今宵もまた夢を見る



 ――夢を見る。体に染み付いたように、忘れたくても忘れられない出来事が「夢」として甦る。

 飛び散るのは本来ならば鮮やかな赤色であるはずの、真っ黒な血。まるで墨を溶かしたようなそれに、懐かしさだとか、生臭さだとかを感じながら、自分のしでかしたことを漸く理解するのだ。
 決して侮ることもなく、自分の力を過信することもなく。初めから全力で挑んだ割には主導権を握られて。――それでもどこか違和感を抱きながら手を止めることもなく、彼は刃を振るった。
 そうしなければならなかった。「奴隷一族であることを知る人間を抹消する」ことは、彼にとって当たり前のことだから。それが友人であれ知人であれ、――上司であれ、覆されることはない。彼はただ、使命を全うしただけに過ぎないのだ。
 どれだけ仲が良くなろうが、彼の使命は変わることはない。いくらか手が掛かっていたが、それも漸く終わりを迎えようとしていた。一時間だか、二時間だか、今となってはもう分からない。長く続いた戦いが終わりを告げるとき、彼は確かに達成感に満ち溢れていた。
 ――それと同時に、違和感と、途方もない罪悪感に駆られるのだ。

「――……?」

 終わりを告げた、というよりは、終わりを「告げられた」ような気がして彼は瞬きを数回繰り返した。
 普通であれば交わることのない刃に、彼は使命感の中に楽しみすらも覚えていたような気がする。自分よりも強い存在に戦いを挑むのは、彼の性格も合わさって新しい玩具を見つけた子供のような心持ちになれていた。飽きなど来るはずもなく、いつまでも続けばいいと、思っていたような気がするのだ。
 彼が刃を振るえばそれを受け流すよう、男の魔力が込められた影が切っ先を撫でる。キリキリと音を立ててずれた刃の隙間から、男の追撃が来るのを見越して極力距離を空けた。男の手にまとう力が刃のように鋭く、刺されると錯覚するほど。
 相手もこちらを殺す気でいたのだ。お陰で彼は全力で挑め、満足感すらを得ることができていた。

 ――できていたのに、唐突に終わりを告げられてしまい、彼は瞬きを繰り返したあと目を丸くする。

 先程まで互いに全力で挑んでいたはずなのに、突如男が「手を抜いた」のだ。まるで緊張の糸がほぐれ安堵の息を吐くかのように、糸が切れるマリオネットのように。プツンと途切れた彼に対する殺意は、大きな隙を生ませてしまった。
 当然、彼は攻撃の手を緩めることはなかった。命を奪うつもりで男に挑んでいたのだ、攻撃の手を緩めることなどできるはずもなかった。
 その結果――、彼の愛用するガンブレードは男の肩から胸一帯を力強く切り裂き、男特有の真っ黒な血液が溢れだしたのだ。

 ――なぜ、どうして。そんな疑問が頭の中を駆け巡る。
 彼は使命を全うした。男は彼が奴隷一族であることを知っていて、彼はその一人を殺しただけに過ぎない。いくら楽しみを見出だしていたとしても、彼は使命を果たせたことを喜ぶべきで、漸く終わったと安堵するべきだった。
 ――しかし、彼の中に渦巻くのはただの純粋な疑問ばかりだったのだ。
 男が倒れるまでの数秒で、彼の頭の中にはいくつもの言葉が思い浮かぶ。

 殺して正解だった。一族の恥を知られてしまっているから。
 ――最後に手を抜いたのは何でだ。純粋に楽しい時間を過ごせていると思ったのに。
 危険人物を減らせて、生き延びられただけでも喜ばしいことだ。
 ――本気で高めあって楽しいと思っていたのは自分だけだったのか。

 そもそもどうして殺そうなどと思ったのだろうか。

 一族の使命だから。たったその一言で済ませられるはずの現状すらも、彼は納得させることもできず徐に、ぽつりと呟きを洩らすのだ。

「…………どうして……」

 どうして手を抜いたんだ。――そう呟いたつもりが言葉にはならずに、後ろへと倒れた男の姿を見て呼吸へと変わる。束ねていたはずの黒い髪がなびいて、体は地面に叩きつけられた。ドッと地面特有の鈍い音がした後、黒い血液が水溜まりのように広がり始める。
 女のように白い顔が、少しずつ青く、生気を失っているように見えた。いつの日にか、片方だけお揃いだと言った男の金の瞳は、彼がつけた傷の下でその身を隠している。
 ――小綺麗な顔立ちだった。一目見て男であることを疑うほど、端正な顔立ちだった。珠のような素肌は、周りの女からも見て羨ましいものであると噂だった。
 それが、今となっては大小様々の傷と、返り血やら黒い液体やらで酷く汚れきっていた。
 この傷を負わせたのは誰だ――そう、意味の分からない疑問すらも抱いていると、男が震える口を開いた。ほんの数センチしか開けないような唇で紡げる言葉など、たかが知れている。
 それでも彼は、疲労や痛みなど忘れてそれに耳を傾けていた。

 ――男は言う。か細く、ボスであった欠片も見られないほど小さく、細々と。

「――…………も、う……つかれ、た……お前、たち、の……理想、で…………い、る、のは……」

 ――それは彼が初めて耳にした男の弱音だった。
 男は決して弱音を吐く生き物ではなかった。立場上の問題でもあっただろうが、性格や振る舞い、言動からしてそういったものを吐き出すような存在ではなかった。失敗することなどなく、常に完璧を体現するような人だった。
 だからこそ彼も思いもしなかった。男が身の内に抱えている不安や、弱音を吐きたいなどと思っているなど。相談相手もいなければ、居場所を失い途方にくれていることなど、知りもしなかったのだ。

 男の言う「理想」は、きっと「理想的なボス」として生きること。ただ、それだけ。
 その「それだけ」が男にとってどれほどの重圧になってしまったのかなど、知る由もない。

 ――彼は言葉を失ったまま茫然と男の前に立っていた。達成感や満足感など、欠片も得られない。代わりに胸を占めるのは途方もない喪失感と、目眩がするほどの罪悪感だけ。自分の行いは正しいはずなのに、目の前にいる男を「失うかもしれない」と思うだけで、指先が震えるようだった。
 楽しかった。男といるのは楽しかった。時折怒られることはあったが、居心地の良さを感じていた。笑えば嬉しく思い、人知れず悩みを抱えているようであれば共有してほしいと思っていた。
 それがどうして、こんな結果を生んでしまったのだろうか。
 ぐるぐると回る世界の中で、ひゅうひゅうと苦しげに息を繰り返す男が、赤黒い瞳で彼を見た。そうして男と同様に血の気を失う彼に対して、言うのだ。

「――……………………愛し、て……いたよ…………」

 恐らく、きっと。
 あまりにも曖昧で朧気で。不確定な言葉を吐いた男に、彼は「え、」と間抜けな声を洩らす。ほんのり目尻に涙が浮かんでいるように見えるのは、あながち気のせいなのではないだろう。酸化した血のように赤い瞳が僅かに瞼に隠されながらも、その目は彼を見つめていた。
 愛していたなど、なぜ彼に告げるのか理解できなかった。男は身内を全員平等に好いているはずで、誰かを贔屓する言葉を紡ぐことはなかったから。何の意味があって彼にそう告げたのか理解はできなかった。
 ただ、そう言われた瞬間に様々な記憶が甦ったような気がして、動揺を隠せずにいた。
 肉を裂いた感触が愛刀を伝って手に残る。ずっしりと重く、生々しい香りと共に黒い液体が溢れ出している。堪らずその出血を止めなければならないような焦りに駆られる。

 止めなければ。死んでしまうから。そうすればきっと、妙な罪悪感にも駆られずにすむはずで。

 それなのに体は動かず、男の瞳が黒くなるのを、彼は見ていた。

「…………わ、たしは…………何、の、ため……に…………う、ま、れ――」

 ――その言葉を最期に、男が動かなくなったのを、彼はじっと見ていたのだ。

◇◆◇

「――ぅ、あ……ぁ……」

 酷い汗をかいていた。飛び起きて顔を両手で覆い、生理的に溢れる涙を堪えることもなくノーチェは肩で呼吸を繰り返す。
 薄暗い部屋、肌触りのいい寝具。寝心地がいいはずのその上で、ノーチェが見たそれは紛れもない事実であった。その証拠に肉を裂く感覚を彼は未だに覚えていて、両手が微かに震えているのが分かった。

「――ベル…………ベル……ッ」

 普段なら隣で眠っているはずの存在が、今では視界にも入らない。
 ノーチェは咄嗟に布団から飛び出して、部屋を出て屋敷の中を駆け巡る。――とはいえ、男がいる場所など限られていて、彼はそこを目指し必死に走るだけだった。
 赤黒い絨毯を駆け、扉をふたつ越えた先。扉の向こうにあるキッチンから規則正しくトントンと音が聞こえてくる。まな板の上を包丁が音を立てている――それだけで十分に確認が取れているはずなのに、ノーチェの体は止まることを知らなかった。

「ベル……!!」
「――!」

 バッと勢いよく飛び出す形で扉を開けて、料理を作っているであろう終焉を呼びながらノーチェはキッチンへと入る。物音に驚き、髪をなびかせながら終焉が呆けた顔でノーチェに振り返った。その手には銀の刀身が目立つ包丁が煌めいていて、酷く憔悴しきったようなノーチェの顔を見てからそっとそれをまな板の上に置いた。
 どうした、と男はほんのり感情を込めたように彼に問いかける。傷を負った片目を隠すための眼帯も、長かった黒髪を切ってすっかり短くなった髪も、記憶にあったものとはすっかり異なっていた。
 この原因が自分にあると知っている彼は小さく視線を逸らして、「悪かった」なんて呟いた。

「お、俺、お前を理解できなかった……! 理解、しようとも、してなかった……お前がどんな気持ちで、『疲れた』なんて、言ったかなんて……俺達が、お前を追い詰めてるなんて……!」

 紙を丸めたかのように顔を歪めて、今にも泣きそうなノーチェは終焉の元へと歩み寄る。ふらふらと覚束ない足取りで男の元へと歩いた彼は、困惑したままの終焉の腕を掴んで、再び「悪かった」と言った。

 彼が普段の「ノーチェ」ではないことを終焉は気が付いていた。柔和になったはずの一人称でさえ、まるで昔馴染みに話すような口振りだからだ。何が原因でそうなってしまったのか、知りもしない男は困ったように「ノーチェ」と彼の名前を呼ぶ。

「落ち着け」

 ――背中を撫でてやって、そう宥めるものの、彼は「落ち着けるかよ」と悔しげに言葉を洩らした。

「お前が今、こうなってんのは俺のせいだ……! お前を殺すなんて馬鹿なこと、しなけりゃよかったんだ……」

 そうすればお前が苦しむこともなかったはずなのに。
 そう言って肩を震わせる。彼の性格上、嗚咽を洩らして泣きわめく、なんてことはしなかった。代わりに終焉の腕を握る手が震えていて、俯いたまま悪態を吐く。畜生だの、最低だだの、自分を責める言葉ばかりを吐き捨てて歯を食い縛った。
 終焉は彼に何度も殺してくれと告げていた。それに何の意図があるのかなど、彼には知る由もない。ただ分かるのは、死ぬべきは自分だったということだけだった。
 そんなノーチェの顔を――終焉は両手で包み込んで半ば強制的に上げさせる。今まで床を捉えていたはずが、突然終焉の顔を捉え始めた。驚いたように彼は目を丸くしたが、終焉の小綺麗な――そして、大きな眼帯に覆われ頬まで隠されたそれに、罪悪感が募る。
 自分がこんな顔にさせてしまったのだと、胸の奥で息が詰まるような感覚を得たのだ。
 ――だが、終焉はノーチェを責めることもなく、小さく微笑みながら額を軽くぶつける。コツンと小さな音が鳴って、ほんのりすり寄るような動作を男は取った。温かみなど少しも感じられないが、その行動にはいくらかの優しさが含まれている気がして、泣き出してしまいそうになるのを堪える。

「――何も。何も気にしなくていい。過ぎたことだ」

 ゆっくりと気持ちを落ち着かせるように紡がれる言葉に、彼は首を縦には振れなかった。終焉を殺した感覚は頭だけではなく、体に強く刻み付けられているのだ。手を掛けてしまった罪悪感も、理解しきれなかった後悔も、未だ拭われることはない。
 こんな気持ちで一体どうすれば気にしなくて済むのかと、窺いたいほどだった。
 悔しそうにノーチェの表情が歪み、唇は噛み締められる。最低だ何だとは少しも口にしないが、代わりに彼は「お前を愛する資格がない」と小さく呟いた。

「好きなやつ一人すら守れないどころか、自分で殺すやつが、好きになる資格なんてない」

 そう言って俯こうとするものだから、終焉はほんの少しだけ寂しそうに微笑んで、彼を軽く抱き締める。背中に手を回して、頭を撫でながら「そんなことを言わないでくれ」と言った。

「今の私にはお前しかいないんだ」

 そう言ってから、背中を軽く叩くものだから、ノーチェは開きかけた唇をきゅっと結ぶ。まるであの頃と同じような口調に、否定をするような言葉を紡ぐことができなかった。

 身内もいなければ、守るべき対象であった主人もいない。何のために生まれてきたのかと問う男にとって、今のノーチェは縋りつける唯一のものとして捉えても何も問題はない。

 ――そう理解しているからこそ、ノーチェは口を開くことをやめてしまった。ぐっと抱き締めてくる終焉の腕が、どこにも行かないでくれと言わんばかりに力が込められている気がした。
 大きく息を吸い込み、ゆっくりと吐く。仄かに甘い香りがして、「ごめん」とノーチェは小さく謝った。変な夢を見た所為でおかしくなってた、なんて言って、終焉に離すよう合図を送ってやると、男の体が離れる。
 血のように赤黒い瞳――それは、以前のように光を失い、死んだものとはほんの少しだけ違う印象を受ける。大した違いはないのだろうが、それに彼は少しだけ安心して、終焉が今生きていること実感した。
 終焉は寂しそうに笑ったまま「万が一耐えられないのなら殺してくれ」と惜し気もなく言う。

「もう一度、私を殺せば、私は『なかったこと』になる。そうすれば――ノーチェがもう、そうやって苦しまなくて済むから」

 重要そうな、耳を疑うような言葉を紡ぐ様は、あまりにも堂々としていて、現実味が欠ける。それでも彼に告げるのは、ノーチェに殺されたい他に彼をこういった出来事から解き放ちたいがためのものだろう。
 終焉はノーチェの顔をほぐすように両手で頬を包み、優しく指先でこねてやる。すっかり落ち込んでいた彼の顔は男の指先で縦横無尽にこねられ、落ち着く頃にはノーチェの頬はすっかり温まっていた。

「……殺さねえよ。これは、俺が抱えてかなきゃならないもんだから。忘れるなんて、しちゃいけないんだ」

 男の手は酷く冷たく、温まったノーチェの頬は指先の冷たさに慣れることはない。――それでも彼は男の手を取って軽くすり寄った。ほんのり猫のような仕草に、終焉が小さく笑う。
 それは勿体ない。
 ――本音か、冗談か。どちらともつかない言葉を残して終焉はノーチェから手を離す。そのまま軽く頭を撫でてやって「朝食にしよう」と言うものだから、彼は笑って「ん」と言うのだった。


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