黒に捧ぐ誓いの言葉



 月が一際輝く夜のこと。雲ひとつない空に、瞬く星々が特徴的な、綺麗な夜だった。
 綺麗な夜に、鼻を突くような錆びた鉄の香り。木々の隙間から見え隠れする満月がよりいっそう存在を増しているように見える。こんな綺麗な日には、珍しく夜景でも楽しみながらの飲食も悪くはない――そう思えていたのが、つい数分前の出来事だった。
 月を見上げながら背を向けている男の両手には、見知ったような、知らないような人間の体がある。片手には頭部と、もう片手には胴体と。返り血で溢れ返っているであろう黒いコートは風になびいていて、ほんのり着崩していることが窺える。群青と紫が混ざる暗い夜空にぽっかりと浮かぶ金の月は、男の目を奪っているようだ。
 つい数分前まで夜景でも見て何らかのもてなしをしてやろうかと思っていた彼、ノーチェはそんな陽気な考えを投げ捨て、僅かに眉を顰める。特別目の前にいる男に対して不信感があるわけではないが、男の現状に対して何かしら思うことがあるようだ。口元を隠し、血生臭い香りを少しでも遮断しながら、今日はやけに不機嫌だな、と独りごちる。
 黒く長く、風に揺れる髪が三つ編みもほどけてしまっている。それでも男は気にも留めず、ただ一心に月を眺めているのだから、尚更だ。妙な胸騒ぎと血生臭さに違和感を覚え、気が向くままに歩いて辿り着いた先にいた男の様子は、彼がどう見ても可笑しかった。
 ノーチェの存在には気が付いている筈だが、男はそれに一切目を向けることがない。まるでそこにいるのが当たり前だと言うかのように、ただ背を向けたまま月をぼんやりと眺めていたのだ。
 下手に動くことはしない。ピリピリと肌を伝う殺気にも似た妙な雰囲気は、ノーチェの思考を研ぎ澄ます。ほんの少しの動きでさえ見逃さないよう、じっと目を凝らして男の変化を待った。自分自身が男の機嫌を損ねるわけにはいかないのだ。

 ――それに、何よりも夜空に浮かぶ月に目を奪われていることが、やけに気に食わなかった。

 声をかけてやろうか。機嫌を損ねてしまうだろうが、声を掛けることでその目がこちらへと移るのなら、それも悪くはない。
 ――そう思っていた矢先に、男の手からそれが滑り落ちる。
 今まで足元に滴り落ちていたであろう血液溜まりに、ひとつだった筈の体がどしゃりと音を立てて落ちる。その行動に、よりいっそう鉄の香りが引き立ち、ノーチェは顔を顰めてしまう。

 彼は殺人鬼ではあるが、独特な錆びた鉄の香りを好いているとは限らない。室内よりは幾許かはマシではあるが、それでも血生臭いことには変わりはない。一部の人間はその香りにすらも興奮を覚えるようではあるが――、生憎、ノーチェにはそのような趣向はなかった。

 しかし、違和感が胸に募る。
 通常、男が人を殺めたときは痕跡を隠すよう、自らの意思で影の中に死体を呑み込むことが主だった。初めは分からなかったその正体が、いつしか男の「胃」に直結していると知ってから、食事を含めているのだと彼は理解した。
 男にとっての「食事」は「隠蔽」と「補給」――失った魔力を補うための、ひとつの手段に過ぎない。足元に広がる影――もとい闇を用いて、亡骸を引きずり込み、ゆっくりと咀嚼する。厳密に言えば闇の中に放り込んで、ゆっくりと溶かしているようだ。

 それを今回ばかりは行うことがないのか、足元に落とした亡骸を、男は喰らうこともない。ただ落としたまま、未だに月を眺めているのだ。

 ――あの月を眺め始めてもう何分が経っただろうか。彼にはもう分からない。少しだけ吹く風が、血生臭さを掻き立てているのがほんのり気に食わない。
 それでも亡骸を喰らおうとしないことに多少の喜びすらも覚えた。律儀に約束を守っているとは限らないが、ほんの些細なことが彼にとっては嬉しいことなのだ。
 いくら不機嫌で、近寄りがたくとも、彼にとって男は愛しい存在だ。まさか自分がここまで誰かを愛するなど、思っても見なかったが――気分は悪くはない。日常に満たされる感覚があるだけでこんなにも違うのかと、彼は何度も痛感する。
 その中で漸く、男がゆっくりと振り返った。

 ――月が綺麗な夜だった。今日は確かに月が一番綺麗に見える、所謂中秋の名月だ。程好く暗い夜空に瞬く星がよりいっそう、月の存在を主張する。
 その月の光を背に、彼を見つめる男の姿は――息を呑むほど綺麗だった。

 堪らずノーチェは生唾を飲む。普段三つ編みにまとめられている髪がほどけ、風になびいているだけでこんなにも印象が変わるのかと、疑問に思えるほど。周りが黒にまとめられている所為か、赤黒い瞳も今ではガラス玉のように美しく、彼は月よりも男に目を奪われてしまった。
 こんなにも綺麗な男がいてもいいのだろうか。可笑しなことではあるが、純粋な疑問がノーチェの中に募る。髪のひとつひとつがまるで絹のように滑らかになびいて、背丈や骨格などを除けば女だと思えるほどの姿だ。

 ――好き。そんな率直な感想が、彼の胸にストンと落ちる。

 そう思って茫然としていると、男が再び彼に背を向けた。顔を逸らし、また月を見上げる。いつもならノーチェの瞳を見ながら「綺麗だ」と呟くことも、今日はない。ただ黙って空を見上げ、数秒の間を置いてから唇を開くのだ。

「――俺は勤勉な方だ。ボスとは何たるかを、片っ端から調べ、頭に叩き込んだことがある」

 そう呟いた男の声色は酷く落ち着いていて――いや、冷めていて、何の感情もない。背筋が凍るほどの冷めた口調は、まるで初めて会ったときのようだった。
 それが、男の機嫌の悪さを表していることを、彼は十分知っている。先程から少しずつ、足元から冷えるような感覚に陥っているのも、目の前にいる男が原因だ。
 男の言葉を、ノーチェは遮ることもなくただ黙って聞いていた。男が彼に言葉を求めるまで、何も話さないよう口を噤んでいるのだ。

「『ボス』は部下に慕われながらも、時折部下を見下している節があった。その方が強者として見えやすいのだと、俺は解釈していた」

 男は相も変わらず月を眺めたまま、独り言のように呟く。ノーチェの知らないところで男は人並みになれるよう、それなりの努力を積み重ねてきていることを、彼は何となく察した。

「――だが、俺はそうする気が起きなかった。お前達人間は、俺の想像を超えるほど賢い。そんな奴らを力量だけで判断するのはお門違いだ」

 ボスとはかけ離れるほどの、身内に見せる優しさが、存外男の人気なところだ。かくいうノーチェさえも、男に褒められたときには頬が赤くなっていると錯覚するほど喜び、次をねだろうとさえ思ってしまう。
 それが、男の良いところのひとつだ。

 ――だが、それすらも受け入れられないのが、足元に転がり落ちた人間達だった。

「――それなのに、どうだ。たとえ俺が見下さなかろうが、見下そうが……結果がこれなんだ」

 転がり落ちた頭部を足蹴にして、男はつまらなさそうに言った。言葉の節々からほんのり疲弊しきったような声色が、彼の耳に届く。それに、ノーチェは衝動的に抱き締めてやりたい気持ちに駆られたが――不意に振り返る男に、ぐっと息を呑んだ。
 美人は三日で飽きる、なんて言葉は、間違いではなさそうだが――、ノーチェには当てはまらない。先程見た筈の顔が、よりいっそう儚く見えて更に愛しさを胸に抱くからだ。

 ――しかし、むやみやたらに足を動かしてはならない。何の感情もない、冷めた瞳が彼を一心に見つめながら、ゆっくりと細められる。

「…………お前はどちらだ。お前も俺を置いていくのか」

 男をひたすらに想い続けるノーチェとは裏腹に、――クレーベルトは遂に疑問を溢した。
 お前も俺を裏切り、置き去りにするのか、と探るような言葉がノーチェに刺さる。こんなにも愛してやまない存在に疑われることが、傷付くことに直結していると思うと――酷く悲しかった。

 ――けれど、そうなってしまう理由がクレーベルトにはあるのだ。

 足元に無造作に落とされた亡骸。男の周りを必要以上に取り巻く血生臭さ。黒くてすっかり溶け込んでしまっているが、衣服にはこれでもかと言うほどの返り血がついているに違いない。

 ――何人だ。こいつを裏切った人間は。

 そう、ノーチェの胸に苛立ちが募る。

 クレーベルトは身内をやけに気に入っていると同時に、定期的に身内に裏切られる節がある。それは、男曰く「必然的なこと」であり、避けようもない現実だ。たとえクレーベルトがどれだけ相手を好いていようが、愛してやろうが、絶対に裏切りという形で答えが返ってくるのだ。
 初めこそ男がひたすらに隠すものだから、ノーチェですらも特に気に留めることはなかった。時折人が減ったような感覚には陥っていたが、彼の人生に関わってくるものではない。ただの気のせいとしてそれを片付け、彼は彼の役割を全うしていた。
 ――しかし、クレーベルト本人に異変が見られるようになってからは、気のせいで片付けられるものではなかったのだ。
 内密に、密やかに。自分自身を裏切り反逆に走る身内を殺し、隠蔽する。身近な存在にも余計な手間を掛けさせないよう、裏切り者の始末はクレーベルトだけが行っていた。
 彼はそれを知って以来、何故自分を頼らないのかと頭を悩ませたことがある。胸の奥の蟠りを吐き出すよう、怒りを交えて抗議してやろうかと考えたこともある。
 けれど、その理由があくまで自分達を庇うためのものだと知ってからは、どうしたって責める気にもなれなかった。

 愛して、好いて、受け入れて、信頼していた人間に裏切られ、罵倒され、嫌悪を向けられる。そうして泣き出しそうになるのを無表情で圧し殺して、命を刈り取っているのだと思えば――到底責める気になどなれやしないのだ。

 数が増えれば傷が増える。そうして積み重ねた不信感を遂にノーチェにまで向けて、自分を守ろうとする防衛本能が働いている。
 ――今の男の現状はまさにそれだった。言葉にして、いくらかの覚悟を決めて、これから来るであろう言葉の暴力に耐えるための準備をしていた。ほんの一瞬、泣き出しそうな顔をしていたのを、長い時間連れ添ったノーチェは見逃さなかった。
 月を眺めたあと、こちらを見た冷めた瞳は、様々なことに対して疲労感を覚えてしまった男の目だ。随分と憔悴しきって、今にも眠ってしまいそうな雰囲気さえも漂わせている。

 やはりいくらボスとは言えど、男も傷付くときは傷付いてしまうのだ。

 男は完璧ではない。「完璧」を体現した、完璧であろうとする寂しがりの男だ。そうでなければ見放されてしまうと――思い続けている、可哀想な男だった。

 そんなクレーベルトを裏切った人間達にいくらか怒りを覚えていたが、男が無言のままノーチェを見つめて返事を待っていることに、彼は気が付く。今、まさに言葉を要求されているのだ。裏切りであるのか、そうでないのか。
 当然、彼の答えは決まっている。何せ、彼はクレーベルトに対して愛を返すただ一人の人間だからだ。疑われていようが何だろうが、彼はほんのり苦笑を洩らし、「まさか」と肩を竦める。

「俺がお前を裏切って、他の奴にお前を明け渡すような人間に見えんのか?」

 多少の軽口は、男の気持ちを少しでも晴らしてやりたいがためのもの。
 しかし、クレーベルトはノーチェの考えとは裏腹に、静寂を湛える瞳のまま彼を見据える。彼の言葉に嘘偽りがないかどうか、値踏みをするような目を向けていた。
 ――そうなるとやはり寂しいものがある。今まで築き上げてきた信頼が、一気に崩れ落ちているのではないかと、恐怖さえもする。
 けれど、それを男は常に味わってきたのだ。少しの恐怖すらも乗り越えられずに、誰が恋人と名乗れようか。

「…………誓いを」

 ――そう、覚悟をしていた彼に、男が小さく言葉を洩らした。

「ん?」

 上手く聞き取ることができず、ノーチェは聞き返す。一体何を言おうとしたのか。一言一句違わず、聞き漏らすこともなく、聞き入れようとクレーベルトに意識を向ける。
 波風立てる必要はない。子供に語りかけるような面持ちで男の様子を探っていた彼は、意を決したように向き直すクレーベルトに、多少の驚きさえ覚えた。

 真っ直ぐに背筋を伸ばして、黒い姿が月明かりを受けて漸く存在を露わにする。赤黒い瞳が瞬いて、眉を顰めたその顔は、何かを堪えているようにも見えたのだ。
 そうして、先程よりもいっそう強い口調で、男は言い放つ。

「誓え、ノーチェ・ヴランシュ。月でもなく、夜でもない。他でもないこの俺に、お前だけは俺を裏切り、嫌悪し、立ち去らないと誓え。全てを擲ってでもこの俺に尽くすと」

 そうすれば俺はお前だけを愛そう。
 ――強く、はっきりと意思のこもった言葉だった。だが、男の瞳から酷く悔しそうに、それでいて悲しそうに涙が一筋だけ溢れたような気がした。
 錯覚だったのだろうか。――そう思わざるを得ないほど、冷めたような目付きはじっとノーチェの動向を窺っている。誓いを立てるのか、それともとっとと身を翻して消えてしまうのか、観察されているようだった。

 しかし、彼の答えはとうの昔に決まっているのだ。

 ノーチェは一度だけ挑発的に笑うと、恭しく片膝を折り、地面に着ける。土で汚れるだなんて気にすることはない。頭を垂れて、片手を胸元に添えて「仰せのままに」だなんて呟く。

「俺は、絶対にお前を裏切ったりしないと誓う。その程度でお前が満足するなら、俺の頭の先から足の先まで、全部ベルだけのもんにしてくれよ。お前が満足するまで傍にいてやるぜ」

 どうにも堅苦しい誓いなど、上手く立てられなかった。しかし、クレーベルトは少しでも満足したようで、力強く見下すような瞳を向けることをやめた。ノーチェ自身、この程度の誓いでクレーベルトが満足するはずがないと確信している。
 だからこそ、頭の片隅でどう動いてやろうか、彼なりに考えを張り巡らせていた。

 男が肩の力を抜くように、小さく「疲れた」と弱音を吐いた。それが、彼にしか見せない甘えのひとつなのだと、彼は十分に知っている。
 ノーチェは立ち上がり「帰ろうぜ」と言えば、男がゆっくりとした足取りでノーチェの元へと歩いていった。

「…………今日は目一杯甘やかしてやろうな」

 白く、女のような頬に手を滑らせると、氷のような冷たさがノーチェの手のひらを伝う。元よりクレーベルトの体温はないに等しいのだが、寂しいだの、悲しいだのを胸に募らせると、よりいっそう体が冷える仕組みになっているようだ。
 気が付けば男の表情はまるで人形のように固まっていて、その瞳からは寂しさだけがじんわりと滲み出ている。きっと、先程の涙も気のせいではなかった。優しいボスは、裏切られる度に傷付いて、壊れてしまいそうになるのだ。

 彼はそんなクレーベルトを撫でて、抱き締めてやって、少しでも体が温まるように仕向けてやる。途中で思い出したかのように男が「汚れる」と言うものだから、彼は「そんなもん気にすんな」と言って、ぐしゃぐしゃと頭を撫で回した。

 目一杯甘やかそう。傷付いた心を愛で埋めてやろう。そうして、知らない間に自分なしでは生きられないようになってしまえば、それはそれで嬉しいのだ。

 あの誓いは恐らく、男の自己満足でしかないのだろう。ただの言葉だけで満足するようには思えないが、今のクレーベルトにはそれが特に嬉しいようだ。ほんの数回深呼吸をして、「帰ろうか」とノーチェに応えるように呟くものだから、彼は「おう」と言った。
 言って、そうしてふと思うのだ。

 果たして平等に、無条件に、人間を愛する必要があるのだろうか――。


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