だけを向ければ、大きく見開かれた猫のような瞳がじっと彼を見つめているのだ。穴が空くほどというのはこのことを言うのだろう――、視線を交えると男の手がノーチェの首を掴む。

「う、っ……」
「……ボス、殺さないでよ〜……?」

 突然の出来事に傍観していたアウディンですら、小さく背後から声をかけた。流石の彼も、目の前で友人を失うのには多少の抵抗があるようだ。普段の飄々とした雰囲気を漂わせているが、弱々しく紡がれたそれはどうにか男の理性を揺さぶろうとしているようだった。
 しかし、クレーベルトはその手を緩めることはなく、首をギリギリと絞めながらノーチェを見下ろしている。貧血と酸素不足で霞むノーチェの視界にはその顔がありありと映っていて、何かを訴えているように見えた。

「主を違えるな、ノーチェ・ヴランシュ。貴様の手綱は我が手の中にある。貴様の真名は我が意識下の中にある。契約に則って、五臓六腑を貪り尽くしたって構わんのだ」

 普段ならば決して出されることのない手に、彼は遂に強気の表情を崩した。
 まるで、――そう、まるで捨てられる子犬のように、今にも泣き出しそうな顔をするのだ。

「――問おう」

 男の低い声がノーチェの頭の中に嫌に響く。

「誰に向かって、それを向けている?」

 ――男にとってそれはただの疑問でしかなかった。何の気なしに呟いた一言の末端に過ぎなかった。
 だが、その疑問の言葉すらノーチェはおろかアウディンですら威圧的にも聞こえてしまって、堪らず腕を擦る。酷い寒気がするのだ。早く帰りたいと独り言を洩らしたアウディンは、バツが悪そうに目を逸らす。自分には関係のないことだと自分に言い聞かせ、圧から逃れたかった。
 その威圧感を真っ向から受けているノーチェは、僅かに目を薄めて、震える手を離す。最早立っていられるほどの力など、足に込められてはいなかった。己を捩じ伏せようとしてくるようなそれに従い、地面に膝をついて許しを請おうかと思いもした。
 それができないのは、彼がクレーベルトに首を絞められているからで。従う意志を見せるためには、愛刀を手放すしかないのだ。

 ――とさりと音を立てて地面に捨てられたそれに、漸く男が瞬きをした。
 波打つ影の中に放り出されたガンブレードは、異様に存在感を放っている。自身を傷付ける為だけに使われた刀身は仄かに赤く、そして少しばかり血生臭い。随分と手入れが行き届き使い込まれたであろうそれを横目に見てから、クレーベルトはパッとノーチェの首から手を離した。
 ハッ、と止まっていた息を懸命に吸う音。浅く、勢いのあるそれに意識を奪われたまま、ノーチェは抵抗もなく地面に膝を突く。ド、っと大地に体重を預けた音がしたのち、波打っていた闇に似た影が少しずつ、次第に収まっていくのが見えた。
 匂いが消えたか。――そう呟くクレーベルトの瞳に、先程までの怒りは少しだって見られやしない。そこにあるのはただ凪いだ泉の水のように静かで、何も感じられない静寂がそこにあるだけだ。
 ――その顔を、彼はじっと見ていた。いくらか落ち着いた呼吸もそこそこに、ぼうっと半ば放心しているかのように。闇に溶ける黒いあの髪を、数本切ってしまったことに対する罪悪感にまみれながら、男の言葉を待った。

 まるで次の命令を待つ犬のような素振りに、クレーベルトの口許が僅かに歪む。
 そして嬉々として問うのだ。

「ノーチェ、お前の主人は誰だ?」

 そう言って静かに右手を差し出す男の手を取り、彼はぽつりと呟く。

「後にも先にも、貴方一人だ……Mon maître.」

 そう言って口許に手を寄せて、泣きそうな顔をする恋人ノーチェを、クレーベルトは満足そうに見つめていた。
 ある種の誓いの言葉に最も近いであろうそれを聞き届け、ふと、男は振り返る。視線の先、木陰に身を潜めていたアウディンの視界に入れて「帰ろうか」と言うのだ。あたかも初めから何もなかったと言いたげに、ノーチェを探しながら会話をしたときと全く同じ声音で。

「……ボスの仰せのままに」

 彼は小さく肩を竦め、そう答えたものの、並んでは歩きたくないと思っていたのは言うまでもない。
 敵に回らないで良かったと、アウディンは人知れず胸を撫で下ろしたのだった。


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