強くなりたい理由



 ――全部分かっていた。己の心の弱さがもたらしたものだと。親切心に漬け込んでいるのだと。

 寒い冬がやって来た。日が昇るのが遅くなり、必然的に目を覚ますのも億劫となってしまう。
 ふと目を覚ましたノーチェは、窓の光を遮るカーテンが薄明るく照らされているのを見て、溜め息を吐いた。これでは殺人鬼の名折れだと自分の行いに反省をする。ここに敵がいれば寝首を掻かれていたと思い、開けたばかりの目を掻いた。
 そうしてから、目の前にいるそれの頬に手を伸ばす。日に焼けてもいなく、透き通るような白い肌が冬の所為でいっそう白く見える。――それが恐ろしく思えて、咄嗟に呼吸の有無を確認した。
 頬は人肌よりも少しだけ低い程度。理由はノーチェが抱き枕のように抱えていることと、厚手の毛布を掛けているからだろう。そうでもしなければなかなか温まらないそれに、小さく表情を歪める。

 体が死んでいると打ち明けられてから、一体どれほどの時間が経っただろう。

 頬に触れて、頭を撫でて、少しの動きも見せない男に僅かに違和感を覚えた。
 ――しかし、その原因も彼はよく知っている。上下に動く呼吸を確認してから、もう一度だけ頭を撫でて、少しの反応も返ってこないことに肩を落とす。触れる毎に――近づく毎に伝わってくる魔力の漏洩に、彼の中の良心がチクリと痛んだ。
 ――起きよう。
 隣で眠るクレーベルトを起こさないよう、ノーチェは布団から這い出して背筋を伸ばす。固まっていた筋肉をほぐし、寒さに身を震わせてから、男の体に毛布を掛け直してやる。まだ出て間もない、ノーチェの体温が残っているであろう場所に寄せてやって、何度目かの頭を撫でる動作を取る。
 ほんの少しだけクレーベルトの表情が綻んだ気がした。
 気のせいだとしても、たったそれだけのことで彼の気持ちは楽になる。
 あまりにも単純な自分の気持ちに、「ガキかよ」なんて一人呟いてノーチェは部屋を出る。今日は何をしよう、起きてきたら何をしてやろう。そんなことばかりを考えて、窓の外を見る。雲が残る青い空にほんの少しの嫌気が差した。

 ――結局、その日クレーベルトが起きてきたのは昼を過ぎてからのことだった。

◇◆◇

 曇天が部屋の中すらも薄暗く闇に落とす。
 男の睡眠時間が長くなってから早一週間。ふ、と目を覚ましたノーチェは抱き抱えているそれを思わずぐっと抱き締める。寒さで凍えないようにと抱き締めているにも拘わらず、ほんのり冷たくなっているクレーベルトの体が酷く恐ろしかった。
 このまま死んでしまうのではないか、と不安が押し寄せる。堪らず顔に手を近付けてみると――小さな呼吸が返ってきた。ひとまず生きていることに彼は安堵の息を洩らす。
 一週間が経った今ではクレーベルトは日中殆ど眠りに就いている。それは、失った魔力をどうにか体に蓄えようとする働きから来るものだ。かろうじて夜には目を覚ますものの、それでも寝惚け眼でまともな受け答えはできやしない。

 遅くに起きて、楽しみにしている風呂を堪能してから、再び深く眠る。
 ――それが、今の男の現状だ。

 こんな姿を知人や、毛嫌いしている人間に見られてしまえばクレーベルトは酷く落ち込むだろう。極力悟られないよう、一定の友人以外とは関わりを持たないようにしているノーチェだが、それもいつまで保つのかは分からない。いつの日か、男の寝首を掻きに来る人間が現れるかもしれない――。
 そう思うや否や、ノーチェはクレーベルトの背に回している手にぐっと力を込めた。
 恐らく今日は――いや、今日こそは終わらせてみせよう。
 起きて、ノーチェは以前と同じように男に布団を掛けてやって、何気なく手のひらを見つめる。己の弱さがもたらした現状なのだと言い聞かせ、拳を握り、決意を固める。

 強くなろう。誰にも負けないように。後悔をしないように。

 ――高く舞い上がった黒い腕が、男の黒い血を振り撒いて地面へ落ちる。どさ、と音を立てて、断面から血が溢れるのを彼はただ見ていた。
 何が原因で追い詰められたのか、今となってはもう思い出せない。普段なら余裕綽々で悠然と立ち振る舞っていたクレーベルトの腕が、見るも無惨な姿に変わり果ててしまった。その事があまりにも衝撃的すぎて、記憶にすら留められなかったのかもしれない。
 言葉を失い、息をすることも忘れてしまった。自分達を庇うように立ち塞がった「ボス」が、相も変わらず毅然な態度のまま、仁王立ちでいたのは十分覚えている。
 そのあとに放った、辺り一帯を食らい尽くす勢いの男の力も、記憶に新しいほど。
 空は青く晴れ渡っていた。対照的に、地面は黒く歪み、いくつもの獣が大きく口を開ける。
 苦戦を強いられたほどの人数を食らい、飲み込み、片腕を失ったとしても崩れることのないその姿勢に、動揺さえ覚えた。そして――同時に後悔した。
 ノーチェはよく知っている。クレーベルトは傷をこさえたとしても、持ち前の力で早く治すことができることを。

 魔力を一点に集め、傷口を塞ぐように指を滑らせる。たったそれだけで時間が巻き戻ったように跡形も無くなるものだから、感心すら覚えた。
 自分がそれをできるようになったらなんて便利だろう。――そんな理由から何度か試みたが、男ほど上手くはいかなかった。「人間ではない」を口癖にしている男の体が特殊なのだろうか――、どうしても「人間」の彼には上手く塞げなかったのだ。

 その男の傷が、切れた腕の断面が、一向に塞がることはなかった。
 溢れ続ける黒い血液は、クレーベルトにとっては酷く重要なものだ。人間ではないと言いながらも、人間と同じように必要不可欠なもの。失い続けると命の危機をもたらしてしまう。
 だからこそどんな傷も瞬く間に治してしまうのに、その腕だけはどうしようもできなかった。
 魔力が足りなかったのだ。辺りを一掃するのに使ってしまった力は、襲撃してきた人間達を喰らうだけでは回復もままならない。それほど失ったものが多かった。

 男は誰よりも仲間想いだった。「ボス」なんて呼ばれるほどの場所に君臨しているのが疑われるほど、仲間に対して心を開いていた。

 だからこそ、クレーベルトは仲間を傷付けた人間を、生かしておきたくなかったのだろう。片腕を切り捨ててまで、力の大半を失ってまで辺りを喰らい尽くした男は、無事を確認するとすぐに意識を失ってしまった。

 そこから一定の期間酷く荒れてしまった「ボス」を見て、誰よりも懐いていたノーチェはひたすらに後悔を募らせていたのだ。

 「俺がもっと強かったら」――何度思ったことだろう。
 今まで当たり前のようにできていたことが、突然できなくなってしまった。そんな不甲斐なさに腹を立て、独りで荒む男を見掛けて、何度も申し訳なく思った。まともに顔を合わせることもできず、口数も自ずと減った。
 「俺が代わりになれたら」――なんて、叶いそうにもないことを、何度思ってしまっただろう。
 男の腕があった場所を見る度に、表情を歪めてしまったのが気付かれてしまった。以来、定期的に顔を見せに来るようにしつこく言われてしまったのは、きっと、強い後悔が顔に出ていたのかもしれない。

 合わせる顔がないと、目の前から消えてしまおうかと、思っていたのが気付かれていたに違いない。

「…………そういや、あの頃か。手出したの」

 辛く懐かしい思い出を振り返って、ノーチェは唐突に気まずそうに頬を掻く。
 無理が祟って倒れてしまったクレーベルトを部屋に運んだ際、どうにも不思議な現象に見舞われてしまった。まるで本能に囁くような甘い香りが、何故だか男から漂ってきたのだ。
 それに唆され、勢い余って手を出してしまったことを、彼は後悔はしていないが反省はしている。何もかもを理解していない男にするべきものではなかったと、額に手を当てて大きな溜め息を吐いた。

 ――そこからだ。男が失った腕を自分の力で補い始めたのは。

 始めこそは無邪気に喜んでしまった。珍しく朗らかに、「これでこなせるようになる」と言っていたクレーベルトに倣うよう、ノーチェも喜んだ。もうあの辛そうな顔を見ることもないと、何も考えず嬉しく思ってしまった。
 ――だが、どうだろう。その代償がこれだ。
 ノーチェは今も眠っているクレーベルトの布団を何気なく軽く剥いで、それを見た。普段なら断面から伸びるように、取って付けられたような真っ黒な腕があるのに、寝ている今では跡形もない。重力に従い、垂れるだけの七分丈の袖が転がっているだけだ。

 「自分の力で補う」――それは、クレーベルトが魔力を磨り減らし続けることを選んだということ。
 黒は男の象徴だ。男曰く「闇」を魔力で固めているらしいが、ノーチェにはいまいち理解はしきれていない。――したくもない。理解をしてしまえば、ノーチェは男を「人間ではない」と認めてしまいそうだったから。
 だから、「魔力を減らし続けていること」だけは理解した。魔力が減り続ければ自分の体に異変が生じることくらい、知っている筈だ。それでも、ノーチェを悲しませないと選んだのがこれだった。

 なんて不甲斐ない。

 布団を掛け直してやってから、ノーチェはクレーベルトの顔を見た。片腕の維持ができなくなるほど魔力を失ってしまった男の顔は、これまでにないほど白い。陶器のような肌、とはこのことを指すのだろうが――、クレーベルトに至ってはまるで死人のようだ。
 一度でも腕に対して喜んでしまった自分を殴ってほしいと、何度思ったことだろう。
 眉間にシワを寄せ、彼は窓の方へと目を向ける。朝日は遅く昇るようになっているが、今日もまた変わらない朝が来たようだ。何気なく窓辺に寄り、カーテンの隙間から空を覗けば、曇天だった空が少しずつ晴れていく。
 まるで男の弱体化を喜んでいるような空模様に、ノーチェは舌打ちを洩らした。

 嫌いになっていく。今まで何とも思わなかったものが、クレーベルトが関わると途端に印象を変えていく。
 空も、童話も、太陽も――少しずつ嫌いなものに変わっていく。

 夜が待ち遠しい。男はきっと風呂を求めて意地で起きるだろう。
 カーテンを握り締めて、嫌なものを見るような目を向けてから窓から離れる。彼の決意は決して折れることもない。そうでなければ少しずつ、自分が可笑しくなってしまいそうだから。

 ――蓄えるのが遅いのなら、外部から奪わせればいいのだ。

◇◆◇

 ――夜は心地がいい。あまりの心地のよさに、再び意識を失いかけてしまう。
 それでも男は力付くで目を覚まし、ゆっくりと体を起こす。重くのし掛かるように掛けられた布団が、背中から溢れ落ちるのを見た。――同時に、片腕がないことを知り、起き上がることを留まってしまう。
 片腕だけで体を支えるのは少しだけ無理がある。思い留まっている間に、眠り続けていた体が重さに耐えられないよう、少しずつ左腕が震え始める。
 体に残っている魔力は底辺に等しい。その中で腕を補うなど、殆ど不可能な話だった。
 どうしよう。このままでは――そう思うクレーベルトの近くに人影がひとつ。音もなく近付いて、男の背中に手を置く。

「…………」

 それがノーチェであることを知っている所為か、クレーベルトは驚くこともなかった。ただ、失っている腕を隠すように、空になった袖を左手で握り始める。
 「見ないでくれ」――そう言わんばかりの行動に、ノーチェは小さく笑った。

「風呂、入るだろ? もう沸いてるぜ」

 起き上がれるか、と言ったノーチェは手を差し出して、普段と変わらない態度のままクレーベルトに接した。まるで腕がないことを気にしている様子もない。ただ、この時間を待ち望んでいたと言いたげな様子だ。
 男は返事をする気力もなかったが、小さく頷いて、左手で彼の手を取る。浴室までそう距離は遠くなかったが、魔力が空の体では遥か向こうに思えてしまった。
 道中ノーチェはクレーベルトの足取りを気に掛けていたが、男は小さく頷いて返事をするだけ。
 そのまま浴室に辿り着いて、服を脱いで、二人で風呂に入る。一度だけ冷水を浴びたいと言うクレーベルトの願いを叶えて、顔に冷水を浴びせれば、男の肩が跳ねた。
 「だからやめとけって言ったろ?」そう笑ってノーチェが言えば、クレーベルトは一呼吸置いてから僅かに唇を曲げる。「ここで眠るには勿体ないから」――そう呟けば、彼は少年のように笑った。
 どうやらノーチェもこの時間は純粋に楽しんでいるらしい。何度も指導をしたお陰で、クレーベルトの頭を洗うことに慣れたノーチェは「こんな感じか?」と男に問い掛ける。力が強くないか、痒いところがないだとか気にしているようだ。

「…………平気」

 そう答えれば、ノーチェはやはり笑って「おう」と言うものだから、男は小さく微笑む。
 何か良いことがあったのだろうか――。普段よりもにこやかなノーチェを見て、置き去りにされているクレーベルトはほんの少し、悲しく思ってしまった。

 何があったのだろう。その話を聞かせてくれるのだろうか。街で新しい出会いでもあったのか。――そのうち、愛想でも尽かしてしまうのではないだろうか。

 不安と、迷いを抱えたまま、湯船に迎えられて、男は浸かる。ノーチェが先に入っているお陰で溢れてしまったそれを気にすることもなく、男は彼の頬に手を伸ばした。
 唇をノーチェの唇に寄せる。風呂に入るときの決まった行動に、ノーチェは初めての頃は驚いていたが、今では見る影もない。ただ、何度も何度も繰り返し唇を貪る男に、満足そうにしているだけだった。
 口寂しく手首を噛み続ける行動が、口付けへと変わっただけ。満足するまで止まることはなく、時折男が視線で訴えかければ、クレーベルトではなくノーチェからもする。
 そこに邪な感情などない筈だったが――、こうも会話もできない状況下にあればあるほど、ふつふつと欲が沸き上がる。
 すい、とノーチェの顔がクレーベルトの首元に向けられた。白い肌に印を残すよう、小さな痛みを落としてノーチェは顔を上げる。酷く眠たげなクレーベルトの目が小さく瞬いた。

「……早く……戻る」

 ――それをどう捉えたのだろう。クレーベルトは少しだけもどかしそうにしてから、彼の頭を撫でた。左手が緩く、ノーチェの髪を絡める。
 ――すると、ノーチェは徐に口を開いた。

「魔力ってさ、大体は体内にあるもんなのか?」

 唐突に紡がれた問い掛けに、男は一呼吸置いて、「大体は」と呟く。

「特に……ノーチェのように、血液を使えるなら……尚更」

 一般的に外部から「力を借りる」魔術師と異なる、体内に魔力を宿す魔法使いの部類であればあるほど、その可能性は高い。そして、ノーチェのように血液を扱う魔法であれば尚更のこと。
 それを告げるや否や、彼は満足そうに微笑み「そうか」と言った。

 普段なら長風呂を嗜むクレーベルトの手を取って、「とっとと出ようぜ」なんて言って、男の世話を焼く。その勢いに飲まれたまま、クレーベルトは服を着てよろけた足取りで再び寝室へと向かうのだ。
 素足が絨毯の上を滑る。扉を開けて、暗くなった部屋に入ると途端に眠気が押し寄せてきた。男はうつらうつらと船を漕ぎ、おぼつかない足取りで愛用の寝具へと向かう――。

「なあ、ベル」
「うっ」

 ――すると、突然ノーチェが立ち塞がるようにクレーベルトの前へと出た。倒れ込もうとする男の体は、自ずとノーチェに寄りかかる。自分よりも温まった体に、見ていると寒さを覚えるタンクトップの姿。お陰で男は彼の素肌に顔を当ててしまって、思わず手指をぴくりと動かしてしまった。
 どうした。そう問い掛けようとすると、ノーチェの手がクレーベルトの背に回される。まるで逃がさないと言いたげなそれに、男の肩が震えた。

「――もう、分かってんだろ。頭良いもんな」

 あやすように頭を撫でてノーチェはクレーベルトに語り掛ける。温まった体は今の男にとっては非常に厄介なもので、思わず抵抗をしようとする手が動いた。
 ノーチェの考えていることが不思議と手に取るように分かってしまう。酷く落ち着いたような様子の、普段とは違った彼に、確信を持たざるを得ない。

 クレーベルトの魔力の回復方法は眠ることと、奪うこと。
 多くの隙を与えてしまうことがあるが、眠ることが一番安定した回復方法である。意識を手放している間は消費することはなく、一定の期間眠り続ければいつしかすっかり魔力が回復しているのだ。
 回復漏れなんてものは存在しない。睡眠時間も人間と同じ規模に戻される。
 その反面、他者から奪う回復方法は回復量がまちまちだ。
 奪うことは男にとってそう手間の掛からないもの。喰らった直後に己の一部として認め、魔力の貯蓄へと回される。相手の所持している魔力量と比例する所為か、大幅な回復は認められないが、一瞬の隙も許さない行動だ。
 今現在クレーベルトは殆ど空になっている魔力を睡眠によって蓄えようとしている。男の貯蓄量は一般的な人間よりも遥かに多く、満たされれば数ヵ月は放置していようとも生活に支障はない。
 ただ、一般よりも眠る時間と期間が長くなるだけ。それだけのことだ。

 ――たったそれだけのことを、ノーチェは少しも許したくはないのだ。

 殺人鬼であり好戦的な性格の彼が、ここ最近はろくに力を使わなかったのはその所為だ。黙りを決め込んで、力のつくような食べ物を口にし、夜には十分に眠る。そうして蓄え続けていく自分の魔力を、男に喰わせようとする魂胆だ。

 少しでも強くありたい。もう二度とあんな目には遭わせたくはない。
 その気持ちとは裏腹に、募る寂しさは量を増すばかり。
 だからこそ彼は決めたのだ。自分を鍛える中で休息は大事だと言い聞かせながら、どうにかして少しでも男を回復させてやろうと。
 幸い、クレーベルトはノーチェに強い興味を抱いている。証拠に男は彼の手を振り払うこともままならず、ゆっくりと首筋に顔を埋めた。

「…………しっかり喰ってくれよ? 日中お前が居ないなんて頭が可笑しくなりそうだから」

 動脈を狙うように左の首筋に顔を埋めてくるのは、本能的なものか、それ以外のものか。

 暗い、暗い部屋の中で、鋭い歯が皮膚を突き破る感覚を、ノーチェは黙って感じていた。

◇◆◇

 ――目が覚める。鳥の囀りがノーチェの耳に届く。あまりの小煩さに眉を顰め「う、」と呻き声を上げながら目を覚ますと――瞼が重かった。

 ――眩しい。

 そんな感想がノーチェの脳裏を掠める。
 普段なら締まっている筈の遮光カーテンが多少開いているようで、そこから差し込む日の光が酷く眩しかった。堪らず開き掛けた瞼を閉じる。
 ――そうして、ふと、異様な眠気と冷たい感触に意識を奪われた。

「……おはよう」

 低く、落ち着いた声がノーチェに降り注ぐ。抑揚のない――けれど、確かに安心感のある声色だ。それに彼は瞬きで応えて、頬を撫でる手に自分の手を添えた。
 目の前には待ち望んでいた男が寝具の端に座っていた。ノーチェの魔力を奪って腹に収めている所為か、普段なら深紅に染まったような片目は夜のように深く、鮮やかな紫へと変貌している。
 男曰く、片目の色は自分の体に宿る魔力によって変わるのだそうだ。
 普段なら威圧感を与えるような赤い瞳は、恐らくノーチェの魔力を貪った影響で紫に染まっているのだろう。黒い髪も、金の片目も相変わらず男とは思えないほど綺麗で、ノーチェは満足そうに笑った。

「腕……」
「腕? ああ……まだ完全には回復しきれていないからな。もう少し待っていてくれ」

 ふと視界の端に映るそれに、ノーチェはぽつりと言葉を洩らす。そこには相変わらずの空の袖がゆらりと揺れたが、クレーベルトは腕を作ると断言した。
 しかし、それは再び魔力を磨り減らし続けると言っているようなものだった。

「……もうそれ、やめてくんね……?」

 必死に声を振り絞り、眠気に抗いながらノーチェは男に告げる。
 知っているのだ。クレーベルトが片腕を補い始めた本当の理由を。今まで失われたそれを見て、酷く落ち込んでしまった自分を慰めるためにやったことだと、彼は知っているのだ。
 全ては心の弱さが招いた出来事。彼はクレーベルトにもう平気だと、もっと強くなると言って、添えられている手を握る。
 ニュクスの遣いとしては酷く弱い方ではあったが、簡単には振りほどけない程度の力は加わっていた。
 泣きそうな――とは言い難いような小難しい顔をして男を見つめるノーチェに、クレーベルトは緩く微笑んで「馬鹿だな」と呟く。
 揺れた黒髪が恐ろしいほど綺麗で、彼は思わず目を奪われた。

「これに縋っているのはノーチェだけではない。今の俺には右腕が必要不可欠なのだ。他でもないお前の頼みでも、素直には受け入れられない」

 男は断言をした。ノーチェがいくら頼み込もうが、命令を下そうが、決して片腕を補うことをやめないと。今の自分には生きる上で必要だからこそ、失くしたままにするのは嫌だと。
 その答えがまるでノーチェの無力さを思い知らせているようで、彼は思わず顔を歪めた。唇を曲げて、眉を寄せる。男から目を逸らして「何でだよ」と口を洩らす。

 暗に「ノーチェの強さになど縋らない」なんて言われているような気がして――彼は、恋人としてふて腐れてしまったのだ。

 「そうふて腐れるな」――なんて言って、クレーベルトは指先でノーチェを撫でる。

「次からは限界まで魔力を磨り減らすことがないようにするから」

 俺も、お前と会話ができないのは寂しくて仕方がない。
 ――そう言って紫の色を輝かせながら額に口付けを落とす。その答えがノーチェの満足するようなものではないことは確かだが――、納得せざるを得ない行動に唇を尖らせた。
 そのまま男に手を伸ばし、端に座っている体を半ば強引に抱き寄せる。

「……今日のところは……昼まで一緒に寝てくれたら、許す」

 そんな彼の言葉に――男は笑って「仕方ないな」と答えたのだった。


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