求愛



 夜――昼間よりも心地のいい気温に、思わずほう、と吐息を吐く。空を仰ぎ見れば普段なら見られないような星が夜空を飾り、月は煌々と輝いている。黒く染まる木々の向こうでコウモリが羽を羽ばたかせていたのを見て、夜の心地好さを男は痛感した。
 ほんの少しの我が儘と、気持ちを切り替えたいがために誘った夜の散歩に、ノーチェは二つ返事で了承した。一瞬の悩む素振りもなく、間髪入れずに首を縦に振るものだから、「少しくらい悩んだらどうだ」と口添えしたのが記憶に新しい。
 クレーベルトの言葉に彼は首を傾げながら、

「恋人がデートに誘ってくれたのに断るバカがいるかよ」

 ――と、やたら不思議そうに言っていた。まるであたかも当然だと言いたいような言動に、何やら声をかけた自分が恥ずかしいと思う始末だ。
 そうして夜を迎え、入浴も後回しにして躍り出た夜空の下は、男にとって非常に心地のいいものだった。夏が近付くにつれて日差しは強くなり、クレーベルトが日中外にいられる時間は短くなっていく。気晴らしに外の空気を吸おうにも、甘いものを補おうにも、強すぎる日差しは男の行く手を阻むのだ。
 ――何故なら男は人間ではないから。
 食に飢えた獣の亡骸、ありったけの魔力、辺り一面に広がる闇――それらを織り交ぜて出来上がったのが「クレーベルト」だ。血色こそはいいものの、当然のように体温など存在しておらず、心臓は機能していない。体内に流れる血液は、墨を溶かしたような黒い液体であることから、男を造るのに使用した闇であることは明白だ。
 世界の理に背いた異端者が、世界に受け入れられるなど到底ありはしない。日光は男の体を焼き、光は男を拒んだ。クレーベルトが信用していた人間達は、揃いも揃って男を裏切り、誰も彼もが男に食われた。

 クレーベルトは文字通り生きる屍であり、生者や世界からは忌み嫌われている存在なのだ。

 ――にも拘らず、男を受け入れ、愛し、今に至る酔狂な人間が一人。夜空の下でする散歩をデートと称した彼は、「たまにはこういうのもいいもんだな」と口を溢しながら欠伸をする。そうして一息吐いたかと思えば、すぐに辺りを警戒する素振りを見せていた。
 殺人鬼という職分上、奇襲に対する警戒を怠ることができないようだ。男がいくら気にするなと言おうが、ノーチェは頷きこそするもののじっと木陰を見つめていたり、草むらを警戒しているのだ。
 彼の職分を理解しているクレーベルトはその様子を気に留めないよう努めるが、やはり二人きりとなると話は別だ。自分自身の気分転換にと誘ったものではあるが、ノーチェが言った通り「恋人」という関係性がある以上、こちらだけを気にしてほしいというのが本音であるところ。いくらノーチェが奇襲に備えていようが何だろうが、ほんの少し不満を感じてしまっていた。

 ――元より夜は光が最も薄く、辺りが照らされない以上、クレーベルトの領域だ。僅かな気配や動きがあれば影を伝い、正体を確かめることだってできる。光の届かない場所でしかできないことが、男にはあるのだ。
 そして現在、ふらりと表に出た彼ら二人の他に感じられる生き物の気配はと言えば――、夜に現れる鳥や、虫達のみ。時折風に吹かれて木の葉が揺れる他に存在を示しているのは、夜空に浮かぶ星々と、太陽の光を浴びて輝く月が浮かんでいるだけだ。

「…………そんなに気にすることがあるか?」

 ――あまりにも気になってしまい、クレーベルトは痺れを切らしたかのように彼に問いかける。歩幅を狭めて軽く振り返り、ノーチェの顔を見た。男よりも数歩後ろで歩いていた彼は、クレーベルトの言葉に瞬きをしてからバツが悪そうに頭を掻いて、「いや、」と口を洩らす。

「何つーか……癖だな。気抜いてたら万が一のことが起きたときに、お前を守れないだろ」

 でも折角のデートだしなぁ。
 そう言ってノーチェは悩むように腕を組み、頭を捻って小さく唸る。街から離れ、街灯が少なく月明かりが頼りになる場所が彼の不安をつついてくるのだろう。確かに木々や垣根が多く、人が隠れるにはうってつけの場所が多いが、人間らしい息遣いは全くしないのだ。ノーチェでさえも頭では無意味だと分かっているが、長年の癖というものは抜けないのだろう。
 「何もいないよ」試しにそう呟けば、彼は再び唸ってからちらりと横目でクレーベルトを見やり、「ん」と返事をした。軽く頭を左右に振って気分を変えようとしているのが目に見える。
 そうして背筋を伸ばして「そうだな」と呟くものだから、彼も彼で気持ちを切り替えたのだろう。心なしかほんの僅かに目元の鋭さが消えたような気がして、クレーベルトは多少なりとも満足感を得る。周りに気を配るという余計な行動が減ったことにより、彼が男に意識を向ける時間が長くなるのだ。

 ――やはり上手く言いくるめられているのだろう。ノーチェの意識がこちらに向くようになって嬉しいなど、普段の男なら思うはずもない。散々言われた「恋人」の言葉の重みを、クレーベルトは痛感する。
 表情には出すことはないが、心中ではやたらと浮き足立って仕方がなかった。

 ――気付かれたらまずいな。

 んん、と小さく唸って、男は自分を戒める。いくら身を引いたとは言え、元々男は彼にとっては「ボス」の一人でしかないのだ。彼が惚れ込んだのはあくまで、ボスであるクレーベルトの一面だ。

 ――そう信じて止まない男は一息吐いてから気を引き締める。いくらノーチェがそういった思考に捕らわれていないと言えど、彼が初めに愛したのは今の男ではないのだ。
 そう思えば思うほど寂しい気持ちが募り、夜の散歩に対する楽しみが少しずつ失われていく。数歩後ろにいるノーチェはほんのり退屈そうに――且つ、物珍しそうに辺りを見渡していて男の異変に気が付くことはない。刻一刻と夜が深まり、星が数を増す中、クレーベルトはほんの小さく溜め息を吐いた。
 気晴らしになると思っていたのが間違いだった。――そう言いたげに肩を落とし、男は木の幹に触れる。ざらりとした感触が手袋越しだとはいえ、伝わった。木の中を流れる水の音がこぽりと鳴る。この大木は生きているのだと、男に実感させた。

 ――生き物の息吹はほんの少しの気晴らしになる。

 ほうっと吐息を吐いて眺めた木々は、語りかけるように木の葉を揺らした。単純に風に吹かれただけだというのに、目の前に落ちてきた木の葉が慰めてきたように見えるのだ。

「――なあ、」

 ――不意にノーチェが男に声を掛ける。緩く手を伸ばしてきたのが視界の端に映り込み、男は振り返ろうとした。目と目を合わして会話をすることは男にとって当然のこと。
 背を押されるようにぐっと振り返ろうとすると――、ふと、目の前に大きな羽が視界を塞ぐ。それによってクレーベルトは振り返ることをやめてしまい、視界を覆ったそれに目を奪われた。

 白い――月の光を受けて白く輝く体毛がまるで誰かを彷彿とさせてくる。キラキラと輝く金の瞳がじっとクレーベルトを見つめ、口許には自分のものと思われる白い羽根がひとつ、咥えられていた。
 目の前の木に降り立った白い梟は、男が一人夜の散歩を繰り返した中で出会った友人のひとりだ。見た目の白さも、瞳の輝きも、どこぞの誰かを思い出させるお陰で、男はその梟と交流を持つようになった。他愛ない話をぽつりぽつりと呟いて、夜の心地好さに羽を伸ばしたもの。話の分かる梟は、一定の時間を過ごしたあと、惜し気もなく飛び立っていく。
 ――恐らく今日も、彼はクレーベルトと話を交わそうとしていたはずだ。普段よりも心地のいい夜に、緩やかに吹く風が助長して普段より長く会話に至っていただろう。
 「息災か」――そう言って会話を始めるのは、ノーチェに言わなかったひとつの日課だ。

 その日課を、男は口にすることができなかった。

「…………梟? 随分とお前に慣れてんだな。咥えてんのは羽根か?」

 背中越しにノーチェが男に声を掛ける。先程口に出しかけていた言葉を腹の奥に押し流して、何事もなかったかのようにクレーベルトに接した。男の向こうから顔を出して物珍しそうに見つめる姿は、まるで目の前に降り立った梟のよう。
 その彼がクレーベルト越しに見た梟は、羽根をひとつ咥えてじっとクレーベルトを見つめているのだ。
 彼の言葉に男は答えることができなかった。言葉を失い、指先のひとつすらも動かすことができずに梟を見つめてしまう。その姿にノーチェは違和感を覚え、「ベル?」とだけ小さく呟いた。男が何も答えずにいることに疑問を抱いたのだ。

 ――当然だ。こういった経験は全くないのだから。

 梟はノーチェの存在に気がついていないかのようにクレーベルトだけを見て、くっと顔を男に近付ける。咥えてきた真っ白に輝く白い羽根を渡すような仕草に、男は戸惑いさえも覚えてしまった。いくら顔見知りとは言え、会話を交わす程度の間柄で、クレーベルト自身には「その気」など少しもありはしないのだ。
 ――しかし、どうにもこの梟は違うようで。まるで受け取るまで帰らないと言わんばかりの態度に、男は顔を顰める。
 この鳥を傷付けたくはない。――だが、羽根を受け取るわけにもいかない。どうにか穏便に済ませられる方法はないのかと、必死に考えを張り巡らせていた――。

「……? 受け取ってやれば」
「――…………」

 そう無慈悲にかけられた言葉は悪意もなく、単純な疑問にばかりまみれている。それがいかに男を追い詰めているとも知らずに、そっと横目で見たノーチェの顔は普段と変わりのない、可愛げのない顔だ。
 だからこそ彼の言葉には何の意味もないことが分かる。差し出されたものを受け取る行為は、相手からの好意を受け取るだけ。――ただそれだけのものだと思っての言動だ。
 だから、一度だけ傷付いたように歪んでしまった顔を元の無表情に戻す意識をして、男は「……そうか」と呟く。仕方のない話だ、ノーチェは特別周りの動植物に対して興味を抱いている節はない。彼にとって重要なのは「強いやつと戦うこと」――ただ一点だ。

 ――たとえ、「主人を裏切ること」を助長されてしまったとしても、ノーチェ自身が止めることはないのだろう。

 男は緩やかに吹く風に背を押されるようにそっと手を伸ばした。闇に溶けるような黒い手袋に、白い羽根がよく目立つ。月明かりに照らされるそれがやはり誰かの髪を彷彿とさせてくるので、クレーベルトは小さく唇を開いてしまった。

「――知っているか。梟は求愛時に自分の羽根ものを渡すらしい」

 そう、呟いた矢先だった。
 骨にまで響くような鈍い痛みが男の腕に走り、伸ばしたはずの手は虚しく虚空を掠める。梟は驚いたように目を丸くして、咥えていた羽根を嘴から手放した。そうして畳まれていた大きな羽を広げ、慌てたように木から飛び立つものだから、一体何が起こったのかとクレーベルトは茫然とする。
 視界の端にすらもいなかったはずのノーチェが、気が付けば男の目の前に現れて伸ばした手に掴みかかったのだと気が付くのに、数秒要した。何せ、彼は何も知らないまま口走っただけで、真意など隠されていないのだ。ただ何となくそう言っただけ。それなのに、彼は男の行動を止めるに至ったのだ。

 ――ずくり、と胸の奥が痛む。

 彼は飛び立った梟を一瞥してから、クレーベルトへと視線を向けた。ほんの少し怒っているような眼差しは、クレーベルトに対してか、それともおかしなことを口走った自分に対してなのか――男には分からない。ただ、「急にそんなこと言うなよ」なんて呟いた声色は低く、苛立ちが込められているような気がした。

 ――胸の奥に広がる痛みが、よりいっそう強くなる。呼吸が途切れる。自分は今、何をしたのかと、自責の念が募る。

「……ベル?」

 苛立ちのこもる瞳がほんのり、驚きに濡れたような気がした。

「俺、は、今……何を、して……あ、貴方を、裏切ろうと、」

 「求愛行動に応えようとした」――ただそれだけの行為が、男の中で「裏切り」という行為に結び付く。背を押されるようにノーチェに言われたとしても、男の言動が自らを苦しめて、ゆっくりと俯いた。胸の奥で糸が絡まったような不快感が拭えず、ぐっと息を飲む。
 すると、突然――ノーチェがクレーベルトの頬を掴んで顔を上げさせたのだ。そのときの男は泣きじゃくる子供のように、酷く滑稽な表情を浮かべていたに違いない。眉間に走る違和感に無表情が保てないと知るや否や、その手元から離れようと思ったが――、力は入らなかった。

「帰るぞ」

 男の表情に彼は指摘をすることも、笑うこともしなかった。ただほんの少し険しい顔をしていて、どこか苦しそうに顔を歪めているのだ。
 クレーベルトは、頷くどころか返事をすることもままならなかった。それを彼は了承と捉え、難なく男を抱き抱えて帰路に就くのだった。

◇◆◇

 ――裏切りの行為をクレーベルトは何よりも許せなかった。自分が信じているものを貶され、愚かだと言われるのが不愉快だった。そういったものを目の前から排除することで満たされるのは、己の自尊心だけだ。
 その裏切り行為を自分自身がするとは到底考えてもいなかったのだ。

「お前は悪くねぇだろ。何も気にすんなよ」

 俺が言えたことじゃねえけどよ。
 大きな寝具に横たわるクレーベルトに声をかけるノーチェは、寝具の端に座って男の様子を窺っていた。そのことがひしひしと体に伝わるように、クレーベルトはノーチェの存在を確かに感じている。自分で言った言葉に反省を示すよう、声色は大人しいものだった。
 俯せになって枕に顔を埋めていた男は小さく顔を上げてノーチェを見る。その瞳には威厳など欠片も存在していなかった。ほんの少し涙に濡れたような目に、ノーチェが苦笑を溢したのが映る。

「……俺が何も知らなかったのが悪いだろ。別に裏切られたとか思ってねぇからさ。それに……」

 言葉を切ってから、彼は男にゆっくりと手を伸ばす。彼の手が男の白い頬を撫でてから、赤のメッシュが交じる黒髪を掻き上げた。周りから隠れるよう黒髪に身を潜めていた紫のピアスが、確かに存在を主張しているのが分かる。
 それは、ノーチェの片耳についているピアスと全く同じものだ。

「自分のもんをやるのが梟の求愛ってんなら、ベルはもう俺のもんだろ」

 「誰が俺に梟なんて二つ名つけたか知らねぇけどな」――そう言ってノーチェは男の機嫌を取るように笑った。先程までの真剣な顔は、ほんの少しだけあどけなさの残る笑みを飾っている。
 ――そう、確かにクレーベルトは、彼に対して梟のような印象は少しも抱いてはいない。彼の戦闘に対する意欲と獰猛さは、まるで獲物に飢えた獣のよう。空から獲物を狙い、静かに狩りを行うよりも、喉元に食らい付いて唸る方が印象強い。
 ――だが、梟であってもおかしくはないのだ。彼の殺しの技術は。

「…………」
「……ん」

 そんな彼を、男は愛している。
 自覚すればするほど胸に募る奇妙な感覚は、甘ったるいような、浮き足立つような不思議なもので。伸ばされていたノーチェの手に男は手を伸ばすと、彼は何かを察したようにそっと顔を寄せた。
 甘いのだ。自身が酷く憔悴しきっているときは、普段は勢いのある彼もどうにかクレーベルトの様子を窺うことがある。甘やかして、狂わせて、気持ちを持ち直すときにはまたひとつ、彼に溺れてしまうのだ。

 これが計算のうちであればどんなに恐ろしかったことだろう――。

 クレーベルトは掴んだノーチェの手にすり寄って、小さな溜め息を吐いた。彼が目の前にいるという現実に縋るように、男は深く息を整える。すると、彼は額を男の額に押し当てながら「落ち着いたかよ」と言った。口付けのひとつでもするかと思ったが、予想に反したと思ったのはここだけの秘密だ。
 彼はほんのり呆れたように笑っているものだから、クレーベルトは徐に手を伸ばして頭を、頬を撫でる。ノーチェは苦笑を洩らしながら「何だよ」なんて言うが、男は返事をしなかった。
 可愛がることは悪いことではない。自分とは全く違う髪質を堪能するように頭を撫で、彼の存在を確かめるように輪郭をなぞる。くすぐったいと言わんばかりにノーチェは微かに身動ぎを繰り返したが、彼もまんざらではなさそうにそれを堪能していた。

「…………俺も動物とかの生態でも知っておくかな」

 お前はやたらと動物に好かれるしな。
 そうすれば求愛なんてされても対処できるし、とノーチェは呟いて、布団を捲り上げる。それが就寝の合図であることは傷心しているクレーベルトでもよく分かった。撫でていた手をそっと離し、体を起こして布団を捲る。そのまま頭から潜り込んで眠るための定位置を探していると――、不意にノーチェがこちらを見ているのが分かった。

「……どうした」

 小さく溶け込むような呟きに、ノーチェは「いや、」と言う。

「ベルも大概犬猫みたいな動きするよな」

 そう言ってからノーチェは布団を思い切りかぶせて、勢いよく横たわった。そうして何気なく両腕を男に向かって伸ばすものだから、男も数秒茫然としてから、その腕に飛び込む。
 こうして定位置が決まることに安堵して、クレーベルトは深く息を吐いたのだった。


前項 | 次項

[ 7 / 50 ]
- ナノ -