空腹の話
ほんのりよぎる些細な疑問を、彼は言葉にした。
「ベルって腹減らねぇの? たまに食わないときあるだろ」
机の上に肘を突き、ノーチェはクレーベルトの顔を見つめる。互い違いの双眸は興味深そうに見つめていた本から、ノーチェの顔へと向けられた。薄暗い筈の瞳はどこか透き通る色をしている。まるで矛盾したような瞳に、ノーチェは人知れず息を飲む。
何度見惚れても慣れることはない。じっと顔を見つめてくる男に対し、彼は肘を突くのをやめた。
背を伸ばし、椅子に座ったままのクレーベルトを見つめて返答を待つ。どう返事をしようか頭を悩ませているのか、男は数秒唇を開くことはなかった。
――催促はしない。彼はクレーベルトが答えたいときに答えられるよう、柔らかな目を向けるのだ。
すると、唐突に男の視線が逸らされる。それが男の悩んでいる様子であることを、ノーチェは十分に知っている。首を傾げるのでなければ、唸ることもない。どうしようか悩むように視線を逸らしてから――、ゆっくりと唇を開くのだ。
「減っていないわけではない」
ぽつりと呟いてから男は本を閉じる。本の表紙に着飾ったような絵はない。その様子から、最近の男は小説を読むことに没頭していることがよく分かる。並んで街へと赴いたときに本でも買おうかと悩むほどだ。
その考えを頭の隅に追いやって、「減ってるよな」とノーチェは呟く。生きている以上、空腹は付き物だ。男が人間ではないとしても、クレーベルトはしっかりと空腹を感じるよう。
――しかし、男は基本的に飲食をしない。食べたとしても甘いものが中心で、男にとって朝食も夕食も、概念はない。どうにも「飲食」という行動は、男にとってはただのオプションのようだ。
だが、食べられないわけではない。証拠にクレーベルトとノーチェは定期的に――と言うよりも、ノーチェは付き合わされているだけの――御茶会が開かれる。気に入った洋菓子を揃え、庭に出て、紅茶を嗜む。目の前で大量の砂糖を投入する様子を見て、相変わらず甘党だな、と彼は何度思ったことだろう。
男の言葉にノーチェは満足した。食事の必要がないのなら、共に過ごす時間が苦痛に感じられるのではないか。何度その不安を抱えたか分からない。しかし、男にその感覚はないようで「満足したか?」と彼に問い掛ける素振りを見せた。
見せたが――、そのあとに立て続けて「だが、」と呟く。
「俺は腹が減っていないのではない。寧ろその逆だ」
本を近くの机に置いてクレーベルトはノーチェを見上げる。普段通りの無表情の奥底に何らかの感情が見え隠れしていた。それが気になって彼はじっとその目を見下ろしていたが、如何せん男が続けて口を開くことはない。
迷っているのだろうか、それとも言いたくないのか。
今更隠し事をされるのも癪に障る。頭の先から爪の先まで、それこそ骨の髄まで知り尽くしたいと思う彼は「言えよ」と言った。
ノーチェの強気な態度は何も今に始まったことではない。それに慣れているクレーベルトは、自分が彼を想って口を閉ざしていたのだが、重々しく唇を開く。溜め息を混ぜ、両の手を合わせ、軽く指をいじった。
「生憎俺は腹が減っている。昼夜問わず。何をしても、何を口にしても、満たされることはない」
――男が自分を造形物だと揶揄するのは、男が「死体」と「闇」を寄せ集めて生まれた存在だからだ。
その事を言い聞かされている彼は、創られたからこそ腹が満たされないのかと思っていたが、少しだけ異なる。
男の媒体となったその「死体」は、「暴食の死体」だった。
食べても食べても決して満たされることのない空腹。いつしか生きとし生けるもの全てを食らい尽くし、世界が滅びるのではないかと懸念されていた。
そのことに恐れを成した存在が、こぞって「暴食」の命を奪い、平穏をもたらしたとされている。
――しかし、それを受け入れられない存在がいた。腹を切り開かれ、片目を失ってしまったその「暴食」を失いたくはないと、力の限り蘇生を試みた。たとえ神の意志に逆らうことになったとしても、最愛を失ってしまうことが世界で一番恐ろしかったのだ。
有限であるものは必ず尽きてしまう。ならば暗闇で無限に広がり続ける「闇」を用いて穴を埋めよう。失ってしまったものを補うよう、力を与えよう。片目を補うために、次はもっと景色が見られるように性能を良くしよう。
――そうして生まれたのは、「暴食」であった元の存在ではなく、クレーベルトという新しい存在だった。
それでも「彼女」は決してそれを憎むことはなかった。寧ろその逆――誰よりも男を大切に想おうと、母性本能が芽生えた。
だが、彼女は神の意志に反した身。最愛を失うどころか、男とまともに顔を合わせるかとも叶うことはなくなってしまった。
「――という記憶が俺の体にはある」
「…………へえ……?」
一連の話をしてからクレーベルトはノーチェの様子を窺った。気が付けば彼は寝具の端に腰を掛け、ぼんやりと男の話を聞いていたようだ。
だが、その話の大半はどうにも非日常過ぎて呑み込めていないようだった。
試しにクレーベルトが「難しいか?」と問い掛けると、ノーチェは気難しそうに首を傾げ、「ちょっとな」と言う。
「いや、でも信じないってわけじゃないぜ? 現に俺もニュクスの遣いなんていう一族の人間だしな。お前がその…………ってこともまあ……」
後半は言葉を濁らせて彼は納得していた。自分が口にしてしまえば、認めたくないものを認めてしまうことになる。それを避けるため、クレーベルトが死体であることを伏せたようだ。
ほんの些細なことがどうにも嬉しくなってしまう。
そんな彼の様子に、男は小さく笑った。口許は弧を描き、ほんの少しだけ目元は柔らかくなる。満足感が確かに胸を満たしているのだ。
「……で、そいつがベルにしっかり受け継がれているから、腹は減ってるってことか」
体は「暴食」なんだよな。――そう確認するノーチェに、クレーベルトは頷いた。そうして、その異常な食欲を抑えるために分け与えられた力で蓋をしているのだと、男は言う。
その身に余るほどの力はクレーベルトの食欲を常に抑えている。魔力が磨り減れば磨り減るほど、当然その蓋は緩み、失えば男の中の「本能」が目を覚ます。
穴を塞ぐために詰められた一面の闇――分かりやすく例えるならブラックホールのようなもの――は、暴食をひたすらに助長した。今まで蓋をしていた分、抑えきれない食欲は、辺り一帯を失うまで止まることを知らない。
いくら食べても、いくら無くしても、食欲は理性を押し殺し続けるのだ。
「だから、お前は俺がそうなったら力ずくで止めてくれ。恐らく一番にノーチェを襲うだろうから」
足を組み、背凭れに寄り掛かる。クレーベルトのたったそれだけの動作でノーチェは堪らず跪きたくなる衝動に駆られ、小さく肩が震えた。
漂うボスとしての気品は少しも失われていない。見定めるようなその視線は、相変わらずノーチェの全身を捉えている。頭の先から爪の先まで、値踏みをされているような気持ちになった。
だが、今ではもうボスはいない。彼は衝動を抑え込んで、「俺から襲うのかよ」と笑いを溢した。ほんの少し、空気を変えるような冗談だと思ったのだ。
それでも彼の笑いとは違って、クレーベルトの微笑みは妙な印象を抱かせてくる。「襲うよ」と何の気なしに呟かれた言葉には、確信が宿っていた。
「言っただろう、『お前はいい匂いがする』と。ノーチェはどんな味がするんだろうか、血肉を獣のように貪ってやろうか、骨の髄まで食い尽くしてしまおうか――と、何度思ったと思っているんだ」
男は笑っていた。終始悪意のない純粋そのもののような笑みばかりを浮かべていた。言っていることの大半はやたらと物騒だったが、それが嘘ではないことはノーチェにも分かる。
いい匂いがする、と言われていた彼にとって、それが嬉しいことであるのかは分からない。ただ、ほんのり歪んでしまった彼の感性は、その事実に何とも言えないほどの感情を抱いてしまう。
「そんなに美味そうなら、そうだな……お前に喰われて死ぬんならいいかもしれねぇ」
「馬鹿なことを言うな。失ってたまるか」
何気なく呟いた言葉に男が即座に反応を示した。どちらも向ける感情の大きさが異様なものだと、気付いているようで知らない振りをする。腕を組んで笑みを崩したクレーベルトの言葉に、ノーチェは笑った。
愛されているのだと言葉の端から実感する。
「……しっかし腹減ってきたな。何か食いに行こうぜ」
そう言って寝具から立ち上がったノーチェを見て、男は窓の外を見やった。天気は良く、日が高く昇っているようだが、日差しは強くはない。
「それはいいな」と言い、クレーベルトも席を立つ。
ついでに花見でもするか、と言い、彼らは春の街に足を踏み出した。
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