甘える視線



 キスがしたい、と直接言葉にすることは殆どない。
 それが、クレーベルトの最大の甘えとおねだりであることは、ノーチェは十分に理解しているつもりだ。

 くぁ、と大きな欠伸を溢して寝具の端に腰を掛ける。ぎ、と音が鳴るが、造りのいい寝具には老朽化など見受けられない。大きく仰向けに寝転がれば、バネが十分に体を支えてくれるのがよく分かった。
 その隣を、クレーベルトが這い寄る。気が抜けきった男は二足歩行ではなく、わざわざ四つん這いになって寝具の上を蹂躙し、落ち着ける定位置に辿り着くとそのまま寝そべった。
 俗に言ううつ伏せだ。

「こら、息しにくいぞ」

 寝苦しくなっても知らないからな。
 そう言ってノーチェは体を起こし、部屋の戸締まりを確認する。備え付けの窓の鍵。遮光カーテンを十分に閉めてから、部屋の扉へと向かう。エントランスの扉は既に閉めているのを記憶していて、残るは廊下の窓だけだ。
 部屋を出て廊下の窓を流し見て、施錠されていることを確認してから、彼は再び部屋へと戻る。家の持ち主――であることを認めているわけではないが、堕落しているクレーベルトを見てしまうと、男に任せる気持ちは失せてしまうのだ、
 戸締まりの確認をして、再び寝具へと腰を掛ける頃、クレーベルトの体勢は変わっていた。うつ伏せから横向きに。足を曲げ、背中を丸めて、まるで寒さに震える子供のようだ。
 瞼は重そうに次第に落ちていく。それを見て、ノーチェは小さく笑いながら部屋の明かりを消した。
 ――パチン。
 スイッチを切る音が鳴る。すると、フッと部屋の明かりが消えて、真っ暗な寝室が出来上がる。眩しかった視界は暗闇へ。一度瞬きをすると、彼の夜の瞳はすっかり暗闇に慣れてしまった。
 人間が暗闇に慣れるのに掛かる時間が、彼らには少ない。人間ではないからか、そもそも種族が違うからか。夜に息を潜めるにはうってつけの瞳が、彼の足を迷うことなく突き動かした。

 大の男が寝転がる寝具へ。音も立てず、なるべく気配を消して慎重に歩いた筈だ。歩く本人からしても物音のひとつも立ててはいないが、クレーベルトからすれば僅かに傾いたような錯覚でさえも、意識を覚まさせる材料となる。
 なるべく慎重に。且つ、早く眠れるように早足で。
 万が一男が眠っていれば、彼は少しの物音を立てることも許されない。何せ、クレーベルトの寝起きは酷く、何をしようとも明らかな敵意が向けられるからだ。
 頂点に君臨していた男の寝起きには、流石のノーチェも怖じ気付くことが多々ある。どうにも普段から向けられない視線や気配が、彼の足を奪っているようなのだ。
 ――とはいえ、今となっては過ぎた話。気を付けるのに越したことはないが、クレーベルトが無意識のうちにノーチェに向けるそれは、柔らかくなったと言っても過言ではない。

 ほんの少しの緊張を胸に、彼は寝具へと手を突いた。ぎぃ、と軋む音が鳴る。キングサイズの一回り大きな寝具がノーチェの体重を受け入れ始めた。バネが沈み、生地が埋もれていく――。
 すると、彼はふと気が付いたように瞬きをした。

「……どうした?」

 何気なく呟けば、見下ろした先にあるクレーベルトの目が彼を捉える。何も言わずにじっと、ノーチェの顔を見つめるものだから、彼は思わず問い掛けてしまった。
 ――しかし、男の言いたいことが分かるや否や、ノーチェは軽く笑って「しゃーねぇなあ」と一言。そのままクレーベルトへと顔を近付けて、触れるだけの口付けを落とす。
 男は黙って目を閉じて、それを受け入れた。
 言葉ではなく目で訴えてくるところが幼稚だと、彼は思う。
 触れるだけの口付けを終えて間近で見たクレーベルトの顔は、それはそれは満足げにほくそ笑んでいた。

「何だよそんな嬉しそうな顔して」

 可愛いな――なんて臆することなく呟いて、ノーチェは男の隣に寝転がる。ぼふんと音が鳴って、柔らかな布団が体を包む。ゆっくりと深呼吸を繰り返せば、すぐにでも眠れてしまいそうな心地好さがあった。
 普段冷えきった体を持つクレーベルトも、風呂のあととなれば話は別。温もりを維持した体は、ノーチェがいそいそと準備をして、上からかぶせてくる布団に隠れた。
 疲れた体に睡眠は重要だ。
 彼はうつ伏せになりたがる男の頭の下に腕を敷いて、ゆっくりと顔を引き寄せる。すっぽりとノーチェの体に埋まったクレーベルトは、すやすやと寝息を立てていた。起きる気配はない。
 その様子があまりにも平和で――

 ――今日も頑張ったなぁ、と甘い考えを抱いたまま、彼も眠りに落ちた。


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