秘密の明かし合い



「話したい、ことがある」

 たった一言だけ控えめに告げられたそれに、男がふと伏し目がちの瞳を上げた。
 男とは思えないほどに黒く長い睫毛の隙間から、煌々と照る赤い瞳がじっと部下を見つめる。白い肌に僅かな赤みを帯びた唇は、何か言葉を紡ぐこともなく、噤んだまま。
 それがどう思えたのか――話し掛けたノーチェはバツが悪そうに小さく顔を俯かせた。

 「若気の至り」――その言葉が似合うほどに活発的で、好戦的で、挑発的なノーチェがしおらしくしている様を見るのは、一体いつ振りだっただろうか。

 羽が付いたペンを置き、気が付かれない程度の吐息を微かに吐く。不機嫌であるわけではないが、彼がしおらしくしている様を見るのは、思うところがあるようだ。クレーベルトは何気なく己の右手を見下ろしながら小さく拳を握り――、ちらりと横目で机の上を見る。

 黒光りする高級感溢れる机の上には、紙の束が幾つか募っている。処理済みのもの、未処理のもの。目を通しただけのもの、報告待ちのもの――様々だ。
 男の「仕事」は何も書類関係に留まることはないが、一番手間の掛かるそれを初めに処理をする傾向がある。厄介なのは報告を待つだけのものと、書き込むものだろうか。
 ノーチェの言葉を聞くまで書き込まれていたであろう達筆な言語は、言葉の途中で途切れてしまっていた。
 これを仕上げる必要性があるのかどうか――正直、男にも分かりかねるものだ。誰が読むわけでもなく、男の他に上司かいるわけでもない。強いていうなら「書類」はクレーベルトにとって、一種のメモであり、覚えてしまえば存在価値を失うものである。
 しかしながら、これも立派な男の業務なのは確かだ。

 それを――ノーチェは遮ってまで、クレーベルトに声を掛けたのだった。

 彼にとって話の種が一体どれ程重要なものか、男は知る由もない。
 ――しかし、それを蔑ろにするなど、ある筈もないのだ。

「――……」

 机の上にある書類はあらかた片付けた。集中力はとうの昔に切れている。それでも何とか仕事をこなすためにストックしていた菓子の類いも、既に無くなってしまっていた。この状態で仕事を続けられるかどうかと問われてしまうと、首を横に振らざるを得ない状況だ。
 それでも男は呟いた。「それは今、俺に言わなければならないことか」と。酷く冷静な口調で、抑揚もない声色だった。
 それに彼はどう思ったのかは分からない。ただ、男の顔色を窺うように目線を配らせたあと、再び視線を下ろして「今じゃなくていい」と小さく言った。やはり、酷く頼りない声色だ。
 下りている手が強く握り締められているのを、クレーベルトは見逃しはしない。本人にはそれ相応の覚悟と、迷いが生じているのだろう。わざわざ視線を合わせようとしないノーチェには多少の寂しさを覚えてしまうが――、何か理由があるに違いないと、男は目を閉じる。
 すう、と深く息を吸ってから、ゆっくりと吐く。ほんの少し息抜きをする時間が必要だと、体が訴えているような気がした。

「……そうか。では夜に俺の部屋で十分か?」

 そう何気なく問い掛けると、ノーチェは頷き「十分」とだけ答えた。その間にもすっかり気落ちしてしまったような表情が目立つと思うのは、強ち間違いではないのだろう。

 部下であるノーチェと「そういう関係」になってから、彼の弱りきったような姿を見ることは全くなかった。そもそも初めから弱気な顔など見せる人間ではないのは確かだが――、どうにも男が片腕を失って以来、目に見えて弱味を見せることが減ったように思うのだ。

 ――遠く、高く吹き飛ばされた右腕。それを、ノーチェは何を思って見ていたのだろうか。

「……暇か?」

 書類を端に寄せ、クレーベルトは席を立つ。長いコートを着ていないシャツにベスト姿で、普段付けている眼帯すらも外していた。隠れている透き通るような金の瞳ですら、ノーチェの顔をじっと見つめる。
 琥珀よりも薄い色の、飴細工のようなそれは、少しも微笑みを浮かべることはなかった。
 本人曰く「性能がいい」それを間近で目の当たりにして、ノーチェはぐっと息を呑む。投げ掛けられた問いかけは何気ないものだと分かっているものの、普段は目にすることがない片目にほんの少しの緊張を抱いた。
 まるで、獣にでも目をつけられたような感覚だ。

「おう……まだ何か仕事あんのか?」

 それに彼は気持ちを切り替えるように首を横に振ってから、男の問いに答える。普段通りに振る舞うように笑みを浮かべるものの、ぎこちないそれにクレーベルトが違和感を覚えた。
 彼の「話したいこと」はそんなに重要なものなのかを、男は考える。今話したがらないということは、極力他の人間には聞かれたくない事柄なのだろう。ノーチェが話したいと思うまで、ボスであろうが何であろうが、踏み込むことはできやしないのだ。

「……いや……街に行こうかと思って」
「街?」

 席を立ってから背もたれに掛けているコートを羽織り、懐から黒い眼帯を取り出して付ける。慣れた手付きで後頭部に回した紐を手早く結び、首元を隠せば――ノーチェが見慣れたクレーベルトが姿を現した。
 男の言葉に僅かに首を傾げると、男が傍らにある小さなカゴに向かって人差し指を向ける。それは、クレーベルトが大量に買い込んだ「甘いもの」を蓄え、無くなる度に少しずつ継ぎ足していく専用の入れ物だ。
 普段は途切れることがないものだが、クレーベルトが指し示したそれに――男の好きな「甘いもの」は欠片も残されてはいなかった。

 ――ストックが尽きてしまったのだ。

 ほんの少し煩わしそうに溜め息を吐く様子と、気怠げに腕を下ろした様子にノーチェは小さく笑う。男にとって「甘いもの」は無くてはならないもの――それが分かるや否や、初めて見た頃の印象がすっかり崩れてしまって、笑いが止まらないのだ。
 こんな男がボスであるだなんて、誰が信じるだろう――と、何度思っただろうか。

「ん、分かった。ボスも行くのか? 俺が行くでもいいんだけど」

 先程とはうって変わっていくらか「らしさ」を取り戻したノーチェに、クレーベルトは唇を尖らせる。

「お前は荷物持ちだ」
「へーへー、ボス様のご命令の通りに」

 どうせ持ちきれないくらい買うんだろ。
 そう呟いて笑うノーチェに、クレーベルトは小さく笑った。

◇◆◇

 ――夜はいい。静かで、煩わしさもなければ、居心地がいい。
 そう独りごちてふう、と吐息を洩らした男の耳にノックの音が届く。トントン、と控えめに鳴らされるものだから、クレーベルトは扉に目を向けながら寝具の端に座り込む。ぎ、と音が鳴ってからクレーベルトは「入れ」と呟けば、扉が開き白い髪がちらりと顔を覗かせた。
 「そういう関係」なのだから無断で出入りすればいいのに、と何度思っただろうか。
 部屋に入り、扉を閉めるノーチェを他所に、男は髪ゴムを取る。丁寧に編まれていた三つ編みがほどかれ、癖のつかない黒髪が流れる。ところどころ交ざる赤のメッシュに気を取られることもなく、手櫛で軽く梳いてからコートを脱いだ。
 その間にもノーチェが話し掛けることはなかった。ただぼんやりと立ち尽くし、クレーベルトの行動に終わりが来るかどうかをじっと待ち続けている。
 それが何だか従順な犬のようで――男の口許が僅かに緩む。

 犬は嫌いじゃない。従順であればあるほど、好きで仕方がない。
 男が話し掛けてもいいと言うまで一切口を開かないその姿は、まさに忠犬そのものだった。

 髪をほどいたあとはベストを脱ぎ、シャツのボタンをいくつか外す。そうして露わになっている手で寝具の傍らを叩き、彼に対して「座れ」という意思を見せる。
 その行動を見て、彼は漸く動き、男の隣へと座った。

「どうした。大人しいな」

 静寂を断ち切るよう何気なく呟けば、夜空を切り取ったような瞳がクレーベルトの顔を見た。どうにも踏ん切りがつかないようなぎこちない表情が、未だに顔に張り付いている。
 空気に紛れて伝わる緊張感が伝わってくるようで、クレーベルトも揶揄う真似はしなかった。

「…………俺の一族……ニュクスの遣いってさ、奴隷一族なんだよ」

 ――ぽつりと呟かれた言葉が宙を舞う。軽く揺らめき、漂ってから、虚空へ消えてしまうように静かになった。
 奴隷一族の言葉にクレーベルトは一度だけ瞬きをする。――しかし、何の言葉も紡がない。それが「話を続けろ」という意であるのは、彼も重々承知していた。

 ニュクスの遣いには二種類の人間がいる。
 ひとつは物理に特化した者。物理的な力においてはただの人間を遥かに凌駕するほどには、桁違いの力を有している。
 もうひとつは魔法に特化した者。人間よりも遥かに魔力を体に蓄えられる他、魔法の扱いには長けているそう。
 その中でノーチェは物理に長けている方の人間だ。
 そんな一族は、一部の奴隷商人の間では奴隷一族として見られているのだ。
 物理に特化していれば否応なく力仕事を。魔法に特化していれば魔力の貯蓄人間へと。あくまで人ではなく「奴隷」として死ぬまで使われ続け、この上ない屈辱を味わい続けてしまうのだ。
 ――中には物好きがいて、奴隷ではなく性的な目を向けてくる人間もいるそうだが――、ノーチェは未だに被害には遭っていないようだった。

 「ニュクスの遣いが奴隷一族だと知っている商人を殺す」――それが、彼の一族としての使命であり、初めから用意されていた殺人鬼としての暗躍を果たしている。

 ――その事実を彼はどうしようもなく気まずそうに、クレーベルトへと打ち明けた。普段なら自分から話すことなど一切ないというのだが、何故か彼は男へと秘密を打ち明けたのだ。
 それにクレーベルトは小さく顔を傾げながら、「その理屈なら俺も殺されるのか?」と言った。男の言葉にノーチェが目を丸くするものだから、続けて「その事実を知ってしまったのなら、俺も殺されるのか?」と言うものだから、彼は首を横に振る。

「そんなわけ、そんなわけねぇだろ……? これは、あれだ…………何か、ベルに秘密にしてるのがすっげぇ、気持ち悪かったっていうか……」

 何て言えばいいのかわかんねぇ。そう言って俯くノーチェが物珍しく、男は何気なく頭に手を載せてやる。そのまま柔らかな毛髪を撫でるように頭を撫でて、よしよし、なんて言った。
 「ボス」ではなく、口から突いて出たような男の愛称に、クレーベルトが僅かに微笑む。
 お前をそれにするのは難しそうだな、なんて何気なく呟けば、ノーチェが自らの首元を軽く指し示した。

「専用の、首輪があるんだと。特殊な魔法が掛けられてて、簡単には外れない……意欲を奪って、抵抗すらできなくさせるやつ」

 一族の連中にしか外せないらしい。
 そう言って自分がしている紫の首輪から手を離して、やたらと不安げにクレーベルトの顔を見つめていた。やはりどこか捨てられた子犬のような顔付きでいると思うのは、強ちクレーベルトの間違いではないようだ。
 奴隷一族であることを嫌に思っているのは確かだろうが、それを打ち明けていることに対して、何故悲しそうな表情をするのかは分からない。

 ノーチェが自らの付けているそれは、あくまで「自分が部下の立場でいること」を忘れずにいるためのお飾りだという。意欲を奪う首輪は奴隷商人の誰かが所持していて、鎖が繋がれた鋼鉄のものなのだ。彼が付けているそれとはあまりにも質感も、存在感も異なるのだろう。
 ――とは言え、ノーチェもそれを日常的に、夜通し付けているわけではない。夜眠るときには外す光景を何度も目にしたことがある男は、「外さないのか」と呟くと、ノーチェは気が付いたように瞬きを落とした。
 「そうだな」――なんて呟き、彼は自分の首輪に手を掛ける。
 ――すると、突然ノーチェが「引いたりとかはしないのか」と言葉を洩らした。

「奴隷一族だぞ。普通……遠ざけたりとか、何か言ってきたりとか、あるんじゃねえの」

 首輪の留め具を外し、取り外したそれを軽く投げ捨ててノーチェは再びクレーベルトを見る。ほんの少しの後悔と、不安に濡れた瞳が揺れていて、今まで抱いていた違和感の正体にクレーベルトは「ああ、」と納得したように呟いた。

 否定されることを恐れているのだ。

 「奴隷」というものは人間にこき使われ、死ぬまで自由を奪われ続ける。元より存在していた人権も剥奪され、衣食住の保証など何ひとつない。あるのは馬車馬のように働き、玩具のように扱われる最低な日常だけだ。
 彼は今そのような人生を歩むことはないが――、下手をすればそういった人間に捕まり、奴隷に落ちてしまう可能性はないとは言い切れない。捕まれば二度と太陽を拝めないようなものだろう。

 そうなる前に縁を切り、遠ざけてしまうのが一番なのだ。

 巻き添えを食らわない為には、奴隷一族との繋がりを絶ち、何食わぬ顔で日常を送ればいい。今まで築き上げてきた信頼も、何度も交わした言葉の数々も、交えきた交流も、何もかも忘れてしまえばいい。
 そうして初めから「なかったこと」にすることにより、男は晴れて平穏を掴むことができるようになる。

 ――それらをノーチェは酷く恐れているのだろう。
 何気なく寝具の上に置かれた彼の手に自分の手を添えると、柄にもなくノーチェが震えているのが分かった。ほんの少しの震えだが、指先が冷えきっていて、血の巡りは悪い。相当な緊張感に襲われているのだと気が付くと、クレーベルトは僅かに笑む。
 まるで小さな子犬を見つめているような、酷く柔らかな笑みだった。「ボスだ」なんて言われても到底信じられないような、優しい微笑みだった。
 その顔を見たノーチェは一度だけ呆気に取られていると、「秘密か」と男が軽く呟くのを聞いた。ほんの少し、少年のようなあどけなさを残した男の目が、じっとノーチェを見る。
 そうして、「公平じゃないな」と一言洩らした。

「え?」
「お前がこうなるほど抱えてきたものを知って、俺が何も明かさないのは公平じゃないと、思ったのだ」

 そう言って男は添えていた手を彼の頭に伸ばし、撫でて、頬に触れる。その手は今のノーチェと負けず劣らずの冷たさを誇っていて、思わず表情が歪んでしまうのを彼は止められなかった。
 しかし、クレーベルトの言った言葉が妙に気になり、冷えなど意に介すこともなく「何を」と問い掛ける。
 一体何を隠しているのだろうか。
 ――妙な胸騒ぎを覚え、問いを投げたことに後悔すら覚えていると――クレーベルトが言った。

「俺が自分を『人間じゃない』と言っていることは分かっているな?」

 頬から離れた手を軽く横目で追いながら、ノーチェは頷きをひとつ。その姿を見てから、男は再び唇を開く。

「では、具体的にどう『人間ではないのか』を、お前は考えてみたことがあるか?」

 何故だか微笑みながら言葉を紡ぐ男に対して、ノーチェは僅かに目眩を覚える。恐らく、胸のうちに秘めていた秘密を明かした緊張と、クレーベルトに明かされる秘密に対する緊張で、呼吸が疎かになってしまっているのだろう。頭に酸素が回らないと気がついた頃には深く息を吸って、「どう……?」と呟いた。
 蚊の鳴くような小さな声は、どこか震えているようにも思える。
 知りたいような、知りたくないような――人間の矛盾した心を、彼は持っていた。

「人間の体は血液が循環して体が温まるんだそうだ。――厳密に言えば少しは違う理由があるんだろうが、まあ、大抵は血の巡りが代表的に挙げられるんだろう」

 そんなノーチェの気持ちなど露知らず。クレーベルトは自らの手を擦りながら言葉を続ける。まるで自分の体は他のとは違う、と言わんばかりの口調に、彼は少しだけ眉を顰めた。

 「そういう関係」になってから――厳密に言えばなる前から――ノーチェはクレーベルトの「人間ではない」という言葉をよく思わなかった。
 笑い、妬み、怒り、悲しむ――まるでボスとは思えないほど身内に甘く、優しい男が、己を化け物と揶揄することが、自分との違いを思い知らせてくるようで気に食わないのだ。
 人間よりも遥かに人間らしさを持つクレーベルトが、人間ではないなどと言葉にする度に真っ向から否定したくなるのは、同じでいてほしいと願うからだろうか――。

 ――それでも男は、決して自分のことを「人間」とは称することはなかった。

 クレーベルトは自身の白い肌に指を滑らせながら、再びノーチェに「どうしてだと思う?」と言った。黒に彩られた爪が異様に存在感を主張して、彼の胸騒ぎを誇張させる。
 ――言葉にするのが憚れる。何せ、彼は殺人鬼だから。男の肌に触れて、感じてしまったその冷たさに、一度でも思ったことがあるからだ。

 熱を失った体の冷たさが、ノーチェの胸を掻き乱す。そんな筈はないと言わんばかりに首を横に振ったが、男がそれを許さないように彼に現実を突き付けた。

「気付いているんだろう。――俺は死んでいるんだよ」

 厳密に言えば、この体は、だな。
 そう言って何食わぬ顔で微笑むものだから、ノーチェは咄嗟に「そんなわけないだろ」と否定を溢す。

「だってお前、息してて、動いてるんだぜ?」
「――俺の心臓が日常的に動いていると、お前は本当に思っているのか?」

 咄嗟に溢した否定すらも否定するように、男は彼の手を取った。死人のような肌の冷たさが手首を伝ったあと、手のひらに布が当たる。引き寄せられたノーチェの手は真っ直ぐにクレーベルトの胸元に向かい、手のひらが胸に押し当てられているのだと思うと――酷く虚しく思えてしまった。

 ――少しも伝わらなかった。音が、鼓動が、命の存在が。

「……だから、俺は他の奴を勧めたんだ。いくら俺がノーチェを愛そうが、ノーチェが俺を受け入れられようが……死人を愛するなんて、可哀想な話だ」

 男はノーチェの手を離し、優しく笑った。同情を誘うわけでも、彼が可哀想だと同情しているわけでもない。ただ、今なら何だって受け入れてやると言わんばかりの、諦めにも似た寂しさの色が混ざった笑みだった。
 「これでおあいこだな」と男は言ったが、対するノーチェは言葉も紡げず表情を歪めたままだ。受け入れられないような――受け入れたくないような、酷く悲しげな顔で小さく俯く。

 どこがおあいこだ。規模も、重さも、全く違うだろうが。
 ――なんて言い張ってやろうにも言葉が喉の奥でつっかえて、吐息に変わる。
 薄々思っていたことが、自分自身との圧倒的な違いを知ることが、こんなにも悲しく思えなど、思わなかったのだ。

 それを、男はどう解釈したのかは分からない。
 ただ、俯き身動きの取らないノーチェに向かってこう言った。

「今日はもう寝よう。一晩経てば少しは落ち着くだろう。俺も少し疲れているのでな。深く眠ってしまいそうだ。……だから――俺の元から去るときは、俺が眠ったあとに部屋から出ていくといい」

 ――その直後、風呂が沸き立つ音がしたのだった。


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