忠実な



 言葉というものには厄介なことに、個人が持つ何らかの力がある。それを発揮されたときこそ何かしらの意図があるような気がして、どうしても疑わざるを得ない。

「――おいで」

 ――そう声を掛けられたノーチェは、今まさに男の考えを疑っているところだ。

 あまりにも不意だった。窓から見上げる空がいやに晴れ渡っていて、今日は天気がいいだとか、与えられた仕事をこなせてやることがなくなっているだとか、そういった時間を持て余しているときのことだ。話を聞いているのか聞いていないのかも分からないクレーベルトが、ふとペンを置いてノーチェの顔を見上げた。
 特に話も聞かれていないと思っていた彼は一度だけ瞬きをして、「どうした」と小さく呟く。何かしらの用があるのかないのかも分からないような、やけに澄ました顔で、男はじっとノーチェを見つめていた気がした。
 そうして不意に、椅子の背凭れに体を預けながらノーチェに「おいで」と呟いたのだ。
 まるで、飼い犬や飼い猫に対して呼び掛けるような声色だった。いやに優しく、穏やかな雰囲気で語りかける様は長年連れ添った飼い主のよう。何を言っても怒ることのないような態度に、ノーチェは浮かべていた表情を消した。
 何せ彼は自分がペットとして扱われることが嫌いだからだ。
 ニュクスの遣いは奴隷一族として知られている。その影響からか、ノーチェは自分が奴隷として扱われることも、ペットやそれ以下として扱われることも毛嫌いしている。自分も人間として生きているはずなのに、まるで人間以下として思われるのが気に食わなかった。
 ――そういった事情を、クレーベルトは知っているはずだった。何せノーチェが直々に一族の事情を話し、どういった経緯で殺人鬼になったのかを男に余すことなく伝えたはずだ。そのときの男は納得していたのか、そうではないのか分からないが、「そうか」と言って理解を示していたような気がする――。

 ――けれど、男は不意にノーチェにそれらしい言葉を使うものだから、真意が読めなかった。
 彼は男が不意に使う言葉に違和感を募らせ続ける。男は理解を示していたが、そういった扱いをしないとは一言も言ってはいないのだ。

 ――こいつは本当に俺をペットか何かだと思ってんのか。

 ――そう疑いの思考がノーチェの頭を占める。もしそうであるならば、彼はクレーベルトに手をかけなければならない。地面から出てきた小さな芽は、早いうちに摘んでしまうのが一番だ。男相手は少々手が折れるだろうが、不意を突けば容易く殺められるだろう。
 たとえばそう、眠っている間に刃を突き立てられれば――。

「――……可愛い奴だな」
「…………何だよそれ」

 疑い、念には念を、と何度か歯向かう思考を働かせて彼は無意識に、ほんの少しだけ手指を動かす。幸い、男には勘づかれなかったようだが、同時に自分の行動に対して小さく微笑んでいた。
 ――不思議なことにノーチェはクレーベルトの言葉の意味を探りながら、言われた通りに男の元へと足を動かすのだ。目の前にある黒い机を迂回して、椅子に深く座っている男に近付いてじっと見つめる。懐に伸ばしていたはずの手は肘置きに置かれて、男が満足げに笑ったのを見てほんの少しふて腐れた。
 可愛いって何だよ。そう言うと男は「悪かったよ」なんて言って、彼の頭に手を伸ばす。まっすぐに立ったままでは望むこともしてやれないと、ノーチェは軽く腰を曲げた。まるで体に染み付いているような一連の動作に、呆れさえも覚える。

 「ボス」としての威厳と風格が、男に対するノーチェの好意がそうさせているのだと、思わざるを得ない。

 ほんのり腰を曲げたノーチェの頭に、クレーベルトの手が置かれた。手袋越しでも分かる冷たさに嫌気が差す。

「……不機嫌そうな顔をやめてくれたか」

 お前を愛玩動物扱いしているつもりはないのだが。
 男はそう言ってノーチェの頭を撫で続ける。どうやら先程までの彼の態度や話し方をしっかりと把握した上で、ノーチェを呼び掛けたようだ。
 男曰くノーチェは多少なりとも唇をへの字に曲げ、眉間にシワを寄せていたらしい。頭を撫でているはずの男の親指が気紛れに、ノーチェの眉間へと押し当てられた。ぐりぐりと筋肉をほぐすように回されるそれに、ほんの少し気持ちが和らぐ。

 彼も彼で十分理解しているのだ。男がペット扱いしていないことくらい。誰にでも言葉を掛け、誰にでも頭を撫でてやるような生き物であることくらい。そこに「ノーチェだから」という特別な意味合いはひとつも含まれてはいないのだ。

 ――そう、何も特別なことではない。その事実が僅かにノーチェの心を掻き乱して行動に移させる。
 ふと、ノーチェの頭を撫でる手を取り、彼はそのままクレーベルトに顔を近付ける。あたかも自分は男にとって特別な存在であると主張するように、ノーチェは触れるだけの口付けを落とす。何の深い意味はない。何らかの見返りを求めているわけでもない。ただ少し、クレーベルトにとって特別であることを思い出してほしかった。
 それを甘んじて受け入れてから、男は小さく笑った。「許可を出していないが」の呟きに、ノーチェは「んなもんいらねぇだろ」と呟く。そうして再び撫でてくる手に小さな溜め息を吐きながら、何気なく溢すのだ。

「…………お前のペットにならなっていいかもな」

 心からそうなることを望んでいるわけではないが、他でもない目の前にいる恋人のものになるというのなら、話は別だ。存外男はボスという立場にありながら、身内には優しい一面も持ち合わせている。ひと度敵に囲まれようともすれば、男自ら間を割って助けに入るほどだ。
 ――まるで人の体とは思えない異様な雰囲気のある右腕も、そうして失い、義手で補っているのだ。
 きっと、男なら誰よりも大切に、大事に扱ってくれることだろう。

 ――そう思っていると、ノーチェの頭を撫でる手がピタリと止まって、ゆっくりと離れた。乱れた白髪を直す手付きなどありはしないが、代わりに頬に滑る手は、彼の輪郭を撫でる。ざらつく布の感覚が頬に走ったかと思えば――男の指先がノーチェの頬を軽く摘まんだ。

「いてえ」

 思ってもないことを彼は呟く。
 当然痛みなどないほど、優しい指先だ。

「ふざけるな。それは俺の役割だ。お前にすら明け渡してたまるか」

 犬にとって主人の存在はどれほど大きいのか、分かっているのか。
 男はそう言ってノーチェの頬をつつく。特別柔らかくもないと思っているが、クレーベルトは飽きることもなく数回つついたあと、苦笑を洩らす。ノーチェが不服そうな顔をしていることに気が付いたようだ。

 互いに恋人関係でありながら、男はどうにも自分を「造形玩具」や「犬」などと称する節がある。クレーベルトを愛したノーチェにとってその呼称は酷く不快で、自身を人間以外のものに例えるのが納得できなかった。
 彼はあくまで自分と同じ「人間」として男を愛しているのだ。たとえ男の媒介が死体であろうが、正体が獣や実体のない闇であろうが何だろうが、人の形を保っている以上、人間として見ているのだ。
 その男が自ら自身を犬などと称していようが、それを認めるつもりなどありはしない。

 ――そもそも、彼はどちらかと言えば自分も犬のような立場であると、自負しているのだ。

「俺には主人なんて向いてねぇよ」
「……そうか。ではお互いに犬にでもなるか」

 主導権を握るのは限られた時間だけでいい。――そういった気持ちを込めて呟けば、男は和やかに手を差し出して「お手」と言った。

 ――命令を下す犬がどこにいるんだよ。

 本気ではない、冗談めかしたような表情が、男の言動がからかっているものだと裏付ける。恐らくきっと、何だかんだ言いながら命令に従うノーチェに好感すら抱いているのだ。文句を言いながら大人しく従う様は、自身も滑稽だと思うほど。
 そうしてつい先程言われた「お手」の言葉にも、わざわざ応えようとしているのだから、尚更だ。

 ――しかし、大人しく応えるほど彼は従順ではない。

 ノーチェは差し出された右手に自分の右手をかぶせてから、軽く握って手を裏返す。手袋越しとはいえ露わになった男の手の甲に、恭しく頭を垂れてほんの少しだけ口先を当ててやれば、男の手が僅かに強張った気がした。

 この行動をノーチェはやられた試しがある。同じように右手を差し出して、何をするのかと思えば同じように口付けを落とされた。それが後々男の言う「忠誠」であることをノーチェは知って、嬉しいような気まずいような気持ちを湛えたことがある。
 男の「忠誠」は、優先的に見てくれる意味もあれば、ノーチェを「主」として見るという意思の表れだ。主などという器に収まる人間ではない彼は、その事実に何度頭を悩ませたことだろう――。

 ノーチェがクレーベルトに対して行ったものは、忠誠そのものだ。その意味を知っている男は、ノーチェが顔を上げたのを見かねて僅かに不機嫌そうな顔をした。まるで先程とは立場が逆転したかのような現状に、ノーチェがはっ、と笑う。

「俺は『お手』に応えただけだぜ?」

 先程までの無愛想な顔とはうってかわって、いやに挑発的な笑みを浮かべてノーチェは男の返事を待つ。お前の主人になるなどお断りだと言いたげな対応は、男の頬を膨らませた。普段なら取るはずのない行動に、彼は珍しさのあまりクレーベルト同様に頬をつついてやる。

「そうふて腐れんなよ。俺の手綱を握るのはベルだけでいいって言ってるんだぜ」

 機嫌直せよ。そう言って彼はクレーベルトの頬をつついていたが、ふと、感情が乏しくなる瞳にピタリと指が止まる。あれだけ戯れていたはずが、瞬きをひとつ落としただけでこんなにもまっさらな無表情に変わるものなのかと、感嘆の息すら洩らした。
 男は仕方ないなと言葉を洩らしながらノーチェの手をゆっくりと離す。息抜きの時間も終わりを迎えたのか、ノーチェを離した手はそのまま机に向かって、椅子ごと彼から視線を離す。
 ――それがどうしようもなくつまらなく思え、ノーチェは小さく舌打ちを溢した。もっと優先されたいなどという感情が顔を覗かせていて、彼は咄嗟に頭を左右に振る。

 ボスは忙しい身だ。これ以上時間を割いてはくれないだろう。

 彼は、はあ、と溜め息を溢し、何気なく窓の外を見る。あまりにも綺麗に晴れた空。ぽつりぽつりと咲き始める紫陽花。晴れ渡る空の下で駆け回る人の影。
 ――今日はきっと外に出ないはずだ。
 そう思い、忌々しく思い始める空を見上げながら菓子のひとつでも買ってきてやろうと、心に決めるのだ。


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