満たされない空腹を、



 腹の奥底を引き摺り出される妙な夢を見た。こんなものが詰まっていたのかと思えるほど、内臓をひとつひとつ丁寧に取り出し、どこかへと消える。不思議と痛みはなく、ただ茫然と、彼はそれを見つめているだけだった。

 ――ぐじゅ、

 そんな夢を見た原因は、実際に喰われていたからだ。

「…………」

 ふ、と目を覚まし、ノーチェは腹部を見た。薄暗い部屋の中で何かが頻りに体を貪っているのが分かる。黒く艶やかな髪に白い肌――それが恋人のものであると理解すると同時に、眠気で朦朧とする頭にひとつの疑問がよぎる。
 鼻を突く錆びた鉄の香り。喉を鳴らして自分を貪る男の姿。本能のままに体を喰われていると気が付いて尚、痛みを覚えない自分の体が不思議でしかなかった。
 痛覚はどこかへと消えたのだろうか。
 ――なんてことをぼんやりと考えながら、懸命に腹を探る恋人の頭に手を載せる。相変わらずの艶やかな髪は滑らかで、いやに肌触りがいい。髪を一房摘まみ、手で弄ぶ。意識もはっきりとしないままではあったが、手のひらを伝う感触はいつもと何も変わらなかった。
 ひとつ、違うのは男の瞳の色だ。
 ノーチェの行動に目を覚ましたことに気が付いた男は、食事をやめて小さく顔を上げた。前髪で隠れている顔から覗く瞳の色は、右目が赤で左目が金に染まっているのだが――今日ばかりはどちらも水色に染まっている。まるで真昼の空の色で、夜に慣れた彼の瞳にはそれが少し眩しかった。
 彼の視線にピタリと動きを止めた男は、頭の上にあるであろうノーチェの手を睨むように目を細める。食事の邪魔をされたのが気に食わなかったのだろうか――「悪い」と声を掛けようとしたノーチェは、自らの異変に漸く気が付いた。

 声が少しも出せない。

 喉の奥まで出かかっている言葉が、唐突に何かに遮られるよう、ピタリと止まる。そのまま喉を通り、再び腹の中に収まるような違和感を覚えて、ノーチェは溜め息を吐いた。意思疏通ができないことがやたらと悔しく思えたのだ。
 そのことに多少の悲しみを覚えていると、男が上体を僅かに上げた。口回りに血がついているだとか、毛先が汚れているだとか、手のひらから抜け出した髪が愛しいだとか――そんなことを思っていると、男がじっと腹部を見下ろしている。青く光る双眸が、真昼の空の色から、水底から水面を見上げたように煌めいて、綺麗だと彼は思った。
 男はノーチェの腹部を見下ろしたと思えば、指先にある血に気が付いて一心に舐め取る。暗闇でも仄かに分かる赤黒いそれは、やはりノーチェのもの。少しも残すことがないよう、懸命に指を舐める姿に彼はやはり「可愛い」などと思う。

 惚れた弱味か。襲われている立場だとしても、脳裏を掠めるのは恋人への愛情ばかりだった。

 美味いか、と問い掛けようにも声は出ない。体が動かないわけではないが、まるで金縛りにでも遭っているかのよう。意識は多少朦朧としているが、視界が朧であるわけではない。寝具の真上にある天井ははっきりと見えるほど、視界は良好だ。
 ただ、声だけが出ない。それが酷くもどかしくて、悲しくて――小さく顔を歪めた。

「――酔狂だな。そして、恐ろしい」

 ポツリと呟かれた男の言葉に、ノーチェは驚くよう目を見開いた。
 無理もない。男は瞳が真昼のように青く輝いているときは話すことがない。初めから言語など持ち合わせていないかのように、唸るくらいのことしかない。
 ただ食事に没頭するだけの一頭の獣――それが、本能に呑まれた男の姿。
 その男がすっかり理性を取り戻したように言葉を紡ぐものだから、彼は驚いて咄嗟に体を起こした。視界に入るであろう自分の体のことなど何も考えずに。

「一体どれほど俺を喰らったのだ。いくら喰おうとも、端から傷が塞がっていく」

 つい、と男の指先が彼の腹を撫でた。そうしてノーチェは、男が貪っていたであろう腹に、傷がないことを認識する。タンクトップは捲り上げられ、素肌は露わになっているが、傷跡は欠片も残されてはいない。それが、男の血を貪り続けた結果である証しということは、彼も薄々気が付いていた。

 何度も説明を受けた男の血液が他人とは全く違うことを、ノーチェは痛感する。初めこそは傷が数日かけて治る程度だったものが、気が付けば半日で治ることが殆どだ。軽い擦り傷程度なら数時間ですっかり跡形もなく綺麗になってしまう。その原因が男の血を摂取しているからだということは、知っていた。
 しかし、男が先程まで貪り続けていた傷さえも治るなど、思いもしなかった。

 腹を撫でる男の顔や口調は対して悔しそうではなかった。寧ろその逆――ノーチェの体がそうなってしまったことを喜ぶよう、口許が弧を描く。爛々と輝く青い瞳も僅かに細められていることから、その事実を男はすっかり嬉しく思っているようだ。
 割れた腹筋をつぅ、と撫でる手がくすぐったい。跨がれ上体を起こす以外の動きを制限されている彼は、指先の感覚に歯痒さを覚える。声は相変わらず出せないまま。代わりに小さく身動ぎをして、顔を顰めた。
 愛も囁けない。男を知るまでは知らなかったもどかしさが、嫌で仕方がない。
 思わず溜め息を吐くと、男の指先が、手が、胸元を這う。

「……直接肉を口にしたのは初めてだ。だからだろうか……空腹のあまり手放した理性が戻ってきてしまった」

 ゆっくりと体を撫でて語る様子は、普段見掛ける恋人のそれとは全く違っているように見える。――けれど、誘うような手付きは相変わらずノーチェの知っている手のひらそのものだ。
 普段の男に対してなら、彼は「そんなに触んなら俺も触るぞ」と容赦なく言っていただろう。しかし、状況が状況なだけにそんな言葉も紡げず、ノーチェはその手を目で追うだけだった。
 そうして可笑しな気を起こさないよう、ノーチェは男の言葉を何度も何度も頭の中で繰り返す。

 理性を手放さざるを得ない空腹とは、一体何だろうか。そんなものが本当に存在するのだろうか。初めて口にした血肉は美味かったのだろうか。

 ――そんなことを考えていると、不意に男の手が止まった。
 そうして男は、ゆっくりと唇を開き、ノーチェに応えるのだ。

「貴様には解るまい。のたうち回り、身を焦がす程の空腹など。いくら腹に収めたとしても、少しも満たされることのない苦痛を」

 それはまるで、ノーチェが考えていることの全てを把握したかのような発言だった。
 堪らず彼は瞬きを繰り返しながら、ほんのり訝しげな顔をして男を見やる。男は先程までノーチェの体を喰らっていたとは思えないほど、穏やかに微笑んでいた。
 「やらしい男」そう男が呟いたと同時に、頭の中を見透かされているのだと気が付いてしまう。それにノーチェは、好きな奴を目の前にして劣情を抱くことの何が悪いのだと言わんばかりに、くっと笑った。
 言動こそは普段の恋人とは多少異なるが、やはり根本は変わらない。彼が挑発的に笑うと、男はいっそう柔らかく微笑むのだ。

 ――それが、終わりの合図だった。

「参ったな。これでは本当に、お前以外の肉を受け入れられなくなりそうだ」

 そう言って唐突に、男はノーチェの首に顔を近付けたかと思うと――力任せに歯を突き立てる。
 ぶちん、と何かが切れたような鈍い音がした。

「――っ!」

 あまりの衝撃にノーチェは飛び起き、咄嗟に自分の首へ手を添える。そこに傷はなければ、痛みもない。突拍子もない言動に、自分の心拍数が上昇していることがよく分かる。ドクドクとまるで耳元で鼓動が鳴り響くような心地の悪さに、ゆっくりと胸元の服を握り締めた。
 夢だったのだろうか。そう思えるほど、部屋の中は明るく、夜の色も見せることはない。遮光カーテンで遮っているとしても、太陽が昇って来ていることは確かに分かった。仄かに明るさが漂う部屋の中で、寝具の輪郭も、ドアの形も、赤黒い絨毯もはっきり認識できた。
 強く速く鳴り続ける心臓を抑えるようにぐっと顔を顰め、ノーチェは深呼吸をする。生々しく残る最後の音がやけに心地が悪く、頭の中を狂わせる。
 恐怖、よりも妙な不満が彼の胸を少しずつ満たしていった。

「……喉を喰われるんじゃ本当に死ぬかもしれねぇだろうが……」

 ポツリと小さく小さく呟いて、ノーチェはくしゃりと髪を掻き上げる。
 夢――だかどうかは分からないが、夢だと仮定する――を見て、ふと思ってしまった。今までは喰われて死んでもいいと思っていたが、いざそれを目の前にすると考えが変わってしまう。
 初めて口にした、なんてことを聞いてしまってはどうしようもない。少しでも死に対する覚悟はしていたが、ほんの少し彼の中で方向性が変わる。

 最悪死んでも構わない。殺人鬼として生きている以上、それなりの覚悟はある。
 ただし、死ぬまで、死なない程度に男に喰われ続けてしまいたい。募り続ける空腹を自分だけで満たせ続けるように。最早独りでは生きていけないように。

 ふぅ、と深く息を吐き、ノーチェはちらりと自分の隣に目を移す。そこには確かに男がいた。子供のように小さく背を丸め、目を閉じて寝息を立てるクレーベルトが。相変わらず寒そうに膝までも曲げる所為か、寝苦しそうに見えて仕方がない。
 そんなクレーベルトにノーチェは手を伸ばし、ゆっくりと頭を撫でてやる。触れた髪を一房手に取って、何の気なしに口許へと引き寄せ、口付けを落としてやると――「ぅ……」と男が声を上げた。

「ん……む…………寒い……」

 そう呟きながら目を擦り、ノーチェを見上げるクレーベルト。その瞳は普段と同じよう、赤と金に染まっていて、空の色など見る影もない。冷めたような笑みなどどこにもないのだ。

「…………悪いな。俺は起きるからまだ寝ててもいいぜ」
「ん……」

 ノーチェは体を動かし、捲り上げてしまった布団を男へ掛ける。間違っても日に晒されることのないよう、目深に。
 ――そうして気が付く錆びた鉄の残り香に、ノーチェはぐっと言葉を呑み込んだのだった。

 溺れ落ちてしまえばいい。夜の海に沈むように。自分無しでは生きられないほど、依存してしまえばいい。
 男の全てが自分で満たされ続ければいい。他の誰かを求めることなど、できないように。

 布団の下に恋人を覆い隠して、ノーチェはただ、満たされたように静かに笑うのだった。


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