「褒めて」



 目を開いた、筈だ。しかし、視界は一向に開かれず、閉じたままの暗闇が広がっている。それは慣れたようで慣れない孤独であり、終焉と空虚、孤独を象徴する色として捉えられたものだ。当然、それを振り払おうと思ったが――首に括り付けられた輪と、鎖が掻き鳴らされる度にその気持ちが無くなっていくのだ。諦めではなく、受け入れなのだと自分では思う。首輪に恐る恐る触れる度に妙な安心感が体中を駆け巡り、思わずほう、と息を吐く。自分は今、何に凭れ掛かっているだろうか。壁か、寝具か、床か――なんて事は正直どうだって良かった。従順な犬のように、主人の帰りを待てれば良いのだ。
 ――だが、ここまで何も見えないといやに気分が沈んでしまう。真っ暗で、何も無い。以前は目で外をよく見ていたような気がする。今となっては無縁にも近いだろうが、望まれているのなら断る理由も無い。何なら目の前に広がる情景をゆっくりと堪能するべきなのだろう。

 深い泥沼に沈むように思考へと落ちる。――いつの事だったか、これっぽっちも思い出せない。暗闇の中で蹲る子供のような心持ちで、じっとそれを見つめていた。暗闇に押し込められた子供達は自分と一緒になるや否や唐突に顔を歪め、目からぼろぼろと大粒の涙を溢し、「ここは嫌だ」と言い続けた。暗いのは嫌だ、怖いから嫌だと何度も喚き散らす。見えない扉を叩いて泣き叫んで――軈て、潔く眠りに就くのだ。
 俺はそれが嫌だった。体が存在しなくとも、一つの意識を持っていた俺はそれがとても嫌いだった。世界のどこかでは終焉と比喩されている俺は、いつしか人間を理解してみようかと思い立った直後に体を授けられたようなものだ。――いや、体をもらってから理解しようと思ったのだろうか――、今となってはそれすらも判らない。ただ一つ、拒絶され続ける事に酷く嫌気が差していたような気がする。仕方のない事だと自らに言い聞かせていても、ぽっかりと空いた穴のように満たされない空虚の中には、小さな期待が存在している。
 大抵は自分の中に声が落ちてくる感覚だ。反響して、何度も何度も直接言われる感覚。そして、それは次第に洗脳してくるかのように頭の中に染み込んで、小さな期待はそれに呑み込まれて消えてしまう。誰かがいつか受け入れてくれると、見知らぬ期待を抱いては、恐怖の念に意識を揺さぶられ、目を覚ます――俺を創り上げた主が涙を溢す度、俺は生きてはいけないのだろうと、何度思った事か。――俺では主を慰めきれないのだ。

 そこまで考えて、不意に鳴り響いた音に意識を呼び戻される。それは、扉が閉まる音。深い思考に落ちた俺は扉が開く音すら聞く事もなく、気が付けば閉じた音が頭を呼び覚ました。ここはそう――心地の良い香りが満ちた場所。あまり行き来する事のなかった場所。ならば、ここに用があるのは部屋の主だけ。それだけの筈なのに、どういう訳か不安が過ぎるのだ。これは、恐らく俺を創る際に主の幼児退行がほんの少し俺に混ざった所為だろう――奇妙な程恐ろしく、部屋の主が本当に戻ってきたのかを疑いたくなる。
 音が一つ鳴る度に恐怖のようなものが背筋を掠めた。相変わらず暗闇の中で、満足に動かせない手は無いようなもの。加えて片腕は作り物ときたものだ。奇妙な緊張と共に少しずつ露頭される疲労から少し息を切らして、膝を体に寄せた。どれだけ丸まっても一向に温まらない体が嫌で仕方なかった。ああ、早く。早く。待ち遠しい。平常を装っているが、創りものの心臓の鼓動は早く、酷く気味の悪い感覚に見舞われていた。
 ――その最中、唐突に耳元に来る吐息に可笑しな程の安心感さえ覚えたのだ。

「――ただいま、ベル。いい子にしてたか?」

 それに息を呑むと同時に心臓が飛び跳ねる感覚がある。耳元に囁かれた低い言葉は鼓膜をじりじりと揺らして、いつまで経っても体が痺れるような感覚を取り除かせてはくれない。途端、俺にとって妙に温かい男の手が頬から目元へ――目隠しへと滑る。布が擦れる耳障りな音。開けていなかった目を開けて、一番に見るのは鋭い眼光を持った、紫の目に三日月がいやに煌めく瞳だ。人間の眼球は大部分が白いというのに、これだけは逆眼という目を持っている。
 ――その目が俺は好きだ。夜を象徴するような綺麗な瞳が、孤独と終焉を象徴とする闇で体の大部分を織り成した俺にとって、唯一の居場所とも言えるような安心感を抱かせる。それが、若干孤を描いて俺に問い掛けを溢した。
 左右非対称の長さの白い髪が微かに揺れる。教えてもらった香水と、ほんの少し混じる血の匂い――それに気を取られる間もなく「……ん」と答えてそれを待つ。満足そうに笑う反面、「部屋の中は歩けるけど、流石に目隠しされたまんまじゃ歩かねえよなぁ」と感慨深そうに呟いている。流石の俺でも視界を覆われたまま歩く、などという愚行を働く気は起こらないものだ。
 そして、俺が欲しいものはそれではない。茫然とそれを眺めて言葉を待っていた。薄明かりに照らされる瞳が不思議そうに俺を見つめている。今は夜だったか、朝だったか――そんな事は最早どうでも良かった。気付かない様子のそれに俺は催促を促すべく、目を閉じ、「ノーチェ」と小さく口を洩らす。

「…………褒めて……」

 あまりにも子供じみた言葉に自分で呆れさえも覚えた程だ。主から溢れ落ちた幼児退行が表に出てくるかのように、俺はノーチェに擦り寄って「褒めて」と言った。「いい子にしていたから褒めて」と――ノーチェの言う「いい子」がどの程度なものなのか知りはしないが、何もせずただ帰りを待っていた事に対する褒美が欲しかった。
 ノーチェはそれに一瞬だけ驚いたように息を洩らしてから徐に俺を抱き寄せ、頭を撫でる。

「いい子に出来て偉いなぁ、ベル」

 そう麻薬のような言葉を俺の中に落として、動物を愛でるような手で撫でてくる。それが本心なのか、嘘なのか、考えてしまう辺り相当考えに落ちていたのだろう。ノーチェの体が次第に温かいと、自分よりも温かいと思える程に闇が深く、凍えるような寒さを感じる。頼むからその手を離さないでくれ、と縋ろうにも、拘束された手は自由が利かない。
 酷い虚しさに、裏切り者を殺した時のような虚無感を覚え、不意に疲労を覚えてしまう。疲れたと、何も考えたくないと、全てを投げ出したい思考に移り変わって――「……そんなに寂しかったのか?」と耳元で甘く囁かれ、感覚が取り戻される。背筋を走る心地の良い感覚だ。思わず「ん、」と更に擦り寄って、それに強く甘えてしまう。

「そうか。じゃあ風呂、入ろうな。ベルは風呂好きだからなぁ……俺も入りたいし……」

 そう言って立ち上がった筈のノーチェは俺をじっと見ていて、「何か言いたげだな」とただ笑う。――笑うだけだ。愛想の良い顔で、少し俺の様子を窺いながら、笑うだけ。だから俺はつい、言葉を紡いでしまう。

「………………早く。早く戻ってきてくれ……寒いのは嫌いだ……」

 身勝手な言葉だ。その身勝手さにノーチェも呆れを覚えれば、と何故か思ったのだが、ノーチェは瞬きを一つ落として「分かってる」と言った。

「分かってる、けど、ベルお前今バテてんだろ。その腕解いてちょっと我慢出来たら、好きなこと好きなだけしてやるから、な?」

 だからいい子で待ってろよ。そう言って頭をもう一度撫でて、風呂場の方へと消えて行った。――俺は、それが、その言動まで好きで、好きで、好きで――早く欲しくて仕方がないんだ。そういう所も愛してしまっている俺は、あとどこまでノーチェに堕ちていくのだろう、と目を閉じる。遠くで入浴剤が切れてた、と言葉が紡がれていた。


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